2025年5月25日(日)カンフーマスター
中華街の端っこにある、雑然とした飲食街の裏手に、張の教室があった。
すぐ近くの厨房から、中国語で誰かを怒鳴りつける声が響いてくる。
「三哥、どこをほっつき歩いてた! 店の掃除は済んだのか?」
部屋に入るなり、小柄な老人が声を張り上げた。
「ちょっとランニングしてきたんだよ。師父。それよりお客さんだよ。ホラ、見学希望者」
張さんが、俺の手を引っ張って、老人の雷から身を守るように、自分の前に立たせる。
「む……。そうか。名前は?」
か弱そうな女の子を前に、老人の表情が緩む。
老人の勢いに思わず身を引いたが、こっちだって見た目ほどヤワじゃない。すぐに気を取り直して、まっすぐ老人を見返した。
(……っていうか、ホントにこんな年寄りが素手でウルベアスを倒すのか?)
『山村さんだって、見た目通りの人間じゃないでしょ。見掛けで判断しないほうがいいわよ』
(う、まあな)
「えっとー、武道の気の流れを勉強したくて来ました。吉野です。よろしくお願いします」
挨拶しつつも、吉野さんより背の低い老人に疑り深い目を向ける。
「武道は何か出来るのか」
師父と呼ばれた老人が、俺の顔をまっすぐに見る。
「太極拳なら……少し」
「なら、やってみろ」
言われるままに、先ほど公園で見た太極拳の動きをトレースする。
師父はしばらく黙って見つめていた。
「ふむ……型は出来ているな。だが上辺だけだ。呼吸と動きが一体となっていない」
「それを身に着けたいんです。どうしたらいいですか?」
「太極拳がそこまで出来るなら簡単なことだ。三哥。推手をしてやれ」
向かい合う形になり、張さんが手の甲で俺の左手首に触れる。
「ゆっくり動くから、オレの攻撃を防いでみろ。そっちから打ち込んできてもいいぞ」
離れようとしても、まるで張さんの手が張り付いたようについてくる。
攻撃はすべて円を描くようにいなされ、こっちは張さんの突きや払いを受け流すのに必死になる。
すぐに呼吸が乱れた。
「動きがバラバラになってるぞ。息を止めるな。さっき師父の前でやった動きをそのままやるんだ」
張さんは更に間合いを詰め、防ぎにくい角度から打ち込んでくる。
俺は防御と反撃の間に、頭の中で太極拳の流れを再生する。
太極拳は攻守が分かれているのではなく、受けが次の技の入り口になっている。
深く息を吸い、腰を落として重心を沈める。
スキルで覚えた通りに、流れのまま体を動かす。
張さんの動きが、手首から肘、肩、そして腰へと波のように伝わっていく。
「そうだ。手首から三哥の動きが伝わるだろう? いつ、どこを攻撃されるのか。それを感じるんだ」
師父は鼓舞するように手を叩き、俺の呼吸と動きを見ていた。
しばらく推手を見ていた師父が、なにか悪巧みを思いついた表情になり、部屋の隅にあったホウキを取る。
「今度はコイツが相手だ」
張さんが横へどくと、師父がホウキで俺を突き始めた。
「当たっても痛くはないが、少々汚れるかもしれんぞ」
そう言って、ニヤリと笑った。
「さっきこのホウキで、部屋に出たゴキブリを叩いたからな」
「──ゲッ」
精神攻撃付きかよ。
それに、ゴ……って言うな。飛んでくるところを想像しちゃうだろうが。
「ほれほれ、当たらないように避けてみろ」
師父は面白がるように俺を突っつき回す。
俺は必死の思いでホウキの軌道を読む。
相手の視線、力の入れ具合、フェイントかそうでないか。
次第にホウキが飛んでくるスピードが上がり、俺は部屋の隅まで追い詰められた。
執拗に追い回され、さすがに俺も腹が立ってきた。
反撃してやろうと思った瞬間、師父の雰囲気が一変し、武道家の顔になる。
「ハアアアッ!!」
掛け声と共に、師父は床が抜けそうなほど強く足を踏み込む。
体から魔力が溢れ、空気が震えて窓ガラスが軋んだ。
間髪入れずに掌底が飛んできて、俺は思い切り吹き飛ばされた。
「た、大変だっ……吉野さん!」
張さんが慌てて駆け寄る。
「……ケガはしとらんだろ?」
師父はケロっとした顔で言う。
「吉野さん! 大丈夫か?」
張さんが、俺を助け起こしてくれた。
「えっと……全然痛くないですよ。ちょっとビックリしただけ」
(今、直撃したよな……? 吉野さん……、さっき一瞬体を乗っ取った?)
『ヤバそうだと思ったから、打たれる前に体の正面だけ防御魔法を張ったのよ。守る範囲が狭ければムダに魔力を使わなくて済むからね。有田さんが前に見せてくれたじゃない? アレの応用』
(形を変えられる『シールド』か……。さっすが吉野さん、助かったよ)
『地上なら、お互い使える魔力も限られてるからね』
(ダンジョン内でやり合ったら、負けてたかもしれないってことか)
『魔石を飲んでブーストかけるか、ガンちゃんを持ってないと力負けするかも』
(ハア……吉野さんがそう言うなら、師父がウルベアスを素手で倒すっていう話は本当なんだな)
師父の掌底打ちと吉野さんの防御魔法が真っ向からぶつかったせいで、部屋の壁にヒビが入り、窓ガラスが何枚か割れていた。
「……もうすぐ昼になる。ウチの店で食べていけ。今日のレッスン代がわりにしてやる」
「はい、ありがとうございました──」
(まったく……、どんな物騒なレッスンだよ。魔力も使ったんで腹ペコだぜ)
『でも、今の掌底打ちを覚えられたでしょ? 気の流れも掴めたんじゃない?』
(ふっふっふ、まあな。これで俺もカンフーマスターだぜ)
表の飲食店と教室は同じ建物で、裏口からつながっていた。
油の匂いと、中華鍋を振る金属音のする厨房を抜け、客席へ出る。
張さんは「ビックリさせたお詫びにタダでいい」と言ったが、俺はレッスンのお礼だからと断り、正規の値段でお粥と点心のランチセットを頼んだ。
さっぱりとしたお粥のあとに、揚げ物を食べるというこの流れが、なんとも背徳的でたまらない。
エビの揚げ春巻きのパリパリという歯ざわりを楽しみ、もっちりとしたマントーをちぎって、皿に残ったソースをぬぐう。
ランチセットだけでは物足りないが、大食いスキルを発動しているところを張さんに見られるのは、ちょっと気が引ける。
『せっかく中華街に来たんだから、食べ歩きしてこうよ。まだ全然食べられるし』
(そうだな。ついでに皇朝の小籠包を買って帰って、明日の朝メシにするか。アレ、肉汁がじゅわ~っと出てくるんだよ)
『王府井の焼き小籠包も美味しいよ』
(全部買って帰ろうぜ。中華街の端から端まで大人買いよ)
『フフフ、ずいぶんスケールの大きい大人買いだねー』
***
「吉野さん──かわいい子だったな。探索者なら、どこかのダンジョンで会うかもしれないし、連絡先を聞いておけばよかった」
そう言いながら、張はホウキで割れたガラスの欠片を集める。
「……あの子に手を出さんほうがいいぞ。オマエにはムリだ。化け物みたいな魔力を持ってた」
師父は、テーブルに座り、手にしていた茶碗でお茶を飲む。
「え?」
「途中から、凄まじい圧を感じた。ワシの一撃を防ぐとはな……」
指先で、テーブルをトントンと叩く。
「あれ、手加減してたんじゃなかったんですか? まさか本気で──」
「ほんの一瞬だが、ダンジョンの魔物と対峙したような気がした。体が勝手に反応したんだ」
「オレは何も感じませんでしたけど」
「それがわからんうちは、まだ半人前だ」
師父はぐいっとお茶を飲み干した。
「は、はい……」
そう言われて、張は小さくため息をつき、うなだれた。
第八章はここで終わります。盛り上がってきましたねえ~。
こういう修行シーンになると、どうしてもパット・モリタが思い浮かんでしまう……。
ストックが切れましたので、またしばらくお休みします。
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