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2025年5月2日(金)風呂に入る

 俺は、知り合いに(吉野さんの)声を掛けられるんじゃないかとヒヤヒヤしながら、初心者装備のまま(俺の服だとサイズが全然合わなかったので)バスと電車を乗り継いで家に帰った。


 玄関の鍵を開け、後ろ手にドアを閉めたところで、ようやく一息ついた。

 家に誰もいないことを、これほどありがたく思う日が来るとは。


 このまま床に崩れ落ちて眠りたいところだが、俺は這うようにして台所へ向かい、冷蔵庫から500mlの缶ビールを取り出すと、一気に飲み干した。


「ぷっはーーーー」


 冷たい喉越しで頭がスッキリした。


「さて、この後どうするか」


 36歳の男が、いきなり18歳の女子大生になりました、とさ。



「あれ、18って未成年だっけ? お酒はハタチから? 思いっきり酒飲んじゃったよ」


 まあいいか。中身は36なんだし。




 俺はソファに寝っ転がり、天井の明かりをぼんやり見つめた。


「あー、まいった……。なんで俺がこんな目に──」



 スライムが顔に貼り付いて……、その後どうなった? 死んだ? いや、今こうして生きてるじゃん。ってことは、ゾンビか? ……じゃないよな。それに、なんで吉野さんの姿になったのかもわからないし。



 俺は胸に手を当ててみた。

 心臓は動いてるし、体も普通に暖かい。



「スキルで一時的に吉野さんに変身したとか。それだったら、まあ納得か……? いや、でもなんとなくそんな簡単な話じゃなさそうな気がするんだよな……」



 一時的なものなら、いずれ元の体に戻れる。


 だが、もしずっとこのままの姿で過ごすハメになったとしたら──



 仕事は……無職だから、どこにも行かなくていい。

 学校は、俺じゃなくて“本物の吉野さん”が通うはず。

 家族──、妻と娘とは別居中。両親とアニキは車で30分ほどの距離に住んでいる。向こうから家に来ることもないし、何かあればSNSか電話で済む。



「うーん、あとは何が問題だ?」


 俺は、両手を組んで大きく伸びをした。


 ふと、腕にはめられたスマートバンドが目についた。



「そういえば、コレってダンジョンへの入退場が記録されてるんだよな」



 ダンジョンから退場したとき、慌てていたのでスキャナー横の表示に目がいかなかった。

 もし、俺が“本物の俺”なら、あのときスキャナー横のモニターには、俺の名前で退出記録が表示されていたはずだ。バンドの偽造は出来ないって触れ込みだったし。



 いや──、姿だけじゃなく、バンドのデータごと吉野さんに変わっていたら?

 吉野さんの名前しか表示されなかったら……どうするよ。



 その場合、俺は行方不明のままってことになるのでは……。



 でも、“本物の吉野さん”は、先に退出していた。

 二重に退出記録が出たら、さすがに騒ぎになるはずだ。


 それがなかったということは、少なくとも、このバンドには“本物の俺”のデータが残ってるんじゃないのか?



 俺は、天井に向かって腕を伸ばした。

 腕のバンドの画面をフリックすると、現在時刻や、何かのデータをスクリーンしているような表示が出た。

 時々何かをスキャンするような光が裏面に出ている。定期的に認証を掛けているようだ。



「静脈認証みたいな方式で個人を識別してるのかな……?」



 果たして、今の俺は山村荘太郎なのか、吉野美玲なのか。



「もう一回ゲートを通ってみるしかないか……」



 今の状況で、俺が“俺”だと証明できる可能性があるものは、このバンドしかない。



 そのとき、スマホに通知が入った。


 画面を開くと、ちょうど吉野さんから、ダンジョン内で撮った写真が送られてきたところだ。

 ダンジョンの中では電波は通じないので、地上に出てから写真の加工をし、今になって送ってきたのだろう。どの写真も戦隊モノっぽいエフェクトが盛り盛りだ。



 こんな状況なのに、少し笑ってしまった。

 もし元の姿に戻れなかったら、この間抜けな顔をした写真が、見慣れた自分の最後の姿になるのだろう。



 スマホの画面をスワイプし、俺と吉野さんが並んで写っている写真を見た。

 自分の顔なのに、まるで誰かの抜け殻を見ているみたいだった。

 


 一度目を離したら、写真から消えて、いなくなってしまうんじゃないか。

 そんな不安が胸をよぎる。



 バカバカしい。



「どんな姿になろうが、俺は俺だ」



 俺は、吉野さんにおじぎをしているキャラクターのスタンプを送って、目を閉じた。



 ***



 ダンジョンの中であったことを思い返すと──


 スライムに襲われたとき、スキルを取得した感覚はあった。

 この意味不明な状況は、スキルの影響なんだろうか。


 吉野さんのように、目に見える“魔法スキル”ならわかりやすいが、俺のスキルは外からはわからないタイプなのかもしれない。



 どんなスキルを取得したのか、公にしない探索者は多い。スキルの使い方は、自分で試行錯誤して見つけるしかない。


 説明会でも、「説明書がない機械を渡されて、あれこれいじっているうちに自由に使いこなせるようになった」って話だった。



「そういえば、さっき頭の中に出た図鑑みたいなやつ……。あれって、俺のスキルで表示されてるんだよな。だったら、俺自身のデータも表示出来るんじゃないのかな」



 目をつぶって、“図鑑”を呼び出そうと集中してみた。



 吉野さんの情報が載ったスクリーンが浮かび上がってくる。



 コイツをどうにか操作できないものか……。

 頭の中をあちこち探ってみたが、ボタンもタブも見当たらない。



「見るだけなのか……?」



 少しムキになって、スクリーンを叩いたり、揺すったりしてみた。

 だが、吉野さん以外の情報は出てこない。



「あー、もういいや。面倒くさー」

 俺は諦めて、頭の中でバタンと図鑑を閉じた。



「……ん? 閉じる?」



 最初に見たときは、スクリーンにプロフィールが載っている体裁だったのが、いつの間にか本に変わっていた。


 俺が“図鑑”みたいだと感じたから、表示方法もそれに引っ張られたのか?

 あるいは、ユーザーの認識に合わせて姿を変える仕様……とか。



 もう一度意識を集中して、閉じられた図鑑の表紙を見直す。


 表紙にはデカデカと明朝体で──



『擬態中』



 と書いてあった。



「“擬態”って、何かになりすますとか、そんな感じの言葉だよな。そうすると──、やっぱりステータス画面なのかな。『今、あなたが擬態しているのはこんな人ですよ』みたいな感じで教えてくれる機能とか」



 俺は、じーっと表紙を見つめたが、それ以上何もわからなかった。



「地上では魔力がないからわからないとか……。もう一度ダンジョンに入ってみれば、何かわかるかもしれないな」



 もしかしたら、元の体に戻る方法も──あるかもしれない。



 ないと困るだろ。元に戻る方法。

 ずっと女の子の格好でいるわけにいかないし。



 だいたい、知り合いになんて説明する?

 男の俺が『今日から女の子になりました~』という状況になることは……まあ、人生には色々あるから、絶対にないとは言い切れないが。


 そもそも背格好が違いすぎて、どう見ても俺じゃない。

 説明のしようがないだろ。


 しばらくこの姿で過ごすにしても、外を出歩いて大丈夫なのか?

 吉野さん本人とか、彼女の知り合いにバッタリ会ったらどうすんだよ。変装でもするか?



 ふと、腹が鳴って、晩メシを食べていないことに気がついた。

 冷蔵庫の中には何もない。



「外食して帰るつもりだったのに、それどころじゃなくなったからな。今さら外に出る気にもなれないし。あー、面倒くせー。カップ麺でも食って寝るか。麺だけに面倒もなし、なーんてな。ハハハ……ハァ。バカか、俺は……」



 俺はどうでもいいことをブツブツ言いながら、カップ麺にお湯を注いで時計を見た。

 ちょうど9時になったところだ。


 待つこと3分、食べるのも3分。さっさとカップ麺を食べ終わると、ピスタチオをつまみに、ウイスキーのソーダ割りを作って、ちびちびと飲んだ。



 今日は、色々なことがあったのに、まだこんな時間か。

 寝るには早いが、特にしたいこともないし……。



 普段から、俺にはコレと言った趣味がない。昔はゲーム三昧だったけど、今さら新規で何か始めるのも面倒くさい。会社に勤めていたときは、夜中まで働いてバタンキュー。

 それでも、妻と子どもがいたときは、子育てっぽいことぐらいはした。



 妻も子どももいなくなり、クビになった後は……。


 何してたっけ? ダラダラSNSを見ているうちに一日終わってたかな。


 なんという人生のムダ遣い。贅沢の極みだぜ、ハハハ。



 妻は、よく動画配信サービスで映画を見ていたが、すでに解約した。

 俺は映画も見ないし、本も読まないし、誰にも何にも興味はない。風呂に入って寝る。

 以上!



 あ、風呂……。


 風呂かぁ。


 うーん、女子大生の姿で風呂。

 ほほう、そうですか──




 ぼうっとしながらつまんでいたピスタチオの殻が、コロンと床に落ちた。



 はっ。

 いやいや、全然やましいことは考えてないですよ。

 俺には妻がいる。別居はしているが、まだ離婚していない。他の女性をいかがわしい視線で見ない。絶対見ない──と思う。た、……たぶん。


 あっ、そうだ。何なら目隠しして入ったっていい。そりゃ……かわいいとは思うけど、俺の好みと違うし。


 ……いや、確かにかわいいよ。何かフワフワ~っとしてて。学生のときだったら、クラスに一人や二人いるじゃん、ちょっとかわいい子。ああいう感じ。


 でもねぇ……、そもそも、18歳なんて、ほんのちょっと前まで、中学生とか小学生だろ。俺から見たら、ただの子どもじゃん?


 そう考えると──俺の娘が、ほんのちょっと大きくなったのと、たいして変わらないじゃないか。


「そうだよ、そうそう! 娘を風呂に入れるのと、たいして違いはない! ハハハ。よし、解決!」


 俺は、妙な背徳感を振り払うように、声に出してそう宣言した。



 じゃあ、着替えは……


「あ、下着どうすんだよ! ノーパン、ノーブラのままじゃん!」




 ……まあ、いいか。

 誰に見られるワケじゃないんだし。


 今晩は俺のTシャツとボクサーパンツでもいいとして。明日はこの体に合う服を買いに行くか。確か、駅前に若向きの店があったはず。


 今の俺は、吉野さんになってるとはいえ、慣れない仕草で、女装したオッサンっぽく見られる可能性も──なくはない。

 セルフレジの店なら店員も少ないし、不審な目で見られることもない……かな。



 ──っていうか、今の俺、女だし。

 証拠を出せって言われたら、見せたっていいぞ。証拠を。


 だったら、どこで買い物しても全然問題ないな、うん。



「じゃあ、風呂に入るぞ」



 誰に言い訳するわけでもないのだが、俺は何となく部屋の上のほうを見回しながらそう言った。もしも現実世界に幽霊みたいなものがいるなら、そのへんにいそうだし。


 これが、ご先祖様が見ているとか、お天道様に恥ずかしくない生き方がどうのこうのと言う感覚なのだろう。



「そういえば……、ダンジョンって、ファントムとかレイスみたいな物理攻撃の効かない異生物もいるのかな? どうやって攻撃したらいいんだろう……。まあ、そんな危ないヤツが出る階層に行くつもりはないから、俺には関係ないけど。──関係あるのは、風呂だよ、風呂。だいたい、文句があるなら自分で風呂に入れよなぁ。俺だって、好きでこの姿になったわけじゃないんだから、まったく……」



 俺は、やましい気持ちを誤魔化すように、どうでもいいことをブツブツ呟きながら、着ている物を脱ぎ始めた。

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