境界
そこへはどうやってたどり着いたか思い出せなかった。
歩いて来た気がする。
車で来た気がする。
誰かに送られて、ここに来た気がする。
何かから逃げてここにたどり着いた気がする。
ここは海辺を見下ろすささやかな崖際。
その海へ流れ込む小さな川がある。
山からのうっそうとした林がせまる、藪にかこまれた小川。
そうだ、近くに駅があるはずだ。
海辺にはそこを楽しんでいる誰か達がいるような気がする。
そちらには背をむけて逆へとすすむ。
誰もいない林の藪へ。
その手前にはさびれた駅がある。
そのうち電車がくるはず。
時間を潰すため、山裾が迫ったような藪へ、川のそばをたどってみる。
さびれた集落だったと思われる場所についた。
誰もいない。
農機具を放置したままのように見える、いつの時代に建てられたかわからないような雰囲気の家。
それなのに隣や向こう奥の景色には比較的近代的な二階建ての家が建っている。
どこにも人の気配が感じられない。
古く、今にも朽ち果てそうな家へと近付く。
すぐそばを流れる川の向こうには、狭苦しい畑だったと思われる荒れ果てた土地が見える。
空気が変わった。
にじりくる、どんよりとした湿り気のまじった曇り空を思わせる黒い塊のような空気。
周囲から回り込んで逃げ場をふさぎ、上空からも迫りくる。
戻ろう。
電車がくるはずだ。
まだ戻れるはずだ。
昼間だから木々の隙間から陽光がちらついてきらめく地面が見えているのに、脳裏に映る景色には明るさなど感じられない。
藪を抜け、元居た海辺へと、足をすすめていつの間にかそこへ出たと思った。
そこは幾人かの人達に囲まれる場所だった。
まばらに立つ人々。
顔はわからない。
男も女もいる。
子どももいる。
老いも若いも一様に、くすんだ霞をまとって誰だと判別できない。
何人いるのかわからない。
みながじりじりとこちらへ歩みをすすめてくる。
そのうちの一人が言った。
『何をみた?』
それを皮切りに口々が『何をみた?』と繰り返す。
それぞれがそれぞれのタイミングで『何をみた?』と繰り返す。
逃げられない。
周囲を囲う人達の間に充分な隙間はあるのに、そう感じる。
何をみた?
必死に頭をめぐらせる。
記憶をさぐる。
今見てきた、農家の廃墟。
そこに暮らす家族達。
見ていないはずの家族達。
老夫婦がいた。
はしゃぐ子どもがいた。
若世代とみえる、ほがらかな夫婦もいた。
それを見た。
そうと感じた。
周囲の人達が肩をおとして落胆の気配をにじませた。
『だめだ』
最初にくちをきいた誰かが、またあらたに言った。
『じゃあお前もこちら側だ』
ぞろりと腕をのばしてくる。
『来い』
『来い』
『来い』
全てがてんでばらばらに、同じ言葉を繰り返す。
『来い』
その腕が、指先がこちらに触れそうになった瞬間、さらに見えるものがあった。
小さな赤ん坊。
農家の若夫婦がうまれて間もない赤ん坊を抱き上げて屈託なく笑っている。
そこは光がさしこみ、赤ん坊を中心にみなが笑顔をみせていた。
そう見た。
そう見えた。
そう感じた瞬間、のびてきていた腕が小刻みに震えながら近付くのをやめた。
『ああ……』
よろこびにむせぶような歓喜の呻き声のようだ。
涙の湿りをおもわせる声がうちふるえながら続ける。
『我々はゆるされた……!』
のしかかるように重かった空気が、払われたかのように消え去る。
周囲には誰もいなかった。
眼前には海辺を楽しむ数名の人達が、遠くでただ楽しげに笑い声をあげているのが見えていた。




