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目覚めるという感覚は、なるほど、奥が深い。たとえば毎朝起きることを、目覚めるということがある。洒落た表現だが、辞書としても正当な使い方なのだから仕方ない。ということであるから、ここで私が、目覚めるという動詞を使ったとしても、特に違和感はないはずである。ともかく、私は目覚めた。
もしこの話を誰かが聞いていたのなら、どこで、と訊くであろう。だがその誰かが期待するほど、現実は幻想に浸ったりしない。そこは私の家だった。いつも通りの、なにもない家だった。六畳にしかならない家だった。
「お目覚めね」
ただひとつ、違うことがあった。いや、違うことといっても、それは木の葉のように、ほんの些細な違いなのかもしれない。道に落ちている葉っぱが、昨日は百三十枚あったのに今日は五十枚しかない、とでもいっているような違いなのかもしれない。八十枚はどこにいった、と問題を投げかける者はいない。だから私も、その違いに、疑問を抱いたりはしなかった。いつかはこうなるだろうと、予想していた。
「急に倒れるのだから、驚いたわ」
声の主は、古風な日本人を気取ってでもいるように、正座をしていた。私の枕元で、覗き込むこともなく、私の顔を見る。声の主は昔と相変わらず、日本の伝統的な、着物という衣服を身に着けていた。腰の大きな、帯というものが皺む。簪という髪飾りまでつけている。ここまでくると、時代遅れというよりも、むしろ歴史愛好家だ。一体何十年前の文化に生きているのだろう、この人は。一年半前と、なんら変わりない。
目覚めるという言葉には、眠りから目が覚めるという意味の他にも、意味がある。感情や本能などの、潜んでいたものが働きだすという意味だ。人間の本能というものについて、私はあまり詳しくない。あまり詳しくない、というと、少しは知っているように聞こえるが、それはただの言葉の綾で、実はなにも知らない。だから私は、これからの私の行動が、理性からによるものなのか、本能からによるものなのか、断言はできない。だが私が声の主に、私の枕元で正座をしている人に、言葉をかけたのは明確なことだった。それが理性的なものであっても、本能的なものであっても。だがせっかくさっき目覚めたのだから、寝起きなのだから、知識不足の推測によると、これは本能なのだろう。それとも、理性と本能の違いから、検討していかなければならないのかもしれない。もしかしたら、理性と本能は、対極の言葉であるようで、本当は近しいものなのかもしれない。だが知識がなくては、どうしても答えはでない。いつまでもぐだぐだと、あーだこーだと考えるばかりである。考えるのはいいが、行動も必要だ。私は、視界を占める懐かしい人に、言った。
「母さん」