三
目が覚めた。外は明るくスズメも可愛らしく鳴いているから朝なのだろう。時計を見ると七時だ。今日は学校は休みのはずなのに、俺はなぜだかこんな時間に目が覚めていた。
いや、なぜだか、というのはおかしいか。俺の眠りを妨げた原因は、誰かがけたたましく叫んでいる俺の名前だったのだ。
「啓介くん! ほら、起きて起きて! いつまでも寝てると脳味噌溶けちゃうわよ」
そんな意味不明な言葉が外から響いてくる。俺がベッドの上でそれをわけもわからず聞いていると、いつのまにか俺の部屋のドアを開けていた姉ちゃんが不機嫌そうな顔で俺を睨んでいた。
「あれ、あんたの友達? うるさいから黙らせてきて」
それだけいうと、すさまじい勢いで部屋のドアを閉めていった。その風圧に俺は顔をしかめたが、まあいいや、と思い再び布団へと身を投げ出す。
「啓介くん! ほら、起きてって――あ、すいません。うるさかったですか? え? 中に入って待ってていいんですか? すいません。ありがとうございます!」
という声が聞こえたため、俺は渋々体を起こすと、軽く身支度をして一階へと降りていった。
下に降りると、声の主であったのは生徒会長だった。加えて、スノウと佐立もいた。三人とも、リビングのテーブルに腰をかけており、母親がもてなしていた。今日は母さんも仕事が休みの日なのだ。
「あんたが起きるの遅いから。ほら、友達待ってるわよ?」
母さんのその言葉に合わせて、会長は片手をひらひらと振ってきた。よくよくみると、佐立もスノウもどこか眠たげだ。
「おはよ、啓介君。よく眠れた?」
爽やかな笑みを浮かべた会長がこちらを向いている。というか、この人はこんなにテンション高い人だったか? 元々あったTHE・優等生というイメージからはかけ離れているように思える。
「はい。会長が外で叫び出す前まではよく眠れてたと思います」
「そんなに早い時間じゃないからいいでしょ? って、啓介君。一つ言っておきたいんだけど……」
途端に顔をしかめる会長。その迫力に俺は思わず身を引いた。
「なんでしょう?」
「会長ってやめてって言わなかった? ここは学校じゃないし、私にはちゃんと名前があるんだから。芳っていうね」
「まあ、そうなんですけど、まだ知り合ったばかりなので」
唐突な距離感の詰め方についつい嫌な顔をしてしまう。
「これから親しくなるんだからいいの。お願いだから、ね?」
と、朝から美女に頼まれたら頷くしかない。それが男だ。
「じゃあ……、えっと、芳先輩? でいいですか? なんでこんなに早い時間に来たんですか? 待ち合わせ、一応してませんでしたっけ?」
「いいのいいの! 今日は天気がいいし、早起きは三文の徳っていうでしょ?」
その強引な態度に、俺は二人に助けを求めるが、
「ありゃ無理だ。おとなしく従っとけ」
「私もあの勢いに、抵抗できる気がしません」
そういって首を横にふりながらうつむく二人をみて、俺は抗うことをあきらめた。パンをほお張りながら支度を始める。テレビから流れ出る悲惨な事故や事件に耳を傾けながら。
◆
「あ、なんですか、あれは! すごいおっきい……」
そういって口を開けたまま見上げるスノウ。その視線の先にはリンゴをくわえた象がたたずんでいる。ゆったりと動く巨体は、どことなく優雅さを感じさせた。
うわ。あれまででっかいよ。
柵の中に転がっている排泄物から視線を反らしながら、俺は惚けているスノウに声をかけた。
「あれは象っていうんだ」
「そうなんですか……」
「そんなに珍しいか?」
「珍しいっていうか初めてです。天界ではこういうところ行った事がありませんでしたから」
「そうなんだ」
そう言って俺達はそろって象を見上げた。大きな瞳が俺達を射抜いている。深海のようにどこまでも深いその瞳は、俺のちっぽけな心の奥を見抜いているような、そんな気までした。
「いろんな生き物がいて、飽きないですね……なんだか、こっちに来て啓介さんと出会ってから、毎日、本当に色々ありました」
「そうだな」
ふとスノウに視線を向けると、スノウはその視線をはずすことなく象を見つめていた。その瞳はとてもきらきらと輝いてる。透き通った瞳に、吸い込まれそうになるほどに。
そんなスノウにみとれていた俺は、唐突に発せられたスノウの言葉に即座に反応ができない。
「初めてなんですよ」
「え?」
「初めてなんです。こうやってだれかと一緒に遊びに行ったりすることって」
「あっちでは、友達とかと遊んだりしなかったのか?」
俺の言葉に、スノウは初めて象から視線を外して少しだけ俯いた。
「祖母が亡くなってから、死神になるための勉強ばかりしていましたから。遊ぼうにも、そんな余裕はありませんでしたし」
スノウの悲しげな表情を見ながら俺は失言に歯噛みする。育ての親であるばあちゃんが死んでからのことなんて、容易に想像がついたはずなのに。
「でも、今は憧れの死神になる寸前のところまできてるんです。やっとここまできたんです。それに、今はこうして楽しい時間を過ごしているんです。幸せです」
そういって気遣うように微笑むスノウはとても綺麗だった。
「ま、まあな。楽しんでるならいいんだけどさ……」
俺はうまい言葉も思いつかずに象へと視線を向ける。
「はい! 楽しいです!」
そういってスノウも象へと視線を向ける。
こうやって遊んでいると、死に向かっている運命のことを忘れてしまいそうになる。けれど、スノウは俺が未練なく死ねるために、俺は死から逃れるためにあがいている現実は変わらない。どれほど楽しい時間を過ごしても、俺とスノウは合い入れない存在なのだ。それだけは変わらない。
けれど、こうして楽しい時間を過ごすことができている事実には感謝したいところではある。死神という妙な立場ではあるが天使のように可愛い女の子と動物園に遊びに来るなんていう機会、そんなにあるもんじゃないだろう。
そう思うと、あの人にも少しだけ感謝してもいいのだろうか。
「啓介くーん! スノウちゃん! ご飯買ってきたから食べよう!」
この状況を作り出した張本人、芳先輩が大きな声をあげながらこっちに近づいてきた。後ろでは佐立がこれでもかという荷物を持ちながら歩いている。
「なんで俺がこんなこと――」
「何? 先輩の言うことは聞いておくものでしょ? それとも、こんなか弱い女の子にそれを全部持てって?」
「しょうがねぇな」
芳先輩と佐立はそんなやりとりを交わしつつ、食事を調達してきてくれた。
この動物園は入園料は無料ではあるが、ご飯や飲み物のお金は先輩が出してくれていたのだ。
無理矢理さそったのは私だから。そういって聞かなかった先輩には少し負い目があるのだろう。佐立はぶつくさ言いつつも、芳先輩の言うことを聞いていた。
「あっちにベンチがあるはずだから」
そういって皆でベンチに向かい、そこで昼食の時間となった。
◆
「楽しいでしょ? 動物園」
「はい!」
嬉々とした顔で問いかける芳先輩に、スノウが満面の笑みで答える。その表情に気をよくしたのか、芳先輩は楽しそうに買ってきたハンバーガーにかぶりついた。
そういえば。
俺は小さく心で呟きながらハンガーバーの中を確認する。
よし、てりやきソースだ。ケチャップじゃない。
やはり心の中でガッツポーズをしながら俺は安心してハンバーガーにかぶりついた。そう、苦手なのだ。ケチャップは。甘いのかすっぱいのかわからないあの調味料を、俺は避けて生きてきた。それゆえに、ハンバーガーには注意が必要だ。忌まわしい赤い液体が、そこに佇んでいることが多すぎる。
テリヤキバーガーに安心したのも束の間、俺はポテトに目をやった。すると、そこには小さなケチャップの袋が。俺は、それを無言でポケットにしまいこむ。
「そうでしょ、そうでしょ。私、昔っからこの動物園が好きでね。午前中で見て回れちゃうくらいの狭い所なんだけど、無料だし、小さい頃からよく来るんだ」
「こんなとこがあるなんて知らなかったな。今度、チビ達でも連れてくるか」
佐立はそんなことを呟きながら動物園の中を眺めていた。
「可愛い生き物ばっかりでしたね。私、こういう所に来たことなかったので、とても楽しかったです」
「何がお気に入り?」
「そうですね。やっぱり象でしょうか。なんだかおっきくて、目もやっぱりおっきくて……。なんだか見ていて心が穏やかになる気がしました」
「象かぁ……」
スノウの言葉に急に表情を曇らせた芳先輩は、意味ありげにそう呟く。その言葉に俺たちは首を傾げていたが、すぐさま芳先輩は言葉を続けた。
「でも、あの象は、本当なら広い草原で伸び伸びと生きていたはずなのよ」
途端に冷たく言い放った芳先輩の言葉に、俺達はぎょっとして言葉に詰まる。そんな俺たちに気づくこともなく芳先輩の話は続く。
「でも、ここにいる動物達は、もうここでしか生きられない。野生に帰ることなんて、もう無理なの」
しんと静まり返った空気に、芳先輩は唐突に気づく。そして、取り繕うようにあわてて笑顔を浮かべた。
「あ、ごめんね! 変な話してさっ! ただ……、たださ。いつもここに来て思うのが、私達も同じだなって。そうやって思うんだ」
「芳先輩……」
「柵の外にでたいはずなのに、出てしまったらきっと生きてはいけない。動物達も私達も、本当は柵の外に出て、やりたいことがあるはずなのにね……」
そういって自嘲ぎみに笑う芳先輩はとても悲しげだった。そんな中、無理矢理に作った笑顔は俺の心を締め付けていく。
そんな先輩に俺たちはかける言葉を持ち合わせてはいなかった。
「なんか、空気悪くしちゃったかな。気を取り直して、別の所にでも行こうか?」
俺達は、芳先輩の気遣いに頷き動物園を後にした。
◆
一人先を歩く芳先輩に、俺達は後ろからついていく。次の目的地に行く前によりたいところがあるそうだ。
どこか肩を落としたように感じるのはさきほどの芳先輩の表情をみたからだろうか。心にひっかかるものを感じながら、俺はぼんやりと芳先輩の背中を眺めていた。
「私はわかる気がします」
唐突に紡がれた言葉は、先の芳先輩の言葉に対してのものだとすぐにわかる。俺は視線をスノウに向けると、続きを促すように言葉を待った。
「誰だって、自分に与えられた環境だけを頼りに生きていかなければなりません。それがどういう形だって、その中でしか生きては行けませんから。だから、私は芳先輩の言うことがなんだかわかる気がするんです」
スノウのそんな言葉に佐立は不機嫌そう頭をかいた。
「っつっても、そんなの当たり前じゃねえか。何だって思い通りにはいかねぇよ。今更、落ち込むような話じゃねぇ」
そんなのは分かっている。ただ、どこかもやもやと俺の胸にひっかかるものがあるのだ。越えたら生きては行けないかもしれない。それでも、そんなこと分かっていても越えたい壁。そういうものだって、誰の胸にもあるんだと思う。
それに、越えたら生きてはいけないだなんて誰が決めたのだろう。もしかしたら困難の先には、もっとすばらしいことが待ってるかもしれないのに。
まあ、その壁がなんなのか分かっていない俺には、過ぎた文句なのだろうが。
「それよりも、急に黙っちゃうし大丈夫かな。芳先輩」
「ああいうのは、勝手にまた騒がしくなるだろ。気にすることはねぇよ」
そういって俺の肩を叩く佐立は穏やかに微笑んでいた。
普段からそういう顔をしてれば、いいのにな。
そんなことを考えていた俺の耳に――、
「きゃあああぁぁぁっ!」
唐突に悲鳴が飛び込んでくる。聞き覚えのある声。芳先輩だ。すぐさま芳先輩を見ると、不自然な、何かに引っ張られるような動きをしながら建物の中に入っていった。いや、吸い込まれていったと言ったほうが正しいか。
「芳先輩! って、うわっ、ちょ、なんだよこれ!」
芳先輩の後を追おうとすると、なぜだか体の自由が利かない。勝手に手も足も動いてしまって自然と芳先輩の後を追う形となっていた。そして、芳先輩が入っていった建物がまずい。やばい!
「啓介! 待てよ! そこは――」
「まさか――」
なぜだか自由が利く首を必死でまわして後ろを見る。佐立はあせって俺を追いかけ、スノウは険しい顔を浮べながら空を見上げていた。
「佐立! 体が、体の自由が利かないんだ!」
既にすさまじい速さで走っている俺に佐立は追いつかない。必死で手を伸ばしてくれるがそれは決して届かない。俺は、不気味な現象に操られながら、芳先輩の入っていった建物に吸い込まれていく。
そこは、銀行だった。
芳先輩の入った建物に飛び込むや否や、俺は目に飛び込んできたものを見て唐突に吐き気に襲われた。反射で吐きそうになるのを必死で飲み込む。見覚えのある数々の窓口。床に座り込んでいる人々の群。それを取り囲んでいる覆面の男達。そして、その男達が持っている黒光りするもの。ロビーの真ん中で倒れている男。どれもこれもが夢の中で見続けていたものだ。俺は口元に手を当てて叫びを押し殺す。が、真後ろで落ちてくるシャッターと突然の横からの衝撃で俺は床に転がった。
「叫ぶんじゃねぇよ! クソガキが!」
覆面の男がそういって自動ドアの電源らしきものを切っていく。もう外は見えない。出る事もできない。夢にスノウがいない理由がこれでわかった。スノウは入ってすらこれなかったのだ。
「ふんっ! 予定が狂っちまったが、いいか! おまえらは急いで金を袋につめちまえ! おまえらそっから動くな! 妙な真似すんじゃねぇぞ!」
どこかのドラマで聞いたことのある台詞だが、実際に聞くとなると、ひどく恐怖を感じてしまう。
「あれってまさか……啓介君」
蹴られて吹き飛んだ俺に近寄ってくる先輩の手は震えていた。当然だ。俺は何度も見てきた光景だが、芳先輩は初めてなのだ。銀行強盗も銃も、撃たれて血を流している人間も。初めて見るのだ。俺はそっと芳先輩の手に俺の手を重ねた。




