〇六二
着物の女。私の母親に化けて、私を騙して、私に近づいてきた。真の姿は組織の人体実験遂行部長だ。私の母親を殺し、父親を殺し、AF-117を殺した。私の母親から記憶を奪い取り、性格を奪い取った。躊躇なく人を殺める。されどリーダーに値する技量があるようで、その瞬発力はレーザーガンの光線をかわすほど。判断力もかなりあり、ニルの正体に気付いたらすぐに行動に移った。そしてどこからか獣を手配し、私たちを抹殺しようと企む様子からは、なかなかのリーダー性が窺える。でもちょっとした失敗で死んだ。
車椅子の人。襲撃のあった次の日、日曜日に、いつも行くらしい喫茶店に着くと、その人は獣に頭を抉り取られた。
喫茶店の店主。常連の車椅子に乗った客が来たと思って、いつものようにドアを開けたら、ドアを叩いていたのが客ではなくて、獣に頭を抉られた。
父親。私が都会の学校に行くことを、少なからずは賛成してくれた。小さいころは、よくキャッチボールをしてくれた。ちょっと気難しそうな、それでいて軽薄そうなところがあって、私は父親のそんなところが好きだった。憧れもしていた。でも死んでいた。帰郷してみたら死んでいた。
母親。歴史愛好家で、そのせいかいつも着物を着ていた。簪も。いつも大変な料理洗濯を、文句ひとつ言わずにこなしてくれていた。そのタフさに気付いたのは、都会に独り暮らしを始めてからだけど。私が都会に住んでいる間に、組織の人体実験遂行部のリーダーに殺されていた。そして記憶を奪われていた。表面的な、保存の意味の記憶だけでなく、「情報体」による性格などの、全体的な記憶を。
私の頬を、なにやら温かくも冷たくもないものが流れていた。
ああ、そうか。涙とはこういうものをいうのか。温かいものでも、冷たいものでもない。そんな、温度のない「事実」だけを並べ諂えたもの。
それだけで私は、私は。
…………。
目を開けた。涙で霞んで、よく見えなかった。
でも風が吹いているのは分かった。それは視覚によるものではなく、触覚によるものだからだ。境内にも風は吹くのか。なんとなく不思議だった。私をなにかが渦巻いているような気がした。風が涙を乾かす。
でもなにか、これだけで終わってはいけないような、風はなにかの、記憶の断片を伝えにきたように感じた。それは触覚だけでなく、視覚でも風を捉えたからだ。こう、空気の躍動というものを。
そうして私は思い出した。あのときの、二つの屍を。