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 吹き抜ける風を肌寒く感じるようになったとある日、俺は一人で学校の廊下を歩いていた。

 夏休みはあっという間に過ぎ、二学期もまた足早に駆け抜けていく。廊下の窓が風に吹かれ、ガタガタと揺れている。校舎の中庭に生えている樹木の葉は、少しずつ緑から色を変え、ぱらぱらと地面に落ち始めていた。

 ……動物園と遊園地での一件以降、夏休み中に俺と宮原が会うことはなかった。

 あの日だけで俺の財布の中身は、普段休日に使う金額の三倍以上が消えていた。結果、もう夏休み中にどこかへ遠出できるような余裕は俺にはなく、自然とその行動範囲は限られてしまった。俺の行ける場所は町の図書館に学校の図書室、例の神社のような無料でぶらつける場所のみ。その日の気分で行く場所を変え、半月以上残っていた夏休みを、俺はどうにかこうにか過ごし続けた。

 例の神社に行ったときに……宮原に会えることを、期待しなかったわけではない。しかし現実、宮原と神社で出会うことはなかった。ごくたまにしか行かないという宮原の言葉は、真実だったわけだ。

 宮原と会うことがなければ、もうそれは例年通りの長期休暇と同じだ。本を読むこと、思考に耽ること、あるいは何も考えないことに没頭し、ただただ無為に時間を潰す。そうして俺の夏休みは終わった。

 ……いや、少しだけ例年とは違うことがある。

 今年は……早く休みが終わってほしかったのだ。

「……っと」

 抱えている荷物を、歩きながら抱えなおす。

 抱えているのは、担任の教師から預かったものだ。プリントと参考資料……それがクラス全員分。紙一枚ならば重さも感じないだろうが、一クラス分の量となるとだいぶ重量感が出てくる。腕が痛くなってきて、悪態の一つもつきたくなるが仕方がない……これも学級委員の使命なのだから。

「……ふぅ」

 悪態の代わりに、俺はため息をつく。

 普段通りであれば、俺が担任教師にこうして頼みごとをされることはない。もう一人の学級委員……宮原に話が通り、俺がそれを手伝うというのがいつものパターンだ。

 いつもならば二人で分けて持つ荷物を一人で抱えながら、俺は廊下を歩き続ける。

 心なしか世界が色褪せているように見えるのは、きっと気のせいではない。

 ――今日は、宮原が欠席なのだ。



 担任が俺に荷物を渡してきた職員室は、一階にある。えっちらおっちら階段を上がり、自分のクラスの前まで辿り着いた俺は、教室の扉を開けっぱなしにしてくれた誰かに感謝しながら教室に入る。

 教室の中、クラスメイトたちは全員自分の席に座っていた。

 今日は金曜日、加えて今は最後の授業が終わり、午後のホームルームが終わりさえすれば休日に突入するというタイミングだ。ほとんどの生徒が、帰り支度も済ませているようだった。

「ようサイトーちゃん、それ何?」

 教室に入り、持ってきた荷物を教壇の上に載せた俺に、教壇の目の前に座っている川上が話しかけてきた。

 川上は当然ながらクラスの男子で、バレー部員だった。ただ、背は低い。そしてやたらと賑やかなやつで、いわゆるクラスのムードメーカーというポジションだ。体育祭や球技大会のときは率先して学級委員の仕事に協力してくれ、イベントの盛り上げに一役買っていた。

 こいつはなぜか、男女問わず『ちゃん』づけで名前を呼ぶ。初めは違和感が凄かったが、今やもう気にならなくなってきた。

「進路調査のプリント。……それと関連資料みたいだな」

 教壇に並べた紙を見ながら、俺は川上の質問に答える。すると川上は大げさに頭を抱えた。

「っかー、たりぃなあ。将来どうなりたいかなんて、そんな先のことまで考えてねえっての。なあ?」

「だよなー」

「それそれ」

 川上の言葉に相槌を打ったのはもちろん俺ではない。川上がよくつるんでいる、小林と戸越だ。小林は野球部、戸越はサッカー部だが……運動部同士仲がいいらしい。

 ……一応今は高校二年生の秋であり、大学受験を考えているのならそろそろ動き出していてもおかしくない時期である。そのため、進路について考えていないのはむしろ少数派なのではないかと思うが……俺は何も言わなかった。先の事を考えていないのは、俺も同じだ。

「しかしご丁寧に資料まで持ってくるかね……おかげで結構な量じゃん。なんで一人で……ってそうか、今日は宮原ちゃんが珍しく、風邪でお休みだっけか」

「……ああ」

 宮原は今日、体調不良で欠席をしている。

 朝のホームルームで宮原が風邪を引いたと担任が話した時、かなり教室がざわついた。宮原といえば健康優良生徒の代表であり、皆勤賞の常連だったからだ。当然、俺も驚いた。

「それで、室賀のヤローに荷物全部押し付けられたってことか……あいつホントに人使い荒いよなあ。サイトーちゃんもごくろーさんだわ」

「……別にいいさ、これも学級委員の仕事らしいしな」

 ちなみに室賀というのは担任教師の名前だ。最近知ったことだが、他のクラスの学級委員はうちほど忙しく動き回ってないらしい。うちのクラスが、生徒に任せすぎなのだそうだ。

「んで? これみんなに配んの?」

「あ? ああ……」

 確かに、俺はプリントと資料を生徒に配るよう命ぜられていた。さてどのように生徒全員に配ろうかと悩んでいたのだが、

「おっけ。……おーい、サイトーちゃんがプリント配るってよ。前から後ろに送ってくんねー?」

 川上がクラスメイトに声をかけてくれたおかげで、すんなりと配り終えることができた。

「……すまん」

「いいっていいって。今日は宮原ちゃん休みなんだし、みんな協力しないとなー」

 川上はそう言って、ニカッと笑った。



 担任の室賀が教室に入ってきて、午後のホームルームにて先ほど配られたプリントの詳しい説明が与えられた。

 と言っても難しいことはなく、進路調査のプリントには第三希望まで自分の希望進路を記入し、関連資料は悩んだときのためにとわざわざ担任が用意したものだった。持ち帰る荷物が増え、生徒たちはおおむね不満そうな顔をしていた。

 ただ、進路調査プリントの提出期限だけは少しだけ問題となった。

「あー、悪いんだがな……。実を言うと、この進路調査の提出期限が迫ってるんだ。その、配るのをすっかり忘れててな……。なので申し訳ないが、来週の月曜日には絶対に提出するように」

 それを聞いて、クラス中からため息が漏れる。担任の室賀はうっかりしていることが多く、プリントを配り忘れて提出期限が迫っているという事例は一度や二度ではなかった。教室内に「またか」という諦観の空気が流れる。

「ちょっと待てよ、じゃあ宮原ちゃんはどーすんの?」

 川上が問うと、室賀は渋い顔になった。どうやら何も考えていなかったらしい。

「あー、そうか……。宮原は今日欠席だったなあ……うーん」

 生徒たちの呆れかえった視線を受けながら室賀はうんうんと唸り続け……俺と目が合ったとき、何かを思いついたように目を丸くした。

「そうだ! 斉藤、確か宮原と家が近かったよな?」

「……は?」

 確かに、宮原の家は俺の自宅から割と近い位置にあるはずだと、当の宮原本人から聞いてはいたが……当然、行ったことなどない。

「今日お見舞いがてら、プリントを届けてくれ。来週の月曜が提出期限だってことも忘れずにな」

「……いや、ちょっと待ってください。俺は宮原の家に行ったことないし、住所も知りません」

「だったら、後で教えるから。頼んだぞ!」

 室賀はこれで解決だとばかりにホームルームを勝手に切り上げ、颯爽と教室から出ていった。

 ……俺はまだ、行くとは一言も言っていないんだが。

 それに後で教えるって……まさか俺のほうから職員室に顔を出しに行かなければいけないのか?

 俺は思わず、深くため息をつく。どうやら教室内の全員が同様の気持ちを抱いていたようで、教室内の空気が一気に澱んでしまったようだった。



 結局、俺は再び職員室に赴き、宮原の住所を室賀から聞き出す羽目になった。

 聞き出した宮原の住所は、確かに俺の住む家の近所だった。ただ、行ったことはない。これといった特徴のない住宅街なので、知り合いでもいない限り向かうことのない地域だったからだ。

 職員室を後にして、下駄箱で靴を履き替えて中庭へと出る。さっさと用事を済まそうと校門へ向かおうとしたのだが、そこで声がかけられた。

「あ、斉藤ー。ちょっと待って」

 首を回して声のしたほうを振り向くと、クラスメイトの女子である須藤と西倉がいた。

 二人は宮原がよく一緒にいる女子で、宮原の数多い友人の中でも、特に気が置けない友人のようだ……と、俺は勝手に思っている。実際、宮原の周りにいる女子といえば大抵この二人なので、大きく間違ってはいないだろう。

 須藤は背の高い女子で、長い髪をシニヨン(というのだそうだ……宮原から聞いた)でまとめている。甘いものが好きなようでいつも……今も、棒つきの飴を口にくわえていた。あまり笑った顔を見たことがないが……唯一よく笑っている瞬間がある。それはもちろん、宮原と話しているときだ。

 西倉は反対に背の低い女子で、ウェーブの掛かったふわふわとした髪を揺らしていた。どんな時も大抵は、ぽわぽわした笑みを浮かべている印象がある。そんな彼女が満面の笑みを浮かべるのも……やっぱり宮原と話しているときなのだった。

 須藤に話しかけられて、俺は若干緊張する。

 というのも、この二人は男子から『宮原のガード役』だと思われているからだ。美人で目立つ宮原は、先輩後輩問わず男子に声をかけられやすい。そんなとき、宮原が変な男に引っかからないようお目付け役として傍に控えているのが、この二人というわけだ。

 彼女たちは基本的に何もしない。ただ宮原が男子と話しているとき、傍にいるだけだ。しかし須藤の刺すような視線と、西倉の意味深な笑顔を浴び続けながら話し続けることのできる男子は皆無に近い。ある意味、男子たちに最も恐れられている二人なのだ。

 そんな二人が一体俺に何の用だと思うところだが、声をかけられて無視するわけにもいかない。校門へ向かう足を反転させて二人に近づくと、あちらも歩み寄ってきた。

「斉藤、これから望美んちに行くの」

「……そうだが」

 もしや、お見舞いついでに変な気を起こすんじゃないと、釘を刺しに来たんだろうか。言われなくともそんなことをする気はない……と考えていると、須藤がポイと何かを投げて渡してきた。

 不意に投げられた物を、俺は落とさないよう慌てて受け取る。手に掴んだ物をよく見ると、それは小さな箱のお菓子だった。コンビニなどでよく見る、ごく普通のものだ。

「……なんだこれは?」

 わけがわからず問いただすと、須藤は口に加えた飴の棒を指でいじくりながら答えた。

「お見舞いの品。うちらからだって、望美に渡しといて」

 なるほど、お見舞い品ね……。須藤はいつもカバンにお菓子を隠し持っていると、宮原に聞いたことがある。宮原が風邪と聞き、お見舞い品として咄嗟に用意したのがこのお菓子というわけか……。

「……それだけか? 他に何か用があったとか」

「いや? それだけだよ」

 なんというか、拍子抜けだ。もっとあれこれ、厳しい言葉で注意をされるとばかり思っていたのに。

 そもそも、俺が宮原の家に行くからといって、俺に見舞いの品を持たせる意味もわからない。

「お見舞いだって言うんなら、一緒に行けばいいんじゃないのか。本人から渡されたほうが、宮原も喜ぶと思うぞ」

 風邪で弱っているときに友達が遊びに来てくれれば、宮原はさぞ嬉しがるだろう。そう思って提案したのだが、須藤は何故か目線を反らした。

「いや……体調崩しているときに大勢で押し掛けるのはよくないでしょ」

 ……ふむ、確かに一理あるか。それなら須藤が俺に見舞いの品を預けようとしたのも頷ける……と納得したところで、俺はピンとひらめいた。

「それなら、俺の代わりに二人がプリントを届けてくれればいい。だったら、大勢で押し掛けるってことにもならないだろう」

 二人が俺にお菓子を預けるのではなく、俺が二人にプリントを渡せばいいのだ。そうすれば二人はお見舞いに行くことができ、宮原も喜ぶだろう。

 そう思ったのだが……俺の言葉を聞いた須藤は苦々しげな表情になった。

「いや、だからさ……。わたしたち別に、邪魔するつもりはなくってさ……」

「邪魔? 宮原は二人が見舞いに来ることを迷惑に思うようなやつじゃないだろ」

 そんなことは俺よりも二人のほうがよく知っているはずなのに……と俺は首をひねるが、やはり須藤は不満げな、あるいは困ったような表情で俺の提案を断ってくる。

 一体どうしたのかとこちらまで困惑してきたとき、今まで須藤の隣でニコニコしているだけだった西倉が、ようやく口を開いた。

「あのねぇ、斉藤くん。わたしたちこれから用事があってね、お見舞いには行けないんだぁ。それに、望美ちゃんの家はわたしたちの家から逆方向なの。だから斉藤くんにお見舞いに行って欲しいんだけど……ダメかな?」

 なんだ、用事があったのか……それならそうと早く行ってくれれば、俺も無駄な時間を使わずに済んだのに。なんだって須藤は、ああも歯切れの悪い返答ばかりしていたんだか。

「ああ、そういうことか。それなら、わかった」

「ありがとー、それじゃ望美ちゃんによろしくねぇ」

 西倉は笑顔で手を振りながら、須藤は相変わらずぶすっとした顔のまま去っていった。

 去り際に二人は、何故かこそこそと話をしていた。「……気付いてない?」とか「鈍感……」とか「かわいそ……」とか聞こえてきたが……一体何の話をしているのだろう。

 まあ、いい。思わぬ用事が増えてしまったが、向かう場所は同じだ。

 俺は踵を返し、再度校門へと足を動かす。




「ここ……か」

 担任から教わった住所を頼りに、俺は宮原の家にたどり着いた。

 携帯電話を持っていない俺にしては、スムーズにたどり着けたと思う。職員室で見せてもらった地図を頭に叩き込み、電信柱や道路標識に書かれている住所を指針とし、細かいところは人に尋ねながらなどしてようやくたどり着いた宮原の家は、二階のある立派な一戸建てだった。

 俺は一応、標識を確認する。

 ……間違いなく『宮原』と書かれている。どうやらここで問題ないようだ。

 宮原の自宅は、どちらかというと古い印象のある家だった。

 といってもボロさや汚さという意味での古いではなく、単に時間を重ねているという意味での古さだ。屋根は瓦屋根だし、門の外からでもちらりと見えている縁側の造りはいかにもご老人が似合いそうな風情だった。控えめな大きさの庭は芝生が生えていて、きちんと手入れがされている。

 俺は深呼吸してから、インターホンを押す。……何故だか急に緊張してきた。

 押したインターホンから、ぴんぽーんと電子音が響く。これもまた、なんだか懐かしい感じのする電子音だった。

『……はい、どちらさまでしょうか』

 随分と丁寧な言葉使いで、インターホンから女性の声が聞こえてきた。宮原の母親だろうか? それにしては、少し年老いている感じだが……。

「すみません。俺、宮原の……あ、いや、望美さんのクラスメイトで、斉藤といいます。望美さんに、学校の書類を届けに来たのですが」

 不可抗力ながら宮原の下の名前を呼んでしまい、若干の恥ずかしさに打ち震えていると、インターホンから嬉しそうな声が聞こえてきた。

『あら、あらあら、わざわざありがとうございます』

 俺はふぅと一息つく。

 あとはプリントと宮原へのお土産を渡して帰るだけだ。たかがインターホン越しに会話するだけで、何をこんなに緊張していたのかわからないが、ともかく無事に終わりそうでよかった……。

 ところが、そうはならなかった。

『それじゃあ、どうぞ上がってくださいな』

「……は? い、いや、物だけ受け取っていただければ……」

『いいからいいから。どうぞ、上がってください。カギは開いてますから』

 そう言ったきり、インターホンからの音声はぶつりと途切れてしまった。

 ……まいったな、これじゃ上がらないわけにはいかない。もう一度インターホンを押して『上がりたくないのでやっぱり帰ります』と伝えて帰る、なんてことはありえないし、そもそもそれでは宮原にプリントもお見舞いの品も渡すことができない。

 俺は再び深呼吸をしてから、門を押し開く。キイイという金属音が耳に響いた。

 砂利の敷き詰められた道を踏み鳴らしながら玄関へ。ここにもインターホンが付いていたが、カギは開いていると言っていたので、そう何度も鳴らしては迷惑だろう。渋い茶色に塗られた重厚な玄関の取っ手に手をかけ、俺は意を決して扉を引いた。

「お、お邪魔します……」

 内装の様子も、外から見た家のイメージからあまり変わらなかった。

 三和土にはあまり靴がない。使わない靴はきちんと靴入れにしまってあるのだろう。その靴入れの上には花瓶が置かれ、名前はわからないが白く可憐な花が客人である俺を出迎えてくれた。

 玄関からまっすぐ、広い廊下が一本続いていて、廊下の先には二階へと続く階段が見える。暖かい色の照明が廊下を照らしていて、家の雰囲気すらも暖かく感じられた。

 廊下の右手側の扉が開いていて、ビーズののれんがかかっている。おそらくあそこがリビングだろう……という俺の考えを裏付けるかのように、そちらから声が聞こえてきた。

「どうぞ、こちらにおいでになって」

 俺は失礼します、と一言断ってから、靴を脱いで三和土から廊下へと上がる。その際なんとなく気になって、靴をきっちりと、綺麗に揃えておいた。こうも綺麗に整理された玄関で、俺だけ靴を脱ぎっぱなしにしておくのはマズイだろうと思ったのだ。

 声に従って廊下を進み、ビーズのれんをくぐって部屋へと入る。

 俺の予想通り、その部屋はリビングだった。そこそこ大きなテレビに柔らかそうなソファ、システムキッチンに食卓と、絵にかいたようなリビングだ。そしてここも、暖かい色の照明で照らされていた。

 声の主は、ソファに座っていた。俺の姿を捉えると、その人はすっと立ち上がる。

「ようこそ、いらっしゃい。わたくし、望美の祖母で、宮原幸枝みやはらゆきえと申します。初めまして」

 丁寧な挨拶ののちに、綺麗な姿勢でお辞儀をされてしまった。俺はどぎまぎしながらも、失礼がないようこちらも頭を下げる。

「ど、どうも。宮は……いや、望美さんのクラスメイトで、斉藤一輝といいます。突然お邪魔してしまって、申し訳ありません」

「いいえ、お気になさらないで。そもそも、わたくしから上がってとお願いしたのだから。……ふふ、あなたが斉藤くんなのね。お会い出来て嬉しいわ」

 宮原のお婆さん……幸枝さんは、にっこりと笑った。

「え、あの……俺の事を知っているんですか?」

「ええ、もちろん。高校二年生になってから、望美はよく斉藤くんの話をしてるのよ。だから、いつか会ってみたいと思っていたの。無理矢理上がってもらう形になってしまって、ごめんなさいね」

「いや、それは別に構わないですけど……」

 しかし、宮原が俺の事を家族に話していたって? 俺に関して、一体何を話すことがあるというのか……。何か変なイメージを持たれていないといいのだが。

 それにしても、出迎えてくれたのが宮原のお婆さんでよかった。

 幸枝さんは常に笑みを絶やさない優しそうな人で、とても話がしやすい。これほど助かることはない。

 これでもし母親、もしくは父親なんて出てきた日には、緊張して何も話せなかったかもしれない。ご両親は、仕事で家を留守にしているのだろうか?

 ……と、そんなことを考えるのは後だ。俺は宮原にプリントと、友達からの見舞い品を届けに来たのだ。ひょんなことで家に上がることになってしまったが、長居をする理由はない。

「あの、それでですね。宮原さんに……」

 俺は預かった荷物を取り出そうと、カバンをまさぐろうとしたのだが、

「ああ、ちょっと待って斉藤くん。本当に申し訳ないのだけど、ひとつ頼まれてもらえないかしら」

 幸枝さんの慌てたような声に、俺は動きを止める。

 俺に頼み事? 初めて会った人間に一体何を頼みたいのかと訝しむと、幸枝さんは胸の前で可愛らしく両手を合わせた。

「実はね、夕飯の買い物に行こうと思っていたのよ。望美が寝ているからどうしようかと悩んでいたのだけれど、斉藤くんが来てくれて助かったわ」

 ……いやいや、ちょっと待て。

 何が助かったというのか。俺に何を頼もうとしているというのか……!

「もうほとんど治っていると思うのだけれど、寝ている望美を一人で残していくのはやっぱり心配だから。……斉藤くん、わたくしが買い物に行っている間、望美の様子を見ていてくれないかしら?」

 俺の嫌な予感は的中した。

 柔和そうな顔をして、一体なんてことを言うんだこの人は……! 仮にも年頃の女の子の部屋に、男子高校生を入れるなんて正気の沙汰じゃない。

 ……いや、別に何か変なことをする気は毛頭ないが、一般論としての話だ。

 それに、このことを宮原は知らないはずだ。なにせこちらは何の連絡もなく、突然来たのだから。もし目が覚めて、自分の部屋に俺がいたとしたら、宮原はどう思うだろうか。

 ……間違いなく、気分を害するだろう。男に突然部屋に上がり込まれて、気分をよくする女子などいるわけがない。

 その他諸々の理由を告げて断ろうとしたのだが、のんびりした喋り方からは想像できないほどてきぱきと、あっという間に外出の準備を終えた幸枝さんは「それじゃ、よろしくお願いね」とだけ言い残して、本当に買い物に出かけてしまった。

 その有無を言わさない物の頼み方は、なんとなく宮原に似ている気がした。半ば押し付けられたような状況であるにも関わらず、あまり不快感を感じないことも含めて。

 これが血の繋がりというやつか……と、俺は小さくため息をつく。

 頼まれてしまった以上、宮原のことを無視することはできない。それに、もしも寝ている宮原に異常が起きたとき、誰も助ける人間がいないというのは確かに問題だ。

 もしも俺が宮原を無視して帰り、それが原因で宮原に取り返しがつかないことが起こったりしたら……俺はおそらく、自分が許せなくなるだろう。

「……仕方がないよな」

 自分に言い聞かせるようにつぶやいてから、俺はリビングを出た。

 去り際に幸枝さんが言っていたのだが、宮原が寝ているのは二階に上がってすぐの部屋……やはり宮原の自室だそうだ。二階へ上がるため、廊下の先にある階段へと足を運ぶ。

「…………ん」

 廊下左側、階段の手前辺りに障子がある。おそらく、ここは和室なのだろう。間取りから考えて、家の外から見えた庭と縁側はこちらの部屋から続いているはずだ。

 家の中から見た庭の様子は、どのような感じなのだろう……と思い、階段に足をかけながら俺は和室のほうを窺った。障子は半分開け放たれており、和室の様子が露わになっていた。

 家具の少ない、すっきりとした部屋だった。掃除が行き届いており、庭から差す太陽の光を浴びた部屋の様子は、どこか空虚なものを感じさせる。

 階段を上る際にちらりと見るだけのつもりだったが……俺の目は、和室のある一点に釘付けになる。

 そこにあったのは、立派な仏壇。

 輝く金色と黒が、家具の少ない和室で唯一異彩を放っている。

 そして俺の見間違いでなければ……仏壇に飾られた写真の中には、年若い夫婦が映っていた。



 宮原の部屋は、本当に階段を上がってすぐ右手側にあった。

 簡素な木製扉に、丸文字のフォントで『のぞみ』と書かれたプレートがかかっている。見た感じ、かなり使い込まれているようだ。きっと子供のころからずっと使われているのだろう。

「……はぁー」

 俺は宮原の家についてから、もう何度目かもわからない深呼吸をする。

 未だに、本当に入っていいのかと葛藤している自分がいる。とはいえ寝ている宮原が心配なのは事実だし、幸枝さんから頼まれてしまったという理由もある。ここは腹をくくるしかない。

 ……念のため、扉をノックする。もしかしたら宮原がもう起きていて、俺が部屋に入っていいかの判断を下してくれるかもしれない。ところがノックの返事はいくら待っても返ってこない。未だに宮原は、寝入ってしまっているようだ。

「……ああクソッ」

 意味もなく悪態をつきながら、俺は静かに扉を開く。

「…………」

 なんというか、思ったような部屋と違い、俺は拍子抜けしてしまった。

 てっきり女の子らしい、可愛らしい部屋が待っているかと思っていたのだが……目の前にある部屋の様子は、まるで真逆のものだった。

 部屋の印象を一言で表すならば『簡素』だ。私物や家具がごちゃごちゃと置かれてはおらず、必要最低限のものだけが部屋にあるように見える。

 置いてあるものだけなら、俺の部屋と大して変わらないような気さえする。部屋の隅にある勉強机に、主に教科書や参考書、卒業アルバムのようなものも見える小さな本棚。クローゼットはなく、収納スペースといえば箪笥と押し入れのみ。大きな姿見があることだけが、俺の部屋とは違う点だ。

 部屋の中にベッドはない。代わりに、部屋の中央に布団が敷かれている。

 そこで、宮原は眠っていた。

 布団の中で、宮原は胸を上下させていた。頬がほんのりと赤く染まっていて、額にはじんわりと汗が伝っている。どうやら、まだ熱があるらしい。

 しかし幸いなことに、苦しそうな様子には見えなかった。ぐっすりと眠っているらしい。その証拠に、俺が部屋に入ってきても起きる様子は見られない。

 枕元には汗を拭くためのタオルに、脱水症状を起こさないために用意されたスポーツドリンク、さらに空腹になったときすぐに食べられるようにという配慮だろうか、カップゼリーとスプーンが置かれている。スポーツドリンクは半分ほど減っていたが、ゼリーはまだ手を付けた様子がなかった。

 宮原を起こしたりしないよう、俺は忍び足で歩く。そして音を立てないよう、ゆっくりと布団の傍に腰を下ろした。自然と、足の組み方が正座になってしまう。

 壁にかかった時計がカチリコチリと時を刻む音と、宮原の小さな呼吸音以外は一切音のしない部屋の中、俺は正座のまま宮原の寝顔を見る。

 多少汗はかいているものの、穏やかな寝顔と言っていいだろう。この分なら来週にはきっと、もとの元気な宮原に戻っているに違いない。

 宮原の額には、前髪が汗でぴっとりと張り付いていた。もしかしたら寝苦しいかもしれないと思い、枕元に置いてあったタオルで優しく拭ってやる。

「…………っ」

 宮原の綺麗なおでこが露わになってしまった。

 ……なんだか、とてもいけないことをしたような……。

 親切心を働かせたつもりだったが、あまり余計なことをしないほうがいいかもしれない……そう思い、俺は正座のまま宮原の様子を伺うだけに留めることにする。

「…………」

 こうして部屋に上がって宮原の看病をしている自分のことを、未だに信じられない気持ちがある。

 ――二年生になってから、俺は変わった。

 学級委員になり、忙しく働いているというのももちろんだが……内面の変化がより顕著だと思う。

 担任の名前を覚えた。クラスの連中は室賀のことを人使いの荒い無能と罵るが、俺はそれほど嫌いではない。室賀が宮原に仕事を振ってくれるおかげで、俺は宮原のことを手伝うことができるから。

 クラスメイトたちの名前を覚えた。川上も小林も戸越も、宮原の友人である須藤と西倉も……それ以外のクラスメイトたちの名前も、今は全員覚えている。

 クラスメイトたちと普通に会話をするようになった。自分から話しかけることはあまりないが、遠巻きに見られることはなくなった。ついていけない話題であっても、とりあえずは耳を傾けるようになって、今まで知ろうともしなかった知識もいくつか得ることができた。

 ――全部、宮原がいたから変わったことだ。

 宮原が学級委員に俺を指名しなければ、他のクラスメイトたちと今のように関わることもなかっただろう。去年までと同じように、俺は一人でいることを良しとして生活を続けていたはずだ。

 今では……以前ほど『孤立感』を感じることも少なくなった。みんなと同じ世界に、きちんと足をつけて生きている……そう感じるようになりつつある。

 宮原は俺に、この世界で生きる実感を与えてくれた。それ以外にも……宮原が俺に与えてくれたものは、数知れない。

 ――じゃあ、その逆は。

 俺は、宮原に与えてもらうばかりだ。俺にも何か、宮原に返せるものはないだろうか……。

 例の神社で初めて出会ったときには、愚痴を吐き出す相手にでもなれればいいと思っていた。『孤立感』を持つ仲間として、遠慮なくものを言える唯一の相手になれればと。

 ところが、最近宮原はあまりそれらしい愚痴を吐かなくなった。かわりになんでもないことでもよく話しかけてくるようになったが……俺はあまり会話が上手くない。気の利いた返しができないことに、悔しさが募るばかりだ。

 何か……何か、ないだろうか。宮原のために、俺ができることは。

 宮原のためになるのなら、俺はなんだってやる覚悟なのに……。

「……んっ」

 小さな吐息が聞こえてきて、俺ははっとする。

 この部屋にいるのは俺と宮原だけ、ということは今の声は宮原のものだ。もしかして、目が覚めたのだろうか。

 思い至ると同時に、ふいに焦りが募る。……勝手に部屋に上がり込んでしまっているこの状況を、どう説明しよう? 幸枝さんに頼まれたと言えば……だが、それで宮原は納得するのか? ちょっとしたパニック状態になり、意味もなく身だしなみを正したりしていた俺だったが、

「…………いや」

 宮原の口から漏れ出た言葉に、動きを凍り付かせた。

「やだ…………やだ。…………いや、こないで……」

 これは……寝言? 何か夢を見ているのだろうか。

 それにしても剣呑な寝言だ。先ほどまで穏やかなだった宮原の寝顔が、少しずつ歪んでいく。

 ……起こすべきだろうか。悪夢を見ているようなら、起こしてやったほうがいいかもしれない。しかし所詮、夢は夢ともいえる。わざわざ起こす必要はないか……? それに、もしなんでもない夢だったとしたら、起こした時になんて言われるか……。

 俺がそう悩んでいる間にも、宮原の寝顔はどんどん苦しそうになっていく。

「ここは、どこ……どこなの? ――――アマツ」

 …………アマツ?

 具体性のない宮原の寝言のなかで、その言葉だけが唯一はっきりとしていた。

 アマツ……人の名前だろうか? 少なくとも、今年のクラスメイトや教師の中に、アマツという名前の人物はいなかったはずだ。となると、俺の知らない宮原の知人か……。

 宮原の様子は、いよいよ酷くなる。顔中にびっしりと玉のような汗をかいてしまっているし、呼吸は荒く激しくなっている。寝顔は今や、苦痛すら感じさせた。

「……いや、だめ。…………たすけて……!」

 ……起こそう。

 これは、悩んでいる場合じゃない。あきらかに宮原の様子はおかしい。

 例え起こしたときに何を言われようと、こんな苦しそうな宮原を放っておくほうが耐えられない。

「宮原……っ」

 俺は声をかけながら、肩をゆすろうと正座で組んでいた足をはずす。

「いっ……つ」

 俺はどれほどの時間、正座の姿勢を続けていたのだろうか……完全にしびれてしまった足は思い通りに動かず、俺はバランスを崩し、宮原の上に倒れ込みそうになってしまう。

 そんなことをしたら完全に言い訳ができない……! 俺は無理矢理に体を捻り、なんとか宮原とぶつかることは回避することができた。

 ……ただ、倒れ込むことだけはどうにもできず、眠っている宮原の耳元に両手をつき、覆いかぶさるような格好になってしまう。

 眠っている耳元近くで突然音がして驚いたのだろう……宮原が目を覚ました。

「…………」

「…………」

 宮原は大きな目を、いつも以上に見開いていた。……それはそうだろう、悪夢から目が覚めたと思ったら、単なるクラスメイトの男子が自分に覆いかぶさっているのだから……。

 俺も、宮原も……何も言葉を発することなく、しばらくの間硬直していた。俺はいかにこの状況を説明するかを考え、宮原はおそらく、どうしてこんな状況になっているのかを思索しているのだろう。

 やがて、宮原の眉が少しづつ吊り上がり、瞳がじとりと細くなっていった。

 宮原が見せる、初めての表情だったが……どういう感情が込められているのかははっきりわかる。……これは、怒っている。

「……出てって」

 ぽつりと、静かな怒気の籠った声が、宮原の口から発せられた。

 俺は言い訳もできず、ゆっくりと宮原から離れる。

 ……胸がじくじくと痛み、脳みそがギチリと締め付けられている気がする。宮原を怒らせ、信頼を失ったという事実は、思っていたよりも深く俺の心を抉る。

 その場から立ち上がり、くるりと宮原に背を向ける。これ以上、あの刺すような視線を浴び続けて、まともでいられる自信がなかった。俺はふらふらとした足取りのまま、宮原の部屋から退出した。

「…………」

 バタリとドアを閉めて、そのままもたれかかる。

 本当ならば今すぐにでも家から出て行った方がいいのだろうが、足がガクガクと震えて動かない。

 ……来週から、どんな顔をして宮原に会えばいいのだろう。

 宮原のために何ができるかを考えていたというのに、どうしてこんなことになってしまったのか……やはり、何がなんでも幸枝さんの頼みを断るべきだった。女の子の部屋に勝手に男子が上がり込むなんて、どう考えてもおかしいことのはずなのに……。

「…………?」

 コツリ、と。もたれかかったドアから音がする。

 俺はドアを鳴らしてはいない。ということは、ドアの向こうにいる宮原がノックをしているのだ。一体、なぜ……。

「…………いる?」

 ドア越しに、くぐもった声が聞こえてきた。跳ね上がる心臓を抑えつけながら、俺は短く返答する。

「……ああ」

「……着替え終わったら声かけるから、待ってて」

 ドアの傍から、宮原が離れていった気配がした。

「…………はぁー……」

 俺は盛大にため息をつきながら、その場に蹲った。

 ……とりあえず、二度と口を聞いてもらえないということはないようだ……。




 宮原の許しを得て、俺は再度部屋の中へ。今度は、きちんと部屋の主から招かれる形なのだが……未だ、俺の中の緊張は消えない。

 着替える、と言っていた宮原だったが、パッと見た感じあまり変化はない。おそらく汗で濡れてしまった肌着を取り換えただけなのだろう。

 となると、部屋のどこかに着替えた肌着が放置されていることになる……。俺は下手に目線を泳がせないよう努めた。これ以上疑われるような真似をするわけにはいかない。

 宮原は俺を招き入れると、再び布団の中へ戻っていった。悪夢を見ていたときと違って顔色はいいし、話す言葉もはっきりしていたが、もしかしたらまだ頭がふらつくのかもしれない。

 宮原が布団に戻ったことを確認してから、俺は先ほどと同じ位置に腰を下ろす。同じ轍を踏んだりしないよう、今度は胡坐をかいて座った。これで足をしびれさせることはない……。

「それで?」

 宮原が問いかけてきた。胸の前で腕を組んだ、ご立腹の姿勢で。

「……すまなかった」

「謝るのはあと。まず、どうしてこうなったのかを聞かないと、許せるものも許せないでしょ」

 ……もっともだ。俺は最初から説明することにした。担任から、宮原にプリントを届けるよう頼まれたこと、ついでに須藤からお見舞いの品を預かったこと、物だけ渡して帰ろうかと思っていた矢先、幸枝さんにやや強引な形で看病するよう頼まれたこと。

「……もう、おばあちゃんったら」

 断る間もなく幸枝さんが出かけてしまったことを告げると、宮原は頭を抱えた。

「すまん、俺がはっきりと断るべきだったんだが……」

「いいの。おばあちゃん、人にものを頼むのが上手いから……」

 それはなんとなく感じていた。そこが宮原に似ている、とも感じていたが……今は言わない方がいいかと思ったので口を噤んでおく。

「それで、プリントとなおちゃんのお見舞い品を、わざわざ持ってきてくれたんだ。ありがとう」

 なおちゃん、とは須藤のことだ。俺は自分のカバンからプリントとお菓子の小箱を渡す。お菓子の小箱を受け取った宮原は、嬉しそうに顔をほころばせた。

「……これでうちに来た理由と、わたしの部屋に入ってきた理由はわかったけど。……それじゃあ、さっきはどうして、あんなことをしていたのかな?」

 宮原が笑顔から、じとりとした目線で非難する顔になり、俺は思わず背筋を正す。

 ……ここでおかしなことを言おうものなら、本当に宮原の信頼を失ってしまう。とはいえ、あれこれ理屈をこねくり回すのも嘘くさいし、そもそもそんな器用なこと、俺にはできない。ここは正直に、実際にあったことをありのまま伝える他ないだろう……。

「……しばらくの間、大人しく看病していたんだけどな。突然、宮原の様子がおかしくなったんだ。まるで悪夢にうなされてるみたいに顔色が悪くなって、寝苦しそうになって……」

「……悪夢?」

「ああ。いやだとか、助けてとか……。あとはアマツって人を呼んでいた。とにかく尋常じゃない様子だったから、悪夢を見ているのかと」

「ふうん……? アマツ……誰だろう」

 宮原は不思議そうな顔をする。

 ……本人も知らないのか? じゃあ、本当に単なる夢だったということか……。

「……だから、起こしてやったほうがいいと思って起こそうとしたんだ」

「……それで、あんな起こし方? いつも人を起こすときは、あんな風に起こすんだ?」

「違うって……! 実はその……正座で看病していたんだが、いざ宮原を起こす段階になって、ようやく自分の足がしびれていることに気付いて……。気が付いたときにはもうバランスを崩して、宮原の上に倒れ掛かりそうになってた。それでもなんとか衝突を避けようと身体を捻った結果……あの形に……」

 自分で状況を説明していて思うが、なんとも間抜けな話だ。

 それは宮原も思ったようで、ポカンと呆れたような表情を浮かべたあと、小さく噴き出した。

「……あはは、どれだけ集中して正座してたの?」

「……何かあったら問題だし、勝手に部屋に入った自覚もあったから緊張していたんだ」

「へえ? 斉藤でも緊張することってあるんだね」

 むしろ宮原の前ではいつも緊張しているようなものだ。

「ま、いいや……。わかりました、さっきのは不幸な事故っていうことで、許してあげます。……実際、怖い夢を見ていたことは本当だし。内容は忘れちゃったけど……それももしかしたら、斉藤が無理矢理起こしてくれたおかげかもね」

 俺はふぅと息を吐く。理解を示してもらったうえ、お咎めなしとは嬉しい限りだ。

 ……と、思ったのだが。

「でも、勝手に寝顔を見られたことは、やっぱり許せないかな」

「……は?」

「は、じゃないよ。女の子の寝顔を無断で見るなんて、とっても罪深いことなんだから。ただ一言謝っただけで許されると思ってるの?」

 ……そうなのか? 女子の寝顔を見るという行為は、それほど許されざることなのか?

 俺は自分の寝顔を見られたところでなんとも思わないが……それは俺が男子だからか? 俺は女子じゃないし、女子の友達はいない。となると、宮原の言葉を信じるしかないのだが……なんとなく腑に落ちないような気もする。

 とはいえ、部屋への侵入と事故で宮原に覆いかぶさった件を無罪放免にしてもらった手前、強く反論することもできない。

「……じゃあ、どうすれば許して貰えるんだ?」

 恐る恐る問いかけると、宮原はにっこりと笑って言った。

「んーとねえ……それなら、しばらくはわたしの言う通りにしてもらおうかな?」



 これからお前はわたしの言いなりだと宣言され、一体何を要求されるのかと戦々恐々としていたが、宮原が求めてきたことはなんてことはない、単に甲斐甲斐しく看病しろというだけのものだった。

 宮原が望んだとおり、俺は右に左にと働く。新しいタオルが欲しいからと言われ洗面所に赴き、氷枕が欲しいからと台所の冷凍庫を漁り、喉が渇いたけれどスポーツドリンクは飽きたから冷蔵庫から麦茶を探すよう指示をされ再度台所へ赴き……その他、ありとあらゆる宮原の要望に対応した。

 あれこれ頼まれはしたが、やっていることは結局、普段学校で学級委員の仕事をやっているときと同じだ。罰としては、これほど有情なものもないだろう。

 ただ……お腹が空いたからゼリーを食べたい、と言われたときはさすがに堪えた。

 ゼリーならば、既に枕元に用意してある。あちこち歩き回る必要がなくて助かった……と、ゼリーの蓋を開けると、宮原は俺に向かって目を閉じ、可愛らしく小さな口を開けてきた。

「…………え」

 あまりの出来事に閉口してしまった俺に、宮原は不満げな顔で「……許してほしくないの?」とつぶやいた。

 ……まさか、俺の手で食べさせろと? 困惑する俺のことは無視して、宮原は再び、親鳥に餌をねだる小鳥のように口を開けた。自分の手で食べるつもりは、毛頭ないようだった……。

 俺は宮原の小さな口に、苦労しながらも無心でゼリーを放り込んでいった。宮原がスプーンに食らいつくたび、ゼリーを美味しそうに咀嚼するたびに跳ね上がる心臓を、必死になって抑え込む。

「はー、ごちそうさま」

 結局、宮原はゼリーをきっちり完食したのだった……全て、俺の手で。

 ……まったく、これじゃあ我が儘なお姫様だ。あの宮原も実は、家ではこんなふうなんだろうか? それとも、単に風邪を引いて調子がおかしくなっているのか……。

 事の真偽はともかく、俺は姫に付き従うしもべの如く、あれこれと世話を焼いたのだった。

 ――そうしているうちに、時間はあっという間に過ぎていく。

 やってほしいことは大方終わったのか、今はただ単に雑談をしているだけだ。主に、今日学校で起きた出来事など。俺がただ淡々と語るだけのつまらない話にも、宮原は相槌を打ち、興味深げに問いかけ、時に笑ってくれた。

 川上たちがプリントを配る手伝いをしてくれたことを話していたあたりで、俺はようやく気付いた。幸枝さんが出かけてから、かなりの時間が経っている。

「……そういえば、帰りが遅いな」

 幸枝さんはただ、夕飯の買い出しに行くとだけ言っていた。しかし単なる買い物にしては、時間がかかりすぎているような気がするのだが……。

 もしかしたら何かあったのだろうかと思ったが、宮原はなんでもないように答える。

「ああ、おばあちゃんはいつもこんなものなの。もうそんなに速く歩けないから……。それに、スーパーで知り合いに会ったりしたら、長々と話し込んでしまうこともあるしね」

 ふむ……少し話した感触では、まだまだしっかりした方のように見えたが……。やはり、それなりにお歳は召しているということか。逆に、長話をしてしまうところは容易に想像できた。

「……ねえ、気にならないの?」

「……ん?」

 問われた意味がわからず、俺は問い返す。

 先ほどまで、無邪気な子供のように笑っていた宮原だったが……今は何故か、不安げな表情をしていた。

 こんなふうな宮原を、以前も見たことがある……。あれは、宮原と初めて会ったとき。例の神社で、自分が『孤立感』に苛まれていると……語っていたときだ。

「階段を上がる前に……和室、見なかった?」

「……ああ」

 そこまで言われて、俺はようやく気が付いた。

 ……確かに気にはなっていた。なぜ祖母の幸枝さんが宮原の看病をしているのか。

 もしかしたら、両親は共働きなのかもしれないと初めは思った。しかし和室にあった仏壇……そこに飾られた写真を見て、おそらくは……と思っていたのだ。

 ……だが。

 例え気になり、感づいたからといって……なんでも口に出していいわけではないはずだ。

「……興味本位や、世間話で触れられるような話題じゃないだろ」

 ――きっともう、宮原のご両親は亡くなっているのだろう。

 宮原が普段、そういった話をしているところは見たことも聞いたこともない。それはつまり、宮原の中では決着のついていることだという証明だ。

 それをわざわざ探るような趣味は、俺にはない。

「そう……そっか。ふふ……それは、斉藤の優しさ?」

「……どうかな。ただ、宮原から言われるまでは、触れる必要はないと思っただけだ」

「……そう」

 宮原の表情は不安げなものから、安堵の表情へといつの間にか変わっていた。

「じゃあさ……わたしが聞いて欲しいって言ったら、聞いてくれるの?」

 ……そんなもの、答えは決まっている。

「さっき言った言葉通りだよ。宮原が聞いて欲しいなら、いくらでも聞く。……たとえ、寝顔を見た罰を受けていなくてもな」

 宮原はふふっと、嬉しそうに笑う。

 ……その笑顔を見れただけでも、下手な冗談を言った甲斐があるというものだ。

「じゃあ……斉藤には、話そうかな」

 目を閉じ、昔を思い出すかのようにぽつぽつと宮原は語りだす。

「といっても、そんなに変わった話じゃないよ。……両親が死んだのは、まだわたしが物心つく前の話。……車での、交通事故だったの」

 ……なんとなく、そうじゃないかという気がしていた。

 両親二人を一度に亡くす……そんなことがありえるのは、きっと事故以外無いんじゃないかと。

「詳しい事故の状況は知らない……あんまり聞きたくなかったから。ただ、車同士が相当派手にぶつかったみたいで……その事故で生きていたのは、わたしだけだったんだって。そのとき、わたしはまだ生後数か月だったから……両親の顔は写真でしか知らないの」

 あの、仏壇の写真だろうか。どちらも、優しそうな笑顔で映っていた――。

「それから、わたしはおじいちゃんとおばあちゃんに引き取られたの。それからはずっとこの家で育ってきた……。だから、わたしにとっての両親は、おじいちゃんとおばあちゃん。わたしは、いつもは厳しいけど時々甘いおじいちゃんも、いつも笑顔を絶やさないおばあちゃんも、どっちも大好きで……二人に育てられて、とっても幸せだと思う」

 俺はなんとなく合点がいっていた。宮原が饅頭が好きだったり、若者に人気の芸能人に疎かったり、私服のセンスが多少古いのも、きっと祖父母に育てられたからなのだろう。

 でも……と、宮原の表情が再び暗くなる。

「両親がいないっていうと、どうしても同情されることが多くて……。だから普段は、あんまりこの話はしないんだ」

「……なるほどな」

 相槌を打つと、宮原はきょとんとした顔で俺の顔を見つめてきた。

 そして堪えきれないかのように、小さく噴き出す。

「ふふ、なるほどな……って、それだけ?」

「……なんだよ、同情なんて欲しくないんじゃなかったのか?」

「それは、そうだけどね。でも、あまりにも反応が薄かったから、逆にこっちがびっくりしちゃった」

 そうだろうか? ……そうかもしれない。

 だが、一応こちらにも事情というものがある。

「まあ……俺も両親がいないようなものだからな」

「え……?」

 俺も宮原と同様、あまりこの話は人にしたことがない。まあそもそも、話すような友人や知人がいなかったからなのだが。

 ただ……宮原が話してくれたのだから、俺も話した方がいいと……そう思った。

「と言っても……宮原と違って、俺の両親はどこかで生きてるけどな。離婚したんだ」

「……離婚」

 宮原がぽつりと呟く。……あまり、聞かせて楽しい話ではない、ささっと済ませよう。

「両親が離婚したのは、俺が小学校低学年の時だ。お互い酷く憎みあっててな……で、相手側の血を引いてる子供なんて欲しくないってことで、どちらも俺を育てる気はなかったんだ」

 話すうちに、殆ど忘れ去っていたはずの記憶が少しずつ蘇る。

「今は母方の叔父に引き取られて、その人の家に住んでる。この町に来たのも、実は小学校の途中からだ。苗字の『斉藤』も叔父のもので……もともとは『霞沢』って苗字だった。まあ、別に思い入れはないけどな」

 ……そういえば、このころからだろうか。俺が『孤立感』を覚えるようになったのは。

 両親にすら必要とされなくなった幼い頃の俺は、自分の存在意義がわからなくなった。そしてそのまま、十年近く生きてきてしまった……。

「叔父一家とも、上手くいってない。まあ突然、それほど仲の良くなかった妹夫婦の子供を育てろと言われて、はいそうですかと受け入れられるわけもないが。だから、俺はできるだけ外で時間を潰している……叔父一家の生活を、あまり邪魔したくないしな」

 本当ならば働いて、さっさと出ていくべきなのだが……信用がないからだろうか、働く許可を与えてくれない。高校に無理矢理入れさせられたのも、おそらくは世間体を気にしてのものだろう……おかげで、宮原と出会うことができたが。

「だから、俺も産みの親とは一緒に生活していないのさ。宮原が祖父母に育てられているからって、珍しいとも思わないのは、そういう理由だ。そして……両親と一緒に住んでいれば幸せ、なんてことは絶対にないことを、俺は知ってる」

 俺の両親が離婚する直前、家の中は地獄のようだった……思い出す気にもなれないほどに。それに比べ、宮原の家のなんと暖かいことか。

 動物園で宮原から『家族に連れてきてもらった』と聞いた時、きっと宮原一家は幸せな家庭なのだろう……だからこそ、宮原はこう育ったのだろうと考えた。

 実際は、宮原に両親はおらず、連れてきてくれたのもきっとおじいさんなのだろうが……宮原が幸せな家庭で育ったというのは、間違いではなかった。

 それならば……同情するなど失礼にすぎる。

「宮原が幸せなのは、今日ここにきて充分にわかったよ」

 そう言うと、宮原は少し俯き顔を赤くした。家族を褒められて恥ずかしいのだろうか?

 やがて顔をぶんぶんと振り払うしぐさをしたかと思うと、なぜかにやりとした笑顔を見せる。

「……ねえ、膝枕して」

「……は?」

 何を突然言い出すんだ。どういう話の流れでそうなった?

「いいから! 今日はわたしの言うことを聞いてくれるはずでしょ?」

 ……我が儘姫状態は継続中だったのか。俺は仕方なく枕元に位置を移し、枕に場所を譲ってもらう。正座で座る気にはなれなかったのであぐらをかくと、膝というより太ももの位置に宮原は頭を降ろした。

「……硬い」

「……そりゃ、男の身体なんてそんなものだ」

 不満を漏らす宮原だが、表情は穏やかなものだ。

「ね、熱計って」

「体温計は?」

「自分の手があるでしょ?」

 要するに、宮原のおでこと自分のを比べて、熱があるかどうか調べろということか。手汗をかかない体質に感謝しながら、俺は宮原の白くきれいなおでこに手を当てる。……じんわりと熱が伝わってくる。もうだいぶ快方しているように見えるが、まだまだ本調子ではないか。

「……冷たくて気持ちいい」

 おでこに当てた手は、どうやら熱さましとして最適な温度だったらしく、宮原は両手を使って俺の掌を上から抑え込んでしまった。おいおい、これじゃ熱を測れないだろ……。

「いいよ、斉藤の手がこんなに気持ちいいんだもん。熱があるに決まってるよ」

「……ま、それもそうか」

「そう。……熱が、あるんだよ」

 夢心地のようにぼんやりと呟く宮原を内心微笑ましく思いながら、俺は彼女の額に手を当て続けた。

 傍から見たら、ずいぶんと恥ずかしいことをやっていると思う。だけど不思議と、心穏やかに時間は過ぎていく。

 願わくば、こんな時間がずっと続けばいい。

 こうしてずっと、宮原の傍にいられたら――そう思わずにいられない。

「……ね。『斉藤』って呼ばれるの、実は違和感があったりするの?」

「ん? ……最初は変な感じがしたな。かといって、今さら昔の苗字で呼ばれたとしても違和感があるだろうけどな」

「ふーん……。じゃあさ」

 宮原はいたずらっぽく笑う。

「……下の名前で呼んだ方がいい?」

 ……せっかく心穏やかにいられたというのに。

 たった一言で、俺の心臓は鼓動を早くする。

 何度も言うが、今日の宮原は我が儘なお姫様状態だ。拒否したところで時間の無駄というもの……そういう諦観と、ほんの少しの期待を込めて、俺は答える。

「……好きなようにしたらいいさ」

「そう。……それじゃあ、一輝」

 誰かに下の名前で呼ばれたのは、何年ぶりだろうか……。

 俺の名を呼ぶ宮原の声は、想像以上に心に響いた。

「今日、最後のお願い。わたしの風邪を治してくれる?」

「……どうやってだ。簡単な看病以上のことは、俺にはできないぞ……」

「そうかな。よく言うでしょ?」

 宮原はむくりと起き上がり、俺の方へと向き直った。そして、すすっと身体を寄せてくる。

 ――宮原の頬が赤いのは、熱がぶり返してきたからか?

 ――目がとろんとしているのは、眠気が襲ってきているからか?

 宮原の顔が、眼前に迫る。

 心臓の鼓動が、激しくなる。

「――人に移すと、風邪は治るんだって」

 ふわりと、唇に――やわらかいものが触れた。

 ――頭が真っ白だ。何も考えられない。

 俺はただただ、唇に触れているものの暖かさとやわらかさだけを感じていた――。

 やがて、唇から感触が失われる。同時に宮原の顔が離れていく。

「……ね。これ、あげる」

 宮原がパジャマのボタンを一つ外す。何をしているのかと思えば、首元に何かネックレスのようなものをかけていて、それを外しているようだった。

 ゆっくりとネックレスを外した宮原は、それをそのまま俺の首にかける。一体これはなんなのかと、俺は自分の胸元をぼんやりと見た。

 胸元で揺れているのは、変わった飾りだった。

 動物の牙のように見える。片手で握って覆い隠せるほどの大きさだ。一部がくりぬかれて紐が通っており、俺の首にかかっているのはその紐だった。

 なんというか、ネックレスにしてはあまりにも飾り気がない。本当にただ、牙に紐を通しただけの一品だ。それをどうして、宮原は俺の首にかけたのだろう。

「お見舞いに来てくれたお礼」

 俺が目で疑問を訴えると、宮原はにこにこ笑いながら答えた。

「それ、両親の形見なんだ。一輝にあげる」

「……なんだって? そんなもの、受け取れるわけが……」

 俺は首からネックレスを外そうとするが、宮原の手で止められる。

「ああごめん、形見って言ってもそれほど大事なものじゃないっていうか……実を言うと、形見かどうかもわからないの」

「……どういうことだ?」

「事故で潰れた車の中からわたしが助け出されたときに、なぜか手に握っていたものなの。きっと両親の形見に違いないって言われて、それ以来ずっと持っていたんだけど……でも、形見にしてはちょっと意味がわからないものでしょ?」

 それはまあ……確かに。家族の写真の入ったロケットとかならば理解できるが……。

「たぶん、どこかのお土産品だと思うんだけど、どこの物か未だに分からないの。だからね、本当のところ扱いに困ってて……。でも、大事なものでは間違いないから。……あなたに、持っていて欲しいんだ」

 俺は胸元で揺れる牙を、ぎゅっと握りしめる。

 嬉しい。

 宮原にこんな大事なものを託される存在になれたことが……例えようがないほど嬉しかった。

「……わかった。絶対に、大切にする」

 宮原をまっすぐ見ながら、俺は誓う。宮原は安心したように微笑んで、もう一度顔を寄せてきた。

 こつりと、お互いの額が当たる。

「……ありがとう」

 ささやいた宮原と、俺はもう一度――唇を重ねた。




 その後の記憶は曖昧だ。

 時間は覚えていないがいつの間にか帰ってきていた幸枝さんに、どんな内容だったか覚えていない帰りの挨拶をして、俺は帰宅の途についていた。はっと気が付いたときには、既に自宅の前だった。

 家についてからもなんだか全身が熱くて、頭がボーっとしていた。さっさと眠ってしまおう……と、俺は夕飯も食べずに布団に潜り込む。

 ――翌日。案の定、俺は風邪を引いていた。

 どうやらきっちりと、宮原の風邪を移されたらしい。結局土日の二日間、俺は布団の上で寝て過ごす羽目になった。

 俺に移ったということは、宮原の風邪は治ったということだろうか……一応、宮原の最後のお願いは達成することができたわけだ……。

 寝込んでいた二日の間、それはもう酷い夢ばかり見ていた。

 何せ、毎度のように宮原が出てきて、俺の名前を優しく囁き続けるのだ。頭がおかしくなりそうになって目が覚めると、そのたびに汗で寝巻がびっしょりと濡れている。

 そんな夢を繰り返し見ながら、土日の二日間は過ぎ去った。なんとか体調を快復させた俺は、真っ白な状態の進路希望プリントをカバンに突っ込み、学校を目指す。そういえば、宮原に月曜日が提出期限だと伝え忘れたな……なんて、呑気なことを考えながら。



 ――本当は、そんな呑気にしていられる場合ではなかったのに。

 だが仕方がない……このときの俺は、想像もしていなかったのだ。

 他人事のような世界で、孤立感に苛まれたとしても……これからは何度でも、宮原が名前で呼んでくれると……。彼女が、この世界で俺に居場所を与えてくれるのだと、そう思っていた。

 まさか三日前のあの日が、名前を呼ばれた最後の日になるなんて――。

 その時の俺に、想像できるわけがなかった。

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