第二話
慟哭のメメントモリ プロローグ2
エーテル。
それは絶え間なく、世界を流れる不可視の物質である。
それは、森羅万象より生まれ、世界を廻り、そして、再び森羅に宿る。
意思あるモノの精神に感応し、様々な、超常的な『現象』を起こす。
またの名を命の源、魂の素とも、様々な名で呼ばれる。
エーテルは時に生かし、時に殺し、記憶し、語り、見せ、伝えるもの也。
***
暗い闇の中だった。
前も後ろも右も左も上も下にも何もなかった。
いや、違う。何があるのか見えなかった、だ。
何かがあるのだろう、それは見えずとも分かった。
湿った空気に吐き気を催す、血生臭い匂いに断片的に不規則に四方から吹く生暖かい風。
ズルズル、と何かを引きずる音、ペタッペタッと濡れた足音、ともすれば、逆にガリガリと削るような音やカサカサと何かが擦れ、動いているような音もする。
普通の人間が長時間ここにいたら精神に異常をきたし狂ってしまうだろう。
ここはどこ?
そう呟こうとして、声が出ないことに気付き、慌てて、手を喉に当てようとするが、その手も、足の感覚もないことに気付く。
確かに、熱も匂いも、音も、感触もあるし、聞こえる。
だが、動けない。
まるで見えない何かに、磔にされているようであった。
何も見えず、動けず、そして、解からず。
だが、そこに正体不明の何かがあるのは分かる。
しかし、それが何なのかを確かめるすべはない。
どんな生物なのか、蟻?犬?蜘蛛?獅子?蟷螂?鰐?熊?
いや、それとも、既存のものではない何かかもしれない。
毒を持つかもしれない、鋭い牙と爪を持つかもしれない。
蛇のように長い胴体で締め付ける物かもしれない。
液状の物かもしれない。
いや、もしかしたらそういう物、『形』と呼ばれる依り代を持たない物かもしれない。
何が目的なのか、なぜ、どうして、なんなのか・・・。
疑問と不安と恐怖がジワジワと体を侵食していく。
ハッハッハっ、と呼吸が荒れ、思わず叫び出しそうになるが、声を出した瞬間、周りの何かに襲われるかもしれない。
もっとも、その声を出すことはできないが、襲われる危険性を考えれば声が出せないのは逆によかったのかもしれない。
だが、それでも今が危険であることに変わりは無い、
ましてや構えることはおろか、一歩も動くことすらできないのだ。
そして、更に最悪なことに、周りにいる何かはすでに、自分の存在に気付いていて、周りを取り囲んでいるということ。
その証拠に、途切れることなく、取り囲むように周囲から様々な異臭や異なる温度の吐息を吹き掛けられている。
吐息を吹き掛けられるたびに、悪寒が走り、焼けつくような痛みを感じる。
吐息が顔に掛かる度に腐臭や血生臭い匂いに思わず吐き気を催す。
『汝、契約ヲ望ム者カ?』
契約?
甲高い男の声が響くと同時、ボウと目の前に雄羊の頭が浮かび上がる。
まるで、滝に映し出したように、上下にぶれるそれはまさに虚像の物であった。
『汝、継承ヲ行ウ者カ』
ザザザと雄羊の虚像に砂嵐のように乱れ、次の瞬間、黒い雄牛の頭へ変わる。
低く、高慢な男の声。
ビリビリと周囲の空気が震え、圧力で体が徐々に潰されて行く様な錯覚を覚える。
『汝、力ヲ望ム者カ』
再び声が聞こえた。
艶かしい若い女の声。
ザザザ、と雄牛の影が再び乱れ、今度は白人の若い女の顔へ変わる。
炎のように赤い長髪を後ろに垂らした美女。
切れ長の目に、猫の様なパッチリとした瞳、スラリとした顎のラインに微笑を浮かべる血のように紅い唇。
妖艶な印象を浮かべさせるそれは、魔女とも呼べるものであった。
次の瞬間、美女に青い炎、鬼火が燈る。
陽炎のように美女を燃やす炎は、美女の左右へ伸びる。
次の瞬間、左右へ伸びた炎の中に、先程の、雄牛と雄羊の頭が浮かび上がる。
『汝ハ』
雄羊が言う。
虚栄を張るかのように、まるで我こそがこの舞台の演出家のであるかのように。
『汝は』
雄牛が言う。
静かに、だが、目の前の小さき者を威圧するように。
我こそが、思慮深きものなりと言うかのように。
『汝ハ』
美女が言う。
傲慢に、我こそが絶対の支配者であるかのように。
そして、問う。
『我ラヲ欲スル者カヤ!!』
『我ラヲ求メル者カヤ!!』
『我ラヲ望ム者カヤ!!』
ゴウッと青白い鬼火と共に、エーテルの衝撃波が襲い掛かってくる。
「うわあああああぁぁぁあアア!!!」
激痛。
四肢を切り裂き、引き千切る様な、胴体を抉り、穿つような、激痛と喪失感が襲う。
右目を不可視の槍が貫く。
右手を見えない爪が切断する。
左腕を無数の小さな手が掴み、ねじ切る。
右足を何かが殴打し、抉り飛ばす。
左足を何かが噛み切る。
腹に何かの牙が突き刺さる。
削れていく。
無造作に。
食べられていく。
丁寧に。
奪われていく。
貪欲に。
血が、肉が、骨が、意志が、魂が。
俺を構成する全てが無くなって行く。
「イヤだ!!」
叫ぶ。
助けと、死にたくないと。
消え去りたくない、と。
衝撃波と共に飛ばされた鬼火の波が消え、蝋燭{{ろうそく}}のように、あるいは、松明のように、ぽつりぽつりと、周囲を照らすように鬼火が燈っている。
シオンを囲むように灯った青白い炎に照らされ、幾つもの影が浮かび上がる。
男、女、子供、老人、梟、蛇、鰐、驢馬、獅子、山羊、雄牛。
たくさんの影が蒼白い鬼火に照らされ、シオンを囲むように、そして、推し量るかのように見る。
「あ、あ、あ」
もはや、叫びは出ない。
無数の異形の視線によるものではない。
恐れたのは、それを彩る物である。
赤い血。
甲冑姿の男の槍の穂先からは赤く濡れ、兜の隙間からは赤い、一滴の雫が垂れている。
獅子の爪は赤い血に汚れ、ダレカノミギテが咥えている。
赤く濡れた子供の口にはダレカノヒダリテ。
赤い染みが付いた杖を持った老人、片手にはダレカノミギアシを持っている。
下を這うように動く紫色の鰐の口の端からはダレカノヒダリアシが見えた。
薄茶色の、黒い溝の目から、赤い血涙を流す蛇の牙は血に濡れている。
「・・・・・」
ヒュー、ヒュー、と空気が抜ける音が口から洩れる。
瞳が恐怖で震え、体から噴き出る汗が、顔を撫でる。
その時、目の前の三つの頭が言う。
『叫ベヨ』
声が放たれるたび、エーテルが震え、衝撃波が叩きこまれる。
『吼エヨ』
もはや痛みを感じることも無く、まるで体が霧のように、希薄に感じる。
『答エヨ』
再び放たれるエーテルの暴風に、意識が段々と黒い膜に覆われていく。
『汝ハ』
ドンッとエーテルの衝撃波が叩きこまれ、体が、霧のように吹き飛ばされて行くのを感じつつ、意識が飛んでいくのだと、分かった。
オオオオオオオオオオオオオオ!
これが、夢と気が付いたとき。
幻想的な現実と生々しい夢を見たこの日。
僕は、俺は、母が死んだことを知った。
俺が殺したことを、知った。
切りが悪くてすみません。