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「……斉藤。斉藤一輝さいとうかずき

 名前を呼ばれて、席を立ちあがる。

 机の間を抜けて教壇に近づき、教師から成績表を受け取った。

 自分の席に戻り、貰った成績表の中身を見る。……二学期の頃と大して変わりがない。まあ、特にこれといって努力をしていたわけでもなく、期末テストの結果に自信があったわけでもない。こんなものだろう。

 高校生活の一年目が終わった。……俺にしては、よく頑張ったと思う。

 教室内には浮かれた空気が蔓延している。成績表を受け取り、中身を見るという苦痛さえ乗り切りさえすれば、あとは春休みが待っている。夏に比べれば短いとはいえ、しばらくの間勉学の縛りから解放されるのだ、嬉しくないはずがない。

 クラスメイトたちが休みの間にどこへ行くか計画を立てている傍ら、俺は帰り支度を纏め終える。成績表さえ受け取れば、もう学校にいる理由はない。教師が全員分の成績表を配り終え、解散の挨拶をしたらすぐに教室を出ていくつもりだった。

 成績表を受け取って、一喜一憂しているクラスメイトたちをぼんやりと眺めながら、時が過ぎるのを待つ。

 クラスメイトたちの成績表への反応は様々だ。笑顔を浮かべる者、ため息をつく者、大げさに崩れ落ちる者、ほっと胸をなでおろす者――。リアクションの大小はあれど、誰しも多少は反応を示している。

 ――どうして、ああも成績ひとつで顔色をころころ変えられるのだろう?

 俺だけがおかしい。成績に変化がなかったとはいえ、目に飛び込んできた数字を見て、俺は眉一つ動かさなかった。成績を維持できた安心感すら、なかった。

 ――他人事のような気がしてならない。

 学校が、勉強が……自分自身の成績ですら。

 その一種虚無的な感覚に常に蝕まれながら、俺は高校生活の一年間を耐え抜いた。

「…………」

 教室の中で、俺だけが宙に浮かんでいるような気がする。他のクラスメイトたちは学校という場所にしっかりと地に足をつけて生活しているのに、俺だけはふわりと浮いて、落ち着かないような――。

 こういうことを考えるたびに、とあるひとつの思いが胸の中に湧き上がる。

 ――俺の居場所は、ここじゃないんじゃないか。

 この世界は、俺を必要としていないんじゃないか。

 こことは違う別世界がどこかにあって、俺はそこの住人なんじゃないか――。

 ……そう思わずには、いられないのだ。

 馬鹿馬鹿しい子供の妄言だと、自分自身でも思うけれども……。

 俺はいつまでたっても、高校一年生が終わる今でさえも……この『孤立感』が捨てられずにいた。




 下校のチャイムが鳴り響き、教室内でクラスメイトがざわついているのを尻目に、俺は荷物をひっつかんで一足早く教室を後にした。

 俺の通う高校は、一年生の教室が三階……つまり最上階にある。一学年上がるごとに一階ずつ下がっていく仕組みだ。新入生は苦労をしろ……というわけでもないのだろうが、下駄箱から教室までの距離が遠いのは非常に鬱陶しいことだった。来学期になれば多少は緩和されるのだが……そんな些細なことで来学期が楽しみになることは無い。できればもう、学校には来たくないくらいだ。

 階段を一段ずつ、たんたんたんとのんびり降りる。一目散に教室を出たが、別に急いでいるわけではない。むしろ時間を潰す必要があるので、歩くスピードは自然とゆったりとしたものになる。……とはいえ、意味もなくだらだらと歩く趣味もないのだが。

 階段を下りきるが、下駄箱のほうへ直接は向かわず、少しだけ寄り道をする。

 廊下の突き当りにあるのは図書室だ。引き戸のガラスに貼りだされている紙を見て、俺は小さくため息をついた。……今日の図書室は、いつもより大幅に早く閉まってしまうのだ。学期最後の日だからなのだろうが……普段は家に帰るまでの時間を潰すのに非常に重宝していたので、困ってしまう。

 くるりと踵を返して下駄箱へ。靴を上履きから外履きのスニーカーに履き替えながら、これからどう時間を潰そうか考える。

 ……そもそも今日に限らず、春休みの間もどうするか考えなくてはならない。芸がないが、無難に町の図書館でいいだろうか。特別本が好きなわけではないが、読んでいる間は確実に時間が潰れる。誰にも文句は言われないし、春休みの間はそれで過ごせるだろう。

 しかし、今日に限っては少々勝手が悪い。図書館は学校から行こうとすると、自宅を挟んで反対側にある。さすがにそこまで歩いては、現地についたところで大したことはできない。ただ疲れるためだけに歩き回るくらいなら、ぼーっと何もしないほうがマシだろう。

 遊べる金はない、喫茶店などで時間を潰すのは却下だ。ウィンドウショッピングという手もあるが、趣味じゃないし、俺は人混みがあまり好きじゃない……商店街やショッピングモールも避けたい。

 となると、俺の住む町で行ける場所は、自然と限られてくる。

 目的地を定め、俺はゆったりと歩き出した。



 俺が向かったのは、住宅地だった。

 住宅地といっても戸建てがいくつもひしめき合っているような場所ではなく、広い庭と低い瓦屋根が立ち並ぶ住宅地……どちらかといえば高級住宅地に分類される場所だった。

 住んでいるのは昔からこの地に根付いている人々なので、見るからに金の掛かっていそうな近代的な家はなく、古風な日本建築が多く立ち並んでいる。とはいえ、裕福な人々の住んでいる土地であることは間違いがない。

 俺がこちらへ足を向けた理由は、別に知り合いがいるからというわけじゃない。単に人が少なくて、静かな場所だからだ。閑静な、という言葉がこれほど似あう場所を、俺は他に知らない。

 ただ散歩をするだけならば、ここはそんなに悪くない場所だった。どこの家の庭も広いので家に圧迫される感じがしないし、のんびり歩きながら眺める分には住民から小言を言われることもない。そもそも高校生が一人歩いていたところで、ここの住民たちは気にも留めない。その無関心はきっと余裕から来るもので、俺の中に渦巻く、全てが他人事のように思える感情とは全く違うものなのだろう……。

 住宅地の中をのんびりと練り歩く。ただふらふらと歩いているわけではない。一応、ちゃんとした目的地もある。

 じっくりと時間をかけて住宅地を抜け、目の前に見えてきたのは、果てしなく長い階段だった。

 この住宅地は、山の麓に広がっている。そして山には小さな神社があり、目の前に見える階段はその神社の境内へと繋がる階段だった。

 年末年始などには一応人が集まるそうだが、この町の近くにはもうひとつ神社がある。そちらのほうが交通の便が良く、また規模も大きく有名なので、町の人間の初詣はもっぱらそちらに集まるようだ。

 では住宅地に住む人間だけが利用しているのかと言われればそんなことはなく、住民は大抵が高齢者であり、高齢者が参拝をするにはこの階段はあまりにも長大すぎる。結局、住宅地の人々も、もう一つの神社へと赴くらしい。

 つまり、人がほとんど訪れることのない、寂しい神社だということ。

 ――そういう場所が、俺は好きだ。

 長い階段に、俺は一歩足を踏み入れる。登りきるまでには息も切れているだろう、無駄な努力は望むものではないが……両脇に木々が立ち並び、天へとまっすぐ伸びているように見える階段を踏みしめて登っていくのは、なんだか神聖な感じがしてくるので、決して無駄という気がしない。……俺は宗教とは無縁の生活をしているので、単に気分の問題なのだが。

 それに、誰もいない階段を一人で登っていると、どこか別世界に迷い込んでしまいそうな気がするのだ。

 ――この階段の先に、誰も知らない世界が広がっているんじゃないか。

 辿り着いた別世界こそが、俺の居場所なんじゃないか……そんな妄想が、頭をかすめていく。

 だが実際には、そんなことあるはずもない。あくまでここはただの神社であり、別世界への通り道などでは決してない。階段を上った先には鳥居があり、神社の拝殿があり、一応賽銭箱もある。小さな拝殿の縁側には腰掛けることもできた。何せいつも誰もいないので、勝手に入ったからと注意されるようなこともない。そこでのんびり時間を潰すのも、悪くないと思ったのだ。

 無心で足を動かし続ければ、果てしなく思われた階段にもすぐに終わりが見えてきた。色あせて、古さが際立つ鳥居が顔を覗かせている。

 あともうひと踏ん張り……と足に力を籠め、残りの数段を一気に登りきる。

「…………」

 階段を登り切った俺は、息を切らしながら立ち尽くした。

 鳥居を潜った先には、先客がいた。

 短い髪が、風に揺れている。華奢な体躯を見て、よくこの階段を上ってきたものだと感心した。

 運動をするのには、あまり適さない服装だと思う。……なにせ俺の通う高校の、女子の制服だったからだ。

 彼女は、拝殿を見ていた。賽銭を投げるでも、何かを祈るでもなく……ただ、見ていた。

 やがて俺の存在に気付いたのだろう、ゆっくりと、こちらを振り返った。

「…………斉藤?」

「…………宮原、か」

 今日までクラスメイトだった、宮原望美みやはらのぞみが、そこにいた。



「……びっくりした、まさかこんなところに人が来るなんて。どうして斉藤がこんなところに?」

 全面的に、こちらの台詞だった。

 目の前で大きな瞳をぱちくりさせながら驚いている女子は、宮原望美。俺と同じ高校に通い、俺と同じ教室で一年間過ごしたクラスメイト……いや、今日からは元クラスメイトだ。

 宮原とは中学が違うので高校から知り合ったことになるのだが、人の名前をすぐに忘れる俺が、珍しくしっかりと記憶している生徒の一人だった。

 それは決して、特別な思い出があるとか、印象的な出来事があっただとか、そういう類の理由があるわけではない。

 彼女は、とても人の目を引くのだ。

 髪は短くさっぱりとして、色を染めたりはしていない。スカートの丈は少し詰めているようだが、他の女子と比べて特別短くしているわけではない。……見た目の特徴だけなら「普通の学生」であるはずなのに、彼女は間違いなくクラス内でもっとも目立っていた。

 影が薄い人間というのがいる。例えば飲食店でいつまでも注文を聞かれなかったり、隠れているわけでもないのにそこにいることに気付かれず、人にぶつかられてようやく存在を知られるような人だ。

 宮原はその逆……影が濃い人間とでも言えばいいだろうか。

 宮原は特別、目立つ行動が多い生徒ではない。大きな声で馬鹿笑いをしたり、授業中に率先して手を上げたり、何かドジをして注目を集めることもない。立ち回りとしてはごく普通の生徒であるはずなのに、彼女には不思議な存在感がある。

 それは、特別なオーラを纏っていると表現してもいいのかもしれなかった。

 加えて宮原は、模範的な生徒でもあった。明るく人当たりのいい宮原は友人も多く、学業も優秀で教師の憶えもよかった。休み時間のたびに誰かしらが彼女に話しかけていたし、いつも賑やかに下校していたことを覚えている。

 さらに言うと……宮原はずいぶんと、目鼻立ちが整っていた。学校一ではないものの、クラス内では間違いなく群を抜いていただろう。それに生まれ持った存在感が合わさり、普通の美人とはちょっと違う雰囲気を持っていた。

 宮原は常に人を惹きつける。容姿と、人望と、存在感によって。

 つまり……おおよそ、一人きりでいるイメージが全く湧かない人間なのだ。

 その宮原が、なぜかこんな辺鄙なところにいる。

 決してたどり着くのが楽ではない長い階段を登り切り、全くひと気のない寂れた神社に、一人きりで。

 俺が驚いて黙り込んでしまうのも、無理からぬことだろう。

「……? ねえ、どうしたの?」

 可愛らしく小首をかしげながら、宮原が問いかけてくる。計算でやっている動きだとしたら、大したものだ。

「……ただの散歩だ」

「さんぽ? あはは、春休みに入ったばかりの高校生のやることじゃないね」

 ころころと笑うその声は、驚くほど耳障りがいい。……少し背筋が寒くなるほどだ。

「放っとけ。そういうお前こそ、どうしてこんなところにいる」

「わたし? わたしはね……」

 宮原は少しだけ考えるようにして、いたずらっぽく笑った。

「……そうだね、わたしも散歩……かな?」

 春らしい暖かな風が、神社の中を吹き抜ける。

 風に吹かれて揺れる艶のある髪とスカートが、反則的なほど絵になっていた。

「……そうか」

 俺は意識して宮原から視線を外す。そのままでいると、見入ってしまいそうだったからだ。女子をじろじろと見て、いいことのあった試しなどない。

「あれ? なんのツッコミもなし?」

 ……俺は別に会話を楽しみたいわけでもないのだから、ここにいる理由を茶化されたところで付き合う義務はない。

 当然こいつは友達と遊びに行っているものだと思っていたから思わず訊ねてしまったが、そもそも宮原がなぜここにいるのかなんて、俺にとってはどうでもいいことのはずなのだ。

「散歩なら散歩で、一向にかまわない。別に興味もないしな」

「あ、ひどい。そっちが聞いてきたのに……。でも、冗談で誤魔化しちゃったのはゴメンね。本当のことを言うと、わたしここにはよく来るの。神社が好きなんだ」

 クラスの人気者である女子高生が神社好き?

 なんともミスマッチな感じがする。また冗談かと顔を向けると、宮原は不満そうに眉を曲げた。

「あー、疑ってる顔。ホントだよ? 家が近いから、気が向いたらふらっとここまで来るんだ。別に神頼みをするとか、そういうわけじゃないんだけど……。神社ってどことなく、神聖な感じがするでしょ?」

 階段上りに神聖さを感じていた俺が言うのもなんだが、こんな寂れた神社に神聖さも何もないと思うが……。

 しかし宮原は拝殿のほうを眺めながら、感慨を込めて呟いた。

「……どこか別世界にいるような、不思議な感じ――」

 俺はどきりとした。

 俺がたまにこの神社に訪れる理由もまさにそれであったので、心を見透かされたような気がしたのだ。神社に続く階段を上っていると、別世界に迷い込んでしまうような気がする――。その感覚が好きだから、俺は鬱陶しいほど長い階段を上ってこんなところまで散歩に来ている……。

 ……なんだか変な感じだ。常に一人でいる俺と、周囲を友人で囲まれている宮原は、言ってしまえばクラス内でも対角線上にいるようなもので、この一年間まるで接点がなかった。その二人が近所の寂れた神社で……同じような感覚を共有している。

 不思議なこともあるものだ。人とは案外、誰とでも接点があるものなのかもしれない。とはいえ接点から人間関係を繋げていこうという気には……俺はならないのだけれど。

「そうか。それは邪魔をして悪かった」

 別世界のように感じる神社が好き……それは一人きりになりたいという感情から来る気持ちなのではないかと俺は思い、宮原に謝罪の言葉を投げる。

 常に周囲に人が集まる宮原のことだ、たまには一人きりになりたいときだってあるんじゃないだろうか。そして、一人きりになりたいときに邪魔される煩わしさならば、俺にだってよくわかる。

 ところが宮原は驚いたように振り返り、大げさに手を振った。

「え? いやいや、そんな邪魔だなんて……。それを言ったら、斉藤だってそうじゃないの? 一人きりになりたかったから、この神社まで来たんでしょ?」

 それはそうだが。先に着いていたのは宮原で、闖入したのは俺のほうだ。どちらかが去れというのならば、俺が去るのが道理だろう。

 そう言おうとしたのだが、俺が口を開く前に宮原はててっと駆け出し、俺の脇を通って階段に向かった。

「わたしはいつでも来れるからさ。ほんとに家近いんだよ、ここから歩いて三十分もしないところなの。だからわたしが先に帰るね。せっかく一人のんびりしに来たのに、邪魔しちゃってゴメンね」

「いや、だから……」

 邪魔をしたのは俺の方だろう……と言おうとした俺の頭に、冷たい刺激が走った。

「……ありゃ?」

 宮原がきょとんとした顔で、空を見上げる。つられて俺も上を仰ぎ見た。

 ……さっきまでは晴れていたはずだが。空はいつの間にか灰色の雲に覆われている。厚く重なる雲を見上げていると、頬にぽたりと雫が落ちてきた。

 視線を下げる。宮原も同時に顔を下げて、困ったように笑った。

「……あはは、傘持ってきてないや」

 頭を叩く雫の量が、少しずつ勢いを増していった。



 しとしとと雨が降りしきっている。拝殿の屋根に雫が伝い、一定のリズムで地面にぽちゃりと落ちる。辺りは湿気に包まれて、木製の建物に水分が沁み込んだ独特の匂いが鼻をかすめる。

 俺と宮原は、本格的に雨が降り出すと同時に拝殿へと駆け込み、雨宿りをしていた。

 少し前まで晴れていたことを考えると、この雨はきっと通り雨なのだろう。しばらくすれば止むだろうし、もともと俺はここでのんびりしようと思って来たのだから、予定通りと言ってよかった。

 ちらりと、視線を隣に座る宮原へと向ける。

 宮原は縁側に腰かけ、足をぷらぷらと揺らしていた。視線は上向きで、雨の降り続ける曇り空をぼんやりと見上げている。

 俺は視線を前へと戻す。

 ……なんとも気まずい時間だ。

 偶然の雨だったからこうして隣同士、縁側に腰掛けてはいるが、普段通りであればこんなところで二人きりになるなど考えられないことだ。

 俺は宮原のことを、クラスメイトであること以上は何も知らない。殆ど他人といっていい関係だ。そんな相手と二人きりでいなければならないという状況が、息苦しくて仕方がない。

 その上、逃げ出すことすら叶わない。傘を持っていないのは俺も同じだ。結局は雨が止むまで、神社で二人時間が過ぎるのを待つしかないのだ。俺は神の存在を信じてはいないし、ここの神社がどんな神を祀っているのかも知らないが、今はすぐにでも雨が止むことを、神に祈らずにはいられなかった。

「…………」

 しかし宮原には、あまり気にしている様子は見られない。

 ……なんだったら、携帯電話でも眺めていてくれればまだマシなのだが。携帯電話を眺めているということは、こちらを無視しているのと同義だ。そちらがそうならば俺も遠慮なく宮原のことを無視することができる。だが宮原は空を眺めるばかりで、他の事を気にするそぶりすら見せない。

 雨は止む気配を一向に見せてくれない。祈ったところで叶えてはくれない神に、内心で恨み言を呟いていると、宮原から唐突に話しかけてきた。

「……斉藤はさ」

「……ん」

「携帯とか、見ないんだね。てっきりわたしのことなんて、気にしない人だと思ってた」

 ……だからそれは、こちらの台詞だと――。

「斉藤ってなんか……皆とは違う場所にいるみたいに見えるから。見えてる世界が違うというか……皆が大切だと思っていることに、まるで興味がないみたい。だからわたしのことなんて、気にも留めないと思ってたんだけどな」

 ――心臓が跳ねる。

 本当に、見透かされているようだ。俺に対する評価なんて、やる気がなさそうだの、愛想が悪いだの陰気な感じがするだの……そういったもので終わるのが普通だ。

 だというのに宮原は――今日初めてまともに喋ったはずのクラスメイトは、俺が心の底であらゆるものを他人事のように感じていることを――もしかすると、別世界に居場所を求めていることすらも、見透かしている。

 それでいて、宮原には遠慮がなかった。俺が周囲から隔絶していることをわかったうえで、宮原はなんでもないような気軽さで、俺の心の中にするりと入り込んできた。

 ――ぞくりとする。

 この感情は、一体なんだ?

「……そっちだって見ていないだろう」

 苦し紛れに、俺は言い返した。返事が返ってきたのが嬉しかったのか、宮原は小さく微笑む。その笑顔がまた、俺の心を震わせる。

「んー……、だって二人きりでいるのに携帯ばっかり見るなんて、失礼じゃない」

「……その理論だと、お前は俺のことを『二人きりでも平気で携帯電話をいじくる、失礼な男』だと認識していたということになるが」

 とはいえ、俺は人の名前をよく忘れるし、その場その場で適当なことを言って話を流すことも多い。一般的に、そういう人間は失礼な人間といって差し支えないだろう。

 しかし宮原は大きな瞳をぱちくりと瞬かせ、

「……あ! べ、別に斉藤のことを失礼な人だと思ってたわけじゃないよ? 今のはその……言葉の綾ってやつ」

 少し慌てたように、笑顔を取り繕った。今更感溢れるフォローありがとう。

 しかし、今のでちょっとだけ心に余裕ができた気がする。

「……まあいいけどな。俺は別に、人に対して失礼がどうとか考えているわけじゃない。単に携帯電話を持ってないだけだ」

「? 家に忘れてきちゃったの?」

「いや、そうじゃない。自分の携帯電話を、持ってないんだ」

「…………え」

 衝撃のあまり硬直する人間を、俺は生まれて初めて見た。

 面白いくらいに目を泳がせていた宮原だったが、やがて問い詰めるようにこちらに身を乗り出してきた。……距離が近くなって心臓に悪いので、こちらが少し身を退く。

「も、持ってない……? 携帯を? それじゃあ、友達に連絡したい時とかどうするの?」

「……俺にそれを聞くか?」

「あ、ゴメン……じゃなくて! じゃあ家族! 家族に連絡をしたいときは?」

「俺がどこで何をやっていようと、気にはしないさ。あっちから連絡したいことだってないだろうし」

 俺のそっけない返答に、宮原は何と言って返せばいいのかわからないようで、口元を手で押さえながら眉根を寄せていた。

 ……家の話は俺にとってもあまり望むところではないし、話を変えるか。

「俺のことはともかく、宮原は連絡を取らなくていいのか。雨で帰りが遅くなれば、心配もされるだろう」

 花の女子高生、それも眉目秀麗な宮原を夜一人歩かせるのは、保護者としては心配でしょうがないだろう。この雨がいつまで続くかはわからないが、帰りが遅くなりそうならば連絡をしといたほうがいいんじゃないのか。

「あ、そうだね……本当に遅くなりそうになったら連絡する。さっきも言ったけど、ここから家まで近いんだ。心配しなくても大丈夫だよ」

 ……別に俺は心配していない。

 だがまあ最悪の場合のことを考えて、送ってやるくらいのことは覚悟しとくか……。

「そういえば、斉藤はどこに住んでるの? この神社を知っているくらいだし、もしかしてご近所様だったり?」

 宮原が冗談っぽくはにかみながら問いかけてきた。ころころ表情の変わるやつだ……。

「そうだな、だいたい……」

 神社の階段を下りて、住宅地を一直線に通り抜け、国道沿いを歩いて……。

「……ここから、三十分てところか」

 ……ん? この数字は、つい最近聞いたような気がする。

「三十分って……じゃあ、わたしの家までの時間と大して変わらないじゃない。あ、方向が逆方向とか?」

 俺が自分の家の方角を簡潔に伝えると、宮原は首をかしげてしまった。

「あれー、方角も一緒……もしかして本当にご近所さんなの? でも、小中学校は一緒じゃなかったよね……」

 それは間違いないだろう。宮原のようなオーラのある同級生がいれば、小中学校の九年間で必ず一度は目にしていたと思う。俺と宮原は間違いなく、高校で初めて出会ったはずだ。

 それでは、この一致はなんなのだろう。

「あ、もしかして?」

 何かを思いついたように目を見開いた宮原が、俺にある質問を飛ばしてきた。嘘を言う理由もないので、俺は正直に問いに答える。

「……やっぱり、学区が違ったんだ」

 俺たちの住む街の学区は、一本の流れる川によって区分けがなされていた。俺の住んでいるのは川の北側で、宮原の家は南側。学区が違えば当然通う学校も違う。それゆえ、今までそれなりに近い場所に住んでいるのにも関わらず、一度も会う機会がなかったらしい。

 少し考えてみれば、なんてことのない事実だ。

 だが宮原は何がおかしいのか、楽しげに笑った。

「なんか不思議だね。こんな近くに住んでいながら一度も会うことがなかったのに、春休み最初の日に神社で偶然会うなんて」

「……そうか? 近所って言っても目と鼻の先じゃないんだ、顔を見たこともない人間の一人や二人、いてもおかしくはないだろ」

 俺たちの住む町は決して過疎地域ではない。そこそこの人数が住んでいて、子供の数だって少なくないはずだ。男と女なんだから、普段よく行く場所だって違うだろうし、今まで出会わなかったからといって不思議とまではならないだろう。

 ……あと、春休み最初の日は明日だぞ。

「……それに、宮原と違って俺は目立つ人間じゃない。もしすれ違っていても、気付かなかった可能性だってあるだろ」

 気付かなければ、会ったことにはならない。俺はひと気の多いところは好かないし、地味な人間だから存在を見逃しても何もおかしくはない……と思って言ったのだが、宮原はきょとんとした顔をした。

「え? 斉藤は目立つよ、いつも一人でいるから」

 …………そうなのか?

 人から見られているという感覚はないんだが……。

「それは斉藤が周りを気にしてないからでしょ。実際にはクラスの中で一、二を争うほど目立ってたと思うよ? だって斉藤、オーラがあるもん」

 オーラ?

 それこそ宮原によく似合う言葉だ。俺にふさわしいものとは思えない。

「オーラっていうか……空気? さっきも言ったでしょ、斉藤だけちょっと、違う場所にいるというか……違うものを見ているというか。たぶんだけど、みんなそれをうっすらと感じてるんじゃないかな。だから斉藤のことは目につくけど、話しかけようとする人はいないの」

 違う場所にいる……か。

 寂しいという感情は湧かない。むしろ、それが当然なのだという感じがする。

 極端な話、教室の中に宇宙人や異世界人がいればきっと孤立するだろう。

 俺はクラスメイトにとって、異人なのだ。孤立するのは当然のことで、クラスメイトも俺自身もそのことに納得している。だからクラスで一人きりでいることに、俺はなんの疑問も感情も抱かない。

 宮原の評にストンと納得した俺は、少しだけ胸がすくような気持ちになった。

「……そうか。だとしたら、俺と宮原が今まで会わなかったことにも納得がいくな。俺は常に人から距離を置かれて一人きり……宮原は逆に、人の中心にいたんだ。言わば全く別種の人間同士だったんだから、接する機会なんてあるわけない」

 近場に住んでいながら会わなかった理由として、これ以上のものはあるまい……と俺は自説を披露したが、隣に座る宮原からの返答がない。 

 一体どうしたのかと顔を向けると、宮原は降ろしていた足を両方とも縁側に上げ、膝を抱え込んでいた。

 ……なんだ、突然。

 先ほどまでの華やぐような表情は完全になりを潜め、今や宮原の顔には影が差している。

 普段の宮原であれば決して浮かべないだろう物憂げな横顔に、心臓がどきりと鳴った。……俺は何か、触れてはならないことに触れてしまったのだろうか?

「人の中心……かぁ」

 気怠げに言葉を漏らす宮原はどこか妖艶で、俺は弾む心臓を抑えるのに難儀した。

「……? なんだ、違うのか?」

 俺は今まで、宮原が一人でいたのを見たことがない。だからこそ、こんな辺鄙な場所に一人きりでいることに驚いたんだが……。

 宮原はゆるゆるとかぶりを振る。

「ううん、違わないよ。でも……」

 そして――自嘲したように笑った。

 こんな表情もするのかと、俺は一瞬、その儚げな笑顔に心を奪われた。

「わたしと斉藤って、そんなに違うわけじゃないよ。わたしは輪の中で、一人きりだから」

「……よくわからんな。人の中にいれば、それは一人きりじゃないだろう」

「そうかな……?」

 宮原はじっとこちらを見つめてきた。潤んだ瞳に、吸い込まれそうになる。

「……例え、わたしが心の底から皆との会話を楽しんでいなくても?」

 心臓が、どくりと脈打った。

 ……俺は今、何を聞いているんだ?

 宮原は、クラスの人気者だ。男女問わず、生徒のみならず教師からの信頼も厚い。誰に対しても人当たりがよく、友人の類は両手の指じゃ数えられないほどいるだろう。

 その宮原が……友人との会話を、本当はどう思っているって?

 これは……俺が聞いてもいいことなのか?

「クラスの皆と話していると楽しいよ……これは本当。だけど……ふと、自分が一人きりでいるような気分になるときがあるの。お喋りの途中でだよ、不思議でしょ? 一度そのことが頭をよぎったらもうダメ、会話の内容が全部他人事みたいに聞こえるの……。変に思われないように、必死に笑顔浮かべて誤魔化してるけどね」

 自分が一人きりに思える……それは、俺がクラスで一人だけ宙に浮いたような気分になっているのと似たものなのだろうか。地に足がついていないような、落ち着かない感覚。

 この世の全てが、他人事のように思える感覚――圧倒的な『孤立感』。

 あれを宮原も感じている……?

 そんな、馬鹿な。

「……何故俺に、そんな話をする?」

 俺は思わず訊ねていた。

 これは宮原の内面……それもかなり芯に近い部分に関わる話だと思う。そんな重要な話を、なぜ今日初めて話したような、俺なんかにしているんだ。

「……あはは、こんなこと突然話したら、そりゃ驚くよね。わたし自身、ちょっとびっくりしてるくらいだもん。でもどうして斉藤に話したのか考えてみると……そうだなぁ」

 疑うような視線を向ける俺に、宮原は笑った。

 それはまるで……心の底から安心しきったような、子供のような笑顔だった。

「なんとなく……斉藤のこと、仲間みたいに思ってたから……かな」

 仲間……か。

 ――本当に、あの宮原が俺と同じことを考えているのか……?

 全てが他人事のように思えてしょうがない、自分の居場所が見つからない感覚……そして『ここではないどこか』に強く居場所を求める気持ち。

 宮原がそこまで考えているのかどうかはわからない。だが、神社のことを『別世界にいるようで好き』だと言う宮原のことだ、もしかしたら、近いものは感じているのかもしれない……。

 すると、本当に……?

「……なんてねっ」

「……は?」

 俺が黙りこくっていると、宮原は突然明るい声を出した。

「もう、冗談だよ。決まってるでしょ? ちょっとびっくりさせようかと思っただけ。斉藤ってば、真剣な表情で黙り込んじゃうんだもん、こっちがびっくりだよ」

 はっとするほどの表情の変化だった。今の宮原には先ほどまでの暗い表情が、見る影もない。まるで、幻だったかのように。

 冗談。……冗談か。

 ……そうか、それはそうだよな。あの宮原が、友人と話していて孤独を感じることなど、あるわけがない。きっと、俺に合わせたジョークを披露してくれたのだろう。

 孤独、落ち着かない感覚、別世界への憧れ……。宮原との会話の中に散りばめられていた言葉が積み重なって、つい真剣に話を聞いてしまったが、普通に考えればあらゆる点で俺とは対照的な宮原が、俺と同様の感覚を得ているわけがないじゃないか。俺はまんまと、乗せられてしまったわけだ……。

 それなのに……どうしてだろうか。

 俺の口から、言葉が勝手にまろび出た。

「……俺と宮原が仲間かどうかはわからない。でもまあ……愚痴ぐらい、好きなだけ話せばいいさ」

 きょとんとした顔で、宮原はこちらを見ていた。

 ……ああ、俺は何を言っているんだ? 本当に今日はどうかしている。宮原の事は、文字通り『他人事』じゃないか。俺が何か、気を利かせる必要など全くないはずなのに。

 なんだかんだで、俺も春休みで浮かれているのだろうか。……きっと、そうに違いない。

「……だから、冗談だってば」

 宮原は、くすぐったそうに笑っていた。見つめられているのが恥ずかしくて、俺はついつい目を反らす。

 ……おかげで、宮原がどんな顔をして次の言葉を言ったのか、はっきりとわからなかった。

「だけど……ありがとう」

 ただ、ちらりと視界の端に映った宮原は、安心したような笑顔を浮かべていたように思う。



「雨……やまないね」

 雨が降り出してから、かれこれ三十分以上経つ。いまだ空は灰色の雲に覆われ、晴れ間の見える気配はない。

 先ほどの会話から、しばらくの間俺たちの間には静寂が漂っていた。だがさすがに、ただ空を見上げ続けるのにも飽きたのだろう、宮原が普段の調子で話しかけてきた。

「そうだ。ね、斉藤のこと教えてよ」

 それはまた唐突な。だいたい、教えられるほど面白い情報はない。

「別にいいよ……というか、面白トークを期待してるわけじゃないよ。単に斉藤のことを知りたいだけ。だって一年間クラスメイトだったのに、どういう人柄なのかすらまともに知らないんだもん」

「……クラスメイトなのも今日で終わりなんだ、知ったところで何も得しないだろ」

「むー、来年も同じクラスかもしれないじゃない」

 ……そんなむくれた顔をするなよ。というか、そろそろ縁側に上げた足を下ろしたらどうだろうか。短いスカートでそういう座り方をすると、その……見えるぞ。

「俺たちの学年は七クラスもあるし、文理選択だってあるだろう。同じクラスになる確率のほうが低い」

「斉藤が選択したのは文系? それとも理系?」

「……文系だが」

「わたしも文系選択、これで四クラスに絞られたね。それならだいじょーぶ、わたし運がいいから。ほらほら、お話しよ、お話。ちょっと話しただけでも、これまでのイメージを覆されて意外だったし、もっと話せばきっと仲良くなれるよ」

 運がいいから、ってのはどういうことだ。そのままの意味だと、俺と同じクラスになりたいと宮原が望んでいるように聞こえるんだが。

 ……というか、俺と仲良くなりたいって、今そう言ったか?

 …………………………。

 い、いやいや、落ち着け。それは一旦置いておこう。

 イメージを覆されて意外だったとは? これまでの会話で、何か意外性のある発言などしただろうか。

「例えば、こうやってきちんと話に付き合ってくれること。てっきり無視されるか、せいぜい相槌打つだけだと思ってた」

「……まあ別に、人と話すのが嫌で仕方ないというわけではないし」

「じゃあ、なんでクラスでは誰とも話そうとしないの? 休み時間だけじゃなくて、授業でもまともにクラスメイトと話しているところ見たことないよ」

「嫌いなわけじゃない、が……別に、好きなわけでもないからな。だいたい、教室で耳に入ってくる話題の中に、俺がついていけるような内容がない。スポーツだのファッションだの芸能人がどうだの……そんな奴が会話に交じったところで、邪魔なだけだろう」

 俺はテレビを見ないし、パソコンも持っていない。そして携帯電話も。だから、いわゆる流行の話になると、さっぱりわからないことだらけだ。

 そもそも、俺がついていける話題というものが少ない。俺の趣味らしい趣味と言えば読書だが、あくまで時間潰しの意味合いが強い。読み方に節操もないので共通の話題としては弱いし、読んだはいいが内容をすぐ忘れることも多いのだ。

「うーん、そっか……。まあ、話したくないことを話そうとは思わないよね。わたしもファッションの話はついていくのが大変で……」

 ほう。同学年でも一、二を争う美少女の宮原ともあろうものが、ファッショントレンドには疎いというか。この会話で意外性を見せてくれるのは、俺なんかよりも宮原なのかもしれない。

「昔、私服のセンスが古臭いって言われたことがあってさ……。それ以来頑張って、精一杯今風の恰好をするよう、努力してるんだけどね……。でも流行なんて毎年のように変わるから、そのたびに変えようとするとお金が足りないし……。なんとか持っている服でごまかしたりさ。ホント、大変なんだよ?」

 愚痴を吐いているというのに、なんだかずいぶんと生き生きしている。まあ、こういう話も普段はできないんだろう。だったら付き合ってやるのもやぶさかではない、か。

「それはご苦労なことで」

「あ、他人事。まあいいけどね、それはそれで楽しいから。でも、芸能人の話はホントにダメだなー。いつも聞き役に徹してるからなんとかなってるけど、全然顔と名前が一致しないんだ。斉藤って、芸能人の名前わかる?」

 宮原がいくつか名前を上げてきたが、俺に聞くだけ時間の無駄だ。わかるわけがない。

「だよね……。実際に会ったことがあれば、絶対忘れない自信あるんだけどなー。ふふ……わたし、今までクラスメイトになった人たちの名前、すぐに思い出せるんだよ。すごいでしょ?」

 それは凄い。

 俺なんて、今年のクラスメイトの名前すらまともに覚えていないのに。

「……それは覚えてなさすぎ。あれ、でも……」

 ……適当に話に付き合ってやるつもりで、何も考えずに返答していたのがまずかった。

「わたしの名前はちゃんと覚えていたよね。どうして?」

 俺は返答に窮した。……窮してしまった。

 考えてみれば、素直に『宮原は目立つから』と答えていればよかったのだ。宮原がクラス内で目立つ存在であることは誰の目から見ても、おそらく本人からしても明らかであるし、それが理由で俺が覚えていたとしても、何の矛盾もないはずだった。

 だが、一瞬返答を遅らせたことで、俺の答えは一種の意味を持つことになってしまった。咄嗟には言うことのできない『特別な理由』があったからなのだと……そう聞こえてしまうようになってしまったのだ。

 どうだろう……今から素直に答えても、なんとか誤魔化せるだろうか。

 いやそもそも、俺は別に宮原に……その、特別な感情を抱いているわけではない。返答に窮したのは単に、久々に人と話すから会話のテンポが上手く取れないだけだったのだ。

 ……宮原は、それで納得してくれるだろうか。

「……宮原は目立つからな。さすがの俺でも、覚えていたくらいに」

 多分、普段通りの調子で言えた……と思う。少なくとも表情には変化が出ていないはずだ。

 ……背中には、冷や汗がじっとりと滲んでいる。雨で湿気を含んだ空気が、鬱陶しくなってきた。ああ、この雨は一体、いつまで降り続けるんだ?

「……ふうん」

 俺が思っていたよりも、宮原の反応はそっけないものだった。

「まあ、わたしも名前だけなら芸能人でも覚えてるしね。なるほどねー」

 ……これは、話題を流すことができたと思っていいのだろうか。いま宮原がどんな表情をしているのか非常に気になるところだが、俺の首は頑なに前を向いて、隣を向こうとはしてくれなかった。

「それじゃ、斉藤の好きな食べ物って何?」

「……は?」

 またずいぶんと急な話の方向転換だ……。それとも俺がそう思うだけで、一般的な高校生の会話というのはこんなものなのだろうか。考えてみれば、教室内から聞こえてくるクラスメイト達の会話も、非常に雑多な内容だった気が……しないでもない。

「いいでしょ、教えてよ。あ、ちなみにわたしはお饅頭」

 甘いものが好き、と言えば女子高生らしい気もするが、なぜ饅頭……。ケーキとか、今ではマカロンというお菓子が人気なのではないのか?

 ちなみに俺はマカロンというお菓子がどういうものなのかすら知らない。言葉の響き的に、なんとなく中国を連想させる……。摩訶不思議な龍と書いて魔訶龍マカロン……お菓子に龍なんて字は使わないだろうし、たぶん間違っている。

「俺は、そうだな……。カレーかな、甘口の」

「え、甘口? これもまた意外だなあ、斉藤は辛いのダメなの?」

「別にそういうわけじゃない。子供の頃に出たカレーがずっと甘口だったんだ。だから俺にとって、カレーの味といえば甘口なんだ」

「へええ? またひとつ、斉藤の秘密を知っちゃったかな?」

 何が秘密か、こんなこと……聞かれればいくらでも答えるような話だ。……まあ、誰かに聞かれるようなことは、高校に入ってからは一度も無かったが。

「斉藤は、甘口カレーが好き……。ふふ、甘口カレーが、斉藤にとって特別なものなんだね」

 妙に嬉しそうな声を出すな……何がそんなに可笑しいのやら。

「特別って……そんな大したものじゃない。ただ、他の食べ物よりは好きというだけだ」

「そう? 他のものより好きって、充分特別なものじゃない? だって斉藤って、何を食べても平然としてるでしょ。お昼ご飯に売店のパンを無表情で食べてるの、知ってるんだから」

 ……俺は確かに、昼は売店でパンを買って教室で食べているが。

 まさか宮原の目に留まっているとは知らなかった。

「誰とも会話せずに教室で一人パンをかじってたら、そりゃ目立つよ……。それは置いといて、そんな食べることにすら興味が薄そうな斉藤が、はっきり好きだと言えるのが甘口カレーなんでしょ? それって、すごく特別なことだと思うよ」

 そんなことは、考えたこともなかったな……。

 確かに、全てが他人事のように感じるこの世界で、無意識のうちにでも好きだと思えるものは、充分特別なものなのかもしれない……。

「わたしね、人と新しく出会ったら、その人が特別に感じるものを知るようにしてるの。特別好きなものがあれば喜んでもらえることができるし、特別嫌いなものが分かれば、触れたりしないように気を付けることができるでしょ。どんな小さなことでも、一つ知っているだけでその人と自分を繋げてくれると思う……だからね」

 宮原は、一つ言葉を区切った。

 否が応にも、続く言葉が耳に響く。

「わたしは、あなたの特別が知りたいの」

 特別。……俺にとっての、特別なもの。

 考えてみれば、全てが他人事のように思えるこの世界でも、しっかりと記憶に焼き付けられたものはいくつもある。

 例えば、図書室で偶然見つけた、異世界での冒険譚を綴るファンタジー小説とか。

 例えば、神社へと続く長い長い階段を、一歩一歩踏みしめて歩く瞬間とか。

 例えば、教室の中ではっと目を奪われるような少女の姿とか……。

 それらは確かに、俺にとって他人事のようには感じないものだった。

 普段は直ぐに頭の中から零れ落ちていく本の内容も、その小説だけは鮮明に覚えている。長大な階段を上る行為には、疲労以上に何かを得る感触がある。

 ――人の目を引く少女の名前は、しっかりと脳裏に記憶されている。

 俺は全てのものが、他人事のように思えると……そうずっと考えてきた。

 だが、そうじゃない。俺の中にも、他人事ではすまない存在というものが、確かに存在している……。

 そう考えると、存外俺という存在も、この世界の住人であるという気がしてくる。――俺は高校に入学してからおそらく初めて、しっかりと地に足をつけて立っている気持ちになった。

 心の中に蠢く、孤独・不安・焦り・苛立ち……そういった感情が、じんわりと溶けていくような気がする。これが、この世界で生きているという実感なのだろうか?

 だとしたら、それを与えてくれたのは一体誰だ。

 俺は動くようになった首を動かして、隣に座る少女を見た。

 少女は――宮原は、真剣な眼差しでこちらを見つめている。……なので、俺も真剣に考えなくてはならない気がした。

 俺……斉藤一輝にとって特別に感じるものというのは、さほど多くない。おそらく片手の指で数えられる程度のものだ。

 だが今日だけで、それがずいぶんと増えた。神社に吹いた暖かな風も、いつまでもしとしとと降りしきる雨も、隣から聞こえてくる楽しげな声も……おそらく、俺は一生忘れないだろうと思う。まるで世界が変わったかのような……この時間を。

 その中心には誰がいるだろう。考えるまでもない、一人しかいない。

 高校生活の一年目を終えた今の俺が、もっとも特別に思っているものは何か?

 それは――。

「――そろそろ、帰らなきゃ」

「……ん?」

 宮原の声に、俺ははっと我に返る。

 物思いに耽りすぎて、宮原のことを見ながらも意識はどこかへ行ってしまってた俺は、宮原が俺から顔を背けて携帯電話を取り出していることにようやく気付いた。そろそろ帰る、という言葉から察するに、時間を確認しているんだろう。

 俺は携帯電話を持っていないし、腕時計のようなものも持っていないので今が何時何分なのかはわからない。だが、宮原がそう言うのなら、おそらく門限が近いのだろう。しかし、

「……帰るって言っても、まだ雨降ってるぞ」

 空は未だ、厚い雲に覆われ、土砂降りではないもののまだ雨は降っている。男だったら濡れるのを気にせず走って帰れる程度だが、宮原には難しそうだ。

 だが宮原はすっくと立ちあがると、

「だいじょーぶ、たぶんそろそろ上がるよ。言ったでしょ? わたし、運がいいから」

 なんの根拠もなく、そう言い放った。スカートをはたき、座った際についた埃を落とす。

 運がいいから、帰りたいときに雨が止む。そんなことを自信満々に言うやつがいるだろうか? しかし宮原は雨が止むことを確信しているようで、立ち上がったままじーっと空を見上げていた。

 つられて、俺も空を見た。灰色の雲が一面に広がっていて、晴れ間が見える隙間はない。どう見ても、まだまだ雨が続きそうな空模様だ。

 ――ところが、信じられないようなことが起きた。

「……え?」

 永遠に続くかのように降っていた雨の勢いが、急激に弱まり始めたのだ。雨粒が神社の屋根を叩く音が次第に小さくなっていき、実際に降る雨の量も目に見えて減っていった。

 つい先ほどまで、びしょ濡れになるのを覚悟しなければならない雨量だったのが、ほんの一瞬で服が少し濡れる程度まで収まっていったのだ。

 それだけで終わらない。厚く重なっているように見えた灰色の雲が、まるで意思を持ったかのように動き出した。

 道を譲るかのように動き出した雲の間に隙間ができ、そこから暖かな光が漏れだす。太陽の光だ。だいぶ落ちかかって眩さを失っているが、今まで雲に閉ざされていた地上をしっかりと明るく照らしていた。

 俺はその光景を見て、言葉を失っていた。

 こんなことあり得るのか? 宮原がそろそろ雨が上がると言った途端、それに呼応するかのように雨が止み、雲が晴れ、太陽が姿を現した。まるで、宮原がそう望んだから起こったかのように。

 世の中には、天候の変化を肌で感じ取れる人がいると聞く。例えば、農業に何年も従事している人や、自然の中で育った人などだ。だが、宮原は俺と同じこの町で育った、一般的な高校生のはずだ。気象予報士でも目指しているのなら話は別だが……噂でもそんな話は聞いたことがなかった。

 呆然と雨の晴れた境内を眺めていると、隣に立っていた宮原が縁側から降りた。

「ほら! ちゃんと晴れたでしょ?」

 宮原はそう言って、俺に笑顔を向けてきた。

 雲の隙間から顔を覗かせた太陽は――ひと気のない神社の境内で、まるで宮原だけを照らすかのように輝いていた。

 俺は見ていた。

 世界に愛されたかのように輝いている少女の笑顔をただ……見ていた。

 心臓がどくりと跳ね――俺が胸の中で抱いていた感情が、本物であると確信させる。

 俺……斉藤一輝にとって、宮原望美という少女は。

「……特別な、存在なのか」

 すべてが色あせ、他人事のように見えていた世界が、急激に彩られていくように感じる。

 それほどまでに……晴れ間の差した神社の境内で笑う少女は――綺麗だった。

「それじゃあ、先に帰るね。斉藤はまだしばらく一人でのんびりするの? でも、あんまり遅くならないようにね」

 門限が近くて急いでいるのだろうか、宮原は矢継ぎ早に言葉を重ね、

「……二年生でも、同じクラスだといいね!」

 最後にそう言葉を残して、階段を下りて行った。

「…………」

 俺はその様子を、ぼーっと見ていた。……いや、見とれていたのかもしれない。

 結局、別れの挨拶すらまともにできなかった。普段人と話してないからだろうか? 咄嗟に言葉が出てこなかったのだ。ただ一言、さようならと言うだけだというのに。それが無性に悔しくて、軽い自己嫌悪に陥っていた。

 人のいなくなった神社で、俺はしばらくの間呆けていた。

 ……今日一日だけで、俺の世界は随分と変化した。

 宮原がいなくなると、また世界は色が褪せてしまったかのように感じる。

 だが、確実に以前とは違う。俺にとって他人事ではないものが、この世界にはある。その事実を認識しているだけで、俺は地に足をつけて歩けるような気がした。

 のんびりしているうちに、空を覆う雲は完全に去っていき、今では夕日の照らす赤い空が俺を見下ろしている。さすがにそろそろ帰ろうかと、俺はようやく腰を上げて歩き出した。

 階段に差し掛かるところで、宮原が最後に言っていた言葉を思い出す。

「……はぁ、まったく」

 深くため息をつく。……急に、恥ずかしさが込み上げてきたのだ。

 ……宮原にああ言って貰えて、舞い上がっている自分が。

 本当に同じクラスになればいいと、心の中で望んでいる自分の事が……恥ずかしくて仕方がなかった。

「……別世界への憧れが、聞いて呆れる」

 結局――俺も一人の、男子高校生だったらしい。




 春休みはやはり短かった。

 俺は家と図書館を毎日往復し、手当たり次第に本を読み漁った。読んだ本には面白いものつまらないものどちらもあったが、どれを読んでもなんだか心が落ち着かず、結局記憶に残るような印象的なものはなかった。

 あっという間に休みの期間は過ぎ去り、新しい学年が始まる。二年生になり、教室は最も上の三階から二階へと下がり、朝の気怠さも少しだけ緩和される。……ほんの少し前までどうでもよいことだと思っていた変化のはずなのに、今の俺にはなぜだかありがたいことのように思えた。

 いつも通りの調子で登校し、校門を通って下駄箱へ……と思ったが、校舎の前に黒山の人だかりができていた。

 クラス替えの掲示だ。人によっては今後一年間を左右する運命の発表であり、あちこちで歓喜と落胆の声が聞こえている。

 この高校独自のシステムかどうかは知らないが、掲示は去年のクラスごとに分かれていた。ずらりと並んだ生徒の名前の横に、今年のクラスが書かれている。一年生は事前に郵送で連絡が来るため、ここに貼りだされているのは今年の二年生と三年生の名前だけだ。

 一学年七クラス、計十四クラスもの掲示が並んでいるにも関わらず、俺の名前がどこに掲示されているのかはすぐにわかった。……何せ、去年のクラスメイトの中に、抜群に目立つやつがいる。

 俺はふらりと掲示の傍へと近づき、目を凝らして自分のクラスを確認した。……なかなかいい。というのも、教室が階段から近いのだ。廊下の一番奥にある教室よりは、歩く距離が短くて済む。

 去年までの俺だったら、自分のクラスだけ確認してさっさと教室に向かっていたのだろうが……俺の視線は、勝手に一人の名前を探して動き出した。

 女子の名前。

 五十音順で掲示されているから、どちらかというと後ろの方……。

 大した時間もかからず、その名前を見つけた。名前の隣に書かれた、新しいクラスを確認する。

「……おいおい」

 そこに書かれていたのは、見覚えのあるクラス名。

 俺の隣に書かれていたものと、同じクラス名だった。

 掲示から目を離して、少し離れた位置で友人たちに囲まれている女子生徒のほうを見た。

 そいつは今年も同じクラスになった友人と祝いあったり、クラスが別れてしまった友人と惜しみあったりと、ずいぶん忙しそうにしている。一人に話しかけられるごとに表情をころころ何度も切り替えていて、後から顔の筋肉が痛くなるのではないかと少し同情する。

 一瞬だけ――目が合った。

「…………!」

 宮原望美は、こちらを見て華やかに笑った。

 ……いやいや、目が合ったのは一瞬だけだ。周りの友人に向けるはずの笑顔を、偶然こちらを見たときに浮かべていただけなのかもしれない。

 俺は掲示の傍を離れて、新しい教室へと赴く。生徒たちの喧騒が背中越しに離れていく。

 これからまた、長い時間をここで生活することになる。全てが他人事のように思えた俺にとって、学校で過ごす時間とはなんの価値も感じないもののはずだった。

 それなのに……いま階段を上る俺の足取りは、弾むように軽かった。

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