2025年5月2日(金)午後2時 山村荘太郎(36歳)
本編スタートです。
SFファンタジーの主人公としては、少々変わった設定になりました。
彗星が地球に接近して大騒ぎになっていたあの年、俺は30年ローンで家を買った。
なんせ空前の買い手市場。何も起きなきゃ儲けもの。何かあったらどうせ死んでるんだし、ローンもチャラ──そんな考えで。
そして、“何か”は起きた。
彗星のせいで地上にダンジョンが出来て、妻に逃げられ、会社をクビになり、暴力とは無縁の世界で生きてきた俺が、ダンジョン探索を生業とする命知らずの探索者になるハメに……。
何で俺がこんな目に遭うんだ。俺は、慎ましく、平凡に、波風を立てずに生きていくつもりだったのに。
まったく予想外だ。
***
「受付番号112番の山村様、3番窓口までお越しください」
俺は手元の番号札を確認した。
「やっとかよ」
そう呟きながらロビーの椅子から立ち上がり、大きく腰を反らしてストレッチをした。
「イテテテ……」
小さく呻いた。
待ち時間の長さが腰に響いたせいか。
「まだ36歳だってのによ……いや、“もう”36か? 四捨五入すればアラフォーだぜ」
横浜市港南区にある、神奈川県深域管理機構港南支部(通称:ナンブ)の建物に入ったのが朝の9時。
その後、受付ロビーにあふれかえる人の波をかき分けながら、探索者申込書の提出、身体測定、体力測定、血液検査、遺伝子検査等々をこなし、最後の締めが、“私はダンジョン内で何か起きても文句を言いません”的なことを書いた誓約書の提出だった。
「はあ。もっと早く来ればよかった。完全に、昼メシのタイミングを無くした」
検査の呼び出しや、申込書の訂正が何度もあり、いつ名前を呼ばれるかわからないので、俺は空きっ腹を抱えたまま、ロビーから出ることも出来なかった。
このまま講習に突入するのは勘弁してほしい。
受付が済んだら、即座に何か腹に入れたいところだ。
売店の場所を確認しておこうと、案内図に目をやる。
団体で来ている学生たちは、順番で列を抜けて何か食べる物を買いに走ったりしている。一人で来ている俺は、ただ順番が回ってくるのを大人しく待つのみだ。
これぞ日本人の美徳。何が起ころうと大人しく列に並ぶ“スキル”。
治安の悪い国なら、今頃暴動が起きているはずだ。
受付が済んだらメシ。済んだらメシ……。何度も口の中で唱える。
冒険なんてものは、それからだ。
そう思いながら窓口に向かって歩き出したところで、横から来た男にぶつかった。
「あ? なんだテメエは」
おっと、これは冒険が開始する前に終了するパターンか。
ちょっとイラついた表情の、筋肉質な男に睨みつけられてしまった。
こういうとき、普通ならどうするだろうか。
今、俺が立っている場所は、法の支配の及ぶ場所ではあるが、この建物の地下は違う。
一歩中に入れば、奇妙な“異生物”のいる、得体の知れない空間が広がっている。
世間では、“ダンジョン”と呼んでいるでっかい穴だ。
……っていうか、そもそも、何でアレが“ダンジョン”なんだ?
ゲームじゃあるまいし。
世間ではわかりやすさ重視でそう呼んでいるが、公式には『深域』だ。
俺としては、あの空間の構造を見る限り“ネスト”のほうがしっくりくるんだが。
まあいい。
で、そんな場所に出入りするのは、どんな連中か。
ロビーを見渡せば、遠足気分の学生に混じって、ヤクザっぽい風体の男がそこかしこにいる。
俺がぶつかった相手は……どう見ても学生じゃないな。
ならば、ここは、なんとか見逃してもらおうと謝るか。
それとも、「そっちこそなんだよ、テメエ」と逆ギレするか──
俺は、迷わず前者だ。
「すみません、ちょっとよそ見してて。本当に申し訳ない」
俺は、コメツキバッタのように何度も頭を下げて謝った。
「チっ。気をつけろよ」
人目の多い場所でもあったため、男は吐き捨てるようにそういうと、それ以上絡んでくることもなく立ち去った。
この半年近く、俺は仕事も家庭もトラブル続きだった。これ以上余計なダメージを受けたくない。相手の力量を見極め、ムダな戦闘は避ける。何でも力押しで対処しようとするのは愚の骨頂。受け流せるものは、さっさと流しておくに限る。
「おー、こわっ。まあ、今日のところは見逃してやるぜ……なんてな」
俺の独り言が聞こえたのか、男がチラっとこちらを見た気がした。
ヤバっと思って、俺はそそくさと受付の席に飛び込んだ。
“窓口 3”と書かれた個別のブースに座ると、カウンターテーブルの横にあるディスプレイの時計が2025年5月2日午後2時を示していた。
「山村様は、最後の実技講習まで受けられますか?」
茶髪の毛先をグレーに染めた、ショートボブの受付嬢がディスプレイを指さしながら言った。その指先に、キラキラした飾りが付いているのが目につく。
今どきの若い子がよくやってる、あれ……なんとかネイルってやつ。
会社にいたころなら、「そんなの爪に付けて、キーボード打つとき邪魔じゃないの?」と軽くツッコんでいただろう。
だが、今の俺は”会社員”ではない。
それに、今の俺の精神状態は、どう考えてもまともじゃない。
まともだったら、いい年をして探索者になろうなんて思わない。なるべく余計なことを言わないよう、気をつけなくては。
俺はどうでもいいことほど、よく覚えている。一度思い出したら、映画のワンシーンみたいに、何度でも脳内で再生できる。
最近思い出したどうでもいい記憶ナンバーワンは、はるか昔、中学のときに聞いていた深夜のラジオで、一度だけ流れた替え歌だ。
これがもう呪いのようにこびりついて、一週間は頭から離れなかった。
初めてハローワークに行ったとき、何の脈絡もなく思い出し、つい鼻歌で歌い出しそうになった。
言葉を詰まらせ、肩を震わせて下を向いたのは、決して泣いていたわけではないのだが。妙な誤解を生んだらしく、受付係がとても親身になって対応してくれた。
あとから考えてみると、おそらく替え歌を思い出したきっかけは、待合で俺の後ろに座っていた男が、膝で刻んでいた“ラップ調の貧乏ゆすり”だ。アレが、替え歌のテンポと妙に似てたんだろう。
まったく、年を取ると、過去にあったことを思い出す記憶のフックが、あちこちに散らばっていて困る。この能力を別のことに有効活用できればいいのだが。
例えば家庭円満とか。
俺は妻のふみかに言われたことは、すぐに忘れる。それが元で、何度もふみかのご機嫌を損ね、現在離婚の危機に陥っている。
っていうか、何で離婚なんだよ。俺が何をしたってんだ。
飲む打つ買うと無縁。どんなに仕事が忙しくとも、家族サービスくらいしていたつもりだし、記念日には花だって……
あれ、そういえば結婚記念日って──6月……、いや9月だったか。
まあ、俺なりに、ちゃんとやってきたつもりだが、向こうはそう思わなかったらしい。
えーっと、何の話だったっけ。あ、実技講習ね。
「はい、そのつもりです」
「実技講習では装備品が必要になりますが、お持ちでなければレンタルのご用意があります。もしくは、講習で使用した装備品を、そのまま買い取りでも構いません」
俺は装備品を6回レンタルした場合の合計金額と、買い取った場合の金額を比べた。
失業保険の受給条件をフルで満たすためには、最低月1回×6ヶ月はダンジョンに潜らなければならない。
「じゃあ、買い取りで」
「タッチパネルになっていますので、こちらの画面から、『探索者事前審査』と『実技講習』、『初心者装備セット』のボタンを押していただけますか? 最後に、会計ボタンを押して、お支払い方法を、『現金』『カード』『電子決済』『その他』の中からお選びください」
俺は、受付嬢のキラキラした爪が示したボタンを、言われた通りに押していった。
審査や諸経費もろもろ込みで5万6450円也。
俺は、一瞬目を剥いた。
高っ。
わかってはいたが、無職の身には厳しい金額だ。
家のローンを払って、子どもの養育費を払って──
養育費は俺のほうから払うと言いだした。
ふみかはいらないと言ったが、それだと妻と子どもに会う口実が無くなってしまう。
こんなことで家族を繋ぎ止めようとしても、ムダなあがきかもしれないが。
俺が諦めれば、簡単に壊れてしまう“家族という枠組み”。
それが崩壊寸前だとしても、まだ手放す気にはなれなかった。
ただ、しがみついているだけだとしても。
あー、あと何だっけ……、固定資産税か。クッソ高えな。今年は分割で払おう。
住民税と所得税は前年の所得に対して掛かるので、今が無職であろうとも容赦なく持っていかれる。
この仕組みって、マジでなんとかならないのか。
今の世の中で、明日も自分が平穏無事に暮らしていると保証されている人間が、どのくらいいるんだよ。ダンジョン災害前とは時代が違うんだよ、時代が。
あ、そういえば、あと自動車税もあったな。
あれ、マジでヤバくね、俺。
「あの……ハローワークで補助金みたいなやつが出ると聞いていたのですが」
「山村様はあちらの紹介でいらしたんですよね。それでしたら、向こうで渡された書類の中に、探索者助成給付金申請書がありませんか?」
俺はカバンを開けて、ハローワークで渡された茶封筒を取り出して中身を漁った。
ここに来る前に、ちゃんと書類に目を通しておくべきだったが、ハローワークでサラッと見たあとはカバンにしまい込んで、そのまま後回しにしていた。
そもそも、この書類は、俺が退職した経緯と現在求職連敗中だということを聞いた担当者が手渡してきたのだが。
「就職って、タイミングを逃すと動くのが面倒になって、そのまま引きこもっちゃう人がいるんですよね。まだ元気があるうちに、これ、おすすめです。探索者登録。ぜひやってみてください」と言いながら、無理に押し付けてきたものだ。
探索者になるのに年齢の上限はないが、俺は、新たに探索者を目指すには、ちょっと年がいってる。担当者も、どうせ俺が行くことはないと思ったのか、ろくに説明もしてこなかった。
まあ確かに、ふみかが娘の心菜を連れて出ていった今、30年ローンで買った3LDKの家には俺しかいない。何の気兼ねもなく引きこもりし放題だ。
だが、無職であろうとローンは払わなくてはならないし、生活費も稼がなくてはならない。
前職ではそれなりに稼いでいたので、俺は自分のことを決して無能だとは思っていない。ただ単に、今のところ無職で無気力なだけだ。
何とかしなくてはいけないのはわかっているのだが、何をする気にもならない。
退職後、時々思いついたように求職活動をしても、無気力そうな顔をした俺は、面接までこぎつけることさえなかった。そして、更にやる気を無くす。
エントリー→書類落ち→やる気ダウン→しばらく放置→また思い出してエントリー……。
我ながら、よくぞこんな無限ループにハマって生きてるなって思う。
困ったときには、どうにでもなれと投げ出すのが俺の得意技だ。大抵のことは、これで乗り切ってきた。
為せば成る。なさねば……なんだっけ?
まあいい。
求職に失敗し続け、いいかげん、考えるのも面倒くさくなった俺は、半分やけになって最寄りの深域管理機構に足を運んだ。
探索者というヒーローに憧れる気持ちも……ほんの少し……なくはないが。
別に、好きこのんで探索業をやりたいわけでもない。ここに来たのは、失業保険をもらって生活を立て直すためだ。
とはいえ、世間の用意してくれたセーフティーネットに、いつまでも依存し続けるつもりはない。ちゃんと働く気はある。
ただ、新しい職を探すにしても、少しだけ時間が欲しい。今のままでは、この悪循環から抜け出せない。
ごく普通に生きているつもりなのに、まるで蟻地獄にでもハマっているかのように、俺の日常は悪いほうへ流れていく一方だ。
ダンジョンが出来たせいか。あるいは妻が出ていったせいか。
仕事も家庭も、何ひとつ俺の思ったとおりにいかなくなった。
このままじゃ、何も変わらない。
そんな気がした。
正直に言えば、探索業を選んだ理由は、失業保険のためだけじゃない。
たぶん……いや、おそらく……、俺は自分を変えたいのかもしれない。
……バカみたいだな。だったら探索者じゃなくて、修験者にでもなれよ、って話だ。
命を売りに出して、負けが込んでいるギャンブルで一発逆転を狙うような。
我ながらバカなことをしている自覚はある。
そういえば、家を買ったときも同じようなことを考えた気がする……。
一世一代の買い物なのに、激安で買うチャンスとしか見ていなかった。
もっと慎重にってふみかが言っていたのを、俺は聞き流していた。
おかげで、仕事をクビになり、ローンと税金の支払いで、俺のクビは締まりかかっている。
まあいい。
ダンジョン災害前の俺は、毎日同じことの繰り返しだった。
死ぬまで退屈しながら暇つぶしをするだけの人生。
これがずっと続くなんて耐えられない。どこかで流れを変えなくては。
探索者という選択は、無謀なのかもしれない。
今までの俺は、暴力沙汰なんて論外。格闘技ですら観戦したこともなかった。
だけど、今は違う。
自分が“無力”なことに、不安を覚えるようになった。
一部の人間がヒーローのように異生物と戦ってるこの世界で、「俺は無関係です」って言って、乗り越えていけるんだろうか
ダンジョンから化け物が溢れてきたら、誰が家族を守る?
誰に助けを求めればいい?
……わかってる。今さら俺がヒーローになれるわけじゃない。
オマエには守るべき家族もいないじゃないか、と頭の中で誰かが笑う。
でも、“このままじゃダメだ”って、ずっと思ってた。
仕事もない、家に帰っても誰もいない。自分の足元の地面が砂のように崩れていくのを見ているだけ。
何ひとつうまくいかない。もううんざりだ。
俺は──
「あの……」
自分の考えに埋没していた俺に、誰かが声を掛けた。
顔を上げて、目の前にいる受付嬢の顔を見た。
目と目が合った。
彼女は、何かを待っているように見える。
あ。ちょ、ちょっと待って……。って、あれ、何の話をしてたんだっけ?
「えっと、スミマセン。考え事を始めたら止まらなくなってしまって……何の話をしてたんでしたっけ」
「……ハローワークで渡された書類の中に、探索者助成給付金申請書がありませんか、ってところですね」
受付嬢は、ニッコリしたまま応えてくれた。
「ああ、そうか、そうか」
俺は、ホッとした。
冷たくあしらわれたら、心が折れるところだった。
とにかく、色々なことが起こりすぎて、ちょっと押されただけで崖から落ちるくらい、俺の心はギリギリのところまで追い詰められていた。
頭を振って雑音を追い払い、ハローワークで渡された茶封筒の中を漁った。
結局、人生ってものは、やらなきゃならないことと、それをやりたくない自分との壮絶な戦いの連続なのだ。
っていうか、ここまで手続きしておいて、また別の就職先を探してイチから始めるって、そんな面倒なことするか?
いや、しない。絶対。
エントリーシートを書くのは、もううんざりだ。
どうにでもなれという気分で、書類を引っ張り出して差し出した。
受付嬢は、書類を受け取ると、手元の端末に何か入力したあと、引換券をプリントアウトした。
「筆記試験に合格し、一度でもダンジョンに入場した時点で、ハローワークが定めた助成金の対象になります。お時間のあるときに、こちらの引換券を受付までお持ちください。オンラインでの申請でも結構です。本日お支払いいただいた56,450円から、装備費用を引いた金額をお返しします」
受付嬢は、そう言いながら引換券を渡してくれた。
「装備品、結構するんですね。ハハハ……ハァ」
肩を落としながら言った。
受付嬢は、少し困ったように、曖昧に微笑んだ。
「これでも初心者セットなので、だいぶお求めやすい価格なんですよ。もし、装備品が不要になりましたら、この建物の地下にあるダンジョンショップで下取りに出せますので、ご利用ください」
「なるほど。ありがとうございます。あの……、あと、失業保険の申請で使う、求職活動してますよっていう証明みたいなやつ。あれはどうしたらいいんでしょうか。それらしい書類がなくて……。探索者になると、失業保険が切れるまで失業手当が全額もらえるんですよね?」
「ああ、それは、ダンジョンの入退場のログが残りますので。月に1回でもダンジョンに入れば、求職活動をしたことになります。なので、山村様のほうで特に何かする必要はないですね」
「そうなんですか。ありがとうございます、助かります」
世の中には、知らないと損をする仕組みがたくさんある。
自分から申請しないともらえない助成金や、そもそもの存在さえ知られていない制度。
しかも、今から俺が入ろうとしている探索者業界では、暗黙の了解のもと、明文化されていないルールがいくつもある。
本来、地表から40メートルより下は誰の所有物でもない。それなのに、ダンジョンから物を持ち出すと、表社会では脱税、裏社会では縄張り荒らしとみなされ、どちらにせよ、恐ろしい目に遭うのだ。
……ダンジョンなんて、誰のものでもないのに税金を掛けやがって。
理不尽過ぎる。コンチクショーめ。
俺が礼を言うと、受付嬢はニッコリ笑った。
ああ、笑顔がまぶしい。
俺は、一瞬、自分がどこにいるのか忘れた。
チラっと受付嬢の名札を見ると、“木下”と書いてあった。
ごく普通の名前で、なんだかホッとした。
木下。いいじゃん、“木の下”。
やっぱり人間ってのは、地面に根を張っている感じがするほうが落ち着くんだよ。
こんな殺伐とした場所でも、ちゃんと普通の人間も生活してるんだと思わせてくれる。
もしこれが、“月見里”とか、“祖母井”みたいな変わった名前だったら──
不安にかられて泣き出したかもしれない。
まあ、人の笑顔に惹かれるのは、しばらく誰とも話していなかったせいかもしれないが……。
いや、昨日コンビニで、レジのお姉さんとは話したな。
最近、身寄りのない年寄りと行動パターンが変わらなくなってきた気がする。
話しかけるチャンスがあれば、誰にでも話しかける。
「ところで、いつもこんなに混んでるんですか? 以前同じ講習を受けた知り合いから、午前中には筆記試験まで終わると聞いていたんですが」
おかげで腹が減って死にそうです、とまでは言わないが。
「それは……、私たちも対応に苦慮しているところなんです。元々、連休前後は混雑しやすい時期なんですが、それに加えて若い人に人気のインフルエンサーと言うか、動画配信をしている方が『味覚』というスキルを取得して。その検証動画を配信しているんです。それを見て若い人が集まったせいではないかと……」
なにその、グルメ番組で人気が出そうなスキル。
っていうか、どういう発生条件よ。
ダンジョンの内でしかスキルは生えないって話だろ?
それとも、何か食べながら戦闘するとか?
それならそれで、食品会社のスポンサーが付くかもしれないが……。
「味覚スキルって、具体的には何が出来るんですか」
「えっと……素材の鮮度や栄養価がわかったり、味の表現を高度に言語化できるようになったとか……。あ! あと、派生スキルで、食中毒とか、細菌の有無も見抜けるそうですよ」
「へー……ダンジョンで使えるんですか、そのスキル」
素朴な疑問だ。
「うーん……たぶん、戦闘というより、生き残るための知識として使えるんだと思います。サバイバル能力は上がるかもしれませんね」
「でも、内容だけ聞くと、食レポスキルですよね」
「はい、食レポですね……」
「……」
もし、味覚スキルを持った探索者が、戦闘に入ったらどうなる?
「……このスライム、美味しそうに見えませんか? ほら、この芳醇な香り……。そうですね、まず感じるのは、湿地帯に自生する野生ミントと泥苔の複雑なニュアンスを帯びた、青々としたグリーンノート。そこに仄かに混じるのが、熟成された湖底の藻のような、ちょっとクセのある発酵臭。……いや、これはむしろ高級なチーズのような香りの層と言ってもいいでしょう。さらに奥に広がるのは、焼いた醤油の風味を活かしたスープ。ほんの一滴だけ落とした魚醤のような、じんわりとした塩味のアクセント……。うん、これはまさに、ダンジョンから生まれた至宝の一皿と──」
こんな感じか。かなりうざいな。
まあいい。
俺がやるべきことはただひとつ。
月に一回ダンジョンに入って、入口近くのゴブリンとかスライムみたいな生き物を一発殴って帰る。
これだけで“ちゃんと就職活動してますよ”という世間体は保てるし、失業手当の受給資格も得られる。
いのち大事に、半年間これを繰り返し行う。これが、俺の一番の目標だ。
自分を変えるうんぬんは、スキルが生えたら考える話だ。
まずは出来ることからやる。基本だろ?
家を買ったときみたいに、よく調べもせず、勢いだけでデカいことをしようとするから、失敗するんだ。
最初から、ダンジョンに深入りするつもりはない。
……ダンジョンに深入りするなって? それはムリだろ。ハハハ。
すまない。
心の隙間を、どうでもいい言葉で埋めなければやっていられない俺の心理状態を許してくれ。