〇〇四
腕時計に目を遣る。朝の七時半だ。時間は必要なものだ。区切りというものがないと、人間、なかなか生活しづらいところがある。
電車に揺られながら、私は外の景色を眺める。眺めるという行為が、私は好きだ。こちらからも相手からも、なんの干渉もしない。だというのに、お互いに見る・見られるという関係を持っているのだ。作用しないというのに関係しているというのは、なかなか珍しいシチュエーションだ。だがこれも、相手が人間でないからこそ成せること。もし相手が人間であったら、その人間は見られているということを脳で感じとってしまい、自然と新たな作用が介入することになる。人間が人間を尊重するのは、そのためだ。尊重というよりも、同調と言い換えるべきかもしれない。見る・見られるの関係が、二方向からぶつかり合っているのだ。見て見られる・見られて見るの関係とでも言うべきか。互いを同類と認め、同じ作用の元、関係を維持するのだ。それが人間。これが世の中。
時計が時を刻む音というのも、けっこう好きだ。その音は狂わない。心臓音と比較してみれば、その素晴らしさが重々に分かる。心臓音は、一定しない。少し走れば間隔は短くなり、横になっていれば間隔は広がっていく。不安定だ。落ち着かない。おちおちしていられない。だが時計の音は、ちく、たく、ちく、たく……変わるということがない。その安定感と安心感が、快く私を支配してくれる。
腕時計を耳に当てながら、移りゆく景色を眺めてみれば、その日は少なからず、ハッピーなのである。だが、車内には私のほかにもたくさんの人がいる。この時間帯は、特に。そんなことをするだけで、変人扱いだ。だから今日も、私はいとおしげに腕を眺めるだけである。腕は有機物であり人間の一部であるが、だからといって人間そのものではない。眺める対象としては十分だ。だが腕よりも景色のほうが好きだ。自分の腕に見惚れていても仕方ないだろう。景色は移りゆく。
時間の概念が生まれたのはいつなのだろうか。あとで調べておこうか。いや面倒臭い。今日は久々に一仕事しなくてはならないのだし、余計なことはあまり考えたくない。考えることこそが私の性であったとしても。そもそも、知ることと考えることは全く異なるものである。調べたところで、私の性に影響があるのかと問われれば、それはないのである。影響を及ぼすのは考えることそのものに対してではなく、考えるものに対してだ。内容に対してだ。
……と考えを巡らせていても、実は自分でもよく分かっていないのだが。
駅に着いた。