〇六六
杞憂というわけでもないけれど、こちらから訪ねる必要もなかった。
今日も森で寝転んでいると、あの二人が、昨日と同じ木の前にやってきたのだ。
「おや、おはようございます」
昨日と同じ黒いスーツに身を包んだ男が、丁寧にもそう声をかける。僕は体を起こす。
「……おはようございます」
ズボンについた砂を払い落とす。
「……いつまで、ここにいるんですか?」
僕はおそるおそるにも、大胆にそう訊いた。会ってそうそうの質問は、少し気恥ずかしい気がしないでもないけど。
「ここへは、仕事で来てるんですよ」
僕の不自然かもしれない質問に、にこにこと答えてくれたのは、女のほうだった。吸い込まれるように、髪は漆黒の色だ。
「私たち、同じ会社に勤めてるんですよ」
はぁなるほど。彼らは、同じ会社に勤めていて、その仕事として、ここまで二人で来ているのだ。
だが、彼女の「同じ会社に勤めている」という言葉に違和感を抱いた。仕事で来ているという回答だけで十分なはずであるのに、なぜ言葉を付け加えたのだろう。……すぐになぜだか予想がついた。
「お二人は……夫婦、なんですか」
「ええ、あ、言ってませんでしたっけ」
彼女の言葉は、自分たちが夫婦であるという事実を前提にした回答だったのだ。会話のときよくあることだが、人は、自分にとって当然の事実であることは、わざわざ説明したりはしない。でも話を聞いている相手のほうはその事実を知らないために、語弊が生じる。
……おっと、母親のように、つい思考を変に巡らせてしまっていた。
たまにあるのだ。日常的に生活しているとき、ふと気付いたことがあると、それについてぐだぐだと考え込んでしまう。
目の前の女の人が、不思議そうに僕の顔を窺っていた。
「あ、なんでもありません」と答えてから、僕は、本題に入った。
あなた方の住む都会は、一体どんなところなのかと。
あなた方の住む都会は、僕が独り暮らしできるところなのかと。
……でも、それを訊くことはできなかった。
轟く音が森を駆けたからだ。