シトラール・バウム(アレックス・トスカナ視点)
ローレル殿下は大きく息を吐いた。
気持ちを切り替えているようだ。
「私がアレックスに聞きたかったのは、フローラ・フラワー男爵令嬢のことだよ」
つまらないことを吐き捨てるような口調で、ローレル殿下は言った。
予想外の名前に、僕は一瞬言葉を失う。
フローラ・フラワー男爵令嬢。
思いがけない名前が出てきて驚く。
完全に虚を衝かれた。
現在、トスカナ家で行儀見習いをしている令嬢だ。
僕自身はまだ会ったことがない。
生活時間が合わず、屋敷でも顔を合わせていない。
挨拶くらいはした方が良いかと思ったが、公爵と公爵夫人である両親が必要ないと言い切った。
早く婚約しろと普段は急かしてくる両親が、会わせたくないほどの令嬢なのだろう。
反対に有り難いと思ったが。
今、母とローズマリーはフローラ嬢のことで頭を抱えていると聞いた。
令嬢に会うくらいなら、一人でゆっくりしたいのが本音だったので、正直助かったと思っていた。
実際にローレル殿下のいきなりの婚姻のせいで、仕事が忙しいのも事実である。
フローラ・フラワー男爵令嬢。
虹色の髪をしているという話だけは聞いている。
そして、我がトスカナ公爵家での行儀見習いは、あまり順調とは言えないらしい。
魔法学園をひと月程度で退学してしまうくらいなのだから。
相当である。
半年前まで平民として暮らしていたのだ。
無理もない。
だが――。
なぜローレル殿下が彼女を気にする?
接点は全くないはずである。
「アレックス?」
名を呼ばれ、我に返る。
「僕はその令嬢にお会いしたことがありません。心証と言われましても答えられないのが現状です。申し訳ありません」
「賢い判断だ」
謝罪する僕に、ローレル殿下は不敵な笑みを浮かべて即答した。
満足げな笑みを浮かべる殿下の意図が、やはり読めない。
フラワー男爵家は何の問題も抱えていないはずだ。
……フローラ嬢のこと以外は。
「シトラール」
殿下が声をかけると、シトラール卿が前に出た。
「トスカナ小公爵様、こちらを」
シトラール卿が差し出してきたのは、翡翠の魔石だった。
――見覚えがある。
「最近、話題になっているバウム領の土産品……恋のお守り、でしたか」
僕はそれを受け取りながら呟く。
「よくご存じですね」
無表情のまま、シトラール卿が応じる。
少しだけ、気まずい。
なぜ僕が恋のお守りを知っているのか。
仕事で宰相から貰ったんだよ。
一度見ておきたかったとか言って入手して、検証したあと、宰相が僕に押しつけてきたのだ。
今、かなり人気になっていて手に入りにくいほどだと聞いている。
この件もメリッサ妃が関係していると聞いていた。
ニヤニヤしながら僕を見ているマレインに向かって叫びたかった。
腹立たしい幼馴染である。
「ですが、これは市販品とは異なります。特別な魔法付与が施されています」
シトラール卿が説明する。
彼も恋のお守りとは発言したくないようだ。
僕は魔石をじっと見つめた。
――これは。
「魅了魔法の無効化……か。魔力は抑えられているが、付与はかなり強力だな」
ぱっと見では分からない。
だが精査すれば、その精度の高さが分かる。
こんな魔石は初めて見た。
シトラール卿が、わずかに驚いた表情を見せた。
「そこまで見抜かれるとは。さすがです。リモネン姉上の認識阻害を初日で見破ったのは事実だったのですね」
……やめてくれ。
まだ傷は癒えていないのだ。
「レーモン卿から聞いたのか?」
「はい。姉上に想いを寄せる高位貴族がいたと」
淡々と告げられる。
レーモン卿とシトラール卿は仲が良い兄弟らしい。
そんなことまで話を聞いているなんて。
それとも、要注意人物としてレーモン卿に聞かされたのか判断は出来なかった。
「非公式の剣術試合で、僕が手も足も出なかったことも?」
「それも。……ですが、見込みのある方だと聞いております。なお、リモネン姉上はトスカナ小公爵のお気持ちに全く気づいておりません」
僕は思わずため息をついた。
――全部、知られている。
隠していたつもりだったのに。
そして、当の本人であるリモネン嬢は知らなかったのか。
これは、良かったのか、悪かったのか。
判断できない。
いや、知られなくて良かったのだ。
リモネン嬢には婚約者がいるのだから。
「アレックス、そうだったのか?」
マレインが驚いた声を上げる。
幼馴染の彼にさえ話していなかった。
「リモネン嬢には婚約者がいるからな」
自嘲気味に笑い、僕は話を切り上げた。
リモネン嬢に迷惑をかけるわけにはいかない。
彼女が幸せならそれが一番だ。
「……リモネン姉さんもメリッサみたいに自分の色恋にだけ鈍感なのか? あんなに綺麗なのに?」
ハーツが驚愕しながら、シトラール卿に尋ねていた。
その話題、もうしないでもらいたいのだが。
「見た目は似てないのに、そこだけは本当にそっくりですね。レーモン兄上も魔法学園に入学するまで分からなかったらしく、苦労したと言ってました。兄と姉は意思疎通が出来ていたので、俺は兄上が分からなかったと言った方が意外でした」
「……レーモン兄さんも、なかなかだと僕は思うけどな」
「……あれ、本気なんですか? 止めに入って下さいよ、ハーツ様」
シトラール卿とハーツは別の話題になっていたので、思わずホッとしてしまった。
僕はローレル殿下を改めて見た。
「それで。この魔石とフローラ嬢に、どんな関係が?」
取り敢えず、疑問を口にした。
いくら考えても、答えが見えない。
僕はローレル殿下を見据える。
「まだ確証はない。ただ――」
一瞬、空気が張り詰める。
「それを常に身に着けておいてほしい」
真剣な声だった。
理由は語られない。
まだ言えない情報なのか。
それとも、まだ情報が曖昧な状態なのか。
今回はまだ確定してはいない情報なのだろう。
だが、軽い話ではないことは分かる。
その時だった。
ローレル殿下の纏う空気が、一瞬で、明確に変わる。
「すまない、急用ができた」
そう言い残し、殿下は足早に執務室を出ていった。
ハーツとマレインがすぐに後を追う。
何かあったのかもしれない。
お茶会で。
ローズマリーのことは心配だが、ローレル殿下が執務室から出られて、少しだけ安堵する。
残された僕は、わずかに肩の力を抜いた。
「……戻っても?」
室内で一番爵位が高いリンシード・アマに視線を向ける。
「ええ。ただし、その魔石は必ず携帯してください」
しかし、答えたのはシトラール卿だった。
僕は頷いた。
リンシードは苦笑するだけで、何も言わない。
ローレル殿下が退室したのに、自分の仕事を続けているようだ。
きっと彼らは明確に仕事の管轄を分けているのだろう。
合理的なやり方だ。
ローレル殿下らしいと思ってしまう。
そして、改めて僕はシトラール卿を見た。
「いつか、剣術の手合わせを願いたい」
きっと、シトラール卿は剣術も得意だと感じた。
レーモン卿のように。
「剣術だけなら、俺は兄上より上ですよ」
シトラール卿は軽く肩をすくめる。
――レーモン卿以上、か。
どれだけの家系だ。
シトラール卿がいきなり眉を顰めた。
彼の空気も明らかに変わった。
「トスカナ小公爵さ――」
「名前で呼んでもらって構わないよ」
シトラール卿が僕を呼ぼうとしたのを遮って言った。
彼は優秀なようだし、これから長い付き合いになるのは間違いない。
良い関係を築いておいて損はない。
僕の言葉に、シトラール卿は一瞬驚き、不意に笑った。
微かにだが。
「では、俺のことはシトラールとお呼びください」
シトラールの返答に僕は頷く。
先ほどの笑いが、どんな意味を持つのか判断はできなかった。
レーモン卿と本当に似ているな。
「アレックス様も王太子宮殿に向かわれた方が良いかと。メリッサのお茶会会場です」
僕の目を見て、真剣な表情で言った。
彼が魔法を使った形跡はなかった。
だが、からかっている様子はない。
ローズマリーに何かあったのかと推測できた。
「急がれた方が良いと思います」
絶句していた僕に、シトラールは続けた。
ローズマリーのことが心配だ。
「シトラールは行かないのか?」
走り出そうとして、もう一度シトラールを見返す。
メリッサ妃も一緒のはずだ。
心配しないわけがない。
「俺は行く必要はありません。ローレル殿下がメリッサを守ってくださるので」
苦笑するようにシトラールは呟いた。
ローレル殿下がシトラールを信頼していた。
そして、シトラールもローレル殿下を信頼しているのだと確信した。
大切な妹を任せられるほどの信頼だ。
並大抵のものではないはずだ。
シトラールはメリッサ妃を守るために、学年を一つ落として魔法学園へと入学したと聞いている。
その話を聞いた時、よほど妹を大切にしているのだと思った。
レーモン卿もリモネン嬢を大切にしていたのを僕は知っている。
簡単に想像ができた。
僕も妹のローズマリーが大切だ。
だからこそ、シトラールの気持ちも分かった。
「では、失礼する」
僕はそれだけ言って、ローレル殿下の執務室から駆け出した。
一体、何があったんだ?
ローズマリー、無事でいてくれ。
そう強く願う。
シトラール・バウム。
その名を、僕は確かに刻んだ。
そして同時に理解する。
メリッサ妃が王太子妃に選ばれた理由を。
――ようやく、ほんの一端だけ。
読んでいただきありがとうございます。少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。




