〇一四
母親は、二、三日だけ私の家に泊まるそうだ。依然として、母親がここに来た目的は分からない。目的があれば、の話だが。
今朝も電車で、移りゆく景色を眺めていた。だがふと考えてみれば、移りゆくのはむしろ自分のほうで、景色のほうは、これっぽっちも動いていない。だが私自体は止まっている。私も景色も動いていないというのに、両者は離れていく。電車という仲立ちがあるのだ。
腕時計は規則正しく時を刻む。家を出ているときの私は、なかなかそれに浸る時間を得られないが、それでも怠けたりはしない。
「あ、おはよー」
ふいに後方から声がかかってきた。ここでいう後方というのは、私にとっての後方、つまり、私の背中側のことをさす。決して電車の後方という意味でもなければ、景色の後方という意味でもない。景色の後方がどちらを向いているのか、分からないが。
なるべく冷静を装って、振り返ってみた。そこにいたのは、見覚えのある少女だった。いや、少女という表現はおかしいのかもしれない。私と同い年だ。もし私が彼女を少女だというのであれば、同年齢の私は必然的に少年になってしまう。既に就職先の決まっている私が、少年だとでもいうのか。
肩のあたりで、黒い髪は綺麗に揃っていた。背が低いというわけでもないのだろうが、小柄な印象だった。
「……おはよう」
彼女に声をかけられるのは初めてだった。この一年半、彼女は女子で構成されたグループの中でただ笑い、屈託なく笑い、そして屈託なく他の子の悪口を言う、どこにでもいる子だった。特別視すべきなのは、その容姿だけで。
「へぇ、いつもこの時間なんだ」
どこに納得する要素があったのかは分からないが、彼女が納得したということはとりあえず分かった。
「わたし、先週から電車通学に変わったんだ」
誰も訊いてはいないというのに、彼女は言う。彼女の黒い髪が、車内の光を受けて、さらに黒く艶やいでいた。なるほど、艶というのはこういうのをいうのか。
「毎日、この時間なんだね。これから一緒だね」
やけに馴れ馴れしい。なんだろう、もしかして仕事関連なのだろうか。そんな話は聞いていないが。ただ私は、美少女に話しかけられたというだけで、なんとなく内心では喜んでいた。同年齢ではあっても、彼女が美少女であっても、私は美少年にはなれない。