脳裏によぎった仮説(アレックス・トスカナ視点)
やがて、ローレル殿下の執務室の扉が開いた。
室内ではローレル殿下と側近たちが書類仕事に励んでいた。
その中に、見覚えのない青年が一人。
……いや、ある人物の面影があった。
バウム子爵家の長女リモネン嬢に、よく似た風貌。
ならば、あれがバウム子爵家次男だろう。
認識阻害の魔法と存在希薄の魔法も使っているようだし、間違いない。
ローレル殿下は新しい側近を加えたのか。
それとも、メリッサ妃の口添えで近くに置くことになったのかもしれない。
「ローレル殿下、お求めの書類を持ってまいりました」
一礼してから、僕はローレル殿下へ書類を差し出した。
「ああ、ありがとう。アレックス、わざわざ来てもらって悪いね」
「……いえ」
言葉に詰まりながらも、僕はそれを否定した。
……何かがおかしい。
いつものローレル殿下らしくない。
僕は幼い時からローレル殿下を知っている。
少し観察すると、殿下が現在進行形で魔法を使っているのが分かった。
何の魔法かまでは分からない。
ただ、心ここにあらずといった様子で、意識の一部をそちらへ割いているようだった。
つまり、もう自分は職場へ戻ってよいということだろうか。
前回の夜会の意趣返しをされると警戒していたのに。
ローレル殿下に、その意図はなかったようだ。
僕の思い過ごしだったのか。
しかし、夜会の時、メリッサ妃の懐妊の言葉を僕が口にした時に、ローレル殿下が怒りを秘めていたのは事実。
隣にいるメリッサ妃に気づかれないように、僕にだけ怒りを向けてきた。
さすがに、あれは気のせいではない。
ローレル殿下が何をお考えなのかが分からず、少し警戒する。
もちろん、ローレル殿下の不興を買った僕が悪いのは理解している。
では、なぜ今日は呼び出されたのだ?
疑問は深まるばかり。
疑心暗鬼に陥っていくのを自分でも感じていた。
その時、思い出したようにローレル殿下が口を開いた。
「そうだ、アレックス。シトラールを紹介するよ。バウム子爵家のシトラールだ」
シトラール卿は椅子から立ち上がり、僕に向かって一礼した。
「バウム子爵家第三子のシトラール・バウムと申します。王宮魔法師団の研究室に所属しており、現在は出向という形で、ローレル殿下のお手伝いをさせていただいております」
非常に丁寧な挨拶だった。
だが、声には抑揚がない。
感情をあまり表に出さない人物らしい。
そこはレーモン卿と似ているなと感じる。
ただ、冷たい視線を向けられている。
夜会の日、僕がメリッサ妃の尊厳に関わることを言ったと聞いたのかもしれない。
……まあ、それは僕が悪いのだが。
謝罪した方が良いか。
そんな思案をしていたときだった。
「ローレル殿下、この忙しい公務中に風魔法でご令嬢たちの会話を盗み聞きしないでください」
マレイン・ウズイカが、陽気な声で若干呆れながら苦言を呈した。
ローレル殿下は風魔法を使っていたのか。
マレインは相変わらず優秀だな。
それが分かるなんて。
しかし、これは常習行為なのか、他の令息たちも若干引いている。
でも何も言わない。
「仕事はこなしているから良いだろう?」
ローレル殿下は堂々と胸を張る。
……確かに、仕事は本当に早いのだ、ローレル殿下は。
そこは否定できない。
「盗み聞きしていたと知られたら、メリッサ妃に嫌われてしまいますよ」
脱力しながら言ったのは、ハーツ・イーズ侯爵令息だった。
つまり殿下は、メリッサ妃のお茶会の会話を聞いているらしい。
その瞬間、はっきりと理解した。
ローレル殿下は、メリッサ妃をとても大切にしているのだと。
でも、前回の夜会での僕の不敬に対する処罰はないらしい。
ただ、ローレル殿下は残念そうな表情を浮かべている。
「アレックス、言っただろう? 僕の妃は決まっているって」
ローレル殿下が僕に向かって、唐突に、だけど静かに言った。
「……は?」
僕は間抜けな声を漏らす。
ローレル殿下はいきなり何を言い出すのだろうか。
その時、ふと思い出した。
あれは、ローレル殿下が十二歳の頃。
『アレックス、私はローズマリー嬢を娶ることはないよ』
しっかりと僕の目を真剣に見つめて言ったのだ。
急にそんなことを言われて驚いたのを今でも覚えている。
『私の妃は決まっている。トスカナ公爵令嬢じゃない』
淡々と告げられた。
まだ十二歳のローレル殿下に。
反抗期なのかと、僕はその時、殿下の言葉を軽く聞き流した。
公爵の父ではなく僕に言うなんて、と呆れてしまっていたが。
確か、その時からだ。
ローレル殿下がローズマリーの呼び方を明確に変えたのは。
ローズマリー嬢から、トスカナ公爵令嬢へ。
呼び名を故意に変えていたのでは?
心臓が大きく跳ねた気がした。
もしかしたら、あの時、すでにローレル殿下の妃にメリッサ妃が決まっていたのか?
もし、そうだったら。
僕がローレル殿下の言葉をローズマリーに伝え、諭していたら。
ローズマリーはここまで大きな失恋の傷を負うことはなかったかもしれない。
もしかしたら、僕のせいなのか。
「……六年も前には、ローレル殿下の妃にメリッサ妃が決まっていた、ということですか?」
僕は、なんとか言葉を紡ぐ。
頭が混乱している。
上手く言葉を発せない。
ローレル殿下とハーツ、シトラール以外の室内の人間が息を呑んだ。
「六年? そんなに前からメリッサ妃を見初めていたのですか?」
素早く反応したのはマレインだった。
多少、呆れたように。
きっと少なくとも魔法学園時代から、ローレル殿下の気持ちをマレインは知っていたのだろう。
そんな言い方だった。
「そうだよ」
当然のようにローレル殿下は答える。
「……な、何が決め手だったのですか?」
僕は、メリッサ妃がローズマリーより王太子妃に向いているとは思わない。
現在も。
だから、そう尋ねてしまっていた。
「え? 全部」
きょとんとした顔で返された。
こんなローレル殿下の顔、初めて見たかもしれない。
なんでそんなことを聞くのか分からない。
ローレル殿下の表情が、そう物語っている。
「……俺はローレル殿下の心変わりを期待していましたよ。ねぇ、ハーツ様?」
脱力したようにシトラール卿は呟きながら、ハーツの方へと視線を向けている。
「なんで僕にその話を振るんだよ、シトラール。どちらを答えても角しか立たないだろう、その聞き方は!」
ハーツは勢いよくシトラール卿に言い返す。
この二人は遠縁だったはずだ。
仲が良いらしい。
なるほど、メリッサ妃を王太子妃へと推したのはイーズ侯爵家か。
イーズ侯爵家はハーツの二つ年下の妹であるヴィオレ嬢を王太子妃に推したと思い込んでいた。
ヴィオレ嬢には僕も何度か会ったことがあるが、とても聡明な令嬢だったと記憶している。
イーズ侯爵家は優秀な娘がいるにも関わらず、遠縁のバウム子爵家の末娘を王太子妃に推したのか。
つまり幼い時から、それほど優秀な令嬢だったということだ。
確か、その頃からかトスカナ公爵家でバウム子爵家の領地の話が出てくるようになったのは。
僕は驚きで声が出ない。
ローレル殿下がハーツを冷たい目で見ている。
「ある意味、お似合いだと思いますよ。本当に」
ハーツはまくし立てるように、ローレル殿下に弁明していた。
良い意味ではなさそうな言い方だったが。
シトラール卿の態度で、メリッサ妃は自ら王太子妃の地位を望んだのではないと分かった。
バウム子爵家としては、この婚姻を良く思っていないようだ。
その時、ふと脳裏によぎった仮説。
メリッサ妃のことを隠していたのは、バウム子爵家に対してではないか?
目立つことを、極端に嫌っている。
バウム子爵家は一族から王太子妃を出すつもりはなかったはずだ。
今まで王宮勤めさえしなかったほどの徹底ぶりを思い出した。
もちろん、メリッサ妃本人もバウム子爵家の一員である。
きっとメリッサ妃にもこの件は隠されていた。
王太子妃になりたいなどと、考えたこともなかったのではないか。
メリッサ妃の夜会時の様子を思い出す。
その時、頭の中で何かがつながった気がした。
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