水の音
「拓海、莉奈ちゃん迎えに来てるよ」
母の声がする。
「なんでわざわざこんな暑い日に外に出なくちゃ行けないんだよ…」
拓海は冷房の効いた部屋で扇風機に当たりながらゲームの真っ最中だった。そりゃ、昨日はプール行こうって話になってたけど、この暑さじゃ…。
オレはキャンセル、って言おうかと思ったが、ドアからひょっこりと莉奈が顔を出した。
げっ、入って来たのかよ。
「たっちゃん。もう愛衣ちゃんも来てるよ。まだ支度… 何ゲームなんかやってるの! まさか、忘れてたとか言わないでしょうね」
莉奈の目が怒っている!
「いや、いや、ちょっと時間があるからゲームしてただけだって。直ぐ行くから…」
とても、行かないと言える雰囲気ではなさそうだった。
拓海は慌てて箪笥からプールタオルを出すとプールバックに押し込んだ。
今日は8月7日、快晴、気温は34度。なんだって、好き好んでこんな暑い日にプールまで行かなくちゃいけないんだ、愚痴をこぼしながら玄関を開ける。ムッとする、と言うよりはブワッと吹き付ける熱風にたじろぐ。
物置に置いてある自転車のサドルが焼けている。
「うわっち」
手で触れないほど暑い!何度か撫でまわして、何とか座れる温度になった。
外には莉奈の他に愛衣と浩介が自転車に跨って待っていた。
「遅えーんだよ!」
「悪りー、悪りぃ」
拓海は愛想笑いでごまかす。
降り注ぐ太陽の暑さにもめげるが、それ以上に地面からの照り返しがすごい。焼けるような暑さって言うのはこういう事を言うんだ、拓海は納得した。
市民プールまでは、拓海の家から自転車で20分程走ることになる。自転車で走っているので、風が当たって少しは気持ちよくなりそうなものだが、熱風が当たっているだけなので少しも涼しくない。
「ちょっと待ってくれ。そこの自販機で飲み物買ってくわ」
浩介はそう言ってブレーキを掛けた。
「ああ、じゃオレも付き合うよ」
全員が自販機の前に自転車を止めた。うまい具合に目の前に大きな木があって、いい感じの木陰になっていた。
「あら、こんなところにこんな店有ったかしら」
かなり古そうな店構えの駄菓子屋の看板があるが、今日は休みらしく、表は雨戸でふさがれている。その前に自販機があるのだが、メジャーなブランドの飲み物が何も入っていないし、ほとんどのボタンに赤い売り切れランプがついていた。
「なんだ、この自販機」
「聞いたことない飲み物しか入ってないじゃない」
「他に行こうよ」
口々にそう言葉にしたが、値段が安い。
「ちょっと、待てよ。安くないか…」
ペットボトルが100円。
「ああ、たまにあるよね。こういうメジャーじゃない自販機。でも100円ならいいんじゃないか」
「紅茶以外全部売り切れか…、まあいいや、駄目もとで試してみるか」
拓海がボタンを押すと、ゴトンと気持ちのいい音がしてペットボトルが落ちてくる。ペットボトルはいい感じに冷えていた。
「まぁ、いいんじゃないの。普通の紅茶だよ」
「妙に赤い紅茶ね」
拓海の感想に、莉奈が横槍を入れた。言われてみれば、紅茶の色と言うより、赤い飲み物と言ってもいいくらい赤い。
「ちょっと飲ませろよ」
そう言って浩介が口を付ける。
「うん、砂糖入ってなくてちょうどいいよ」
ちょっと躊躇していた女子2人だったが、男子が問題無いと言っているので、それぞれ一本ずつ購入して木陰で一休みすることになった。
「ちゃんと割引券持ってきてるんでしょうね」
ここにきて突然莉奈が市民プールの割引券の話を持ち出した。
「あっ」となったのは拓海である。
「やっぱり」
「おまえ、忘れたのかよ。昨日言ってたじゃん」
「そんなこと言ったって、急に迎えに来るから…」
「準備してないお前が悪い」
「…あたし、2枚持ってるよ」
「えっ、…いいのか?」
拓海は即座に反応する。
「愛衣ちゃん、甘いよ。こんな奴に提供する必要無いから」
「ううん、多分誰か忘れるだろうって思って持って来てたんだ」
「さすが愛衣ちゃん」
「あんたたち、何で学校の海パンなのよ?」
「いや、普通だろう」
「恥ずかしいと思わないの?」
女子2人の可愛いワンピースに対して、男子は学校指定の黒い海パン。女子のヒンシュクを買った。
「まあ、いいけどね。愛衣ちゃん行こう」
市民プールなので、周りには子供も多いし、学校指定の水着を着用しているのは2人だけではない。そこまで言われなくても、と納得できずにいる男子を置いて女子は先を歩いていく。
「取り敢えず、ここら辺にタオル置いて泳ぎに行こうぜ」
日陰の場所は既に空きが無かったので、プールサイドの適当に開けた場所にタオルを引いて、飲み物と荷物を乗せる。女子はしっかりおやつを持ってきていたのだが、男子はその時はまだ気付いていなかった。
「ほら、行くぞー」
勢いよくドボンと飛び込みたいところだが、市民プールは飛び込み禁止である。静かに足先から水に入る。うぉっ!冷たい。
プールに浸かってしまえば、もう暑さなど関係無いし、学校指定の水着も関係ない。
4人がそれぞれ泳ぎを楽しんでいるところで鐘がなった。休憩時間の合図だ。拓海は近くに居た莉奈に声を掛けて水から上がった。
「ちょっと、疲れたなぁ。タオルどこだっけ?」
「あそこの時計塔の前辺りだったと思うわ」
タオルを敷いておいた場所に行くと、既に愛衣と浩介が戻っていたが、何やら様子が変である。
「どうかしたの?」
「あの…、ペットボトルさっき飲んだわよね」
「え?」
2人の視線の先を見ると、タオルが飛ばないようにと一緒に置いてあったペットボトルがあるが、違和感がある。
「なんで一杯になってるの?」
飲みかけだったはずのペットボトルが、満タン。真っ赤な液体が満たされたボトルが置いてある。
誰かのいたずらだろうか。そう思って周りを見回すが、そんな筈が無いことはわかっていた。
「なにこれ、気持ち悪い」
みんなで顔を見合わせた。
「おれ、捨ててくるよ」
「あ、オレも一緒に行って、別の買って来るわ。お茶でいいよな」
拓海と浩介は真っ赤なペットボトルを2本ずつ持つと、急ぎ足でトイレに向かう。トイレの流しでキャップを開けると、パリッ新品のような音を立た。
2人とも気持ちの悪さを感じたが、何も言わずに中身を捨て、空になったボトルを自販機横の回収箱に投げ入れた。
新しいお茶を4本買い、何事もなかったかのように女子のところまで戻ると、女子は荷物からおやつを取り出した。
「ね、気が利くでしょ」
「おお、いいね」
全員気持ちの悪さを感じていたが、ペットボトルの件には触れず、会話を弾ませた。
鐘が鳴って休憩時間の終わりを告げると、周りの人々が一斉にプールに向かう。4人も気を取り直してもうひと泳ぎしてから帰ることにした。
「キャッ」と声を上げ、荷物を取り落としたのは愛衣だった。
「どうしたの?」
心配そうに莉奈が愛衣の荷物を見ると、鞄の中から真っ赤なペットボトルが覗いていた。ぞっくっと、嫌な感覚がして、莉奈は慌てて自分のバックを開ける。
小さく悲鳴を上げて、莉奈は自分のバッグを投げ出した。バッグから赤いペットボトルが転がり出る。
そのペットボトルを見た愛衣と莉奈は、真っ青な顔になってお互いにしがみ付いた。
「ど、どうしたんだ」
2人の様子に慌てる男子も、転がっているペットボトルに気が付き、おずおずと自分のバックの中に手を入れた。
「うわっ」
まるでゴキブリを掴んでしまったかのように、ペットボトルを投げ出す男子。
「なんだこれ!」
「さっき、捨てたよな」
「捨てたよ!」
周りに居た人たちが何事かと見守る中、4人とも自分の荷物を拾い開けると、ペットボトルを放り出したまま更衣室に逃げ込んだ。
「とにかく急いで着替えて帰ろう」
シャワーもおざなりに済まし、着替えを済ませて、表に出る。
「大丈夫かしら」
4人とも、自分の荷物を覗き込んでペットボトルが入っていないことを確認し、ホッと胸をなでおろした。
まだまだ暑いはずなのだが、全員冷や汗でびっしょりになっていた。
「とにかく、急いで帰ろう」
帰りは皆、押し黙ったまま自転車を漕いだ。気が付くとペットボトルを買った店が見える。どうして同じ道を使って戻ってきちゃったんだろうか? そういった思いで顔を見合わせる。
自販機は当たり前のようにそこにあった。ただし電気は付いておらず、見本が並んでいる筈のウィンドウは曇っていて中が見えない。
声にならない声を漏らした4人は、そこから逃げるように全速力で拓海の家まで走り切った。
拓海の家に着いたときには全員息も絶え絶え、ゼイゼイと荒い息をして押し黙ったまま顔を見合わせる。
「ここで、わかれて、…ひとりで帰れるか?」
拓海は肩で息をしながら、莉奈の顔を見る。
「ひとりじゃ、無理」
泣きそうな顔をして莉奈が横に首を振った。
「愛衣は、おれが、おくってくから。莉奈は、頼む」
「ありがとう…」
泣きそうな顔の愛衣が安心したようにうなずいた。
「じゃ、行こう」
莉奈を促して拓海は莉奈の家に向かった。
ゆっくりと自転車を漕ぎながら莉奈と並んでいる拓海だが、言葉が出ない。何か励まさなくてはと思うのだが、言葉が思いつかない。
「拓海、帰り一人で怖くないの」
「…怖いな。なんだったんだろうな、あれ」
「わかんない…」
結局莉奈の家に着くまで、それ以外の言葉は出なかった。
「それじゃ、帰るから」
「うん、ありがとう」
拓海が帰ろうと向きを変えた時、莉奈が拓海の自転車の荷台を引っ張った。
「ねえ、バッグの中に入ってたらどうしよう…」
拓海も同じことを考えていた。
「…一緒に見ようか?」
2人で恐る恐る莉奈のバッグを覗く。着替えとタオル以外は何も入っていなかった。
ホっと、息が漏れる。
「どうする、拓海のも見る?」
「…いいのか?」
「そんなこと言って一緒に見ないと安心できないじゃない」
「そうだな、じゃ行くぞ」
結局拓海のバッグにもペットボトルは入っておらず、後の心配は途中で分かれた2人だった。それでもこっちの2人が大丈夫なら、あっちも大丈夫だろうと思うことになった。
「それじゃ、たっちゃんも気を付けてね」
帰宅後拓海は、水着とタオルを洗濯機に入れた。荷物の中に怪しいものは無い。
その後、3人と電話で確認しあったが、誰にも問題は無いようだった。
しかし一体あれは何だったんだろう? 風呂に入って、シャワーで髪を洗いながら考えるが、答えが出るはずはなかった。
早く忘れよう。
拓海は髪を乾かしていると、耳の奥でプールに潜っていた時のような音がすることに気が付いた。耳の中に水が入ったらしい。
横を向いてトントンと跳ねて水抜きをする。が、抜けない。面倒くさいな、そう思いながら自室に戻る。
頭を横に向け、頭をトントンと叩く。普通ならこれで抜けるんだけど…
まあ、そのうち抜けるさ。そう思って、ゲーム機の電源を入れた。ゲームに集中してプールの件を忘れようとしたのだが、どうも耳の中が詰まっているような感じで、集中できない。頭を動かすたびにチャプッと、小さな音がする。
くそっ! 今日は疲れたからさっさと寝よう。そう思い直して拓海はいつもより早めに布団に入ることにした。
夜中に拓海は水の音に気が付いて目が覚めた。
「何だ、こんな夜中に…」
コポ、コポ、コポ…、どこかで水が漏れているのだろうか? そう思って頭を上げたとき、耳から水が流れ出た。
「うわっ」
耳に手を当てると、手がびっしょりと濡れた。
なんだ、気持ち悪い。枕もびしょびしょに濡れている。
拓海がスタンドのスイッチを入れて、音のする方に目をやると、床の上に転がる真っ赤なペットボトルが目に入った。キャップは外れ、赤い液体が小さく脈打つように流れ出している。液体は床の上を伝わり、拓海の枕元まで続いてテラテラと輝く水たまりを作っていた。
コポ、コポ、コポ…