AIの作品ってなんかムカつく! その理由を書きました。
今回はちょっと真面目な話です。
■はじめに。
私は先日、『Californian Wager Roll』というお話を完結させました。
カリフォルニアを舞台にした、囲碁に出会った少年の青春小説です。下にリンク貼っておくので良かったら覗いてみてください。(以上宣伝)
で、この話を書いた動機を正直に書くと、「えっくすで流れてくるAI論争にイライラしていたから」なんですよね。感情論で殴り合うネガティブな話ばかり見せないで欲しい。
そして私自身も、反AIとまではいかないのですが、AIの作った作品、創作物ってやつは、あまり好きじゃありません。
ただし、それはまだ「なんか嫌だ」というぼんやりした状態です。
感情はあるけど、その理由がはっきりしない。自分の中で言葉にはできていませんでした。
「AIの作品は好きじゃない」とは言ったものの、AI作品と人間作品の境目なんて、どこにあるのでしょう。
作品だけを見て人間とAIの区別がつかない場合、もしくは人間の作品と全く同じものをAIが作り出した場合、それは芸術と呼べるんだろうか?
そういった疑問に、答えが出せないのです。
ということで、小説を書きながら、私なりの基準を探していこうと思ったのです。
誰が作ろうが、作品は作品です。批判するには理由がいります。
「だからAI作品はダメなんだよ!」と胸をはって言うには、何かしらの理論が必要なのです。
結果、紆余曲折ありましたが、今ではなんとか自分なりの答えを見つけることができました。ここにエッセイとして書き残しておきます。
別に他人に押し付けるつもりは毛頭ありません、あくまでも自分の中での基準です。
ただ、どういう結論にしろ、理由と納得は必要ですからね。
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結論からいきましょう。
私は、AI生成作品について(小説、イラスト、音楽など、ジャンル問わずです)、「作品」ではあるけど「芸術」ではないという考えに至りました。
注意して欲しいのは、芸術性が高いことと、作品としての完成度は、イコールではないということです。
AIが作ったとしてもそれが「作品」なのは間違いありません。完成度とか芸術性は置いといて、ともかく完成品の絵や小説が出力されますからね。
私が今回話したいのは、その作品の「芸術性」についてです。
■私にとって芸術ってなにさ?
芸術について、私は大きく3つの要素があると考えてます。
①受け手の感情が動いたか。
②○○を表現したい、という意思があるか。
③それについて、作り手がどう変換したのか。
じゃ、順番に説明しますね。
①受け手の感情。
作品は、それを見た人の感情を動かして(プラスかマイナスかは問いません)、初めて芸術作品だということです。
誰も見ない、倉庫に眠ってる作品は芸術じゃない!というわけではありません。創作物を見て、受け手の感情が変化して。そのやりとりの中に芸術性がある、と言いたいのです。
②○○を表現したい、③それをどう変換したのか。
これは二つまとめて説明しますね。
芸術とは「積み上げられた思考や感情が、音楽や絵画などという別の形で表現されるもの」だと考えてます。
簡単に言うと、「○○を表現したい」という意思。そして「それをどう表現したか」という部分。
意思の部分って、例えば「秋のサンマってうまいよなー」でも何でもいいのです。ただ、その美味さをそのまま言葉にするのはただの味の感想で、芸術ではない。
感動を絵に描いたり、演奏したり、何らかのフィルターを通しての表現をしたときに、芸術になると考えてます。
そしてそのフィルター部分こそが、まさに芸術の一番の芯の部分だと、私は思うのです。
■じゃAI作品はどうなのさ?
では、AI生成作品についてみていきましょう。
①作品を見ての感想は、作り手がAIかどうかにはあまり関係ありません。
AIの作風はニガテだ、嫌いだというのは、AI作品全般への印象であり、単体の作品への感情とは少し違いますからね。
もちろん「この作品はAI生成特有の無機質さがあり、嫌いだ」という感想も、否定はしません。
ただ、②と③については、明確に「AI生成作品の芸術度は低い」と言えます。
②どんな細かいプロンプトで指定したとしても、一度AIへの指示を挟むことで、作者の頭の中の完成図との一致度は下がります。
作者の表現したいものが現れない、とは言いません。ただ、純度が落ちることが問題だと。
③そして、作った人が何を表現したいのか、意思をどう変換したかについてです。
変換作業をするのは作者ではありません。そしてAIが生成するとき、その表現の知識範囲はAIに依存します。これは一番私が問題だと思っている点ですね。
作者だけが知っているような個人的なこと、一般的に知られていないようなニッチな知識や表現などは、作品に出てくることはないでしょう。
逆に、作者の知らない表現が勝手に使われることもあるでしょう。細かい部分の判断なども、基本的にはAIにお任せです。
このこと自体は、一概に悪いことではないと思います。新しいことを学べるわけですから。ただ、私の中では、そうして作られた作品を芸術品とは扱えない。
以上のことから、私は今後胸をはって「AI作品は芸術じゃない」と言おうと思います!
■そういえば現代アートもあったよね?
ついでですが、私って現代アートがよくわかんないんですよね。
ええ、もちろん現代アートと言っても幅広いですが、特にとっぴなやつですね。
例えば「コメディアン」って作品があります。バナナをダクトテープで貼り付けた、あれのことです。
①あれを見た私の感想は、「これが何なの?」なのです。よく理解できませんでした。強い嫌悪でもあればいいのですが、そもそも感情があまり湧き起らないのです。
そして、②作者の意図もわかりません。わからないので、③こう表現したのか! という理解もできない。
まあ、生で見たわけでは無いので、美術館で見るとまた違った感想になるのかもしれませんが。
現代アートにとっては流れ弾で申し訳ないけれど、以上の理由から、私はあれを芸術とは思えないのです。
よかった。これで胸をはって「現代アートってわからねえよ」と言えるようになりました!
■あなたにとってはどうですか?
最後になりましたが。
作り手と受け手の関係からもわかるように、一つの作品でも人によって受け取る芸術度は違うと思うのです。
例えば、愛する我が子が、河原で拾った石をテープで画用紙に貼り付けた。親にとっては大変意味があることだと思うけれど、あなたにとっては違うでしょう。
例えば、作品によっては伝わらないこともある。作者の意図と別のものを受け取ることもある。
スウィフトの『ガリバー旅行記』なんか典型ですよね。当時の政治への批判を、別の物語に変換した。ただ、そのことを知らなくても作品単独で読むこともできるという点が、大切だと思うのです。
何が言いたいかと言うと、「私はこの作品に芸術性を感じない」と、「この作品には芸術性はない」はイコールじゃないよってことでした。
では、ご清聴ありがとうございました。
議論はこの辺でお開きにして、また創作の旅に出ようと思います。
創作者の皆、応援してます。AI議論なんかに心を乱されず、良き創作ライフを送ろうね!




