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「…………?」

 違和感に気付いたのは、学校についてすぐだった。

 なんだろう……なんとなく学校全体が暗く、くすんでいる感じがする。学校特有の活発さ、やかましさのようなものが感じられない。

 ……いや、実際には下駄箱も廊下も教室も生徒で賑わっているし、そこかしこでお喋りを繰り広げているのでやかましい。ところが、まるで自分だけが防音室の中にいるかのような、そんなイメージが頭のなかに浮かぶ。自分だけが周囲と隔絶されてしまっている……そんなふうに感じられるのだ。先週の金曜日、宮原が欠席したときも学校が色褪せたように感じたが、今日はそれをさらに酷くしたかのようだった。

 これと似た感覚を、俺は知っている。全てが他人事のように思えるあの感覚……そう『孤立感』だ。

 もうずいぶん長い間、例の『孤立感』に襲われていなかったため、久々の感覚に俺は戸惑ってしまう。……なぜ、今日はこんなにも、周囲がどうでもよく感じるのだろう?

 思わず、額に手を当てる。もしかすると、まだ熱が残っているのかもしれないと訝しんだが、額から感じられる熱は至って正常だ。頭だってすっきりしている。

 ただ目の前に広がるもの全てが、ぼんやりと遠くに感じられるだけだ。

「…………」

 空を見上げる。週の始まりである月曜日だというのに、空は灰色の雲に一面覆われて、太陽の光は地上に降りてこない。

 ひょっとすると、こんな曇り空だから学校の雰囲気も暗く感じるのかもしれない……。

 俺はそう結論付けて、自分のクラスへと足を運んだ。



「おす、サイトーちゃん」

「ああ、おはよう」

 毎朝律義に挨拶をしてくる川上に俺も挨拶を返して、窓際にある自分の席へと向かう。

「…………?」

 またも違和感がある。一体なんだろう……と教室を見渡せば、その正体はすぐにわかった。

 教室右側にある宮原の席には、誰も座っていなかった。

 宮原は朝が早い。俺が遅いというのもあるが、俺と宮原だったらまず間違いなく、宮原のほうが早く教室についているはずだ。だというのに、宮原の席は空席だった。

 ……まさか、今日も欠席なのか?

 俺に風邪を移した張本人である宮原は、今週にはとっくに治っていると思っていた。だが考えてみれば、人に風邪を移せば治るなんてのは迷信にすぎない。治っていない可能性は充分にあるだろう。

 ……いやしかし、先週の様子からして、今日には間違いなく治っているだろうと踏んでいたのだが……。風邪がぶり返したりしたのだろうか。

 あるいは、俺がいたときは無理をして元気に振舞っていたのかもしれない。だからてっきり、もう大丈夫だと思い込んでしまったのかも。そう思うと、無理をさせてしまったことに少し心が痛んだ。

 やがて教室内に人が溢れてくる。宮原の席だけが空席のまま時間は進み、朝のホームルームの時間になると、担任の室賀が教室に入ってきた。

「みんな、おはよう。先週話した通り、進路希望調査の提出日は今日までだ。今日の帰りまでには、必ず学級委員に渡すように。学級委員は全員のプリントを纏めて、午後のホームルームで俺に渡してくれ。頼んだぞ」

 室賀はそう言うが早いか、さっさと教室から出て行ってしまった。

「……?」

 なんだ、今日は宮原の欠席について触れないのか? まあ、別に毎回触れる必要はないだろうが……その態度はなんとなく冷たいのではないかという気がして、俺は初めて室賀に対し嫌悪感を覚えた。

 クラスの面々も、少なからずそういう感情を覚えているのかと思ったが……クラスメイトたちにもそういった素振りは見られなかった。皆思い思いに、気怠い一週間の始まりに備えている。

 俺は首をかしげながらも、そんなものなのかもしれないと納得した。

 きっと俺が宮原のことばかり考えているから、室賀の態度に険があると感じたのだろう。

 何せ先週に、あんなことをした後なのだ……考えずには、いられない。



 宮原のいない一日は淡々と進む。

 授業も、休み時間も、昼食も……どれも等しく、無機質に時は刻まれる。宮原がいないと、こうも学校は退屈でつまらないのかと、俺は久々に思い出していた。

 何ひとつ心を動かすことのないまま、あっという間に午後のホームルームの時刻まで辿り着いた。俺は自分の席に座り、クラスメイトたちから集めた進路調査のプリントを纏め、クリアファイルに収めていた。

 ……これで提出していないのは、俺と宮原のみ。今日欠席している宮原はともかく、俺は必ず提出をしなければならないのだが……将来何になりたいかなど、一度も考えたことがない。

 真っ白なプリントを眺めながらしばし考え、思いつくままに適当なものを書く。できるだけ当たり障りのないもの……公務員や会社員と書いておけばいいだろう。何か突っ込まれたならば、その時はその時だ。

 担任の室賀は、時間よりも少し遅れて現れた。遅れたことを自覚しているからか、室賀は連絡事項を手早くすませる。そして、

「よし、あとは進路調査のプリントだな。斉藤、集めておいてくれたか?」

 俺は席から立ち上がり教壇へ向かい、纏めておいたクリアファイルを室賀に手渡しする。

「よしよし、悪いな。……一応聞くが、ちゃんと全員分集めてくれたか?」

 室賀の抜けた発言に、俺は呆れた。

 ……まったく、何を言っているんだ。宮原が欠席なのだから、全員分集まっているわけがない。

 まさかとは思うが、宮原が欠席していることを忘れているのだろうか? ……先週の金曜日も忘れていたような様子だったし、充分あり得そうだ。

 俺は小さくため息をついてから言う。

「いえ、宮原の分がまだですよ」

 少々険のある言い方になってしまったのは仕方がない。朝から続く、まるで宮原がいないものであるかのような室賀の物言いに、俺は苛立っていたからだ。

 案の定、室賀は目を丸くする。……イライラしていたからとはいえ、さすがに不味かったか。

 だが、言ってしまったものは取り消せない。多少の叱責は覚悟しよう……と身構えていたのだが。

 ――室賀の一言は、俺の予測から全く外れたものだった。

「宮原って……誰のことだ?」

 ――――は?

 室賀が放った一言の意味が分からず、俺は硬直する。

 誰のことだ、って……宮原は宮原だ。何かと忘れっぽい教師だとは思っていたが、まさか担当するクラスの生徒の名前すら忘れたのか?

 いや……そんな、馬鹿な。どう考えてもあり得ない上に、今話しているのはあの宮原のことだぞ? クラスで一番の美人で、不思議な存在感があって、常に周囲を人が取り囲んでいる……あの宮原だ。万が一、俺の存在を忘れることがあったとしても、宮原のことを忘れるというのは絶対にありえない。

 だとしたら……冗談か? 笑えない冗談だし、そもそもこんな冗談を言うような教師だっただろうか。しかし、それ以外に解釈のしようが……。

 困惑のあまり黙り込んでしまった俺を見て、室賀は何を考えたのだろう……しばらく怪訝そうな顔で俺を見ていたが、急に得心が言ったかのように笑い出した。

「ああ、なんだ斉藤。もしかして今の、冗談か?」

 ……何を言っているんだ、こいつは。

 冗談なのかと問いたいのは俺の方だ。それとも、今の台詞も含めて全て室賀の冗談なのか?

 ……だとしたら、そろそろいい加減にしてくれ。

 腹立たしさで吐き気がしそうだ……!

 だいたいクラスの奴らも、なんとも思わないのか? 俺と室賀の会話は、全員に聞こえているはずだ。宮原のことを、最初からクラスにいないかのように振舞うなんて、冗談としては低俗もいいところだろうが。宮原の親友である須藤と西倉……クラスのムードメーカーである川上などは、腹を立てたりしないのか?

 そんな俺の期待に応えるかのように、川上が声を上げる。

 ――しかし、俺の期待は裏切られる。

「へーっ、めずらし! サイトーちゃんが冗談言ってら!」

 ……まるで、背中を預けた味方に後ろから斬られたかのようだった。

 ギギギ……と軋む音がしそうなほどゆっくりと首を回し、俺は教壇から教室を見渡す。

 ――クラスメイトたちは、にこやかに笑っていた。

 まるで微笑ましいものでも見るかのような目で、室賀に対峙している俺を見ている。川上も小林も戸越も、須藤も西倉も、他の誰も彼もが……俺の事を見て笑っていた。

 ……なんだ? 一体何なんだ?

 彼らの笑顔には、決して嘲笑するような悪意を含んでいない。むしろ、面白い冗談を飛ばしたクラスメイトに向けるかのような、溢れる好意が感じられる暖かなものだ。

 だがその笑顔が何故か――気持ち悪くて仕方がない。

「まったく、あんまり教師をからかうな。よし、これでホームルーム終了! みんなまた明日な」

 俺が呆然としているうちに、室賀は俺からクリアファイルを――宮原の分が揃っていないはずのプリントを脇に抱え、教室から出て行ってしまった。

 室賀が出ていくと、教室内は一気に弛緩した空気に包まれる。誰もが席から立ち上がり、自分の荷物を手に持って、ある者は部活に……ある者は家路につき始める。

 ……ちょっと待ってくれ。

 どうして皆、そんな平然としているんだ。

 どうして何事もなかったかのように、教室から出ていくんだ……!

「いやー、サイトーちゃん。さっきのはなんだよ? どういう心境の変化?」

 川上に声をかけられ、はっとする。

 川上は、そして傍に寄って来た小林と戸越も、にやにやと楽しげに笑っていた。

「普段冗談なんか言わないからさぁ、びっくりしたぜ。誰なんだよ、宮原ってさ」

 単なる世間話のような川上の物言いに、俺の心臓がどくりと脈打つ。

 ……どうなってる。まったく意味がわからない。

 どうして川上までもが、宮原のことを知らない振りをする? あれは室賀の、下手くそでつまらない冗談なんじゃないのか……?

「いや、宮原は……宮原だろう。何を言ってるんだ?」

 力無く言った俺に、川上たちは目を丸くした。

「おいおい、冗談継続中? ……冗談を言い慣れてないサイトーちゃんにアドバイスするとさぁ、あんまりしつこいのは笑えないぜ? 何事も引き際が肝心ってやつよ」

 得意げに言う川上に、小林と戸越が爆笑でもって応える。

 だが、俺は全く笑えない。

 ――笑える、わけがない。

「待て、待ってくれ……! 冗談はやめろと言いたいのはこっちだ。川上も、小林も、戸越も……いや、クラス全員、宮原の事を知らないはずがないだろ……! 自分たちのクラスの、学級委員の名前を忘れたって言うのか?」

「学級委員の名前って……うちのクラスの学級委員は、サイトーちゃんでしょうよ」

 俺の頭はかっと熱を帯びる。川上に、話をはぐらかされたと思ったからだ。

 うちの学校の学級委員は、男女による二人組。そんなことは一年生の頃からの常識だ。学級委員の片割れである俺が聞いているのだから、問うているのは当然女子のほうの名前なのに……!

「そうじゃなくて、もう一人のほうだ!」

「もう一人……?」

 苛立つ俺とは対照的に、川上はぽかんとした顔をする。

 そして、理解できない言葉を口にした。

「もう一人のって……。うちの学校じゃ、学級委員はクラスに一人だろ? 一年の頃からそうじゃん」

 マグマのように煮立っていた全身の血液が、一気に冷めたかのようだった。

 ……おかしい。

 おかしい、おかしい、おかしい――!

 何か尋常じゃないことが起こっている。

 単なる冗談とかそんなものではない……理解不能な出来事が。

 そうでなければ、一年生から続く『クラスに男女二人の学級委員』という常識を、川上が覆すわけがない。川上の言い様は間違いなく真剣そのものだ。これが冗談や演技だというのならば、川上はきっとバレー部より演劇部のほうが向いている。

 ここに来て、俺はようやく今朝から続く違和感の正体に気付いた。

 ――世界が、おかしくなっている……?

「……ぅ」

「……おい、斉藤? お前、なんか顔色悪くね?」

 心配げな声を出したのは戸越だ。戸越の言うとおり、きっと俺は顔面蒼白になっているだろう。

 それも当然だ。わけのわからない状況に、突然放り込まれてしまったのだから。催した吐き気になんとか耐えた自分を褒めてやりたいくらいだ。

 世界がおかしくなった。自分で言ってても、意味が分からない。

 だが確実に、いま俺がいるこの世界は……先週までとは違うのだ。学級委員はクラスに一人、それが今の常識で……そしてクラスメイトに、宮原望美という人物はいないことになっている。

 ――これを一体、どう理解すればいい……?

「うわ、サイトーちゃん……真っ青どころか真っ白だぞ? もしかして風邪引いてるんじゃねーの? 最近寒いし気を付けねーと」

 川上も、そして小林も、心配そうな視線を俺に向けてくる。

 ……やめろ。そんな親し気な目で俺を見るな……!

 宮原がいなければ、俺は川上たちと親しく会話することなどなかったはずだ。宮原がいたから俺は学級委員になり、学級委員の仕事を通じてようやく、クラスメイトと打ち解けることができた。

 今の……この世界の川上たちは、宮原という過程をすっ飛ばして俺に親しく接してくる。

 ――それが、気持ち悪くて仕方がない……!

「……俺は、どうして学級委員になった。そんなことを進んでやる人間じゃないはずだ」

 俺はこの世界の矛盾点を、川上たちに突き付ける。

 そうしていれば、矛盾に気付いた世界が自動的に修正されるのではないかと……淡い期待を抱きながら。

「えっ? ……ああ、確か西倉ちゃんが推薦したんだよな。他に誰もやりたいやつがいなかったし、室賀のやつがさっさと決めちまったんだ」

 ……西倉?

 学級委員に宮原を推薦したのは、あの時は名前を憶えていなかったが――確かに西倉だった。宮原と仲のいい西倉や他の生徒たちに推される形で、宮原は学級委員に収まった。

 西倉がなぜ、俺を学級委員に推薦する? そんな繋がりはないはずだろう……!

「あの空席は一体誰のだ! あんな不自然な位置に空席があるなんて、おかしいだろう!」

「……それは、席替えで余ったからだろ? もともとうちのクラスは一人分席が多いから、席替えのたびに余りの席ができるじゃん。……なあサイトーちゃん、ほんとに大丈夫かよ? もう帰るだけとはいえ、一応保健室で先生に診てもらったほうがいいんじゃねーの?」

 ……宮原がいない場合に生じる矛盾が、全てなんらかの形で補填されている。

 まるで本当に、宮原が最初からいないかのように――世界が回っている。

 頭がぐらりと揺れ、俺は教壇に手をついた。川上たちが心配して手を貸そうとしてくるが、それらを全て跳ねのけ、顔面を右手で覆った。

 ……これじゃあ、俺の方がおかしいみたいじゃないか。

 そんなはずはない。そんなはずはない……。

 そんなはずは……!

「……なあ、このクラスで一番の美人は誰だと思う」

 顔色の悪い人間からあまりにも唐突な質問が飛んできて、川上たち三人は怪訝そうに顔を見合わせる。とはいえ男子らしい話題に興味をそそられたのか、うーんと唸りながら答えた。

「そーだなぁ……やっぱ須藤ちゃんだろ。クールビューティってーの? あとあのすらっとした体形が……」

「出たよ、川上の身長コンプレックス! 普通に考えて西倉だろー?」

「そうそう、須藤なんていっつも仏頂面でコワいじゃん。いつもニコニコしてる西倉のがいいって」

「いやいや、西倉ちゃんは可愛い系だろ! 一番の美人って言ったら絶対須藤ちゃんだって!」

 川上たちの楽しげな会話が……酷く他人事のように聞こえる。

 ――どっちでもないだろう。

 このクラスで一番の美人が誰かだなんて、そんなの答えは決まっていたじゃないか――。

「お、おい? サイトーちゃんどこ行くんだよ?」

 川上たちへの興味が急激に薄れた俺は、自分の席に荷物を取りに行く。宮原のことを忘れてしまっている川上たちと話したいことなんて、一つたりともなかった。

「おーい! 聞くだけ聞いて自分は答えないなんてズリぃぞ! サイトーちゃんはどっち派なんだよ?」

「……どちらでもない」

 背後からの「そりゃねーぜ!」という叫び声は、開け放たれた窓から吹き込んできた冷たい風と共に、俺の耳を素通りしていく。

 自らの居場所となりつつあった教室も、今ではうすら寒い部屋にしか思えない。

 どうでもいい場所となった教室から、俺は出て行った。



 世界がおかしくなり、宮原が消えてしまった。

 信じられないようなことだが、現実だと認めざるを得ない。現に担任の室賀や川上に、宮原に関する記憶はない。宮原がいないことで発生する矛盾点は、全て何らかの形で補填されている。その影響で、学級委員のシステムそのものが変わっているという、明らかな異常事態までが起こってしまっている。

 だがしかし、俺の中で一つの考えが叫びをあげる……そんなはずはない、と。

 俺は別世界というものに、長く憧れてきた。そして憧れてきたからこそ言える……別世界なんてものは、そう簡単に迷い込めるものじゃないのだと。

 そう……今はきっと、ちょっとしたズレが起こっているだけだ。

 きっと本当のところ、宮原は消えていないのだ。

 同じクラスに宮原が在籍していたという事実が消え、皆の記憶からも宮原がいなくなった……おかげで宮原が世界からまるごといなくなってしまったかのように思ってしまった。だが例えば、別のクラスにいるだとか、他の学校に進学しているだとか……そのような理由だったとしても、今の状況は説明できる。

 人間一人が、存在ごと世界から消える……昨日と今日でそんなあり得ないことが起こっていて、まったく違和感がないなんてこと、あるはずがない。

 その違和感……決定的な矛盾点さえ掴めれば、きっと世界は元に戻る……はずだ……。

「ハァッ……! ハァッ……!」

 ――この時の俺は、パニックを起こしていた。

 だからこそ……なんの理論も理屈もない考えに従い、無理矢理に行動を推し進めていた。

 ……そう信じこみでもしないと、とても自分を保てなかったのだ。宮原が消えてしまったという、悪夢のような現実の中では……。

 廊下と階段を、出来うる限り最速のスピードで駆け抜ける。

 俺は二人の女子を探していた。その二人とは宮原の友人……須藤と西倉だ。

 矛盾点を掴めれば、世界は元に戻り宮原は帰ってくる。そう思い込んだ俺は、宮原が消えたという現実に違和感を感じていそうな生徒を見つけ出し、話を聞こうとしていた。

 この学校内で、宮原と最も親しかった生徒と言えば、先の二人以外にはいまい。

 須藤と西倉は帰宅部のはずだ……当然、世界が変わってしまった今もそうなら、という前提だが。

 若干の不安を覚えながら下駄箱で上履きからスニーカーに履き替え、空気の冷え切った中庭へと出る。太陽が出ていないこともあって、今日は殊更に肌寒い。

 須藤と西倉は、いた。先週の金曜と同じように、二人で中庭を歩いていた。

 ――二年生のクラス発表は、この中庭で行われた。二年生最初の日……同じクラスになった宮原に笑いかけてもらったことを、俺は昨日のことのように覚えている。

 あの時も、宮原は友人たちに囲まれていた。一年生の頃からの友人である須藤と西倉も、きっとその輪に加わっていたはずだ。

 その二人なら、もしかしたら――!

「西倉ぁ!」

 校門へと向かい歩いている二人を呼び止めるため、俺は声をかける。

 声に気付いた西倉はびくりと肩を震わせ、おっかなびっくりという様子でこちらを振り返った。怯えているように見えた西倉だったが、声の主が俺だと気づくと目を丸くした。西倉の隣にいた須藤も、あっけに取られた様子でこちらを呆然と眺めていた。

 立ち止まった二人に追いつこうと、俺は大股で詰め寄っていく。

「ど、どうしたのぉ斉藤くん、あんな大声上げて……。それに、すごい剣幕で……」

 西倉は目の前まで迫った俺から、にじりとほんの少し距離を取った。

「聞きたいことがある」

「……? き、聞きたいこと?」

 単刀直入に宮原のことを聞きたかったが、今はまず西倉がこの世界に違和感を抱えているかどうかを確かめなければならない。はやる気持ちを抑えながら、俺は元の世界との違いを西倉に問いただす。

「今年の初め、お前が俺を、学級委員に推薦したというのは本当か?」

 西倉は呆けたような顔のまま、しばらく固まっていた。

「……えっと?」

「俺を学級委員に推薦したのは、お前だったのかと聞いているんだ」

 俺は淡い期待を込めながら……「何言ってるの、わたしが推薦したのは望美ちゃんでしょ」……西倉がそう返してくれることを期待して、問う。

 ――だがやはりというべきなのか、その期待はあっさりと砕かれた。

「う、うん……そうだけどぉ。というか、覚えてなかったの?」

 俺は奥歯をかみ砕きそうになるほど強く、歯を食いしばる。

 ――お前も、覚えていないのか……!

「……なんでそんなことをした、大して親しくもないのに。俺が学級委員に向いている人間にでも見えたか?」

「それは……何度も謝ったのに……。斉藤くん、一年生の頃から一人でいることが多かったし、二年生でもクラスメイトになったんだから、ちょっとでもクラスに馴染んでくれないかなと思って推薦したの。……後で謝ったけど興味なさそうにしてたし、学級委員の仕事もちゃんとしてたから許してくれたと思ってたけど……まだ怒ってたんだ」

 西倉がしょぼくれた顔で俯く。

 ……違う。俺が憤っているのは、そんな理由じゃない。

「……お前が推薦したのは、宮原だったはずなんだ」

 俺の絞り出すような言葉に、西倉は困惑した表情をする。

「宮原……さん? そんな子、クラスには……」

 いつの間にか俺は拳を握りしめていた。

 手のひらに爪が食い込み、血が滲んでいることも気にせずに。

 西倉は須藤と並んで、宮原がもっとも信頼していた友人だった。宮原の口からよく名前を聞いたし、おかげで大して話したこともないのに、癖や好みまで把握する羽目になったほどだ。

 そんな西倉までもが、宮原のことを『なかったこと』にしている――!

 ――視界が、かっと真っ赤になったような気がした。

「……冗談じゃない」

 西倉がひっ、と小さく悲鳴を上げ、肩をすくませて小さくなる。

「ちょっと! 桃子をそんな顔で睨んだりしないでよ!」

 怯えた様子の西倉をかばうかのように、須藤が俺と西倉の間に立つ。そんな須藤も、俺を睨む目は弱々しく、緊張しているように体を震わせていた。

「……斉藤、あんたほんとどうしたの? 教室でも変なこと言ってたし、今だって……。顔色悪いみたいだけど、もしかして体調崩してんじゃないの?」

「俺はどこもおかしくはない」

「そうは見えないって言ってんの……! 先週までと比べたら、まるで別人よあんた。そんな怖い顔して女の子に迫るような奴じゃなかったじゃん」

 須藤の言葉で、頭に一気に血が昇る。

「別人のようになったのはお前たちのほうだろう! ずっと仲良くしていた宮原を忘れているなんて、絶対におかしいんだよ! どうして気付かない? なんでおかしいと思わない! 先週まで、あんなに心配してただろう! お見舞いだって言って俺にお菓子を預けたりして……」

「だから! そんな子知らないって!」

 須藤の叫び声に、俺の心臓はどくりと脈打ち――目の前が暗転しそうになる。

 こんな……こんなのは、酷すぎる。

 学校内で、宮原と最も親しく過ごしていたこの二人ですら……宮原の存在を否定する。

 いつも男たちから、宮原を守ってくれていたのに。いつも楽しげに笑っていたのに。

 あの宮原の、そして自分たちの浮かべていた幸せそうな笑顔を、時間を――なかったことにするというのか。

「それは、ないだろう……」

 全身から力が抜け落ちそうになる。

 かろうじて膝が崩れ落ちなかったのは、まだ行くべきところがあると……心が身体に訴えかけていたからだ。

 担任やクラスメイトはダメだった。親友の須藤と西倉も……宮原がいないことに、なんの違和感も抱えていなかった。

 ならば……宮原を十年以上育ててきた人は。

 幸枝さんに話を聞くまで……俺は崩れ落ちるわけにはいかない。

「……斉藤? 大丈夫なの?」

 突然意気消沈した俺を心配したのか、須藤が手を伸ばしてくる――俺はその手を、弾いて拒絶した。

 目を見開いて驚く須藤に、声をかける。

 ……なんとなく、これが二人にかける最後の言葉のような気がした。

「じゃあな。……大声を出して、悪かった」

 立ち尽くす二人の脇を抜けて、俺は出ていく。――宮原が消えて、灰色に色褪せてしまった学校を。

 背後からかすかに、西倉の言葉が聞こえてきた。

「斉藤くん……。一年生の頃に戻っちゃったみたい……」



 学校を後にすると、俺はわき目も振らずに宮原の家へと向かう。

 前回苦労しただけあって、宮原の住所は完全に覚えていた。迷うことなく一直線に突き進み、かなりの短時間で目的地に辿り着いたのだが、

「え……?」

 目の前に現れた宮原の家は、先週とはまるで様変わりしていた。

 家自体の造りや、庭や門などが大幅に変わっているわけではない。見た目だけなら先週とさほど……というよりも完全に一緒だ。

 だが……家を纏う空気というのか、雰囲気は百八十度違うものになっている。外観からも暖かい雰囲気が感じられた宮原の家が、今はどんよりとした、暗いオーラに包まれているような気がする。

 真上に広がる曇天から来る印象の違いかと思ったが、そうじゃない。まるで宮原の家だけが、太陽の光を奪われたかのような……そんなイメージが頭に浮かぶほど、宮原家は暗く落ち込んでいるようだった。

 俺は思わず、表札を確認する。あまりの雰囲気の違いに、ここは別の家なのではないかと疑ったのだ。だが何度、しっかりと確認しても、表札にははっきりと『宮原』の名前が書かれていた。

 ……嫌な予感が胸に去来し、吐き気を催しそうになる。

 しかし……確認するまで弱気になってはいけない。あんなにも宮原を想い、高校生になるまで大事に育ててきた人たちならば……何か、宮原のことを知っているのではないか。

 早鐘のように鳴る心臓を無理矢理に抑え込みながら、俺は先週と同じようにインターホンを鳴らす。緊迫したまましばらく待つと、ようやく返事が返ってくる。

『……はい、どちら様でしょうか』

 間違いない、幸枝さんの声だ。

 ……だが、なんという覇気のない声だろう。しっかりとして元気のよい先週までの幸枝さんの喋り方とは、まるで別人のようだ。

 俺は困惑と不安をかなぐり捨て、ここに来た目的を告げる。

「こんにちわ、俺……斉藤です。先週もお邪魔した……」

『斉藤……さん? 失礼ですが、どちらの斉藤さんでしょう? 先週来られたということですけど、わたしが不在のときかしら……』

 どくん、と心臓が跳ねる。……俺が来たことそのものが、なかったことになっている?

「……俺ですよ。望美さんのクラスメイトの、斉藤です……! 望美さんが風邪を引いて、そのお見舞いに来た……! 家に上げてもらって、看病してくれるよう俺に頼んだじゃないですか……!」

 俺はすがりつくように……声を振り絞った。

 頼む……あなたが宮原のことを忘れていたら、それはもう……。

 ――だが、俺の祈りが叶うことは、やはりない。インターホンから返ってきたのは、知らない他人に対して放つ、冷たい声だった。

『……どこで聞いたのかは知りませんが。冗談にも限度があります。どうかお引き取りを』

 そう言って、インターホンの声はぶつりと途切れた。

 まるで、俺と宮原の繋がりを断つかのように……。

「……ま、待ってくれ」

 俺はたまらず、再度インターホンを鳴らす。

『……いい加減にしてください。あまりしつこいようなら警察を……』

 嫌悪感を露わにした幸枝さんの声に心を傷つけられながらも、俺は無我夢中で叫んでいた。

「待ってください……! もう、あなたしかいないんだ! 宮原が……宮原がいなくなったんだ! 先週まで一緒にいたのに……あんなにも話していたのに。今日になったら突然、誰も彼もあいつが元々いなかったかのように言う……! 仲良くしていた友達も、一緒になって学校行事に参加したクラスメイトも……俺以外の誰もが、宮原の事を忘れてる! これでもし、あなたが……宮原を大きくなるまで育ててくれたあなたまでもが、宮原の存在を否定なんかしたら……!」

 ――宮原は完全に、この世界から消えてしまう……。

 インターホンが、ぶつりと音を立てた。……どうやら、再度切られてしまったらしい。

 俺は失意に立ち尽くす。

 ……どうしてだ、先週はあんなにも親しげに俺を招き入れてくれたのに。

 ――たった数日で、どこまで世界はおかしくなったんだ……!

 呆然とインターホンの前で立ち尽くしていると、ガチャリと扉の開く音がする。下がりつつあった顔を上げて音のしたほうを見ると、玄関の扉が開いていた。

 扉の隙間から、幸枝さんが姿を見せる。

 先週とはまるで違う……疲れ切った表情の幸枝さんが。

「……お上がりなさい」

 幸枝さんはそれだけ言うと、家の中へと戻っていってしまう。……鍵の閉まる音は、しなかった。

 ……どういう心境の変化で、幸枝さんが俺を招いてくれたのかはわからない。だが、きっと何か引っかかるものがあったのではないか……そう信じて、俺は門を通り、玄関へと向かう。

 ――その足を、恐怖に震わせながら。



 玄関を開けて家の中へ入った俺を、幸枝さんは出迎えてくれたりはしなかった。

 俺が入ってきたことを確認すると、無言のまま廊下を行き、階段手前の部屋……和室へと吸い込まれるように消えていった。こちらへ来い、ということなのだろう。

 俺は慌てて靴を脱いで廊下へ上がり、和室へと向かう。……家の中の雰囲気も、外で感じたものと同じだ。廊下を照らす照明は明るいのに……空気は冷え切ってしまったかのように冷たい。生活感が感じられないほどだ。

 和室の引き戸は、先週と同じく開け放たれていた。部屋の様子も同じだ……物が少ない、簡素な部屋。あまり使っている様子が伺えないが、掃除はきちんと行き届いている。

 そして、部屋の中で異彩を放っている仏壇も同じだ。金色と黒色が輝く、豪華な造り。真ん中には金色に光る仏様が、こちらに右手のひらを向けている。仏様の前には色とりどりの供え物が並んでいる。綺麗な花に、瑞々しい果物。それと、あれはお米だろうか。小さな器の中に、かわいらしくこんもりと盛られていた。

 供え物と共に並んでいるのは、写真だ。

 ――俺の目は、その写真に釘付けになる。

「……嘘だ」

 先週宮原家にお邪魔した際にちらりと見かけたときには、優しそうな笑顔の夫婦が映っていた。交通事故で亡くなった……宮原のご両親の写真が。

 だが今目の前にある写真立ての中には――三人の人物が映っていた。

 三人のうち二人は、間違いなく宮原の両親だろう。

 父親のほうはなぜか泣きじゃくった、情けない顔で映っている。泣き顔のせいかすぐには気が付かなかったが、優しそうな目元が宮原にそっくりだ。

 母親のほうは、宮原と同様とても美しい人だった。涙目の父親とは打って変わって、こちらは幸福感に満たされた顔で……愛おしそうな眼差しを、腕に抱くその人物に注いでいる。

「これで……理解したかしら」

 宮原の母親に抱かれているのは……赤ん坊だった。

 あまりにも幼すぎるため、宮原なのかどうか、パッと見では判断がつかない。ただ確かに……くりっとした目や浮かべている笑顔などに、宮原の面影を感じる。

 亡くなったご両親と共に、幼い頃の宮原が仏壇に飾られている――。

「どこで孫の名前を聞きつけたのか知らないけれど。……望美はこの通り、幼い頃に死んでいます」

「……交通事故」

「……本当に、よく知っているのね? ええ、そうよ。車同士の衝突事故で、わたしは息子夫婦と、初孫を失った」

 淡々と語る幸枝さんのほうを振り返る。その表情には怒りが見える……それはそうだろう、十年以上も前に死んだはずの、孫のクラスメイトを名乗る男が現れたりすれば。

 だが……だが。

 俺は間違いなく、宮原とクラスメイトだったんだ……!

「そんなはずはない……その交通事故で、宮原だけは助かったはずだ」

「……もしそうだったら、どれほど救われたでしょうね。でも、違うわ。夜中に熱を出した望美を連れて、息子夫婦は慌てて車で病院に向かった。その途中……飲酒運転の車と衝突したのよ。停止線を完全に無視、その上深夜だというのにライトすらつけず、法定速度を大幅に超えた速度で走っていたその車は、ブレーキを踏むこともなく一直線に息子夫婦の車にぶつかった……! ぶつかった車はどちらもフレームがぐちゃぐちゃになるほど壊れて……飲酒していた運転手も、息子夫婦も、そしてチャイルドシートに座らせていた望美も……全員が、病院に行くまでもなくその場で死んでいた……」

 ……頭がぐらりと揺れ、その場に崩れ落ちそうになる。

 完全に存在が消えたりするわけがないと……そうぼんやりと考えていた。

 先週までとの矛盾点さえ見つければ世界は元に戻るはずだと……そう盲目的に信じていた。

 ――起きていた変化は、そんな小さなものじゃなかった。

 宮原は、高校生に成長するまでもなく――死んでいた。

 世界は――十年以上もの間、宮原がいない状態で進んでいたことになっていた。

「あなたが望美の名前を出したとき……どきりとしたわ。まるで、望美が生きていたかのように話すから」

 ぐらつく脳みそに、幸枝さんの言葉が響く。

「もしかしたら、息子夫婦と望美が死んだのは悪い夢だったんじゃないかと……あなたのおかげで夢から覚めて、望美と笑いあえる幸せな生活が幕を開けるんじゃないかと、そんなことすら思ってしまった。……でも、現実は違うわ。息子夫婦も望美も死に、わたしと旦那は三人が待っている天国への迎えが来るまで、寂しく生き続ける……これこそが、現実なのよ」

 脳が理解を拒んでいる……何か、何でもいいから否定できないかと、俺は思いつくままに言葉を放つ。

「……部屋は」

「部屋?」

「宮原の……自室は? 階段を上がってすぐ、右手側の部屋は……!」

 幸枝さんが、信じられないものを見るような顔をする。

「……なぜあなたは、そんなことまで? 確かにあの部屋は、望美の部屋にする予定だったわ。でも今は、息子夫婦たちの遺品を纏めてあるだけ……。あの部屋が使われる前に、望美は死んでしまった……」

 先週と今日で、宮原家の雰囲気が違うはずだ。

 この家は十年以上もの間、悲しみの中で時間を刻んできたのだ。宮原と共に過ごし、幸せで暖かな生活を続けていた先週までの宮原家とは、違って当然だ。

 この世界に、宮原はいない。ずっと昔に死んでいる。どうやらそれが現実で、宮原の生きている世界こそが夢か、幻のようなものなのだ。

 ……では、俺の記憶はいったい何だ?

 俺の中にある、宮原と共に過ごした記憶は……いつ刻まれたものなんだ――。



 放心したまま、目的地もわからずに俺は町を行く。

 宮原家を後にしてから、ずっと体調が悪い。頭痛は続き、時折吐き気を催して立ち止まる。こんな状況でなければ、宮原から移された風邪がぶり返したかと思うところだが……今は、その移した本人がいないことになっている。

「…………」

 ――もしかしたら、今の状況こそが正しいのかもしれない。

 そう考えてみると、案外すとんと納得できるような気がした。

 まず宮原のような素敵な子が、俺に興味を持ってくれたこと自体がおかしいのだ。

 ひと気のない神社で出会い、心の内を語り合う。二年生でも同じクラスになり、一緒に学級委員として活動をする。夏休みに偶然出会い、デート紛いの一日を過ごす。風邪をひいた彼女をお見舞いにいって、あろうことか口づけを交わす……。

 宮原と共に過ごした日々を思い返してみると、まるで妄想の中のような都合のいい思い出ばかりだ。もしこれが実際に起こったことだとしたら、俺はこの一年未満の期間に、全人生で使われる幸運のほぼ全てを消費してしまっているだろう。

 そう……きっとそうなんだ。今、宮原がいると主張しているのは俺だけ。他の皆は……宮原の祖母である幸枝さんでさえ、宮原はいないと言っている。

 多数決を持ち出すまでもなく――おかしくなっているのは、俺の方だ。

 俺は世界から……人々から孤立している寂しさのあまり、妄想に取りつかれてしまったのだろう。結果、いもしない美少女に出会い、共に過ごし、恋仲になる妄想を頭の中に抱えながら、長い時間を過ごしてしまった。

 ところが先日風邪を引いたことで、その妄想が晴れてしまった。突然現実に引き戻されてしまった俺は、混乱のままにわけのわからないことを喚き、現実を直視して失意に打ちのめされている……。

 ……はは、まさに今の状況を説明するのに、こんなにふさわしい仮説はない。

 さて、そうだとすれば、まずはともかく妄想に取りつかれている現状を抜け出さなければならない。宮原という存在をきれいさっぱり忘れて、今まさに過ぎ行く現実を生きなければ。俺が望むにしろ望まないにしろ、俺はこの世界で生きているのだから。

 ……そうだ、早く忘れよう。

 この胸を突き刺すような痛みも、早く忘れてしまわなければ――!

「…………!」

 気が付くと、俺は例の神社へと続く、階段の前まで歩いてきていた。

 忘れなければと思いながら、宮原と初めて出会った場所に無意識のうちに出向いている、自分の女々しさに呆れ果てる。

 ……とはいえ、今更別の場所に向かう気も起きない。あの神社は、一人になるにはもってこいの場所だ。

 なんの雑音もしない場所で、一人になりたかった……宮原のいたあの幸せな時間に、別れを告げるために。

 長い長い階段へ、俺は足を踏み入れる。

 体調が悪いからか、それとも心が摩耗しているからか……いつも以上に、この長大な階段を登ることが辛かった。一歩一歩登るごとに、宮原との思い出が消えていくような気がして……だんだんと昇るペースが落ちていく。

 妄想と片付けるには、あの時間はあまりにも幸せすぎた。宮原と過ごした日々のことは、俺の脳裏に鮮明に記憶されている。

 初めて出会った日、まるで世界に愛されているかのように、雲間から覗いた太陽に照らされた宮原も。

 夏休みの日、観覧車で二人きりになり、お互い顔を赤く染めたことも。

 つい先日、宮原の部屋で――口づけを交わしたことも。

 あのときの感触が今でも唇に残っている気がして、俺は自分の唇に触れる。……あの柔らかさも、暖かさも、全て俺の妄想だったということか。あのとき交わした会話も、風邪の宮原のために尽くしたことも、宮原に誓った約束も全部……。

「…………あ?」

 ――宮原に誓った、約束?

 あの日、俺は何を宮原に誓った?

 俺は震える手で、制服の胸元を緩める。シャツのボタンを開け、首にかけられた『それ』を取り出した。

 ――それは、ネックレスだ。

 動物の牙のようなものに紐を通しただけの、装飾品と呼ぶにはあまりにも簡素な代物。

 宮原が両親の形見だと言い……俺に持っていて欲しいと、託してくれた物。

「あ、あ、ああ……」

 宮原がいなくなった衝撃で、その存在を頭の片隅に追い込んでいた自分を殴りたくなる。

 ……これは、宮原と俺の繋がりを示すもの。

 宮原が俺の傍にいたことの、完全なる証明に他ならない……!

 真実に気が付いたことによる興奮で、頭の中が冴えわたっていく――!

「そうだ……そうだよ。宮原は……ちゃんといたんだよ……!」

 間違っているのは、今の世界のほうだ……!

 牙のネックレスを、ぎゅっと握りしめる。宮原に誓いを立てたあの瞬間を思い出して、冷めきっていた俺の心はだんだんと熱を帯びてくる。

 宮原のことを、きれいさっぱり忘れるだって?

 ……そんなこと、できるはずがない!

 確かに宮原は、俺の前から消えてしまった。だが、それがどうしたというんだ? 俺の傍から消えたと言うなら、何がなんでも、宮原を取り戻してみせればいいだけの話だ……!

 宮原がどこに行ってしまったのか、現状ではまったくわからないが……宮原が『いた』ことが確かな事実である以上、俺がやることはただ一つ……宮原の居場所を、突き止めることだけだ。

 いま俺が生きているこの世界では、宮原は幼いころに死んでしまっている。

 ……そうだ、別世界だ! やはり俺は……もしくは宮原は、別世界に迷いこんでしまったのではないか? 異世界でもパラレルワールドでも……行ってしまった場所はなんだっていい。

 あるいは、タイムパラドックス的な理由も考えられる。未来の何物かが、宮原の存在を疎ましく思い、過去に遡って宮原を殺したのだ。それが原因で、宮原は死んだことになっている……この可能性も充分ありそうだ。

 ――こうして考えだすと、ありとあらゆる可能性が頭の中に浮かんでくる気がした。どれだけ荒唐無稽な理由であろうと、宮原が目の前から消えてしまうなどという常識外れの出来事が起こっている以上、必ずしも無理筋とはいえないはずだ。

 ……俺が宮原のためにやれることは、沢山ある。異世界に宮原がいるなら異世界への入り口を探さなければならないし、パラレルワールドならばそちらへ移動する方法を見つけなければならないし、未来人が宮原を殺したのなら未来に飛ぶ方法を探さなければならない。

 はは……! そうか、絶望している暇なんてなかったんだ……!

 俺はあの日……宮原が風邪で寝込んでいる傍で看病していた時、宮原のために何かできることはないかと悩んでいた。そして、宮原のためならばどんなことでもやる覚悟を決めた。

 今が、まさにその時だ――!

 俺は再度、牙のネックレスを強く握りしめる。

「…………?」

 ……何故だろうか、握りしめた牙がほんのりと暖かい。

 初めは力をこめすぎたせいかと思ったが、手を開いて触ってみると、確かに熱を帯びている。これは単なる飾りであり、特に変わったギミックの施されたものではなかったはずだが……そう疑問に思い、牙の飾りを目の前に翳して眺めていた時――異変に気付いた。

「……なんだ?」

 周囲が、霞に覆われている。

 神社へと続く長大な階段の先が見えなくなる程に、その霞は厚く広がっていた。

 神社は山の中にある。そのため神社へと続くこの階段も、左右は多くの木々に覆われているのだが……木々の隙間から既に先は見渡せず、ぼんやりとした白い空間が果てしなく広がっているように見える。気を迷わせて山の中に踏み込もうものなら、二度と帰ってこられないような気がした。

 今まで登ってきた階段を振り返ると、やはりその先も大量の霞に隠されてしまっていた。

 いま俺がいるのは長い階段の、ちょうど中間地点くらいの位置であり、ここまで登ってくれば麓に広がる住宅街が一望できるはずなのだが……町の姿は、白い海に隠されてしまっていた。

 前後上下左右、俺の周囲全てが霞によって覆い隠されている。俺がようやく見渡せるのは、数歩先にある階段のみ。進むか戻るか、そのどちらかしか選べない。

 ――明らかに異常だ。この町でこんなふうに大量の霞が発生するなんて聞いたことがない。例え発生したとしても、先が見通せないほどの霞で周囲を囲まれている状況はかなり恐ろしい。まるで、世界から隔絶されているような……そんな錯覚を覚える。

「……はっ。今更、だよな」

 俺は不安を吹き飛ばすように呟く。

 ……世界から孤立するなんて、慣れている。

 今更そんなことに恐怖するようなタマじゃない……!

 ひとつ声を出すと、案外心は落ち着いてくる。心が落ち着いてくると、だんだんとこの異常な状況に高揚してきている自分がいた。

 宮原がいなくなるという異常事態。そこに降ってわいたように、異常な霞の発生。

 ――何か、関係があるんじゃないのか……?

 気が付くと、俺は一歩踏み出していた。当然、神社の境内へと向かってだ。町に戻ったところで、宮原がいないことはわかっている。それならば、先に進む以外道はない。

 一歩一歩力強く石段を踏みしめながら、俺は上り続ける。一段登るごとに、霞が濃くなっていく気がする。……いや、気のせいではない。視界は完全に霞に覆われ、もはや足元しか見えなくなっている。左右に広がっていた木々は完全に覆い隠されて、どちらを見渡してものっぺりとした白い風景しか広がっていない。

 真っ白い何もない空間のなか、俺だけがポツンと立っている……そんなイメージが頭の中に浮かぶ。

 もし今足を踏み外そうものなら、大怪我は避けられない。俺は慎重を期しながら、歩みを続ける。現在どのあたりまで登ってきているのか、既にわからなくなっていた。先がまったく見渡せないため、一直線の階段であるにもかかわらず、きちんと神社に辿り着くのかさえ不安になってくる。

 ――俺は、この階段を登るのが好きだった。木々が立ち並び、天へと昇っているような階段の姿は神聖な感じがしたし、どこか別の世界に辿り着きそうな……そんな予感がしていたから。

 だが……今の俺の心にあるのは、畏れ以外の何物でもない――!

 ……息が上がる。

 冷や汗が背筋を伝い、ぞくぞくと不快な感覚が全身に走る。

 畏れる心を抑え込むため、手に握った牙をぎゅっと強く握りしめる。牙から伝うじんわりとした温かさに心を励まされながら階段を登り続けると――ふっと、霞が晴れた。

「…………」

 辿り着いたのは、見慣れた神社の境内だ。

 周囲を霞で囲まれているものの、そこは間違いなく近所の……宮原と初めて喋った、あの境内で間違いなかった。色あせた鳥居、枯れ葉の散らばる石畳、宮原と雨宿りをした……薄汚れた拝殿。全て、俺の記憶の中のものと一致する。

 ――ただ一点を、除いては。

「…………誰だ」

 境内には、一人の人間がいた。

 宮原ではない……ほんの少し胸に抱いていた期待は裏切られた。

 代わりに居たその人物は、警戒を余儀なくさせる格好をしていた。

 男だ。身長は俺よりも高く、背筋はピンと伸びて毅然とした雰囲気がある。

 髪は長く、後ろでくくっている。長く伸ばしているが、だらしなさは一切感じられない。黒く艶やかな長髪は、剛健なイメージすら想起させた。

 目つきは細く、鋭い。その鋭い視線で、じっと俺のほうを睨んでいる。

 時代劇に出てくる武士のようだ……と思ったのは、雰囲気と目つきだけが理由ではない。

 男は、鎧をまとっていた。頭から全身を丸ごと覆うような重厚な鎧ではなく、胴と腰、手足だけを覆っているもの。鎧の隙間から覗いている服は、それこそ時代劇の人物が着ている着物のようだった。

 武器のようなものは、見たところ持っていないようだ。だが本人の放つ鋭い威圧感が、まるで刃物のように俺の身体を切り刻む。単なる高校生である俺にすら感じられるほどの凶悪な敵意――そして、殺気だ。

 男の放つ威圧感に飲まれ腰の引けている俺に対し、男は仁王立ちのままぴくりとも動かない。

 ……こんなひと気のない神社で鎧を着こんでいる男が、まともなわけがない。相変わらず周囲を覆っている霞と同様、何か異常な存在であるということをひしひしと感じる。

 やがて――むっつりと押し黙っていた男が、静かに口を開いた。

「――ウツセビトか」



 男の声は、確かな重みを伴って俺の耳へと届いた。

 低めの声ではあるが、感じられる重みは音の響きだけではない。信念だとか、決意のような……そういったものが感じられる重さが、男の声にはあった。

 だがしかし、男の言った言葉の意味までは、俺の頭に届かない。

「…………?」

 ウツセビト。どのような字を書くのだろうか。ビトは『人』なのだろうが……ウツセ人? やはり、男が何を指してその言葉を出したのかがわからない。

 言葉の意味はわからなかったが……ひとつ俺は確信していた。

 ――こいつは、宮原の居場所を知っている。

 突如この町から姿を消した宮原と、姿を現したこの男。偶然にしては出来過ぎているのではないか。

 その上、聞いたことがないような単語までも使う。……これは、この男が別世界の住人であるという証明なのではないか。

 子供のころから別世界への憧れを抱いていただけあり、俺の頭の中にはすらすらと仮説が並べられる。あの霞は別世界への入り口のようなものなのでは? きっと宮原も、あの霞に巻き込まれて、別世界へ飛ばされてしまったのだ。そうに違いない。

 ……だとすれば、問題点がひとつ。

 こいつは――俺の敵か、味方か。

「……ウツセビトは総じて、ハザマの気配を恐れると聞いていたが。ということは、貴様はあやつと同じく、ウツセビトの中でも変わり者ということか」

 黙り込んでしまった俺をどう思ったのか、男は勝手に言葉を紡ぎだす。

 ハザマ……おそらくは狭間と書くのだろう。この、霞に囲まれた状況のことを言うのだろうか。

 いや、それよりも気になるのは、この男の言った『あやつ』という言葉だ。

 ……これはもしかして、宮原のことを差すのではないか? 宮原も俺と同じように、このハザマと呼ばれる空間に迷い込んだのだ。

 やはりこいつは、宮原の居場所を知っている――!

「宮原は、どこにいる」

 俺が絞り出した声は、驚くほど落ち着いていた。

 宮原への手がかりが目の前にいる……その事実が、俺の心から恐怖を払拭していた。こいつが何者だろうと、どんな手段を使ってでも話を聞きださねばならない。

 睨み返した俺の事を不快に思ったのか、男はぴくりと眉を動かす。

「……ふん、度胸だけは一人前にあるようだが。ウツセビトは戦いを知らぬと聞く……そのような弱きものに凄まれても仕方がない。幼き子を恐れる者がいないようにな……。だが、貴様が逃げずにいるというのは、こちらとしては都合が良い」

 今までぴくりとも動かなかった男が、近づいてくる。

 隙が無いというのは、こういう動き方を言うのか――そう理解ができるほど、男の一挙手一投足は緊張感に溢れていた。相手はただ歩いているだけだというのに、俺は足が地面に縫い付けられてしまったかのように動けない。……動けばただでは済まないと、本能が強烈に訴えていた。

「私は今、探し物をしている。だが、時間が足りないのだ。貴様が手がかりを知っているのならばそれでよし……知らないのならば、すぐにここから去るがいい。安心しろ、このハザマはヨウジュウが作り出したものではない……意図せぬ場所に飛ばされることなどない」

 ハザマから出ると、どこか別の場所に飛ばされる……?

 だとしたらやはり、宮原は……!

 男がぴたりと動きを止めた。俺から二、三歩離れた位置。そこで男は、何も持っていないはずの右手を、まっすぐ前へと突き出した。

「聞こう。――貴様、牙の持ち主を知らぬか」

 ――光り輝く白刃が、首元に突き立てられていた。

 あまりの出来事に、俺は呼吸すらも忘れてしまう。

 ……この男の手には、確かになにも握られていなかったはずだ。なぜなら、武士のような見た目をしているにも関わらず、武器を何も持っていない様子が妙に印象に残っていたのだから。

 それなのに……俺の首元には、刃物が鈍く光っている。すらりと長い刀身は極限まで薄く研がれ、俺の細い首など一刀で斬り落としてしまえそうだ。刀身を収める柄は武骨な造りをしており、鍔もなんの飾り気もない地味なものだ。だがその武骨さが、この男の刀としてふさわしい気がした。

 どのようなからくりで刀が現れたのか……当然気になるが、今はそれどころではない。唐突に訪れた命の危機に、俺の心臓は早鐘のように鳴る。

 ……落ち着け、これはあくまでも単なる脅しだ。

 この男はさっき、手がかりを知らないのならば去れと言った。ならば、命を奪うつもりはないはずだ。刀を突き付けているのはあくまで、俺が適当なことを言わないようにという保険なのだろう。だったら、正直に答えればいいだけの話だ。

 この男は、俺になんと問うた? 確か、牙の持ち主は知らないかと――。

 ――牙?

「…………!」

 背中に、ぶわりと冷や汗が噴き出る。

 牙とはつまり……いま俺が右手に握りしめている、これのことじゃないのか。

 宮原が俺に託してくれた、両親の形見。この男がそれを狙っている……だとしたら、俺が持っていることを知られるのは不味い……!

 そう思ったのだが、時すでに遅し……男は青ざめる俺の顔を見て、口の端をほんの少し上げる。

「ほう……再び長い時間をかけて探し出さねばならないのかと辟易していたのだが、よもや持ち主のほうから現れてくれるとはな。なるほど、ハザマを畏れぬのも貴様が牙の持ち主であったからか」

 どうにかして、この状況を脱しなければならない。ところが男は俺の数歩先におり、首元には刃が突き付けられている。自分自身ではどうにもならないと周囲に解決策がないか探すと、男が不快そうに吐き捨てた。

「……状況が分かっておらぬのか? 貴様が牙を持っていると分かった以上、それを渡さぬ限りここから逃れられる術はない。私は何が何でも牙を奪うつもりだ……例え、命を奪ってでもな」

 首元にひやりとしたものが伝ったかと思うと、じんわりと痛みが走る。――薄皮を斬られたのだ。

 間近で光る白刃が偽物ではないことと、この男がそのつもりになれば容易に俺を殺すだろうということが分かり、俺の呼吸はだんだんと浅く、早くなる。……うまく酸素が取り込めず、頭がぼうっとしてくる。だがそれでも……俺は右手に握る牙を手放さない。宮原と俺を繋げる大切なものを、手放せるわけがない――!

「強情なだけか、はたまた単なる愚か者か。これが最後の通告だ……牙を渡せ、さもなくば首を斬り落とす。それはもともとアマツ様の物、事情も知らぬウツセビトが持っていていい物ではない」

 ――アマツ。その名前は、聞き覚えがあった。

 宮原が風邪を引いて寝込んでいたときに、悪夢を見ながら唱えていた名前だ。あのときの宮原は本当に見るに堪えず……汗だくになりながら助けて、いやだと繰り返しており――その中で、アマツの名を呼んでいた。

 ……俺の頭の中で、糸と糸がピンと繋がった。

 宮原が苦しみながら呼んだアマツという名前。

 目の前の男が欲する牙は、そのアマツが欲するものだと言う。

 牙はもともと、俺ではなく宮原が持っていた……そして俺に渡してすぐ、宮原は消えてしまった。

 ――つまりそのアマツは、この牙を手に入れるために、宮原を連れ去ったのだ……! そして宮原が牙を持っていないことを知るや再びここに男を送り込み、牙の持ち主……俺を探し出そうとした。

 俺の心の中から、恐怖が消えていく。

 かわりに沸き立つのは、激しい怒り。

 宮原を俺から奪ったやつに……俺と宮原を繋いでいるこの牙までも、渡せだと――?

「ふざけるな」

 首筋に刃がぴたりと付いているのにも構わず、俺は言う。

「これは俺の……俺と宮原の物だ。誰にも渡すつもりはない」

「……そうか。ならば死ぬがいい」

 男は俺の首を斬り落とそうと、刀を首筋から一瞬だけふっと離す。

 ――このままでは、死ぬ。

 だが死んでなるものか……! なんとしてでも生き延び、宮原を探し出さなければならない。そのために何か、この男と戦う手段が欲しい――!

 心臓が、鼓動を刻む。

 ――それに同調するかのように、右手に握る牙が熱を帯びた。

「…………!?」

 これはなんだと思う間にも、男の刃が俺の首へと迫る。

 なんだかわからなくとも、宮原の託してくれた物を信じ……俺は右手を、迫る刃へと向けた。

 ――激しい金属音が、周囲に響き渡る。

「…………なに」

 男は、困惑した様子で呟いた。そして俺も、目の前で起きたことが信じられず、目を見開いていた。

 俺の右手には――一本の刀が握られていた。

 美しく磨き上げられた刀身は、わずかな光すらも反射して光り輝いている。刃文は一直線にまっすぐ伸びており、一つの乱れもみられない。それは男の刀につけられた、激しく乱れている刃文とは正反対だ。相反するかのような二本の刀は、ギチギチと音を立てながら互いを押しあっていた。

 握りしめている柄は黒一色だが、鍔だけは太陽のような黄金色だった。思わず見とれてしまいそうなほどに、その刀は芸術品のように美しい。

 だが、握りしめる柄から感じる重みで俺は理解する。

 ……これは、戦うために生み出されたものだと。

「……あぁっ!」

 何の意味もない、ただ気合を入れるためだけの叫び。

 だがその叫びと共に男の刀を押し返すと、自分でも信じられないほどの力が腕に籠り、鍔迫り合っていた男の刀を弾き飛ばすことができた。体勢を立て直すためにも一旦距離を取り、俺は改めて自らの手で握っている刀を見た。

 ――これは、あの牙だ。

 どういう原理なのかは不明だが、俺の右手にすっぽりと収まるほどの大きさだった牙が、歴史の資料本の中でしか見たことのないような見事な日本刀に変化している。……にわかには信じられないことだったが、なぜだか俺は心の中でそう確信していた。

 思えば、あの男も何もないところから刀を出現させていた。もしあの男も同じように、牙を手の中に握り込み、それを刀に変化させたというのならば全ての説明がつく。このような牙がいくつもあるのかという疑問も新たに湧くが……今は気にしなくてもいいだろう。今重要なのは、俺が戦う力を得たということだ。

 ……それにしても、不思議な刀だ。重さというものが、まるで感じられない。

 いや、重量自体はある。ただその重量が、俺がこの刀を振るのにちょうどいい重みだということだ。加えて、まるで幼い頃からこの刀で戦ってきたかのような……妙にしっくりくる感覚が手の中にある。刀が自分の身体の一部なんじゃないかと錯覚を覚えるほどだ。

「貴様、牙を……! シンジュウの助けも得ずに顕現させるとは……」

 男の表情に、初めてはっきりとした動揺の色が見えた。

 俺は見様見真似に刀を構える。両手でしっかりと握り前に突き出し、切っ先を男に向ける。そんな俺の姿を見て、男も冷静さを取り戻したようだった。

「……そうか、やはり戦いは知らぬようだな」

「どうかな、ついさっきお前を弾き飛ばしたばかりだぞ?」

「戯言を。その構えを見れば、貴様が初めて武器を握ることくらい分かる。……そして悪いことは言わぬ、牙を差し出せ。牙を顕現させたからといって私と同格にでもなったつもりか? 貴様の腕を斬り落とし、その腕ごと牙を奪うことも可能なのだぞ」

「……だったら、やってみろ。もともと首を飛ばすつもりだったんだろう……今更だ」

 なぜだろうか、心の中から恐怖心というものがまるごと消え去ってしまったかのようだ。

 代わりに沸き立つのは闘争心。まるで心の中に、獣が住み着いたかのようだ。心臓が激しく鼓動を刻みながら、全身に熱い血液を送っているのがわかる。その血液が全身に行き渡り、体中が燃え上がっているかのようだ。

 ――今ならば、この男に勝てる気がする。

「……警告はしたぞ」

 言い終わるが否や、男が踏み込んできた。

 その速さは目にも止まらぬほどだった――この牙を握る前までは。

「…………!」

 斬りかかってきた男の刀を、こちらも輝く刀身で受ける。相当激しくぶつかりあったというにも関わらず、どちらの刀身にも刃こぼれ一つ見当たらない。

 男は驚愕に目を見開いていた。それはそうだろう、ズブの素人だと見極めていた俺が、あっさりと自分の斬撃を受け止めてしまったのだから。

 だが、驚いていたのは俺も同じだった。俺自身、運動は苦手というわけではないが得意というほどでもない。喧嘩の類は生まれてこの方一度もしたことがない。当然、武器を握った経験もないのだ。

 それなのに……俺の身体はそうすることが当然だとばかりに、自然と動いた。

 無意識のうちに体を動かしていた、と言ってもいい。まるで痒いところに自然と手が行ってしまうように……向かってきた刃を、握りしめた自らの刀で受け止めていた。

 剣劇の応酬が続く。

 二度、三度、四度……耳障りな金属音が、神社の境内に響き渡る。

 刀を振るたびに、攻撃の精度が上がっていくのがわかる。

 身体の奥に染み込むかのように、戦いの感覚が研ぎ澄まされていく。

 打ち合いが二桁を超えたころには、傍から見てもわかるほどに形勢は大きく傾いていた。――明らかに、俺が押している。

 勝てる……勝てる!

「ガアアアアアアアアアッ!」

 喉奥から血が出そうなほどの咆哮と共に、俺は男に向かって体当たりを繰り出した。男が振り下ろした刀を大きくはじき返し、胴体ががら空きになったところに無我夢中で突進したのだ。

 型も何もない、無茶苦茶な攻め方。だがそれが逆に、男の虚を突くことができたのか、体当たりは面白いようにきれいに決まり、男は情けなくも後ろに倒れ込み尻もちをつく。

 ――このチャンスを逃す手はない!

「オオオオオオオオオオッ!」

 倒れ込んで隙だらけとなった男に、俺は雄たけびと共に斬りかかる。

 ……殺すことはできない、こいつからは宮原の情報を聞き出さなければならないのだから。

 ならば、二度と抵抗できないよう……武器を握れなくするために、その両腕を斬り落とす――!

「……ッ、舐めるなァ!」

 腹部に衝撃が走る。胃液が逆流し、猛烈な吐き気が俺を襲う。

 後方へ吹き飛びながら、俺はようやく何が起こったかを理解した。……思い切り脇腹を蹴られ、吹き飛ばされたのだ。倒れこんでいたはずの男は驚くべき体幹でもって体制を整え、即座にカウンターをかましてくれたというわけだ。

 俺が着ているのは単なる学校指定の制服、男のように身を守る鎧を纏っているわけではない。脇腹に突き刺さるように入った男の蹴りは、俺の内臓にダイレクトにダメージを与える。

「がは……っ、ぁ……!」

 なんとか胃液を戻さずに堪えることはできたが、思った以上に体にガタが来ている……! 視界はぼんやりとして落ち着かないし、脳みそが全身に向かって不調の信号を走らせている。

 完全なる形勢逆転。このままではマズイ、いつ攻撃されてもおかしくない……! そう焦り、形だけでも戦いの意志を示すため、刀を男に向けたのだが……、

「…………?」

 男には、襲い掛かってくる様子がない。

 その場からゆっくりと立ち上がり、苦々しい表情でこちらを睨んでいた。

「……よもやここまでとは。流石は、タイキのサキモリということか? 厄介なことだ」

 男は呼吸を整えたかと思うと、すっと後ろに下がる。絶好の攻撃チャンスのはずなのに、一体なぜと訝しんでいると、刀を顔の前にぴたりと構えた。

「……口惜しいが、今回は退こう。業腹だが、少々分が悪いらしい。……ただし、必ず牙は手に入れる。ゆめゆめ忘れるな」

 そう言うと、男は顔の前に構えた刀をゆっくりと動かし……向かって右側の『空間』を斬った。

「な……?」

 俺は目を疑った。……当然だ、何もないはずの場所に、すぅと切れ込みが入ったのだから。

 イメージとしては、薄いビニールにカッターで切れ込みをいれたような感じだろうか。宙に現れた切れ込みはふわりと揺れたかと思うと、人が丸々入れるような穴を作り出す。

 男は躊躇することなく、その隙間に体を滑り込ませた。切れ込みを境目として、男の身体が消えてしまう。

 ……逃げられる? まだ何も、宮原の手がかりを掴んでいないのに……!

「ま、待て……! 宮原は、宮原は無事なのか!」

 叫び声を上げる俺を、男は不快げな顔で見下す。

「こちらから退こうと言うのだ、これ以上癇に障る行動は控えて欲しいのだがな。……ミヤハラとは何だ、ウツシヨの物か? だとしたらわたしの知るところではない」

「知らないだと……? そんなわけがあるか、これを俺に渡した張本人だぞ! 知っているはずだ!」

 そう言って、俺は右手に握りしめる刀を見せつけるように突き出した。

 すると、男は得心がいったかのように眉を動かす。

「ふむ……なるほど、タイキのウツシヨでの名であったか」

 男はほんの瞬きするほどの間考え込み……鋭い視線を俺に向けて言う。

「……はっきりと言おう。タイキはこちら側の人間である。ウツセビトの貴様が関わっていい人間ではない。貴様がタイキとウツシヨでどのような関係だったのかは知らぬが、本来であれば牙が与えられるなどあってはならぬ出来事なのだ。――タイキがウツシヨに戻ってくることは、二度とない。タイキのことは潔く諦めるのだな。……次に私が牙を取りに来るまでには、決意しておけ」

 一息に言い切ると、言いたいことは全て言ったとばかりに、男は空間の隙間に消えていく。

「ま、待て……!」

 ぐらつく足を気合で奮い立たせ、俺は男の元へと走るが――空間の隙間は男の全身を飲み込むと、つぅっとその口を閉ざしてしまう。先ほどまであったはずの場所でもがくも、そこには当然、何もない空間が広がっているだけだった。

 男は、霞の向こうへと消えてしまった。



「…………」

 ――みすみす逃がしてしまった。宮原に続く、唯一の手がかりだったのに……!

「――――――――ッ!」

 堪えきれずに、俺は叫ぶ。

 怒りと、悔しさを吐き出すように。

 周囲の様子を気にすることなく。

 喉が枯れるほど無我夢中に――叫び続けた。

「……ハァッ……! ハァ……」

 男の言葉が脳内にこだまする。去り際の一言……『宮原のことは潔く諦めろ』。

「――そんなこと、できるわけないだろう……っ!」

 それができれば、初めから苦労はしない。

 宮原がいなくなったことによる焦燥感も、宮原に傍にいて欲しいと渇望する感情も、宮原を思うと溢れて止まらなくなる愛おしい気持ちも……止められるわけがないのだ。

 宮原とは、まだ出会って一年も経っていない。

 だが、そのたった一年にも満たない時間で、俺の人生は大きく塗り替えられた。居場所の見つからないこの世界で、宮原の隣だけが俺の居場所になった。宮原の傍にさえいれば世界は美しく、枯れかかっていた心は潤いで満たされた。

「……宮原のいない世界に、一体何の価値がある……!」

 改めて、男を逃がした自分の不甲斐なさに苛立ち――俺は刀を強く握りしめた。

 ――瞬間、刀から電撃が走ったかのように『何か』が俺の中へと流れ込む。

「……ッ!」

 脳に直接、情報を書き込まれたかのように……俺は唐突に理解した。

「……わかる。あの『穴を開ける方法』が……!」

 思い返してみれば、初めて刀を握った時も同じ感覚が全身を走っていた。

 急な戦闘で興奮状態だったため気にしていなかったが……喧嘩もしたことのない俺が、あの男と互角以上に打ち合えていたなんておかしい。それを為すには、『何か』の助けが必要だった。

 刀の握り方、身体の動かし方、そして今この瞬間に理解した『穴を開ける方法』。それらは全て、この刀から流れ込んできた。宮原がくれた牙が変化した……この刀から。

「……宮原が、俺に力を与えてくれているのか」

 そうとしか考えられない。

 そして、なぜ宮原は俺に力を与えてくれるのか……そんなものは、決まっている。

 ――宮原は、俺に助けを求めている。

「――――――――ッ」

 俺は刀を顔の前に掲げる。

 周囲を見回すと、神社の境内を取り囲んでいた霞が、だいぶ薄くなってきている。……急がなければ。この霞が消えてしまうと、『あちら』への穴を開けることができなくなる。

 心を集中させる。波紋ひとつ浮かんでいない水面を、心の中に思い浮かべる。やがてイメージの中の水面と自身の心が同調していき、完全なる平静が訪れ――

「……カァッ!」

 俺は刀を、上段から一気に振り下ろす。

 何もないはずの空間に、切れ目ができた。切れ目がぱくりと割れ、穴の中が露わになる。

 ――霞だ。白い霞が、穴の向こうにも広がっている。霞はゆらりと、まるで俺をこの先に誘っているかのように怪しく揺らめいている……。

 この先にいけば、帰ってこられないかもしれない……俺は後ろを振り返った。境内を囲む霞はもう殆ど消えかかっており、階段の向こうには俺の住む町が見える。

 両親の離婚を機にやってきた町。宮原と出会い、様々なことを経験した場所。

 ――だが、今のこの町には、宮原の残滓は欠片も残っていない。

「……今更未練も何も、なかったな」

 俺は改めて振り返り、閉じようとする穴に向かって勢いよく飛び込んだ。

 この霞の先にいるはずの、宮原を取り戻すために。

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