2025年5月17日(土)私に似合うもの
夏休みが終わりましたね。またボチボチ投稿していきます。
軽い気持ちで書いたブラの話が、二転三転し、アイデンティティにつながる話になって、思いのほか長くなってしまった。
ふみかと別れて広場の時計を見ると、まだ午後の3時。
時間もあるし、ゆっくり桐ヶ谷さん用の買い物をしておこう。
化粧品も必要だが、今日中に必ず買わなくてはいけないのは──ブラだ。
一応、俺だって結婚していて、子どももいる。それに吉野さんの体で2週間過ごした。
今さら女性の下着ぐらいでうろたえるわけがない……と思っていたのだが。
桐ヶ谷さんの胸は、サイズも! 存在感も!! 今まで俺が知っている女性の中でダントツにケタが違いすぎる!!!
だったら問題は、どこでブラを買うかだ。
ユニクロみたいな万人向けの店では、合うものがないのは明らかだ。
通販で買う?
いや、胸の形は人それぞれだ。写真だけではフィット感はわからない。
それに、桐ヶ谷さんには安物は似合わない。せっかくなら、俺の趣……いや、完璧に桐ヶ谷さんに似合うゴージャスなブラを選びたい。このスタイルで、地味めなブラなんてあり得ない。
露出過多なファッションは心菜に怒られてしまったが、見えない部分なら冒険しても構わないだろう。
となれば、下着の専門店にいくしかない。
でもねー、体は女になっても、心は男のままなんだよ。
めちゃくちゃ恥ずかしいじゃん。じっくり女物の下着を選ぶのって。
それに地元で買うのは避けたい。娘には擬態を一瞬で見破られたし、真司のような鑑定スキル持ちが他にもいる可能性がある。
万が一知り合いにバレたら──
「……お前、そういう趣味があったのか?」
──とか言われるかもしれない。待ってるのは社会的な死だ。
しかも、オリジナルの桐ヶ谷さんは、ふたつ隣の駅に住んでいる。生活圏がかぶっている以上、本人と鉢合わせする可能性はゼロじゃない。下着売り場でばったり会ったら……なんて言い訳したらいいんだ?
安全策として、俺は京急に乗り、横浜へ向かった。
まずは、店員が積極的に話しかけてこない店を探す。
駅ビルのフロア案内を確認し、女性向けの店が並ぶフロアへ移動。
「大丈夫、今の俺は女なんだ。堂々と行け……」
小声で自分に言い聞かせるが、全体的に明るいピンク色の下着売り場はどうにも入りづらい。
ものスゴく、変態になった気分になる。
なんとか売り場に足を踏み入れたものの──桐ヶ谷さんのサイズだと飾りのない地味ブラか、鎧のような重装甲ブラばかりだった。
……がっかりだ。ムダに恥ずかしい思いをさせやがって。
どうやら、本格的な店で探すしかなさそうだ。
***
そして俺は、デパートの一角にある、眩しい光を放つ店の前に立った。
今日最大の山場だ。
産婦人科と女性の下着売り場は、男にとって完全なアウェー。
これが、コンビニでちょっと気まずい商品を買うときだったら、他の商品で挟むとかカモフラージュ出来るが、ここには下着しか売っていない。まったく身を守る術がない心細さを感じる。
悩んでいる俺の横を通りすぎる女性たちは、気負うこともなく店へ入っていく。まるで勇者のように。
ふう。まずは、深呼吸だ。
今の俺は桐ヶ谷晴美。普通に買い物に来ただけ……。
そう自分に言い聞かせていると、店員が静かに近づいてきた。
「何かお探しですか?」
──飛び上がりそうになった。
が、辛うじて声は殺す。
探してますよ。探してますけど──ど、どうする?
顔が熱くなり、体はロボットのようにぎこちなくなる。
落ち着け。単に、体に合う布切れを買うだけだろうが。
「あ、あの、ブ、ブっ……!」
「ブ?」
店員が首をかしげる。
“ブラ”と言うだけなのに。どうしてもその一言が言えない。
逃げようか──?
いや、ダメだ。桐ヶ谷さんには絶対ブラがいる。
『あの……代わりましょうか?』
控え目な桐ヶ谷さんの声を聞き、俺は自分のなすべきことを思い出した。
(いや、桐ヶ谷さんだと、今まで通りの地味なブラを選んでしまいません?)
『それは……そうかもしれませんね』
(俺だったら、その……女性らしさを全面に押し出した、かなり思い切った選択ができると思うんです。ま、まあ、見ていてください。桐ヶ谷さんを唸らせるようなブラを手に入れて見せます!)
そうだ。俺はただの変装ではなく、桐ヶ谷さんを本来のあるべき姿に変えなければならない。
彼女の美しさを引き出す。それが俺の使命だ。
「すみません、あの……のサイズを……最近測ってなくてわからないんですが」
……勇ましいことを言っておきながら、俺はブラという単語を省略した。
すごく負けた気分になったが、仕方がない。
店員は俺の胸を一瞥し、いくつか候補を持ってきた。
直視しづらいが、一度手にしてしまえば、気持ちも落ち着いてきた。
そうだよ、たかが布切れ一枚でうろたえるほうがどうかしてる。
ふと、隣にいる客の会話が耳に入った。
「ねぇ、これ谷間を作るだって。試着してみる?」
「黒だったらよかったのに」
つい目がそちらに向いてしまう。
うわっ、スッゲえ……。
あんなの着るんだ。
そういえば、ふみかは地味めなブラだった。
吉野さんはかわいらしい系だが、ボリュームがちょっと……。
俺の右横にいた女性が、真っ赤な生地に黒いレースの入ったブラを手に取った。
思わず顔を見る。
質素と言っては失礼だが、ごくごく普通の見た目の女性で、ブラとのミスマッチ感がスゴい。
いや、“脱いだらスゴい”を目指しているのかもしれない。
俺は対抗意識を燃やし、一番豪華に見えるフランス産のレースが付いたワイヤー入りのブラを手に取った。
これならどうよ。
勝ち誇ったようにレジへ向かおうとしたところで、桐ヶ谷さんが待ったをかけた。
『試着しないとダメですよ』
試着室の横を見ると、メジャーを持った女性スタッフが待ち構えている。
まるで死刑執行人だ。
この緊張感あふれる空間から、さらなる密室へのいざない……。
(あれって……スタッフも試着室に入ってくるんですよね?)
焦って桐ヶ谷さんに問い返す。
『はい。採寸はプロに任せたほうが確実ですし──それに、今の山村さんなら抵抗ないと思ってましたけど?』
(い、いや……めちゃくちゃ抵抗あるんですけどぉ!?)
『でも、すごく真剣に選んでくれたじゃないですか。下着にそんなにこだわるなんて、よほど女性になりたかったのかなって』
は? 何の話だ。
(俺は別に、女になりたいわけじゃ……)
『違うんですか?』
(ち、違います!)
……違うよね?
どうやら桐ヶ谷さんは、俺のことを“完璧な女性になりたい人”だと勘違いしていたらしい。
いや、俺は”完璧な桐ヶ谷さん”になりたいだけだから。
そういえば、風呂のときも、吉野さんみたいに「絶対に代われ」とは言わなかったな。
ずいぶん開放的な人だなと思っていたけど、あれも誤解から生まれたやり取りだったのか。
──お互いの記憶を覗かない約束が、まさかこんな勘違いを生んでいたとは。
誤解も解けたので、試着は桐ヶ谷さんに代わってもらう。
そして、意識が戻ると──
(わ、スゴっ……何このつけ心地)
試着室の鏡には、ゴージャスなブラを身に着けた自分がいた。
なんつうの? ファビュラスでプレシャスなワタシって感じ。
『今まで付けたことがないタイプなんですけど……いいですよね、これ』
桐ヶ谷さんも少し恥ずかしそうだが、かなり満足げだ。
(ですよねー。自分がワンランク上がった気がしません?)
『本当……。ただの下着なのに』
いや、ブラはただの下着ではない。
なりたい自分を演出するのに欠かせない小道具だ。
ソフトなのにしっかり支え、まるで天使に抱かれているようなホールド感。デザインも文句なし。
(他人からは見えない部分とはいえ、これはヤバいな……)
世間に広くお見せ出来ないのが残念なくらいの破壊力だ。
SNSでチラっと……ダメだ。どんな事故が起きるか、わかったもんじゃない。
スタッフに頼んで、試着したまま帰らせてもらうことにした。
同じメーカーのものを3着ほど追加で購入。値段は張ったが仕方ない。
これって、経費で落ちるかな? 変装用だし。
あとで真司に聞こう。
「いやー、快適~♥」
体に合ったブラは、こんなにも気分を上げるのか。
一大ミッションを終えたご褒美に、デパ地下で普段は買わない高級食材を奮発してしまった。
すみません。夕方アップしたあとに、いろいろ修正しました。
山村が女性になりたがっていると桐ヶ谷さんが勘違いした、というのがどうもしっくりこないので。
また後日修正するかもしれません。




