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雨と傍観者。

作者: なみき
掲載日:2026/04/05

 六月のある雨の日。

 その日は朝から梅雨らしいジメジメとした弱い雨が降っていた。金属の冷たい手すりに雨水が滴り、流れ落ちる。その一連の過程を横目で見ながら、一歩一歩階段を登る。エレベーターがあるのにわざわざ階段を選んだのは、どうしようもないほどの気まぐれだった。

 マンションの外階段を登りきり、最上階にたどり着く。そこからの眺めは、思っていたよりも退屈なものだった。ほとんどが同じような色で構成され、誰が見ても凡庸としか形容出来ない景色。だけど、僕はそれに居心地の良さを感じていた。身の丈にあっているような感覚がある。そうだ、僕はこんなところで死んで行きたかったんだ。


 子供の頃から、僕はつまらない人間だった。全てが平均か、それ未満の物で構成されている。普段から自らの存在意義を見いだせない。そこに一ヶ月ほど前に仲の良かった祖母が癌で死んだことがトリガーとなり、遂に爆発した。もはや、生きる意味など無い。

 通路の塀を掴む手に力が入る。もしここから落ちたら、どうなるのだろう?きっと死体は目も当てられない程にぐちゃぐちゃになってしまうだろう。その後は?両親は僕の死体を見て何を思うだろうか。母が泣く姿は想像できるのに、父が泣く姿は想像できなかった。僕は父が泣いている姿を見たことがなかったのだ。

 葬式には誰が来てくれるのだろう。祖母の遺骨を骨壺に収める光景がフラッシュバックする。

 自然と手の力が抜けていく。なんだ。その程度じゃないか。

 手すりの部分に足を掛け、太ももを乗せる。心臓が一度強く跳ね、勢い良く脈打ち始める。座ったまま、一度深呼吸をする。意を決して、手を離す。少しづつ重心が前のめりになり、遂に落ちてしまうという時、



「    」



 誰かに、呼び止められた気がした。

慌てて手すりを掴み、なんとか体勢を持ち直す。後ろを振り返ろうと顔を上げた瞬間。


 不意に、息が漏れた。

 僕はこの時、初めて知った。

 息をするのも忘れるほど、という言葉は、ただの表現の一つではないということを。

 その景色は、十数秒前に見た景色とは全く違っていた。


 雲の僅かな隙間から、夕日がゆっくりと差し込んできた。その光に雨が反射して、空が輝いている。町並みはドラマチックに照らし出され、ブランコしか無い公園も、乗り捨てられた自転車も、立ち枯れた木さえも、全てが最も美しい形で目に飛び込んできた。

 完璧だった。疑いようもなく、今までの短い人生の中で最も美しい景色だった。

 見とれている時、不意に強烈な疎外感を感じた。自分という完璧でない人間がこの場にいることが不適切である。そんなふうに思わされた。

 手すりから降りて、その場にへたり込む。自らの身体は命の危機に嘘偽りなく反応しており、息は上がり、心臓は暴れ、腰が抜けてしまいしばらく立ち上がれなかった。

 もう帰ろう。

 この場所で最期を迎える気は、とうに無くなっていた。


 数分がたち、ようやくゆっくりと立ち上がる。ボタンを押して、エレベーターがやってくるのを待つ。どうやらエレベーターは下の階に向かっているようだった。そこでふと、あの時聞こえた声のことを思い出す。

 あの声は、一体誰のものなのだろうか。そもそも、実在している人物のものだったのか?死を前にした僕の脳が生み出した幻聴の可能性も十分ある。

 どっちでも良いことだ。結局僕は、その正体不明の声のお陰であの景色を見ることが出来たんだ。なら、それで十分じゃないか。

 エレベーターがやってくるのを気長に待ちながら、僕はそんな事を考え続けた。





 2日後、あのマンションで飛び降り自殺があった。死んだのはあのマンションに住んでいた一つ年下の女の子らしい。親からの暴力と、学校での孤立に苦しんでいたようだ。

 僕はあの日のことを思い出した。きっと、あの時僕に声を掛けたのはあの子だったのだ。

 理由はなんとなく想像できる。自分が死ぬ予定の場所で先に死なれると困るからだろう。単に先を越されるのが気に食わなかったのかも知れないけど。

 彼女の死を知った2日後の夕方、僕はあの屋上に来ていた。供えられた花束を見て、ふと考えてしまう。もし僕があの景色に見とれずに振り返って彼女に声をかけていれば、きっとあの美しい景色を見せる事ができただろう。そうすれば、その子は僕と同じように今も生きれていたんじゃないか。もしかすると、同じ選択を取ろうとした者同士、仲良くやれていたかも知れない。

 そこで思考を断ち切る。死んでしまった人は、もう蘇ることはない。だからこそ自殺をする人がいるのだろうけど、とにかくこんなことを考えても仕方ない。これから僕は一生この僅かな後悔に苛まれながら行きていくのだと思うと、ずいぶん嫌な気持ちにさせられる。

 エレベーターのボタンを押し、やってくるのを待つ。その間、僕は昔のことを思い出していた。このマンションの近くに初めてきた時、近所の小さな公園で仲良くなった女の子のことを。小学生の頃はよく遊んでいたけど、中学に入ってからはめっきり会わなくなったあの子。きっと、あの子を止められたのは僕だけだったのだろう。

 やってきたエレベーターに乗り込み、最上階をあとにする。日が沈みきった最上階からは、あの日の美しさは殆ど感じられなかった。だけどその夕闇は、他のどの暗闇よりも優しく僕を慰めてくれた。

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