〇六四
そろそろ家に帰ろうと思った。
なにもすることはないけれど、なにもしたいことはないけれど、ここは少し肌寒かった。暖のあるところへ帰ろう。あたたかいところへ帰ろう。
倒していた上半身を、起き上がらせたときのことだった。
視界の奥に、一組の男女がいた。男は黒地のスーツに、黒いハットを被っている。紳士という言葉が似合いそうだった。女はというと、白い服を着ている。まるでオセロの二枚の駒だ。
彼らは木を眺めていた。さも物珍しそうに。
視界の奥、それは家の方向でもあったので、僕は起き上がって、彼らに近づいてみた。この森には、あまり人は近寄らないのだ。特に資源があるわけでもない。
「おや、ここの方ですか」
紳士が、僕に声をかけた。紳士の髪は黒い。
長い髪を鬱陶しく想いながらも、僕は答える。ただ「はい」とだけ。
「ここは……素晴らしいところですね」
うっとりとした表情で、彼はそう言った。さぞ自然に恵まれなかったのだろう。木に囲まれたこの森に、感動しているのだ。この森にはなにもないというのに。
僕がなにも答えなかったので、彼らも僕を引き止めることはやめて、また草木に目を移した。都会には、そんなにも木が少ないのだろうか。
僕はそのまま、家へと帰った。ここは寒い。
家に帰ると、両親がいた。父親は家で仕事をしているので、いつものことなのだが。
「ただいま」
玄関で靴を脱ぐ。それが古き良き日本の風習なのだそうだ。肌身で床を感じることが、日本意識の根底にあるのだそうだ。母親がそうよく言っている。
「おかえりなさい」
着物姿の母親が、いそがしそうに洗濯物を抱えながら、そう返事をした。「ただいま」と「おかえり」も、日本特有のものではないにしても、古来から伝わる大事な風習だ。
母親は、職業としては無職、あるいは主婦ということになっている。が、母親は、ずいぶんと歴史に偏った人間だ。専門とするのが、旧日本の民衆文化。
「ほらお父さん。息子が帰ってきましたよ」
西洋製の白シャツを着た父親は、小型モニターでニュースを読みながらも、しぶしぶながら「おかえり」と呟く。いつもの、我が家だ。
畳の上に、足を載せる。




