一章 第7話
「セージ。さっき連絡があったんやけど、ジャンベルン鉄道はアンタの要求通り、賃上げを行うらしいで」
ヨーコは仕事場にやって来るなりすぐ、デスクで書類を調べていたセージにそう告げた。それを聞いたセージは、ニヤリと不気味な笑みを浮かべる。
「……思ったより早いね。驚いたよ。決定にはもうちょっと時間がかかるもんだと思ってたんだけど。なんせ、事が事だからね。承認はそう簡単に得られないはずだ。もっと拗れるだろうって推測してたんだけどな」
セージはそうつぶやくと、楽しそうに椅子にもたれた。
労働者の賃金を上げるという行為は、労働者にとっては嬉しい限りであるが、しかし企業を経営する側や株主にとっては、出来ることなら避けたいものだ。
何もないところから金は出てこない。だから賃金を上げると、その分どこか別の金が“奪われる”事になる。
多くの場合、削られるのは『株主への株主配当』だったり、その企業の将来のために蓄えられる『財蓄』だったりする。株主や企業経営者からしてみれば、それは嬉しくないことだ。
極論を言ってしまえば、企業にとってはそのような『株主配当』や『財蓄』を削ってまで労働者の賃金を上げることにメリットは無い。
『できるだけ安く、労働者を利用する』
酷く悪人染みた考え方ではあるが、それがある意味”健全な”企業経営の鉄則だ。故に、普通なら賃上げは容易く行われないのである。(もちろん例外はあるが)
だからこそセージは、この『賃上げ』が行われるのは、少なくとももう少し先だろうと予想していたのだが、しかしその期待を良い意味で裏切って、ジャンベルン鉄道の賃上げは行われたのである。
「なんか、ジャンベルン鉄道の上層部二人が無理矢理決定したらしいで。他の役員や株主の批判を無視して、押し通したそうや」
「……ふぅん」
セージは椅子にもたれたまま腕を組むと、瞼を閉じ思案を始めた。
「……ま、大方『ここで賃上げして労働者の不満を解消しておくべき』とでも提案したんだろうね。さすがに、賃上げをしなければならない『本当の理由』を正直に言えはしないだろうし」
「そうやろうなぁ。……まあ、それを盾に脅してる私らが言うのもなんやけど」
賃上げを行わねばならない理由。つまり『資金洗浄の事実を盾に脅されている』という状況。言うまでも無く、それを知られるわけにはいかない。
恐らくではあるが、ヨーコの言った『賃上げを主張した上層部二人』というのは、この『脅されている』という事実を知っている者達だろう。
そしてセージの考えでは、この二人はかなり“デキる”人間だ。
現状を的確に把握し、どうすれば被害を最小限に抑えられるのかを理解する頭脳。
そして、その“取るべき行動”を実行できるような人望人脈。
なにより、資金洗浄という犯罪が行われている事実を知りながら、それを隠すことに一切のためらいを見せない『躊躇の無さ』。
そのどれもが、彼らがそこら辺にいる『普通の人物』では無いことを物語っている。
なにせ普通なら、こんな要求を突きつけられたが最後、どうして良いか分からず見当外れな行動を取ったり、どうすれば良いか分かったとしても、それを実行しうる権力を持っていなかったり、なにより罪悪感から、こんな隠蔽できないだろうから。
だからそういう意味で間違いなく、この二人は世の中の”明”も”暗”も知り尽くした、百戦錬磨の企業戦士といったところだろう。
セージはしばらく思案した後、ゆっくりと瞳を開けた。そして、不気味な笑みを浮かべ、ヨーコのことを見る。
「……ヨーコちゃん。その“上層部二人”についてもっと情報が欲しい。彼らの経歴、人物像、どんな思想を持っているのか……それを知っておきたい。頼めるかな?」
セージの『調べられるか?』という問いに、ヨーコは「バカにすんなや」と言い返す。
「私を誰だと思ってるんや? どんな情報も調べ尽くす、天才情報収集家ヨーコ様やで。その程度の情報、簡単にゲットしてきたるわ」
「うん、それじゃあ頼んだよ」
「まかせときや。そいつらの愛人の数まで調べたるわ」
ヨーコはそう答えると、踵を返してセージに背を向けた。
しかし部屋を後にしようとしたところで、思い出したようにセージの方を振り向く。
「そういや、アンタこれからどうする気なんや? アンタの目論見通り賃上げがされるわけやけど、それで株価が落ちるのを、ただ見守るんか?」
「……」
すでに述べたように、賃上げが行われれば株価は下落する。株価の下落によって利益を出そうと目論むセージ達からしてみれば、あとは“下がりきる”のを待てば良いだけだ。
なので確かにヨーコの言うとおり、彼らはその“下落する様”を見守ればいいだけだ。
しかしセージは、ヨーコの『見守るのか?』という問いを聞くと、意地悪く、まるで悪人のような表情を浮かべた。
「見守る? まさか。そんなの“つまらない”でしょ、ヨーコちゃん」
「あん? じゃあどうするつもりなんや?」
ヨーコに聞かれると、セージは楽しそうに笑う。
それは、大義名分を得た人間の、正義とは程遠い邪悪だった。
「因果応報。悪人にはそれ相応の報いを与える必要がある。当然だろ? この程度で終わらせるなんて甘っちょろい。ジャンベルン鉄道には、さらなる”爆弾”を落としてあげなきゃね。”正義の味方”として」
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