5話
出発の日。
ユースは出発の時間より早起きして、支度を始めていた。
目的地はエルレドではない。貧民街だ。
いつもの道を通り、貧民街にある古巣にたどり着く。今はケイトが住んでいる家だ。
扉を叩く。返事はない。
家にいないのだろうか。ユースは首を傾げ、断りなく扉を開く。
使い倒されて薄くなってしまったベッド。足が壊れかけた椅子。隙間風のうるさい窓。
見慣れた内装だ。
変わっていないな、とユースは微笑む。
ふと机に目を向ける。
白い封筒が置いてあった。
「封筒?」
貧民街に封筒が送られてくることは珍しい。それを送る人も、送られるような人も、ここに住んでいないからだ。
かなり質の良い紙だ。
ちょっとぐらいなら、とユースは封筒を手に取る。封は開いていた。
中身を見ようか、見まいか。
悩んだが、ユースは封筒の中身を確認しないことにした。
ケイトとはそれなりの信頼関係を築いてきたつもりだった。信頼関係とは脆いもので、構築には時間がかかるくせに、壊すのは簡単だ。封筒の中身と彼女との信頼関係を天秤にかけた結果。それが、彼の行動に表れていた。
封筒を同じ場所に置き直し、椅子に座る。
ぎいぎいと悲鳴をあげる。
それを聞きつけたかのように、ケイトが家の扉を開いた。
「あれ? 何してるの」
彼女の手にはりんごの山。どさりと机に置いて、何かに気付いたようにユースを見た。
「もしかして、これ見た?」
彼女は封筒を指差す。ユースは首を振った。
「いや。ちょっと見ようかと思ったけどやめた」
「なんだ、良かった。別に見ても良かったけど」
「そうなのか?」
「どうでもいいことだよ。盗みの依頼」
ケイトはりんごを一つ取って、ユースに投げる。
「まさか、ケイトから何か貰うことになるとはな」
「へへん。これでも頑張ってるのです」
ケイトは胸を張った。まだまだ子どもらしさの残る仕草だ。
「それに依頼までくるなんて。偉いぞ」
ユースがケイトの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「もう、子ども扱いしない!」
ケイトがその手を払う。ユースはそれを無視して、もう一度頭を撫でた。彼女は諦めた様子で、その行為を受け入れる。
「それで、今回は話があって来たんだけど」
「もしかしてこの街を離れるって話?」
「よく分かったな。今日ここを発つことになった。急な話ですまない」
「いいよ。前に言った約束さえ守ってくれれば」
「死なない、だろ。僕だって死にたくないよ」
「それでも死んじゃうときには死んじゃうの」
「まるで僕が死んでしまうみたいな言い草だな」
ユースはりんごをひとかじりする。しゃり、という小気味良い音が響いた。
ケイトはユースのりんごに手を伸ばす。俊敏な動きだった。ユースも油断しており、りんごはあっさりケイトの手に渡ってしまった。
「私からの忠告。ちゃんと心に留めておいてね」
「分かった。ごめん、そろそろ行かなくちゃ」
「うん。ほんとに気を付けてね」
ユースはケイトに別れを告げる。最後にケイトの頭を叩くと、彼女は不機嫌そうにユースを睨み返していた。
ユースが宿舎に戻ると、外でアカツキが待機していた。
アカツキはユースに気が付き、声をかけた。
「古巣に行っていたのか」
「お前には関係ないだろう」
「そうだな。くれぐれも任務に支障を来さないようにしてくれ。まさか、任務の内容を話していないだろうな」
「もちろんだ。この街から出て行くとは伝えたがな」
アカツキは頷く。
ユースは空を見上げる。
空一面が厚い雲で覆われている。王都はいつも天気が悪い。晴天が見える日は年に数えるほどしかないし、雲ひとつない青空なんてものは数年に一度しか拝めない。それが当然だと思って生きてきたが、エルレドはどうなのだろうか。
常識を捨て去るのは難しい。ユースも盗みを生業にし始めてから、物に対する認識が変わった。物は買うものではなく、盗るものだと思うようになった。特に、高価なものほど。真当に金を払って買うこともある。だがその金は盗賊業で得た金だ。取引の場で、その金のルーツを気にする奴らはどこにもいない。
ユースはいつも思う。人間は、結局自分本位の思考しかできないのだと。自分の関係ないところで何が起きていようと、どうでもいい。汚い手で稼がれた金かどうかなんて分からないのだから仕方のないことだ。
それを知っていたとしたら? それでも、大抵の人間は目をつぶって知らんぷりをするだろう。自分が直接関与したわけではないと言い聞かせて。
ユースが空から視線を戻すと、宿舎の中からカナリアとボックが現れた。
すぐに馬車がやって来た。
四人は馬車に乗り込み、街を出る。
「出発だ。気を引き締めろ」
アカツキが短く言い放つ。三人は静かに頷いた。
カラカラという車輪の回転音。心地良い響きだ。
王都が徐々に小さくなっていく。
王都は城壁に囲まれた都市だ。城壁はそれほど高くない。さらに都市の中心部は丘の上にあるため、遠くから見ると王城がよく見える。
周辺部にある貧民街は城壁に囲まれていて、馬車の中からは見えない。
ケイトは大丈夫だろうか。王都に戻って来られるのは、いつになるだろうか。もしかすると、戻って来られないかもしれない。
弱音を吐いていては駄目だ。ユースは拳を握りしめる。
ケイトとの約束を守る。ユースにとって、それは任務の完遂よりも重要なことであった。
「そうだ。伝えておかなければいけないことがある」
アカツキがおもむろに口を開く。
「何々? もしかして良くないこと?」
「カナリアは勘が良いな。正直に言うと、あまり状況は良くない。昨晩、アカシック商会と関わりがあると思われる武器商人が襲われた」
「襲われた? 誰に?」
ボックが問う。アカツキは首を振った。
「それが分からない。現場にはほとんど痕跡が残されていなかった。犯人はかなりの手練だと考えられる。目撃情報もない。付け加えると、武器商人が扱っていた武器も奪われていなかった」
「目的は強盗ではないか」
ユースは眉間に皺を寄せる。
大盗賊とも呼ばれるユース。彼は、王都内の盗賊であれば、そのほとんどを把握していた。盗品、手口等の癖から犯人を割り出すのは、彼にとって容易い仕事だ。
だが、盗みが目的でなければ、力にはなれないだろう。
「武器商人とアカシック商会との間で交わされていた手紙がいくつか無くなっていた。俺たち以外にも、アカシック商会に目をつけている勢力がいるのかもしれない」
「妨害もありうるな」
「そうだ。だが、今更、様子見というわけにもいかない。十分に注意してくれ」