〇三二
「嘘をつけ。お前は……ニル・ブルフォード。私の部下のはずだ」
困惑した口調で母親は言う。こころなしか、運転も荒くなっていた。
「そう、おれはニル。でも違うネ。おれ、害虫駆除の――」
母親が急ブレーキを踏んだ。私はとっさのことにどうすることもできず、前のめりになる。窓の縁に頭を打ちそうなところを、ニルが支えてくれた。ニルはというと、前もって片手でがっしりと体を支えていたようだ。体のどこかをどこかにぶつけたりということはない。
母親がどうなっているのかは、ニルに支えられてよく見えない。
しばらくすると、ドアの開く音がした。運転席からだ。そして、極限にまで速く走れるブーツの、エネルギー消費の音。
「逃げたネ」
私から手を離して、ニルはそう言う。そっけない言い方だ。
「まあ、仕事は後でもいいネ」
ニルはそう呟くと、さきほどまで母親の座っていた運転席にかける。開きっぱなしのドアを閉め、ハンドルを握る。
「窓から、こっち来るネ」
こちらを向いて、笑顔でニルは言う。サングラスは濃い。彼の瞳は窺えない。
私は言われたとおり、窓から這い出て、助手席に座った。車の外を眺めると、そこは、まるで砂漠のように殺伐としたところだった。
「ここ、知ってるネ?」
私は首を横に振る。それを確認することもせず、ニルは車を発進させる。
そこでやっと思考が追いつく。――母親が逃げた。
なぜ。なぜ母親は逃げたのだ。組織に反した行動をとったからなのか。
「きみ、家まで連れてあげるネ」
ニルがやさしく言う。
「家……」
「家というよりも、実家、ネ」
実家。そこには父親がいるはずだ。息子に会いにいくからと母親が出かけ、ひとり留守を守っているはずの父親が。
「残念だけど……」
ニルが、本当に残念そうな声を発する。残念なこと、それは、母親のことか。組織に反したから、それなりの対処が必要だということか。だがニルは言った。