少年の抜けがら
どうせ「首なし狛犬の神社」のベンチに座って煙草をふかしているのだろうと思い行ってみたが、いなかった。そうなると、誰の仕業かは知らないが定期的に大量のエロ本が橋の下に放置される通称「エロ本橋」で、川のせせらぎに耳を傾けているかもしれないと思い行ってみたが、そこにもいなかった。
今夜も父ちゃんが大酒を呑んで暴れたので、母ちゃんが家から逃げた。いつもなら遅くとも二時間もすればブラリと帰って来る母ちゃんが、今日に限って日付が変わっても帰って来ない。
心配だ。いくらなんでも遅すぎる。僕は、ボロアパートの六畳の居間の真ん中でイビキをかいて寝ている父ちゃんの顔面を跨ぎ、母ちゃんを捜しに家を出た。それから、心当たりのある場所を数か所捜したが、どこにもいない。
まったく母ちゃんときたら、十歳の一人息子にこんな心配をさせるんじゃないよ。まわりの友達の家が羨ましい。別にお金持ちの家に生まれたかったわけじゃない。ただ僕は、普通の親のもとに生まれたかった。
母ちゃんはどこだ。あ、そうだ。保育園のころ、母ちゃんと二人でよく行った、ひと気のない静かな公園。ここからは少し遠いけど、ひょっとしたら、あの公園にいるかもしれない。僕は、その公園に向かい真夏の夜の街を走った。
丸く剪定されたカイズカイブキ。フェンスを覆い隠すほどの雑草。不貞腐れたように点在する塗装の剥げた遊具たち。ここは、その昔若い女が手首を切って自殺してからというもの人が近づかなくなった公園で、地区のみんなは「リストカットパーク」と呼んでいた。
あ、母ちゃんだ。
ほっ。よかった。僕は、リストカットパークで、母ちゃんを発見した。
不規則に点滅する壊れかけの外灯の下で、母ちゃんは、桜の木の切り株に腰を掛け、目の前に生えているヒョロリと細い雑木の一部分を食い入るように見ていた。小さく開いた唇が唾液で光っている。
「母ちゃん、捜したじゃないか。心配したよ。何をしているの? はやく家に帰ろう」
僕が、背後から話しかけても、まるで返事をしない。
「ねえ、母ちゃん、僕だよ。僕が、迎えに来たよ。ねえ、母ちゃん、家の中がぐちゃぐちゃだよ、たまには掃除をしようよ。ねえ、母ちゃん、毎日食パンばかりでは飽きちゃうよ。ねえ、母ちゃん、いい加減に、便所のチリ紙を買ってくれよ。もう新聞紙をほぐしてお尻を拭くのは嫌だよ」
「しー」
静かに振り向いた母ちゃんが、人差し指を立て自分の口元に押し当てる。それから、続けざまに雑木の幹の真ん中あたりを指し示す。
蝉の幼虫だ。
蝉の幼虫が脱皮をしている。その幼虫は、長い年月みずからを守った殻を突き破り、今まさに柔らかな真っ白い羽根を、恐る恐る外界にさらけ出そうとしていた。
僕たちは、脱皮の邪魔をしないように、囁き声で会話をした。
「ずっと、蝉の脱皮を見ていたの?」
「うん、土から這い上がってくるところからずっと」
「蝉は、どうして脱皮なんかするのだろうね」
「決まっているじゃない。大人になるためよ」
「大人になるためか……。蝉はいいなあ。脱皮をすれば大人なのだから。なぜ人間は成人式なんていう曖昧な式典で大人になったことにするのだろうね。いっそのこと僕も脱皮をして大人になりたいな。この蝉の幼虫のようにバキバキと背中を突き破って、殻の中から大人の僕が誕生をするのさ。うん、きっと、そのほうが面白いよ」
その時、母ちゃんが、僕を背後から抱きしめた。しゃがんで蝉を観察していた僕に覆い被さるようにギュッと強く。
ななな、何だよ急に。もしかすると、僕に、脱皮をして欲しくない、大人になってほしくない、そんな気持ちなのかな。
「は~、あったか~い」
な~んだ。真夏とはいえ、深夜の公園は肌寒かったらしい。
「あったか~い。あったか~い」
母ちゃんのオッパイが、僕の背中に押し当たっている。母ちゃんの鼓動が、オッパイを通して僕の体の中に響く。
ふと見ると、一匹の蚊が、母ちゃんの腕にとまっている。母ちゃんの白い腕には、もう何か所も刺された跡がある。辺りを飛び回る蚊のことなどそっちのけで蝉の脱皮を見ていたのだろう。血液でパンパンに膨らんだ蚊を叩き殺してやろうかと思ったが、その音で蝉を驚かせたくないので見逃してやる。
緩やかにうねる夜の雲が三日月を呑み込む。そよぐ南風からほんのり雨の匂いがする。遠い空の彼方で雷が音もなく鳴っている。
僕も、蚊に刺されたのだろうか。心に、かゆみ。
夜のしじまに挟まって、僕と母ちゃんは、時が経つのも忘れ、ただ蝉の脱皮を見ていた。
かゆい。
心が、かゆい。