教えてあげる
毎度のことながら、時間帯的にはこんばんはですが、ここはいつもどおりの挨拶を。こんにちは、葵枝燕でございます。
連載詩『〈自己嫌悪の裏側〉』、第三回です。前回から書いていることではありますが、この連載詩のテーマは——自己嫌悪と自己愛、です、多分。自己愛が自己嫌悪へだったり、自己嫌悪が自己愛へだったり、私の持論的なモノも多少入ってたりする、そんな詩の集合体です。
テーマがテーマですから、気に入らなかったり、不快に思われたりする方も、いらっしゃるかと思います。そんな方は、ページを閉じたり戻ったりするなり、自己判断で回避していただけたら幸いです。勝手な言い分にはなりますが、私は多分、そこまで強い心の持ち主ではありませんので、批判だけはやめていただけたらと思います。
長くなりましたが。
連載『〈自己嫌悪の裏側〉』、第三回の開始です。
どうしてそんな顔してるの?
あぁ そうか
キミは
自分のことが
どうしようもなく
嫌いなんだね?
わかるよ
何もできない自分に
思いどおりにならない自分に
自分でうんざりしてるんだよね?
それでも
この世界に縋り付く自分に
またひとつ
嫌気がさしているんだよね?
そりゃあ そうだよね
自ら生を閉ざす なんて
思っている以上に
勇気が要ることだから
キミには
そんな勇気がないんだよね
そしてまたひとつ
そんな自分を嫌いになる
臆病で 弱虫で 甘ったれで
そんな自分に
キミはいつだって辟易している
何よりも 誰よりも
ずっと長く ずっと近く
その生を始めてから
その生を終えるまで
キミが付き合って
キミが向き合って
キミが抱えて
だからこそ
キミは
“自分自身”を嫌いになる
わかるよ
わかってるよ
だって
そんなキミを見てきたから
そんなキミの傍にいたから
だから 教えてあげる
どうしようもない自分だって
嘆いても
憤っても
そんなキミも丸ごと全部
受け止めるから
キミがキミを嫌いでも
そんなキミをも愛せるから
キミがずっと
付き合って
向き合って
抱えて
生きてきただけの時間
同じだけ寄り添ってきたから
キミを嫌うキミの中に
キミを好きなキミがいること
ほんとはもう
気付いているんだろう?
『〈自己嫌悪の裏側〉』第三回のご高覧、ありがとうございます。
この詩、というか、詩の集合体を書き始めたきっかけは、第一回の後書きで書いたので、そちらをご覧いただけたらと思います。
今回の詩は、二〇一八年十一月三十日に書いたものとなっています。自己愛から自己嫌悪に向けて、厳しさ多めながらも、ほんの少し優しさもあるような、そんな言葉になっているでしょうか。
こちらも前回同様書いたのがだいぶ前なので、当時の気持ちを思い出せないのが悔やまれますが、これも私の大事な言葉に変わりはありません。
ただ、この詩における「臆病で 弱虫で 甘ったれ」な「キミ」は、私自身です。だからこの詩は、何よりも私自身に宛てていると思います。
臆病な性格がわざわいしてか、なかなか投稿に踏み切れないのが現状ですが、第四回以降も、早めにお披露目できたらいいなと思いつつ。
お付き合い、ありがとうございました。またお会いできたら嬉しいです。