二
「はぁ、はぁっはぁ……んっ、はぁはぁっ」
一気に四階まで駆け上がったせいか、息が乱れてしまう。芳先輩も同じらしく、俺達は肩で息をしながら呼吸を整える。
「はぁ、さ、佐立大丈夫かな」
「ふぅ……きっと大丈夫よ。グリセオールには啓介君意外の人間を殺す理由がないんだから。だから、佐立君だって大丈夫。心配ない」
そう言い切る芳先輩の自信は、俺を心配させまいとしている気遣いだ。それがわかるほどに、芳先輩の顔は血の気が引いており、肩は震えている。でも、それに気遣っている余裕は俺にもない。ぐっと歯を食いしばり、足を進める。
「ちょっとまって!」
そんな俺を芳先輩は呼び止めた。
「見て……。あそこ」
芳先輩が廊下の向こうを覗き見る。視線の先には、下では見かけなかった俺のクラスメイト達がいた。その手にはやはり鎌が握られている。
「やっぱりやるんですか?」
「やるわよ……」
そう呟くと芳先輩はぐっと手を握った。その手は震えており恐怖がにじみ出ている。
「もしあれだったら他の手を考えるっていうのも――」
「やるっていってるでしょ!?」
小さい声ながらも張った芳先輩の叫びは、突然でとても驚いた。目を見開いているあろう俺を見て、芳しい先輩は少しだけ俯く。
「ごめんなさい」
「いえ」
「怖いの……。たぶん殺されないって分かってても、それでも怖いのよ……。でも私だって逃げたくない理由があるんだから。がんばらせて?」
「逃げたくない理由って……」
「きっとわかってないわよね」
そういって芳先輩は笑う。その変化に俺はついていけない。思わず首を傾げてしまう。
「私ね? 昔から学級委員長とか生徒会長とかやってきたんだ。別にやりたくてやってたわけじゃない。けど、先生とかクラスの皆がやれっていうから、やると喜んでくれるからずっとやってきたの」
「先輩……?」
何を話しだすんだ? こんな時に。
「だからね、いつのまにかそんな立場に見合う行動をするようになっていった。自分でも意識していないうちに、いい子とか言われるような自分を作り上げてしまってたのよ。だから、私は社会の決めたルールから抜け出せない。立場とかイメージだとか、そんな私以外の誰かが決めた柵の中に閉じこめられてしまってる……動物園の動物達と同じ」
そして芳先輩はゆっくりとこちらを振り返った。その瞳は潤んでおり、じっと俺の目を見つめるその視線に、俺の心臓はどきりと一鳴する。
「そんな自分に嫌気がさしていたとき、たまたま見かけたんだ。入学式の日に、猫に話しかけてるあなたを」
って、またあの日か。見られてたなんて、なんか恥ずかしいな。
「別に、どうって思ったわけじゃない。あ、優しそうな子だなって思ったくらいだったの。でも、入学式もほっぽりだして猫に笑いかけてる啓介君を見てて思ったんだ。私じゃ絶対でできないなって。だから、学校の草むらで啓介君に会う前から知ってたんだよ? 君のこと。だから偶然出会えたあの時にどうしても接点が欲しかったの。かなり強引だったけど、啓介君は嫌な顔しなかった。それがすごく嬉しくて、さ」
話が見えない。芳先輩は何が言いたいんだろう。
「一緒に遊んで、やっぱり啓介君は優しい人だって思ったんだけど、あの銀行強盗の騒ぎで、この人は優しいだけじゃなくて強い人だとも思ったんだ。命がけで私を助けてくれた。あんな状況で私を助けるだけじゃなくて、あの場にいる皆を助けたのよ? そんなの私が考えている常識の枠なんてとうに飛び越えてるなって、そんなことができる啓介君の見てる世界はどんなのだろうってそう思ったの」
芳先輩はそっと俺に近づいてくる。そして、俺の手を優しく握ると、俺を上目遣いで見つめてくる。
「啓介君が好きなんだ」
俺は驚きで何も言えない。それと同時に、芳先輩に対する申し訳なさで一杯になる。俺はその気持ちには応えられない。応えられないんだ。
「でも、啓介君がスノウちゃんを好きっていうのも知ってるのよ?」
「え?」
「だからね、これは私の我侭。怖い気持ちを押さえつけるためにっていう理由をこじつけた、私の我侭なんだ」
そういうと、芳先輩はすっと俺の顔を寄せた。頬に何かが触れる。暖かくそしてやわらかい何かはすぐさま離れ、芳先輩は顔を見せたくないのか背中を向ける。
「行ってくるね」
「芳先輩!」
芳先輩は振り返ることもなく走り出した。その姿は男子用の制服。髪の毛もウィッグをつけて短いように装っている。そう、俺の姿に似せたのだ。そんな姿で芳先輩は鎌を持つ俺のクラスメイトの前へと走っていったのだ。
「こっちよ! ほら、来なさい!」
スノウいわく、自我が押さえつけられている状態だと判断能力が著しく落ちるらしい。そのため、似た格好をすれば、グリセオールに操られた人をおびき寄せるのではないか、という結論に達しこの作戦を決行した。
案の定、この階にいたクラスメイト達は先輩におびき寄せられ下の階へと下っていく。俺はこの隙を逃してはならないと、独立している屋上への階段へと走った。
「先輩、すみません」
誰にも聞こえない呟きをこぼしながら、俺は屋上へと向かった。
◆
屋上に出ると、そこには誰もいなかった。そのことにどこか安堵しつつも、佐立や芳先輩のことを思うと胸が痛んだ。
「ずいぶんと早かったな」
「なっ――!?」
頭上から声が聞こえる。振り返りながら上を向くと、俺が入ってきた扉の上にある屋根にグリセオールが立っていた。その姿は死神の制服、つまり黒いローブ。俺が驚いて固まっていると、グリセオールは高く飛び上がり、屋上の真ん中あたりに着地した。
「さて、早速だがどうやって死にたい?」
いきなり、それかよ。ふざけんな!
「死なないために逃げてたんだ」
「その選択肢は既にない。私は君を殺さなきゃいけない。君がクラスメイトを切り抜けたのは計算外だったが、それなら私が直接手を下そう……それで、どうやって死にたい?」
「少し話はできないか?」
「する必要がない。今、こうしている間にも君の運命の歪みが周囲に影響を与え続けている」
だめ、か。まあ、予想はできていたことだった。グリセオールが俺達の話を聞くなど、最初からありえなかったんだ。それもスノウの読みどおり。
「じゃあ、これならどうだ?」
その言葉と同時に、グリセオールの後ろからスノウの姿が浮かびあがってくる。そして、そっとグリセオールの心臓の位置にスノウの鎌の先端が添えられた。突然の出来事に、グリセオールは二の句が告げない。固まったまま、俺を見ていた。
「グリセオール先生、動いたら刺します。まずは私達の話を聞いてください」
スノウが淡々とグリセオールに告げる。グリセオールはいつの間にか落ち着き払っており、首だけを動かして周囲の状況を観察していた。
「最初からこれが狙いか」
「ええ。こうでもしないと、グリセオール先生は話なんて聞いてくれませんからね」
そう、これは作戦だ。
まずはグリセオールと操っている人間達を隔絶する。そして、スノウの死神の能力をつかってスノウ自身の姿を消し、グリセオールを脅迫する形で交渉の場を用意する。スノウよりも上の立場であるグリセオールならば、もしかしたら打開策があるのではないか、と考えたのだ。
「先生……運命を、啓介さんの運命の歪みを他の要因で戻すんです。私じゃ運命の綱を見ることができません。グリセオール先生なら、死神の長であるグリセオール先生なら、強いエネルギーさえ用意すれば、歪みを元に戻せませんか? それか、他の運命に影響が出ないように。なんとかなるんじゃないですか?」
スノウの問いかけに、グリセオールは眉をひそめた。しばらく考え込むような表情をして、グリセオールは小さく息を吐いた。
「強いエネルギーで歪みを元に戻す。理論的には可能だが……そのエネルギーはどうする?」
「それは、皆で協力して……」
「そうか……ちなみにな、歪んだ運命を正すために必要なエネルギーを百としよう。単純な計算だけじゃ正確な数値はでないんだが。仮に他人の運命を全て犠牲にしたとして、そこから得られるエネルギーは一程度だ」
「え……?」
思いもよらない言葉と数値に、スノウは目を見開いた。
「それとな、理論的には可能といったが、私でさえ運命の綱の姿は見ることはできない。ゆえに、それだけのエネルギーを用意したとしても、高橋啓介の運命にどんな力がかかるかなんてわからない。偶然歪みが直り、偶然他の運命に影響がでないようになる。そんな運任せなことに、それだけのエネルギーをかけるのか? 人の命、百人分を賭けると?」
「え……あ……」
スノウはうろたえた。俺だってそうだ。愕然とした。俺の運命を正すためには人の命が百人分だと? 百人の命を犠牲にて、やっと俺の運命を正すだって!? そんなのやれるわけないじゃないか。そんなの、無理だ……。
スノウを見ると、グリセオールの胸元に突きつけていた鎌がだらりと地面に落ちていた。衝撃ゆえに力がはいらないのだろうか。スノウの顔は蒼白だ。健康的な透明感ではなく、色素を抜いたような、にごった白。その目に生気は感じられない。
「スノウ……君が考えていたことくらいは私も考えたさ。しかしな、無理なんだよ。高橋啓介のために無関係なたくさんの人の命を賭けるなんてこと、私にはできない」
グリセオールはゆっくりとスノウの鎌から抜けると、そっと、スノウの肩に手を乗せる。そして優しく微笑み頭を撫でた。
「スノウ、君は優しい。でもそれだけじゃだめな時だってある。最後の始末は私がつけよう……スノウには酷なことかもしれないがな」
そういうと、グリセオールは自らの大鎌を手にとり、こっちへ歩いてくる。ゆっくりとしたその仕草はどこか妖艶だ。このまま見惚れていれば、きっと苦しまずに逝ける。そう思わせるほどには、美しい所作だった。
「高橋啓介。覚悟はいいか? この地上の全ての人のために、今からお前の命を絶とう」
ゆっくりとあがる大きな鎌。その先端は鈍く光っている。あれが振り下ろされたらきっと俺は死ぬのだろう。けど本当にそれでいいのか? 佐立も芳先輩もスノウも、俺のためにここまでがんばってくれたんだ。俺が死んだらきっと悲しんでくれる。母さんや姉ちゃんを置いて俺一人逝くことはできないんだ。
そう……俺はあきらめるためにここにいるんじゃない!
ここに来た理由を思い出し、俺は立ち上がる。スノウと一緒にいたかったからじゃないのか!? なら、そうするために最後まで、死ぬ気でやらなきゃいけないんだ!
その決意の元、俺は鞄に忍ばせていた銀行強盗撃退グッズを取り出した。催涙スプレーをグリセオールに吹きつけ、怯んだ隙に最大出力でスタンガンをこれでもかと食らわしてやる。
「がっ――!」
目元を押さえながら崩れ落ちるグリセオール。スノウは突然の出来事に目を丸くしている。
「スノウっ!」
「啓介さん!?」
俺は崩れ落ちているスノウの手をとり駆け出した。スノウは困惑していたが、そんなの構うことはない。
「はぁ、はぁっ、はっ……なぁ、スノウ!」
「はっ、はぁっ、何ですか?」
「俺が今からすることを黙ってみていて欲しいんだ」
「今から、何を?」
「ああ、俺は最後の望みにかけることにする……これが成功する確率なんて、きっと一パーセントにも満たないのかもしれない。けど、少しでも可能性があるなら、俺はそれに賭けたい」
ようやく屋上の端にたどり着く。そして、俺は急いで柵によじ登り、向こう側へと降りたった。
「啓介さん!?」
「俺さ、二度も死を免れただろ? そんなの普通ありえないってスノウは言ってた。でも、こうして俺が生きてるなら、きっと何らかの要因があったと思うんだ」
スノウは俺の言葉に耳を傾けてくれている。うん、それでいい。
「それが何なのか、俺にはわからない。けど、俺を二度も救ってくれたそれを俺は信じようと思うんだ」
「それって……」
「それだけで運命の歪みが直るかって言ったら違うと思う。でも、俺が死んだら周囲への影響はなくなるんだろ? ってことはだ……死に近づけば近づくほど、他への影響が少なくなるってことにならないかな?」
「け、……啓介さん?」
「俺の元々の運命は死だったはず。それなら死に近づけば、いや、絶対死ぬような状況で、運命さえ騙すような……そんな死んだふりができれば、俺の運命は再び綱の中の一本に、死を免れる前の運命に近づけるんじゃないかな? 試す価値はあると思わないか?」
「……だ、だめですよ……そんなの、確証がありません……」
「グリセオールに殺されるより、生き残る可能性は残ってるだろ? なら、試す価値はある。俺を救ってくれた力と、二度生き延びた俺の運……それに俺にはスノウがついてる。天使のようなスノウがそばにいてくれるんだ。どんな困難も、叶わないはずないだろ?」
「私は死神です。そんな、ちか、ら、あるわけない、じゃないですか」
「天使だよ。スノウ。俺にとって君は天使だ」
スノウは口に手を覆い、涙を流す。その涙は地面へと落ちて小さな染みを作っていた。スノウの後ろでは、グリセオールが起き上がろうとしていた。
「好きだよ、スノウ……またな」
俺はゆっくりと体重を後ろに傾けていく。だんだんと体は倒れていき、足が屋上の端をそっと離れる。
一回目だって生き残れたんだ。今回だって、きっと……。
ぎゅっと目をつぶりながら重力に身を任せようとしたその時――俺の体の上からスノウが飛びつきながら抱きついてくる。もう、俺達の体は落下を始めていた。
「私も好きです、啓介さん」
その言葉を聞いて、俺は心底死にたくないと思った。そして、スノウに伝えたい言葉が止め処なくあふれてくる。でも、それを発することはないまま、俺とスノウは地面へ向かって落下した。すぐさま、俺の体をすさまじい衝撃と音が包み込んだ。
俺の最後の記憶は、穏やかに微笑みながら涙を流す、スノウの笑顔だった。




