笑わない菊子さん
『アンドロイドなのではないか。』
彼女に対しこう疑問が浮かんだのは、いつの頃からだっただろうか。
小学校6年生の時のことだ。
私が通っていた東京の郊外の小学校に、菊子は北海道から転校してきた。
その日の朝のことをよく覚えている。私の小学校では4年生の時にだけクラス替えがあり、そのあとは卒業まで同じである。だから新年度といえど代わり映えのないクラスメイト達だったので、転校生が来ると聞き、皆浮き足立っていた。
「どんな子かな?」
「女の子って聞いたよ!」
「可愛い子かな~」
「田舎っぽい子じゃない?」
などと、口々に喋り出している。もちろん、私、鷺沼あやめも輪に加わっていた。
「はーい、席についてー」
チャイムの音と同時に先生がやってきた。担任も同じく、4年生から変わらない。若い、いかにも“体育が一番好きです”という感じの男性教師だ。
「転校生を紹介する!」
教室に入り新年度の挨拶も特になく、いきなりの発言に静まる教室。皆の唾を飲む音が聞こえる。
“ガラガラ”
教室に入ってきた女の子に皆釘付けになった。
「佐藤菊子です。よろしくお願いします。」
そう静かに言った転校生“佐藤菊子”は、とても綺麗な女の子だった。綺麗という言葉が的確なのかはわからない。顔立ちは勿論のこと、声も、しゃべり方も、動作も全てが美しかったのだ。まるで精密に作られた人形のように。
菊子は私の隣の席に座った。私はドキドキしながら話しかけてみた。
「私、鷺沼あやめ。よろしくね。」
「ありがとう。こちらこそ、よろしく。」
しゃべり方や声は柔らかい、だが顔色一つ変えない。普通ならぎこちないながらも笑みを浮かべるものではないかと思ったが、
(緊張してるのかな…それとも綺麗すぎてそう見えただけかな?)
と、あまり気にしないようにした。
その日は一日中転校生“菊子”の話題でいっぱいだった。話題だけではない、授業中もチラチラと皆が菊子を見ていた。いつ見ても、背筋を伸ばし無表情でいるのだ。しかしそれに気付く人はいない。いや、気付いても私と同じように皆思っていたのだろう。
休み時間、菊子の周りに女子は集まった。
「北海道から来たの?」
「だからそんなに色白なの?」
「すっごく綺麗だよね…!」
「北海道はまだ寒いの?」
など、口々に質問が飛ぶ。その一つ一つに淡々とではあるが菊子は答えてくれた。ただその顔には、やはり表情はなかった。
「そんな緊張しなくて大丈夫だよ!でも来て早々、こんな質問されちゃ嫌だったかな…?ごめんね、貴女があまりにも綺麗で、皆早く友達になりたくって。」
そう言葉をかけたのは、女子の中の中心人物である、中島夕夏だった。
新年度が始まり、1か月も過ぎると菊子への興味も皆薄れていった。なにせ、未だに菊子は笑わないのだ。そんな菊子を不気味に思う者も増えていった。
女子の中では、仲良しグループというものがあったのだが、そのどこにも菊子は参加できずにいた。いや、菊子自身参加する意思もないようだった。
私は相変わらず菊子の隣の席だったので、何度か話しかけたことがある。その度に菊子は答えてくれるのだが、やはり表情は変わらなかった。そのまま何も変わらず時は過ぎていった。
うちのクラスではどの女子も仲良しグループがあったものの、いじめはなかった。ただノリが合う子同士でつるみ、苦手な子はいたとしても、必要以上には干渉しないというスタンスだった。それが幸いしたのか、菊子はたしかに孤立してはいたものの、時折話しかける子もいたし、いじめられることもなかった。
卒業を迎え、中学生になった。
私の地域では二つの小学校が同じ中学校に行くようになる。ちらほら他地域から来る人もいるが、大雑把に言えばそんな感じだ。
入学式で、早速話題になっていた。他校からの生徒は、菊子を見て驚く者がほとんどだった。予想通りというか、やはり入学式後、菊子の周りには多くの生徒が集まっていた。ただ、これも予想通りというか、やはり菊子は無表情のまま淡々と質問に答えているだけであった。
だが困ったことに、小学校とは違い、中学ではいじめが起こった。最初の標的は菊子ではない。女子のよくあるあるいじめだ。
『スカートがちょっと短かったから』
『あの言葉が気に障った』
『なんか調子乗ってる』
そんなどうしようもない理由から始まるやつである。だがそれも、他グループの子が仲間に入れてあげたり、気がついたら仲直りして元通り、など重症化することはなかった。
私の小学校からの子達も、最初はその空気に嫌悪感を示していたが、2学期が始まる頃には慣れていった。
そして、とうとう事件が起こった。菊子へのいじめが始まったのである。
元から菊子のことを気に入らない女子達が行動に出たのである。飛び抜けて整った顔立ち、スタイル、声色、そして誰ともつるまない上に、何一つ顔色を変えずに存在しているのが気に食わなかったらしい。それにプラスして、男子からの眼差し。
実際に多くの男子が告白をしたらしいが、全滅だったという。そしてその中に、中島夕夏の好きな男子もいたのだ。
中学に入り、やはり夕夏は中心的なグループに入った。夕夏も可愛らしい顔立ちをしているのだ。性格もよく、勉強も運動も出来るという、オールマイティーな子だった。コミュニケーション力も抜群だったため、すぐにクラスの中心になり、夕夏の周りはいつも賑やかだった。だが、夕夏のグループに、いじめをしている女子達がいたのだ。しかし、ある程度度を超えると、いつも夕夏が注意し、それ以上はその子達もせず、夕夏が取り持って仲直りをする、という流れが出来ていた。
だが今回は違った。さすがの夕夏もショックだった。いや、途中注意もしたのだが、それ以上に周りの怒りが強く、エスカレートしていったのだ。
菊子はというと、元からどのグループにも入っていないことや、自分から話しかけることも全くなかったためか、無視されてもさほど影響はなかった。だがそれがエスカレートすることへも繋がってしまった。菊子には無視は意味がないことに気付いた彼女らは、次は物を隠すようになった。その次は聞こえるように悪口を言う、わざとぶつかる、など…。
1年生のうちはそこまでだった。だが2年生になると更に酷くなった。ありもしない噂を流す、体操着を切る、教科書や靴を捨てるなど、見ていられなくなっていった。
それでも菊子は動じない。先生に相談することもしない。クラスの他の女子は、自分が標的にされるのが怖くて見て見ぬふりをしていた。それに調子を良くしたのか、3年生になる頃には、それ以上に酷くなったのだ。
ある日、私は忘れ物をして放課後教室に戻った。目的の物を取り、教室を出る。すると、女子トイレから何やら声が聞こえてきた。
「あんた何されても何も言わないの?表情一つ変えなくてさ、泣いて『やめてくださいー!』とか、言ってみろよ!ほら泣けよ!!」
「こいつさいつも無表情じゃん。感情がないんじゃないの?あ、まさかのアンドロイドってやつ?」
「うそでしょ?!なーんも感じることができない、アンドロイド!!やばやば!かわいそー!」
恐る恐る近付き、覗き見てしまった私は衝撃を受けた。いや、正直に言おう。私は後悔した。
そこには水をかけられたであろう、ビショビショの菊子と、夕夏グループがいた。菊子を囲み、睨む者、笑う者、延々と暴言を吐く者。色々いたが、全員菊子を責め続けていた。私は恐ろしくて、絶対に見つからないように必死で息を止めていた。
どのくらい経っただろうか。私にとっては10分にも20分にも感じられていたが、実際には数分だったのだろう。夕方5時を知らせるチャイムと共に、一人の携帯が鳴り、誰かに誘われたのか呼び出されたのか、夕夏グループは去っていった。私は咄嗟に男子トイレに隠れ、完全に足音が聞こえなくなるまで待った。
足音が聞こえなくなり、窓から夕夏グループが校門から出るのをそっと確認してから男子トイレを出た。
「あの。」
“ひっ!”と、小さく悲鳴をあげる私の目の前には、びしょ濡れの菊子がいた。菊子から初めて話しかけられたことと、この現場を見ていたのに、何もせずただ隠れていた自分が恥ずかしいような、なんとも言えない罪悪感のようなものがあり、俯いてしまった私に、菊子は言った。
「少し…お話できますか?」
びしょ濡れの菊子をそのままにしてはおけないので、とりあえず家に連れていくことにした。
幸い私の家は他の生徒たちより少し離れていて、周りに同級生はほとんどおらず、尚且つ高層マンションなので同じ家に入ることを目撃されることはまずない。それでも私は、誰にも見られていないか細心の注意を払いながら、菊子を連れていった。この期に及んでまで、菊子といることによって自分もいじめられるのではないかと、保身に走るのは何とも情けないことか。でも、若干15歳の私には、そうすることが精一杯だった。
家に入り、まずはシャワーを浴びるよう言った。シャワーを浴びている間、びしょ濡れの制服は乾燥機に入れた。制服が乾くまでの着替えを用意したところで、自分の動悸が早くなるのを感じた。
(話とは何だ?助けに入らなかったことを責められるのだろうか…。)
やはりここでも私は自分のことしか考えられなかった。しかし、気味が悪かったのだ。今まで誰にも自分から話しかけたことがない、あの菊子が、菊子の方から、話がしたいと言うのだ。これを不気味だと感じない者はいるのだろうか。
気付いたら菊子が私の服を着て後ろに立っていた。シャワーから出てきたのに、何も言わない菊子に更に気味の悪さを感じた。ただ、この平凡な私の服を着ているのに、菊子はやっぱり美しかった。まるで人形のような美しい顔立ち、華奢な身体、透き通るような白い肌。
(本当に綺麗…綺麗なんてものじゃない。美しすぎるんだ。)
ぼーっと、見入ってしまった自分に気付き、慌ててお茶を入れ、適当なところに菊子を座らせ、私から意を決して話しかけた。
「話って……何?」
1分、2分、いややはり数秒のことだったのだろう。沈黙に耐えられず、俯いて聞いた私は顔を上げ菊子を見た。そして、菊子はやはり、無表情のまま口を開いた。
「感情って、どうゆうものなのですか?」
予想だにしなかった菊子の問いに、私は固まった。何も喋られずにいると、菊子はこう続けた。
「あの子達、私に『泣け』って言いました。私には、『泣く』ことも『笑う』こともよく理解できない。普通の人間は、泣いたり笑ったり、普通にすることなのですか?」
更に喋り出す菊子に、私は衝撃を受ける。いや、たしかにここまで自分の意見を言う菊子を初めて見た衝撃もあったが、それよりもその内容に呆然とした。
質問の意味をよく理解できず、何て言ったら良いのかわからず、私はただ口をパクパクしていたのだと思う。思考回路が完全にショート、だ。
「そもそも、『泣く』や『笑う』がどういうものなのかがわからない。わからないから、しようがない。」
ここまで聞いてようやく、真っ白になった頭の中に一つの言葉が浮かんだ。
“アンドロイド”
そう、あの女子達がトイレで菊子に吐いていた言葉だ。私は真っ青になっていたであろう。たしかにそうなのだ。この整いすぎている美しい顔立ちも、透き通るような白い肌も、どんな時も無表情な顔も、全て繋がってしまうのだ。
しかし単刀直入に、『あなたはアンドロイドなの?』なんて聞くことはできない。頭の中はパニックだ。どう答えたら良いものか、またもや口をパクパクしていただろう。
そんな私に菊子はまたこう言うのだ。
「私に、『泣く』こと、『笑う』ことを…教えてください。」
菊子は『泣く』ことも『笑う』こともわからないと言った。完全に頭が爆発した私は、とりあえず菊子の言葉通り、それを説明することにした。私の精一杯な対応である。
「『泣く』というのは、悲しかったり、悔しかったり、とにかく傷付いて涙を流すこと。『笑う』というのは、楽しかったり、嬉しかったりして……にこっとすること。」
こんな風に書くと普通に喋っているようだが、実際にはもっとたどたどしかっただろう。しかも最後の、『にこっとすること』の後に実際に笑って見せたが、何とも笑顔とは言い難いものであったのは間違いない。
「……悲しい、ということや、楽しい、嬉しいということも…よくわかりません。」
訳がわからない。もう本当にアンドロイドとしか思えない発言に、私はまたもや言葉を失った。だが一度乗ってしまった船だ。あの時私があの場面を目撃し、菊子が私にだけこんな話をしてくるというのは、何か運命的な意味があるのだろう。若干15歳の私が必死で出した結論は、正しかったのかは未だにわからない。
そして、この日から菊子と私の奇妙な日々は始まったのだった。
その日以降、放課後菊子がうちに来ることが増えた。あのあと、私が教えてあげると約束してしまったのだ。勿論すぐに後悔した。できれば全て聞いたことを忘れてしまいたかった。学校ではそれまでと変わらず関わらなかったし、菊子へのいじめも続いていた。たまにまたびしょ濡れの日もあった。
私は根気強く教えた。辞書で調べ、ネットで調べ、『泣く』『笑う』について説明した。だが言葉での説明では菊子には伝わらなかった。
次にドラマを見て、役者が泣いていたり笑っていたりする姿を見せた。これはわりと効果があったのではないだろうか。とりあえず見よう見まねで、まずは笑う表情を作らせた。鏡を見て同じような顔を作る。最初は上手くいかない。そこで私が菊子の顔を触り、無理矢理作ってみることにした。
(暖かい…)
と、顔を触ってみて少し安堵したのを覚えている。とりあえず一人で表情を作るまでできたところで、ドラマを見ながら一つ一つ解説した。
「この人は、今友達と遊んでいて『楽しい』と思っているから、笑っている。」
「この人は、好きな人からプレゼントを受け取り、『嬉しい』と思ったから、笑っている。」
最初はそれでもあまり理解出来ていないようだったが、何度も繰り返し、また様々な場面を解説していくうちに、理解出来ていくようだった。
『笑う』ということがとりあえずは理解出来たものの、やはり問題は『泣く』ということだった。『笑う』と同じく、ドラマで解説するのだが、『悲しい時』を理解できても、涙を流すことができない。またもや“アンドロイド”という疑念が生まれたが、この際その考えは無視することにした。
打つ手がなくなった私は、玉ねぎ戦法でいくことにした。何でもいいから泣けりゃいい、という何とも雑な戦法だ。
一か八かの賭けだったが、なんとあっさり成功したのだ。菊子の目から、雫がこぼれたのだった。私はあろうことか感動してしまった。美しい顔から出る涙は、菊子の美しさを更に際立たせ、この世の美しさとは思えなかった。
正直に言うと、こんな菊子との日々は徐々に少し楽しいと感じるようになっていた。菊子も唐突ながら笑うこともあった。そんな時私は大抵固まるのだが、
「今、私は友達…あやめさんと遊んでいる。それは楽しいこと。だから笑うこと。間違ってますか?」
なんて菊子が聞いてくるものだから、可笑しさも相まって
「合ってる合ってる。」
と私も笑った。
何故だかわからないが、私たちはお互いを『さん』付けで呼んでいた。そして菊子はいつも私に敬語を使っていた。それもなんだか可笑しかった。
放課後の私との時間では、そんな様子ではあるが笑うことも増えた菊子だったが、学校にいる間はずっと無表情であり、相変わらずいじめも止まなかった。
私は一度だけ聞いたことがある。
「菊子さんは学校では笑ったりしないのは、どうして?それに、いじめ…あの子達に何かされたり言われたりしても、嫌じゃないの?」
「学校では友達と話すこともなければ、あやめさんから教わった『楽しい』ことがないから。それと、あの子達にされることに対して、何も思わない。というか、あの行動の意味がわからない。」
私の問いに菊子はこう答えた。
それはとてもとても悲しい言葉に聞こえるかもしれないが、菊子は無表情で話すのだ。質問した直後の、まずい聞き方をしてしまっただろうかという後悔はすぐに吹き飛んだ。やはり、菊子にとって『笑う』ことも、『泣く』ことも、ただの動作なのだ。またもや“アンドロイド”という言葉が浮かぶのだったが、
(とにかく、嫌な思いをしていないのならば、それで十分だ。)
と考え、その言葉をかきけした。
中学卒業まで、この関係は続いた。学校での菊子の様子はとうとう卒業まで変わらなかったし、私はいつ周りにバレてしまうだろうかずっとビクビクしていたが、幸い誰にも気付かれることはなかった。そして、その頃には菊子も自然に『笑う』ことができていた。菊子にとってはただの動作なのだろうが、それでも私は嬉しかった。自分でも可笑しいが、達成感もあった。ただ、最後まで玉ねぎ戦法以外で『泣く』ことが出来なかったのは悔しかった。
だがそれは唐突に起こった。
卒業式後、誰もいなくなった教室で菊子を発見し、この期に及んでまで他に誰もいないことを確認して、中に入り菊子に声をかけると、そこには衝撃的な菊子の姿があった。
菊子が泣いていたのである。あの玉ねぎ戦法の時の、あの美しい涙を流しているではないか。咄嗟に玉ねぎの在りかを確認してしまった私は、今思い返しても可笑しい。私が固まっていると
「卒業式…あやめさんと見たドラマの中で、卒業式後の教室で泣いている、という場面がありました。今私の目から、水が流れています。これが『泣く』ということ。合ってますか?」
相変わらずの菊子に、そして最後の最後に『泣く』ことが成功したことに、私は何とも言えない気持ちになり
「合ってる合ってる!」
と言い、泣きながら菊子を抱きしめた。
そして、顔を見合わせて笑い合った。
「そのドラマでもこのような場面がありましたね。その時も笑い合ってました。」
相変わらず菊子にとってはただの動作なのだろうが、私はとても嬉しく、何度も頷き
「合ってる、合ってるよ。」
とまた笑ってみせた。
卒業後は、私は至って普通の学力だったので、無難な高校へ進んだ。菊子はなんと、有名私立大学の付属高校へと進んだのだった。放課後はほとんど私と『笑う』『泣く』のお勉強だったのに、どこにそんな受験勉強をする時間があったのだろうか。
入学式までの間は、変わらず菊子と過ごすことが多かったのだが、そんな日々も高校入学と共に変わっていった。
『泣く』ことはあれから一度も出来なかったが、『笑う』ことを覚えた菊子は、高校ではすんなりと友達が出来たらしい。元々、頭が良く、自由な校風の高校で、皆自分が楽しむことに精一杯、意見の衝突はあってもいじめとは無関係な学校だったらしい。そんな噂を聞き付けてか、今までいじめにあったいた子や、いじめというものに嫌気がさして入学した子が多く、とても良い学校だとも聞いたことがある。
菊子の美しさは相変わらずだった。いや、更に美しくなっていったんじゃないかと思う。そこに『笑う』ことがプラスされたのだ。元から人の悪口を言うこともなかったし、話しかけられれば普通に喋ることも出来たので、あっという間に人気者になったのだろう。私との時間は徐々に減っていった。
私は寂しかった。『笑う』ことを覚えさせたのは、私なのに。私を嫌いになったとか、飽きたとか、そういうことではないのはわかっていた。菊子にはそういう感情はないのだ。わかっていても、私は悲しかったし、怒りさえ覚えた。一種のヤキモチだったのだろう。
ただ、一緒に過ごすことはなくなってきてはいたが、菊子はよく電話やメールで近況報告をしてきた。
「今日は友達と放課後、ゲームセンターというところに行きました。これはあのドラマでも笑っていたので、私も笑って過ごしました。」
「今日は友達が泣いていました。好きな人に告白をし、断られてしまったようです。私にはその気持ちは理解できませんでしたが、同じような場面があったドラマでの台詞を真似してみたら、『ありがとう』と言われました。」
「今日は友達の家にお邪魔し、ゲームをしました。ドラマでは見たことがない場面です。でも友達が『楽しいね』と笑ったので、私も『楽しいね』と笑ったのですが、合っていましたでしょうか?」
そう、新しい友達やらとの生活を度々聞かされていたのだ。最初は、なかなか会わなくなっても連絡はくれることに、頼られているんだと嬉しかったが、徐々にそれはイライラするようになっていった。
そんな日々が続いていたが、とうとう1学期が終わる夏休み前に、私は言ってしまったのだ。
「もう、いいよ。菊子さんは私がいなくてもやっていける。私にいちいち確認しなくても、もう身に付いてるよ。これからは新しい友達と楽しんで。」
今思えば、何て冷たい言い方だったのだろう。
「わかりました。あの………今まで、ありがとうございました。」
その言葉を聞き、私は電話を切った。こうして、菊子と私の日々は終わった。
それは高校3年生の時だった。
私はあれからというもの、寂しさを打ち消すように部活に励んだ。私は新しくテニスを始めた。最初こそ見事に初心者丸出しだったが、無我夢中に取り組んでいたためか、レギュラーにまでなりそこそこの成績も収めていたと思う。新しい友達もでき、文化祭、体育祭などという高校生活もそれなりに充実していた。たが、どうしても心に空いた穴のようなものを埋めきることは出来なかった。
部活も引退の時期が迫り、進路をどうするかの話題がちらほら出てきていた時、部活後に友達が雑誌を買いたいと言うので、皆で本屋に寄った。
ファッション雑誌等に興味がなかった私は、ああだこうだとはしゃぐ友達を横目に、適当に過ごしていた。
「あっ!見て見て、この子やばい可愛い!!人形みたい!!」
それまで何の会話も耳に入ってこなかったのに、その言葉だけ、はっきりと私に響いた。そしてそれと同時に、妙な胸騒ぎがした。恐る恐る輪に加わり、覗いてみると
(ああ………やっぱり。)
そこには笑顔で写っている、菊子がいた。それも、私といた時とは比べ物にならないくらいの、自然且つ磨きがかかった表情の、菊子が。
笑顔だけではない、色々な表情を出来るようになっていた。私はいつかはこんな日が来るんじゃないかと薄々気付いていた。いや、むしろ今までがおかしかったのだ。こんなに美しい彼女が、世間にほっとかれるわけないのだから。
そこからはあっという間だった。私が部活引退、そして進路に悩んでいる間に、菊子は多数の雑誌に載るようになり、すぐに人気1位を取った。その上、最短で表紙を飾った。それから表紙になることが幾度となくあったが、菊子が表紙になるとその雑誌は異例の売上を出すのであった。
進路を決定し、年が明けてセンター試験が迫る頃になると、菊子はファッションショーに出始めていた。
朝のニュースでちらっとその姿を見たときに
(こっちは試験目前というのに、お気楽なもんだな。)
と、ひねくれたことを考えていたのを覚えている。
何とか、そこそこではあるが第一志望校の大学に受かり、入学した頃。菊子は更に人気モデルになり、雑誌以外で見ることも多くなった。一番堪えたのは、ある化粧品のポスターだった。
至るところにでかでかと張り出されたポスターには、これでもかと美しい菊子の顔があった。元から綺麗な顔立ちに、化粧を施したらそりゃ絶世の美女になるであろう。キャッチフレーズは『貴女も憧れる、その顔に。』だ。
なんて馬鹿げた台詞なのだろう。すぐに私はその化粧品が嫌いになった。
だがそんな私も大学でテニスサークルに入り、高校の部活とは違った自由さにハマっていった。講義と講義の空き時間に練習をし、夕方には皆でどこかに車で遊びに行く。長期休みには合宿に行き、テニスも遊びも朝から晩まで目一杯楽しむ。そのうち私も免許をとり、20歳になるとお酒を覚え、どんどん夢中に過ごすようになった。
菊子はというと、そのままエスカレートで大学に上がり、1年生にしてミスコンの最優秀に選ばれたらしい。更にあらゆる媒体で引っ張りだこになった彼女は、そのうちドラマにも出るようになった。
その頃には、私も充実した大学生活を送れていたためか、菊子を見ても何とも思わなくなっていた。先輩の家で、所謂“宅飲み”をしていた時に、菊子が出ているドラマをちらっと見た。さすがにドラマ初出演ということもあってか、脇役だった。だがやはり美しさは圧倒的だ。いや、だからこそ演技に関しては滅茶苦茶悲惨に感じた。あの懐かしい無表情の菊子がそこにいたのだ。サークルの仲間達も、それには苦笑していた。
無表情の菊子が懐かしい、とは思ったものの、特にどうでもよくなっていた私は、すぐにそのことを忘れていた。ある夜、珍しく家にいた私が何気なしにつけたテレビに、菊子が映し出されていた。あのドラマの最終回であった。
そこには、最初とは比べ物にならないほど上達した菊子がいた。上達なんてもんじゃない。まるで別人だ。そしてラスト10分のところで、私は衝撃的な映像を目の当たりにした。
(菊子が………泣いている。)
そうだ、あの、卒業式後以外では玉ねぎ戦法でしか泣けなかった菊子が、泣いているのだ。あの頃と同じような綺麗な涙を、それも目からいっぱいに流しているのだ。よく目薬を使うなんてことも聞くが、あれは間違いなく本物の涙だった。
私の中で、何か崩れ落ちる音がした。
初回と最終回しか見ていないのに、私はわんわんと泣いた。認めたくはなかったが、菊子の演技自体に感動してしまったのもあった。だがそれ以上に、色々な思いが爆発してしまったのだ。
菊子が転校して来た日のこと、私の隣の席で初めて声をかけた時のこと、中学に上がりいじめられていた菊子の姿、そしてあの日の女子トイレ、初めて菊子に話しかけられたこと、そこから始まった奇妙な日々、卒業式後の涙…そして、私から突き放したあの日の電話。
全ての菊子との記憶が私の中を駆け巡り、何度も何度も声を出して泣いた。こんなに泣くのはいつぶりだろうというほどに、小さな子供のように延々と泣き続けた。
それから菊子をテレビで見ない日はなくなった。
すぐに次シーズンのドラマに準主役として起用され、そのドラマも大ヒット。更に主演映画も『空前絶後の大ヒット』というフレーズと共に世に名を広めていき、直ぐ様他の若手女優を退け、人気女優No.1となっていった。
ドラマから始まり、映画、舞台、モデル、とまさに休みがないのではないかというほどに様々な場面で活躍し、彼女が身につけているというだけで、その服やアクセサリーは飛ぶように売れた。
菊子が立派な大人気女優になった頃、私は大学4年生で就職活動の終盤に差し掛かっていた。
既にいくつかの会社から内定を貰っていたが、本命がまだ残っていた。
本命の最終面接日の朝、いつもより早く目が覚めた。緊張していたのだろう。いや、たしかにそれは勿論のことだったが、それだけではない気がした。窓を開け、空気を入れ換える。澄みきった空気を吸い込んだ後に、妙な胸騒ぎがした。そう、いつかも感じたことがある、あの胸騒ぎだ。ふと菊子の顔が過った。
(…いや、昨日駅のポスターでいくつも見たせいだろう。)
菊子のことはなるべく考えないようにし、面接対策の最終確認をし、私は家を出た。
着く頃には緊張が高まったのか、菊子のことなど頭の中から完全に消えていた。
最終面接は、まあ力を出しきれたではあろう。面接官の表情からは何も読み取れなかったが、ようやくこれで就職活動が終わったことに安堵し、夜は久しぶりにサークルの仲間達と飲みに行った。
ほとんどの人はもう就職先を決めていたが、私と同じくいくつか内定を貰ってはいるが、本命の結果待ちの人も何人かいた。まあとりあえず皆一通りは終わったということで、お疲れ様と乾杯をした。
私はお酒には強い方で、酔っ払ってしまうことなど一度もなかったのだが、その夜は違った。
いつもよりハイテンションな私を何人かが心配してくれたが、就職活動が終わったことによるものだと私自身も周りも思い、そのままのテンションで朝まで飲み明かした。
電車の始発の時間に解散となり
「通るよう祈ってるよ!」
「おう、頼むよー!」
などと会話をし、私は駅へと向かった。
始発電車に乗り、自宅がある駅で降りる。生まれた時から住んでいて、何度も利用した見慣れた駅だ。
家まで向かう途中、徹夜で仕事をしていたのであろうか疲れきったサラリーマンや、私と同じような朝まで飲んでいたのであろう大学生がちらほら歩いていた。
まだ薄暗い朝。空気は澄みきっている。酔い覚ましには丁度良い。
家に近付く頃、懐かしい顔がそこにはいた。
(菊子だ…!)
そうだ、そこにはあの“菊子”がいたのだ。正確に言うと、今やテレビや雑誌で見ない日はない、あの『大人気女優・菊子』ではない。私が何度も何度も見て、一緒に過ごした、あの無表情の“菊子”がそこにはいた。
姿を見た瞬間、身体が震えた。身震いとはこうゆうものなのか、と柄にもないことを思ったのは酔いのせいだろう。
身体が震えたのは、明け方でまだ少し寒いせいだ、そして、やはり私はまだ酔っていたのだと思う。きっと素面だったらそのまま通りすぎ、帰宅したであろう。まだお酒が残っていた私は、あろうことか菊子に話しかけようと近付いたのだった。
近付くにつれ、もっとはっきりと菊子が見えてくる。顔を出し始めた朝日に照らされ、その美しい顔が更に美しく光る。
(なんて美しいのだろう…)
すると私はあることに気が付いた。菊子の側には男が二人いた。真っ黒なスーツのその男達と何か話しているようだった。私は菊子の美しさに見とれ、近付くまで気付かなかったのだ。
咄嗟にここにいてはいけない気がして、引き返した瞬間
「もしかして…あやめさん?」
私は、ドキリとした。激しくなる鼓動を抑え、振り返った。そこには自然な笑顔の菊子がいた。
「久しぶり。元気でしたか?」
テレビやポスターでよく見る、『大人気女優・菊子』の顔だ。さっきまでいたはずの黒スーツの男達がいないことに気付いたが、見てしまったことを気付かれてはいけないと何故だか思い、聞くことはやめた。
「久しぶり、菊子さん。すごいね、有名人になっちゃったね。」
なんという陳腐な言葉だっただろう。あの電話ぶりだというのに何も気の効いた言葉など思い付かず、私が発したのは当たり障りのない、そんな言葉だった。
答える代わりに、菊子は微笑んだ。物凄く自然に。
突然風が吹いた。それまで一切なかった、風が。ふわっと菊子の髪が揺れた。本当に一瞬の出来事だった。髪が揺れた瞬間、菊子の首元が見えた。そこには、何かが書いてあったのだ。いや、たしかに私は何が書かれてあるのか、はっきりと見たのだ。見間違いなどではない。テレビでもポスターでも見たことのないものがあったのだ。
ハッとして菊子の顔を見た。逆光でよく見えないはずの菊子の顔は、私が見慣れたあの“菊子”の顔だった。
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
気が付くと、私は自分の部屋にいた。ぼやけた頭で昨夜のことを考える。
(就職活動が終わり、サークル仲間と朝まで飲んだ。その後は……)
頭がガンガンする。見事な二日酔いだ。
時刻はお昼を回っていた。リビングに行くと、母がいたので、おはよう、と声をかけた。もう昼だと言うのに、と言いながら母は笑った。
「ちゃんとお友達にお礼伝えた?」
その言葉に固まった。
(友達?お礼?なんだ?私はお金でも払わなかったのか?いや、違う。電車を降りたのも覚えている。その後は…)
いくら考えても電車を降りてからの記憶が思い出せない。そんな私を見て、母は続けた。
「もう。あんた飲み過ぎたのか途中で寝ちゃったらしいのよ。ほら、中学生の時よく来てくれた『佐藤さん』。あの子、あんな有名人になってたのね。もう綺麗すぎて見とれちゃったわよ。」
(…菊子だ。)
母の言葉で全てを思い出した。
(そうだ、私は家に着く前に菊子に会ったのだ。黒スーツの男。菊子の首元の文字。懐かしい、菊子のあの無表情…)
そこまで思い出して、おかしなことに気が付いた。はて、私が見た首元の文字は何だったのだろう。いや、文字だったのだろうか。絵だったのではないか。私はそれが何かたしかにはっきりと見たはずだった。だがいくら思い出そうとしても、思い出せないのだ。
その上、なんの前触れもなく急に目の前が真っ暗になったのは、おそらく倒れたのだろう。だが、たしかにいつもよりは酔っていたが、いきなり倒れることなどあるものか。おかしい。
ふと、もうひとつ思い出せたことがあった。それは、倒れた直後なのだろうか。空を見上げる私を菊子が覗き、何かを言ったのだ。
たしかに何か私に言ったのだ。だがそれが何だったのか、やはり私には思い出せなかった。
代わりに、ふとこんな言葉が浮かんだ。
“アンドロイド”
それから月日は流れ、私は30歳手前になった。所謂アラサーだ。見事、本命の会社に就職することができ、実家を出て一人暮らしを始めた。入社直後は慣れない環境に大変だったし、仕事についていくのがやっとだった。余裕が出てきたのは3年を過ぎてからだ。その後は順調に仕事をこなし、アラサーになった私は責任ある仕事を任せてもらえるようになり、成果も出せるようになった。それなりに充実している。結婚を考えている、恋人もいる。
菊子は相変わらず忙しそうだ。今でもテレビで見ない日はない。ただ、あの日から一度も菊子には会っていない。
私があの日見たのは何だったのだろうか。テレビで見る菊子の首元には、何もない。そして、未だに思い出せないのだ。
しかし、ある日ふと思い出したことがある。あの時、私が最後に聞いた言葉、正確には菊子が発したであろう言葉だ。声は思い出せないが、口の動きは思い出した気がする。
「合ってるよ」
何が合っているのだろうか。私が浮かんだ、あの言葉のことなのだろうか。その答えは未だにわからないし、この先もわかることはおそらくないのだろう。
そして私は、『大人気女優・菊子』のポスターを横目に、今日も会社へ向かう。
初めまして。
今回が初めての小説になります。拙い文章ではありましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
頭の中で描いていた物語を、こうして最後まで書ききれたことに少し安堵しております。
しかし、日本語って難しい…。
これからもマイペースながらも、書いていけたらいいなと思っていますので、読んでいただけたら嬉しいです。