一
『きっと、グリセオール先生は明日、明後日にはやってくると思います。啓介さんを殺す準備にそんな時間がかかるとは思えませんが、すぐやってくるような考えなしではないですから。ですから、私達には準備する時間なんてありません。覚悟をきめないと』
昨日スノウはそんなことを言っていた。それなら今日来るつもりでいたほうがいい。今日伸るか反るかの賭けをしなきゃならない。ベットは俺の命。安くない。
結局できたのは、少しだけ喧嘩の極意を佐立に聞いたのと、不測の事態が起こったときの対応を芳先輩とシミュレートしたくらいだ。そして俺の気持ちの整理だろうか。いつ来るかわからない脅威に怯えるよりも、開き直って今日という日を、いつもどおりのこの日を楽しんだほうがいいと思ったら少しだけ気持ちが軽くなる。だから、普通に学校に行く。
「いってきます」
返事はない。今日は母さんも姉ちゃんも既に出かけていたからだ。少しさびしさを感じたが、それを噛み締める前に足元に黒い何かが通り過ぎた。
「おはよ」
俺の言葉に返答はない。でも、俺はそれでも不満はない。いつもどおり、手に持ったパンを投げると目の前にいた黒猫はゆっくりと近づいてくる。
「もうパンあげられないかもしれないな」
黒猫は振り向きもせずパンに食らいつく。その仕草がいつにも増して激しいような気がした。
「腹、減ってたのか? ごめんな。最近あげられなかったからな」
あっという間にパンを食べ終わった黒猫は、俺を見上げて鳴き声を挙げる。
「まだ欲しいってことか? もうないんだ。また今度だ」
自然と手をのばすと、当たり前のように頭を差しだしてくる黒猫。俺は遠慮せずに撫で回した。
「ようやく慣れてきたのかよ。遅いよ、馬鹿」
馬鹿と言い終わるか終わらないかのうちに、黒猫はさっと身をひるがえし俺と距離をとった。そして、おもむろに振り向くと、再び鳴き声を響かせてさっさとどこかに行ってしまう。
「撫でさせたからには次も持ってこいってか? ずうずうしい奴だな」
一人でそんなことをつぶやきながら、俺は立ち上がり学校へと向かう。
◆
「おはよ」
「おぅ」
「意外と早かったわね」
家の目の前には佐立と芳先輩が立っていた。二人に今日か明日にグリセオールが来るかもしれないということを話したら、迎えに行くというのだ。まあ、心配してくれるのはありがたいが……。なんとも恥ずかしい。
「啓介さん……」
ふと横をみると、スノウもそこにいる。その顔は不安に満ちていた。
「大丈夫だ。こんな状況なんだから、やるしかないだろ?」
できるだけ精一杯軽く言ったつもりだったが、それはスノウの心を軽くはできなかったようだ。鎮痛な面持ちでスノウは小さく首を立てに振る。
「きっと、大丈夫ですよね」
「ああ」
俺は震える手を隠すように、ポケットに手を突っ込んで歩き始めた。
学校に行ってからは特に何事もなく時が過ぎていった。この前の銀行強盗の騒動のあとから、俺はクラスになんとか馴染めていたのだ。顔見知りに声をかけつつ、俺はこれからも続けたいと思う時間を過ごす。
いつの間にか放課後になった。皆、部活だったり家に帰ったりするが、俺は教室に残った。少しでもここにいたかったからだ。大事な友人と出会ったここにいたかった。自分が変わるきっかけをくれたここにいたかった。自分の一番大好きな女の子と過ごしたここにいたかった。だから、俺はここでグリセオールを迎えることにした。なぜだか、それが今日だと、心の中で確信していた。
気分転換に外に出る。まだ職員室の電気はついているから誰かいるのだろう。屋上を見上げると、つい先日のことを思い出した。
あんなとこからよく飛んだよな。
面白くなって笑ってしまったが、その声は風にまぎれてすぐ消えた。そんなことをしている最中、俺は校門に立っている人影に気づいた。その人影はゆっくりとこちらに近づいてくる。逆行で顔は見えない。けれど、確実に俺を目指しているのはわかった。
「高橋……」
段々と近づいてくる人影はうちの学校の制服を着ていた。そして、徐々に近づくにつれその顔も露になっていく。そして、その人影は俺が知っている人物だった。
「沼田」
そう。俺をいじめていた沼田だった。停学期間が終わっても登校してくることがなかった沼田だった。
「こんなとこで何してんだ?」
「別に。ちょっと気分転換」
「はっ……。んなことやってるやつにぶん殴られるなんて。俺も情けねぇな」
ぎこちなく笑う沼田の表情からは、以前のような歪んだ感情は感じられない。どこか落ち着いた印象を受けた。
「沼田こそ……どうして学校に来なかったんだよ」
「あんな状況で行けるわけねぇだろ? まあ、そんなのはどうでもいいんだよ。俺はな、一つだけやらなきゃならないことがあってよ」
「やらなきゃならないこと?」
「ああ」
そう呟くと、沼田がさらに近づいてくる。その視線は真っ直ぐに俺を射抜いていた。
「お前によ……謝りたくってよ」
「え?」
「悪かったよ。うちの親……最近うまくいってねぇし。面白くなくてよ。当たっちまった。わりぃ……」
俺は驚きを隠せなかった。いきなりやってきて謝りだして。こんな沼田を想像すらできなかったのだ。間の抜けた声しか出せない俺を置いていくかのように、沼田はさらに言葉を重ねる。
「佐立を理由にしてよ、いい気になってたんだ。謝っても許されることじゃねぇだろうけど……それでも借りは返したいんだよ。だから……、だからよ。その大きな借りを返したくて今日は来たんだ」
沼田はそういうと、担いでいた大きな鞄に手を突っ込む。その鞄はやたらと大きくて、数日程度の旅行なら十分に余裕が出るほどだろう。その鞄を持ち歩いているという時点ですこしおかしかったが、沼田がその中から取り出した物をみてそれは確信に変わる。
鎌だ。
おそらく普通に雑草とかを刈る鎌なんだろうが、それを鞄から、それも今だすんなんて正気じゃない。ありえない!
「か、返さなきゃ……か、かかかかか借りを、かか、かかか、かかかかかえさなきゃーーー!」
振りかぶる鎌。血走った目をこれでもかと見開いている沼田は躊躇なくそれを振り下ろす。
くそっ! これかよ!
俺は、すぐさま走り出す。逃げなきゃ殺される! そのことだけは確実だった。
『おそらくグリセオール先生は、直接手を下したりしないでしょう。人の命を刈るのは制約も多いですから。できるだけその手段は避けたいんだと思います。まあ、好みもあるんだと思いますけど、きっと人を操って啓介さんを殺そうとしてくると思います』
その言葉通り、沼田を操ってきたんだ。でも……一人だけなら。
そう思っていたのもつかの間、いつの間にか周囲にはうちのクラスの生徒達がいた。俺を取り囲むように立っており、皆、手に鎌を持っていた。
「くそっ、ホラー映画かよっ!?」
このままここにいちゃまずい! 取り囲まれて殺される! 逃げなきゃ、まずは安全の確保だ。
俺は走った。とにかく走って皆から距離をとる。幸いにして、皆はゾンビのごとく走るスピードがそれほどでもなかったから逃げるのは容易い。それでも、このままだといつかは捕まるだろう。
「啓介! こっちだ!」
佐立だ。佐立は沼田達のように正気を失っているようには見えない。それもそのはず、佐立と芳先輩にはスノウが作ったお守りを持ってもらっているのだ。そのお守りは、沼田達がかかっている術を振り払う効果があるのだと。
どんなファンタジーだよ。
そんな突っ込みをしながら、俺は佐立がまつ校舎の中へと走っていった。
「佐立!」
「啓介、大丈夫か!? くっ、早く鍵しめろ! 今あの女も鍵を閉めて回ってる! あとはここだけだ」
「ああ!」
鍵を閉めた直後に、校舎のドアをどんどんと叩くクラスメイト達。どうやら中には入ってこれないようだ。
「スノウの読みどおりだな。とりあえず、合流するぞ」
そういって、俺と佐立は走り出す。向かうは生徒会室だ。
◆
「無事ね」
俺達よりも後に到着した芳先輩は、俺達の姿を見るなりほっと息を吐いた。そして、生徒会室の鍵も閉めると、力の抜けたように椅子に座り込んだ。
「あれ何よ。みんな鎌もって。私も切り殺されるかと思ったわ」
「襲われたのか?」
「ううん。鍵しめてたら、外から窓叩いててね。怖すぎて、声も出なかったわよ」
芳先輩はそう言いながら自分の肩を包み込むようにぎゅっと抱きしめる。よっぽど怖かったんだろう。
「すみません」
「いいのよ。やりたくてやってるんだから……。それよりも、本当に大丈夫なの? 勝算は――」
「何度も話し合ったじゃないですか! 大丈夫です。信じてください」
「心配性だな。会長さんよ。こいつはやるときはやる男だぞ? 信じろよ」
「そうね……」
そうここまでは予定通り。グリセオールと一対一の状況をお作り出すための作戦だ。そのための第一段階。学校の中での篭城作戦だ。これは芳先輩の生徒会権限を使わなければどうにもならなかった。芳先輩に感謝だ。
「懸念してた居残りの先生も帰ってたみたいだから、この学校にいるのは私達とグリセオール、それと操られた人たちだけね」
「グリセオールはどこにいるのかわからないけど」
「全くだ――ん?」
そうこうしていると、離れたところからガラスの割れる音が聞こえた。皆、一斉に音がした方向を見る。
「割られた、か」
「これじゃあ、篭城した意味が……」
「そんなこと言ってる場合じゃないわ! 急いで逃げないと!」
芳先輩の声に俺達はすぐさま生徒会室を出る。そのまま階段に向かうと、ちょうど下から上ってくる鎌を持った沼田達が見えた。沼田達は俺達を見つけるや否や、鎌を振り上げて襲ってきた。
「嘘でしょ!?」
「ほら、啓介君、急いで!」
やばいやばい! 俺は大急ぎで階段を駆け上がっていく。ふと後ろを見ると、途中の踊り場で佐立が立ち止まっていた。
「佐立!?」
「先に行ってろ。このままじゃ追いつかれんぞ」
「でも佐立が――」
「人の喧嘩心配できるたまかよ。いいから行けって。後から必ず追いかける」
そこまで言うと、佐立は迫っていた沼田達を通さないよう、一人ずつぶん殴っていた。それでも数に押されているせいか、たまに鎌が体を掠めていく。
「佐立っ!」
「早く行け!」
「でも……」
佐立を助けに行こうと俺は身を乗り出した。が、俺の腕をがっしりと芳先輩が掴んでくる。
「行かなきゃ。佐立君だってずっとはもたない」
じっと俺を見つめる芳先輩。その瞳は、俺に何かを訴えいた。
そうだよな。やるべきことを見失っちゃいけない。
俺は、すぐさま踵を返し階段を駆け上がる。
「ありがとう!」
その返答はもうない。俺と芳先輩は、そのまま一番上まで駆け上がった。




