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2025年5月2日(金)午後2時半 向井仁(42歳)、伊部沢亮司(54歳)

「昨日の死亡者数3、負傷者10、行方不明者2」

 伊部沢は、数字を読む声にじわじわと苛立ちをにじませた。


「向井君、なんとかならないの? 関東エリアにあるダンジョンで、累計死傷者数ワーストワン。なんと不名誉な称号か……。安全講習会のほうは、ちゃんと出来てる?」


 神奈川県深域管理機構港南支部の建物5階、安全講習監督課。

 課長の伊部沢は、説明会に向かう途中だった向井を引き止め、ネチネチと小言を言い続けていた。




 ダンジョンが現れた当初、私有地にできたものについては、民間人の立ち入りを規制する法律はなかった。地主が警察に苦情を入れた場合に限り、ようやく退去させられる──その程度の対応だった。


 前例のない異常事態に、法整備は追いつかず、個別の案件に人員を割く余裕もない。関係機関は手探りの対応を強いられていた。


 しかし、民間人をダンジョンに入場させる商売を始める者が現れると、死傷者が急増。

 国会は臨時国会を開き、民間人の入場を規制する法案を最速で成立・施行させ、国土交通省にダンジョンを管理する深域管理機構を新設した。


 そして、警察、自衛隊、及び、自身の安全を確保する能力があると深域管理機構が認めた人物のみ、ダンジョンに立ち入ることを許可すると定めた。


 深域管理機構の業務は、探索者の登録と資源の売買だが、利権に絡んだ事件が頻発しているため、ダンジョン内での死傷者数には、常に神経を尖らせていた──。




「説明会だけなら、なんとか事務方を動員して回しています。ただ、学生が春休みに入ってから明らかにキャパオーバーですね。特に、実技講習の際、ダンジョン内の安全管理に出せる人手がまるで足りていません」

 主任の向井は、伊部沢のイヤミを、毛ほども気にせず返事をする。



 ダンジョン災害前、向井は警察官だった。

 無駄口を叩かず、やるべきことは黙ってやる。制服のボタンはすべて留め、靴は常に磨かれている。まさに質実剛健といった男だ。


 警察官とは、市民の盾となる存在だと思っていた。

 誰かが矢面に立たなければ、社会は回らない。それが、自分の仕事だと信じていた。


 向井は、警察官としての職務でダンジョンに立ち入った際、すぐにスキルを取得した。

 当時、公務員はスキルの情報を開示する流れができつつあったが、スキルの種類によっては差別的な扱いや監視対象にされるという噂もあった。


 だが、向井には、生まれたばかりの子どもと、産後間もない妻がいた。

 スキルの情報をすべて開示するのは危険だと判断し、最終的に職を辞する道を選んだ。


 その後、しばらくは探索者として活動していたが、年齢のこともあり深域管理機構に転職。

 出世に興味はなく、己の信念を曲げることも、上司に迎合することもない。

 結果として、伊部沢との関係は最悪だった。



「そこを何とかするのがキミの仕事だろう!」

 伊部沢は声を荒げた。


「人手を増やしていただければ、何とかします。この時期だけスタッフを増員するのが難しければ、探索者を臨時で警護に回すのはどうでしょうか」

「素性がわからん者が混ざるリスクがあるじゃないか」

 伊部沢が渋い顔をする。


「石川組と黒虎幇(こっこほう)のことを心配しているなら、ある程度は仕方がないことかと。我々の内部情報が暴力団に漏れている恐れは、以前から報告されています。私も、内通者はいると思っています」

 向井は当然という表情を見せる。


「新規雇用の際に嘘発見器にでも掛けるか……。しっかし、アレは、あんまりアテにならんからな。あるいは、読心スキルのある探索者を探して協力してもらうとか……」

「そんな便利なスキルがあったとしても、協力する探索者はいないでしょう。手持ちのスキルを、正直に公開する人間は少ないのでは? ……そういえば、先週、資材搬入口に不審者が立ち入った件。酔っ払いが間違って入ったと訴えていましたが、あれは石川組でした。警備員が顔を覚えていたので、すでに拘束しています」


 向井が報告すると、伊部沢の表情は一変した。


「やっぱりな……。いや、俺も薄々そうじゃないかと思ってたんだよ。ただ、ああいうのは現場判断に任せた方がいいかと思って、あえて口出ししなかったんだ。結果的には正解だったな」

 伊部沢は、椅子を揺らしながら満足げに言った。


「この件は、港南警察の準備が出来次第引き渡しですね。あとは──」

 向井は表情を変えず、淡々と報告を続けた。


「とにかく、累計死者数だよ! これはマスト案件。何か対応策はないのかね」

 伊部沢は、椅子を揺らすのを止め、不機嫌そうな表情に切り替えた。


「では、自衛隊の関東深域攻略部に、新兵訓練を箱根ではなくナンブに誘致するのはどうでしょう。あちらも新人の訓練中でしょうし、ダンジョンの浅い階層に人目を増やすだけでも、事故は減るのでは」

 向井が提案する。


「お、それいいな……。そうそう。俺が前から言ってた“連携強化”って方向性にもピッタリだよな。やっぱりなー、俺、こういうところ、気がつくんだよ。うまくかたちになれば、こっちの評価にもつながるだろうし」

 伊部沢は、すごくいいことを言ったという顔をした。


「では、その方向で話を持っていってみます」

「よろしく頼むよ。報告書には俺の名前も入れておいてくれ。“関係者間の連携強化”ってことにすれば、上にも通りやすいだろ? こういうのはさ、ちゃんと“誰が動いたか”を見せるのが大事なんだよ。ほら、俺くらいの立場の人間が“現場の声を汲み取って動いた”っていうのも大事だから──」


「では、安全講習の時間ですので」

 向井は壁に掛かった時計に目をやり、左手首につけたバンドでもう一度時刻を確認した。

 静かに背を向け、部屋を出ようとする。


「いや、だから俺が言いたいのは……、おま、人の話をだな──」

「まだ、なにか?」

 振り返った向井の視線が、伊部沢を射抜く。


 部屋の空気が変わる。


 何のスキルも持たない伊部沢は忘れがちだが、目の前にいる男は”ただ”の部下ではない。



「い、いや、──安全講習を、よろしく頼む」

 伊部沢は、一瞬ヘビに睨まれたカエルのような表情になった。


 向井は、再び伊部沢に背を向け、足早に会場へ向かった。




「バケモノめ……」


 伊部沢は、向井が部屋を出てしばらく経ってから、小さな声で呟いた。

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