プロローグ
唐突に襲ってきたのは、激しい膝の震えと足元から吹き上がってくる風だった。
何事かと周囲を見渡すと、空は青く広がっており、俺が住む街が目の前に広がっていた。なんの変哲もない景色なのだが、ありえないことがただ一つ。
なんで、俺の目の前に地面がないんだよ。
足元を見ると、目の前で途切れているコンクリートの地面。一歩ふみだしたら俺は間違いなくこの場から落ちていってしまうだろう。
なんだここは。
そんな疑問が俺の頭を埋め尽くした。そして、その答えを探すべく、俺はあたりを見渡した。後ろを振り向くと、そこにはアルミ製の柵。その向こう側には、にやけた表情のクラスメイト達が俺を指差して笑っている。
え? ここって屋上? 嘘だろ? 柵の外にいるとかわけがわからない!
俺はこの状況を全く受け入れられないでいた。しかし、現実は変わらない。改めてゆっくり前を見ると、やはりここは屋上の端っこだ。
「うっ、うわあああぁぁぁぁ!」
現実を理解した瞬間、俺は恐怖に支配された。足の震えは押さえきれない。掌には汗が滲み、あわてて掴んだアルミ製の柵がすべってうまくつかめない。腰は抜け、下に落ちないようにと必死で後ずさった。といっても、柵と屋上の端までの長さは数十センチしかないのだが。
「どうしたよ! ほらほら、高橋啓介くーん! しゃがみこんでないで立ったらどうだ?」
「はっ、どうせ弱虫には、そんな真似できねぇよ」
そういって、再び笑い声が屋上へ響き渡る。
なんなんだよ、なんでこんなことになってんだよ!
俺は心の中でそう叫ぶが、その問いに答えてくれる人はいない。必死で柵にしがみつきながら、俺はなんとかして安全な場所に戻れないか周りを見渡した。すると、柵の端のほうに大きな隙間があり、そこなら人が通れそうだ。
あそこだ! あそこから、中に早く入れば!
そう思ったが、腰が抜けて立ち上がることすらできない。俺は、尻を引きずりながら移動を始める。
「ははっ! なんだよ、その動き方。芋虫じゃねぇんだからよ」
「まじウケる! みっともねぇ」
「とうとう高橋は虫になってしまいましたってか」
そんな罵声も気にならないほど、俺は恐怖に駆られていた。学校は四階建て。その屋上から下までの高さは相当のものだ。しかも、下から吹き上げる風は俺の身体を容易に揺さぶる。普段なら気持ちいいと感じる風が、悪意の塊にしか思えない。こんな恐怖を乗り越えるだなんて、そんなこと、俺にはできない。
なんとか柵の端までたどり着き、俺は大きく息を吐いた。
よかった……。助かった……。
「なんだよ、もうおしまいか」
「いっそ、飛び降りちまえばよかったのに」
クラスメイトの身勝手な言葉が耳に入る。怒りが腹の底から湧き出てくるが、それに言い返す勇気はない。しかたなく俺は柵の隙間から中に入るために立ち上がった。
その刹那――、俺に向かって吹き上げる突風。
気を抜いていたのだろう、もう助かったのだと。手を離してしまっていた俺は、突風に煽れ――、
「あ――」
落ちた。
圧倒的な浮遊感。全身に響くすさまじい衝撃と音。暗くなる視界。俺はそれだけを感じて、意識を手放した。
そう、俺は死んだのだ。その事実だけは、なぜだか鮮明に理解できた。
「っ――!」
止まっていた息を吹き返したように、俺は息切れをしながら飛び起きた。
「ぶっ――ぅはぁ! はぁ、はぁ……。な、んだ……。夢か」
うな垂れながら、俺は大きくため息をつく。髪の毛をかきあげると、じっとりとした汗が掌にからみつきひどく不快だ。
今、俺は自室の使い慣れたベッドに座っている。光が差し込む窓の外を見ると、電線を行きかっているすずめ達が目に入る。チュンチュンというすずめの鳴き声が煩わしい。
窓を閉め切っていたためか、部屋の中はひどく暑い。六月も半ばだからそれも当然だろう。俺はゆっくりと立ち上がり窓を開けると、外から舞い込む新鮮な空気を吸い込んだ。今日も始まってしまうのだと思うと、再びため息を付きたくなるのも不思議じゃない。憂鬱な気分に支配され、俺は無意識に口を開いていた。
「やっぱり気味悪いや。このキーホルダー」
その視線の先には俺の鞄についた怪しげな人形。どこかの民族の神かなんかをモチーフにしているらしいのだが何度見ても好きにはなれない。昨日道端で配っていたからもらったのだが、なぜだか外そうという気分にはならなかった。
「運勢あがるんじゃなかったのか? この悪夢……もしかしてお前のせいじゃないだろうな?」
そんな馬鹿なことあるはずがない。少しでもそんな考えが頭によぎった自分を鼻で笑い、俺は現実へと戻る。少しだけ、あの夢の結末に憧れを抱きながら。




