夜にはばたく鳥
「……今日も、来ていませんか」
入館してすぐ、いつもの図書館司書の女性に尋ねる。
「ああ、ルナちゃんね。今日も来ていないみたい」
不安が募る。もう会えないのか。――ただ、生きてさえいてくれたら。
「言ったでしょ。あたしはね、人殺しなの」
あの日、そう言って彼女は夜の街へ消えた。彼女の抱える、深い闇。僕には引き留めることはできなかった。
彼女を初めて見かけたのは、駅から少し離れた図書館だった。僕は午前10時の開館とともに、逃げるようにそこへ駆け込んだ。家にも学校にも居場所がなく、高校をサボっては図書館で過ごしていた。そして、そこにはいつも彼女の姿があった。派手な服装、明るい髪色。およそ図書館には似つかわしくない。でも、彼女はとても熱心に本を読んでいた。
――いったい、何を読んでいるんだろう。
気になって、本棚へと歩いていく様子を目で追った。彼女が立ち止まったのは日本文学のコーナー。太宰治、宮沢賢治、夏目漱石……。長い時間、本棚の前に立っている。
「絵本を、探しているんですが」
あるとき、彼女が図書館司書に話しかけているのを見た。僕が座っていた席のすぐそばにはレファレンスコーナーがあった。
「鳥が……飛びながら虫を食べて……泣いている? そんな話だったと……」
僕はすぐに思い当たった。『よだかの星』だ。僕は宮沢賢治が好きで、それは大好きな作品だった。思わずレファレンスコーナーのほうへ声をかけた。
「それ、よだかの星、ですよね」
ルナは振り返って僕を見た。驚いた顔をしている。図書館司書の女性は「ええ、たぶんそうね」と笑顔を浮かべて、僕たちを交互に見た。恥ずかしさで顔が熱くなる。
「すみません……こんなの、盗み聞き、ですよね。僕もその話が好きで、あの……」
「ううん……いいの。ありがとう」
どちらからともなく、お互いの好きな本の話をした。不思議なほど好みが合い、気づくと僕は夢中になっていた。周りの冷たい視線に気づき、思わず声を潜める。ルナはそんな僕を見てふふっと笑った。
それから、僕らが互いの距離を縮めるのにさほど時間はかからなかった。
――高校を辞めて、働いている。
お昼前。図書館を出ると、仕事へ向かう彼女と駅まで歩いた。ルナは無口で、表情もあまり変えない。感情を表に出さないタイプだった。でも、何度か会ううちに少しずつ自分のことを話した。病弱な母と、年の離れた妹がいる。父親はずいぶん前に亡くなったという。生活費のため、昼すぎから夜遅くまで工場で働く。午前中、図書館で過ごすわずかな時間が、唯一のくつろげる時間だった。
「いままで、誰にも言えなかったんだけど……本当はね」
子どものころから本が好きだった。できることなら、大学へ行って日本文学を勉強したい……でも、自分にはそんな資格はない。小さくため息をつく。
「資格がないって……どういうこと?」
ルナは曖昧な微笑を浮かべた。何も言わなかった。でも、何か言いたそうだった。もやっとしたものが心に残る。
ある日、いつものように図書館を出て歩いていると、ルナは上目遣いに僕を見た。
「あのね、今日、仕事お休みになったの。だから……一緒にどこか行かない?」
頰が少し赤くなっている。どきっとした。初めて見せる表情だった。
「うん、行こう」
ファストフードで昼食を済ませ、たまたま目についたゲームセンターへ入った。別にゲームがしたかったわけじゃない。二人でいられるなら何でもよかった。あてもなくぶらぶら歩きまわり、日が暮れるころ、人気のない公園でキスをした。目が合うとルナは俯いて、僕のシャツの袖をぎゅっと握った。そんな仕草が、たまらなく愛おしかった。
ルナは、時々仕事を休むようになった。僕は一緒にいられて嬉しい反面、心配だった。お金は……大丈夫なんだろうか? でも口には出せなかった。夕方になると、ルナは駅へは行かず、明るい繁華街のほうへ向かった。「どこへ行くの?」尋ねても、曖昧な表情を浮かべ、何も答えない。
その日、いつものように二人で過ごしたあと、ルナは公園のベンチで僕の肩にもたれた。
辺りはすっかり暗くなっていた。
背中にそっと触れると、顔を上げて僕を見た。疲れているように見えた。
「もう、行かなきゃ。でも、少しだけ……話してもいい?」
彼女にしてはめずらしく、自分から話を始めた。幼いころに亡くなった父親について。
ルナの父親は物静かで、優しい人だった。小さなルナを膝に乗せて、よく絵本を読んでくれた。そんな父親は、いつからかふさぎ込むことが多くなっていった。精神的に不安定になり、幻覚や、幻聴に悩まされた。後から母親に聞いたところ、一緒に事業を始めた友人たちからひどく裏切られたという。
ルナが小学生になったころ、父親は症状が悪化し入院することになった。妹は1歳になったばかりだった。すると、母の妹がルナのところに来て、優しく言った。
「ルナちゃん。お父さんが安心して治療を受けられるように、寂しくないから大丈夫だよって言ってあげて」
本当はすごく寂しかった。でも、心配かけちゃいけない。ルナは父親に言った。
「あたしたちもお母さんも、お父さんがいなくても寂しくないから」
その言葉を聞いたときの、父親の悲しそうな表情が今でも目に焼きついている。自分は言ってはいけないことを言ってしまった。でも、一度口に出してしまった言葉は、なかったことにはできない。
父親が自ら命を絶ったのは、その数日後だった。
「『よだかの星』って、悲しい話だったんだね。子どものころは、ただ夜空へはばいていく鳥の絵がきれいだなって、そう思ってた。でもお父さんはあの本をどんな気持ちで……友達に裏切られて、家族に寂しくないって突き放されて、ひとりぼっちになって」
ルナは唇を嚙んだ。
「……あたしの言葉が、お父さんを……。だから、あたしは、幸せになっちゃいけないの。全部あたしのせいだから。お父さんも、お母さんが体を壊して働けなくなったのも」
かける言葉が見つからなかった。ルナは顔を上げて、遠くの空をぼんやりと見た。
「もう、行くね」
ルナはゆっくり立ち上がった。「……ありがとう」青白い顔にうっすら笑みが浮かぶ。
――いつもと何かが違う。
いま、別れたら――このまま彼女を行かせたら、二度と会えないような気がした。
「待って。……いつも、どこへ行ってるの?」
ルナは目を閉じ、黙って首を振った。明らかに何かを隠そうとしている。
その態度に、体がかっと熱くなる。
「……どうして、何も言わないの。言えないようなこと、してるんじゃないの?」
ルナはびくっと体を震わせた。
僕の心にあった不安。仕事と家族の生活。夜の街へと歩いていく後ろ姿。彼女は……。
「……ユウヤには関係ない」
返ってきたのは、低く冷たい声。
「言ったでしょ。あたしはね、人殺しなの。だからどうなったっていい。もう放っといて」
ルナは僕を睨みつけると、吐き捨てるように言った。そして、夜の街へ消えた。
その日以来、ルナは図書館に姿を見せなくなった。メッセージを送っても何の反応もない。焦りが、次第に諦めに変わっていく。
もう忘れたほうがいい。
僕は高校へ戻った。もう、図書館へ逃げることはしない。気づくと、あんなに苦手だった場所がただ平和に思えた。そして、少しずつ普通の生活を取り戻していった。
――でも。
胸の奥が痛んだ。忘れられない。どんなに忘れようとしても、ふと心の片隅にそれは浮かんでくる。彼女はたぶん苦しんでいる。いま、こうしている間も。自分には何もできないんだろうか。誰が彼女を止められるのか。僕が諦めてしまったら、ルナは――。
気づくと、夜の街に足が向いていた。あの日、彼女が向かった場所。ルナはきっと今日もそこにいる。
繁華街のさらに奥の一角には、独特の空気が漂っている。立ち入ってはいけないと思わせる場所。
ルナと似た格好の少女たちが、街角に立っている。酔っぱらいたちの喚く声。大音量の音楽や客引きの声が絶えず耳に入ってくる。
そして、僕の目線の先には――明らかに年上と思われる男性と親しげに歩くルナの姿があった。化粧をしたルナは大人びていて、僕が知っているよりずっときれいだった。その横顔に戸惑いを覚える。
「ルナ……!」
そのとき、ふいに腕をつかまれた。振り返ると、背の高い、若い女性が立っていた。
「もしかして、あなたがユウヤくん?」
「えっ……」
「話があるの。来て」
女性は有無を言わさす、僕の腕を強く引いて歩いていく。僕は訳がわからず、繁華街の奥へ消えていくルナの姿を横目で見ながら、引きずられるように彼女について歩いた。
小さな飲み屋が犇き合う雑然とした通り。裏の薄暗い路地に入ると、彼女は積まれた空のビールケースに腰を下ろした。僕にも座るように促す。
「ルナに会いに来てくれたのね」
細い指で煙草に火をつける。マニキュアの赤がやけに目につく。
「どうして、僕のこと……」
「ルナがね、いつも嬉しそうに話してたの。ユウヤは本が大好きで、たくさん話を聞かせてくれる。頭がよくて、優しくて、一緒にいて楽しいって。でもね、こうも言ってた。いつか会えなくなるのがわかってるから、もう会わないようにするんだって」
会えなくなる? どうして……。
「ルナとは工場のバイトで一緒だったの。あそこはひどい場所だった。ルナはパートの女性たちからいつもつらく当たられて、それでも黙って働いてた。きっとストレスのはけ口にされてたのね。でも、何をされても顔色ひとつ変えないルナが気に入らなかったのか、今度は何かと理由をつけてシフトを減らされるようになったの。ルナの事情はわかっていたはずなのに、嫌がらせね。ルナはあるとき深刻な顔をして、もっとお金がもらえる仕事はないかって私に……どんなことでもするからって」
そんな事情が……。ルナは、自分から仕事を休んでいたわけじゃなかったんだ。
「初めていまの仕事をしてきた日――帰ってきたルナは思い詰めた顔をして、口をぎゅっと結んでた。何も言わずに。でも、私の顔を見て急に涙があふれだして……」
彼女はため息をついた。
ルナはいつもあまり表情を変えない。そんな彼女が涙を……。
――言えないようなこと、してるんじゃないの?
自分の言葉がどれほど彼女を傷つけたのか、思い知らされる。
「ルナのそんな姿、初めて見た。だから、無理してこんなことしなくていいんだよって言ったの。でもルナは次の日も……お母さんと妹が待ってるからって」
――あたしの言葉が、お父さんを……。だから、あたしは、幸せになっちゃいけないの。
「彼女がずっと背負ってきたもの……家族のために働いてお金を稼ぐ。そうすることでやっとルナは自由になれるのね。だから、きっと止めることはできない。でもね」
彼女は僕をまっすぐに見た。
「寄りそってあげてほしい。ひとりじゃないんだよって。ルナはずっとひとりで耐えてきた。あの子の味方になってあげてほしいの」
少し頰を赤くして、上目遣いに僕を見る、あの表情。
何とかして、助けてあげたいと思っていた。悪いことはやめて、ちゃんとした生活に。でも、自分なんかにできることがあるのか。そう思うと、足がすくんだ。
でも、そうじゃない。いまはどうしても伝えたいことがある。
「……何しに来たの」
ルナは鋭い目で僕を見た。突き放すような冷たい声。
「放っといてって言ったでしょ……ユウヤなんて大っ嫌い。もう顔も見たくないの」
でも、そんな態度とは関係なく、そこにいたのはいつもと変わらないルナだった。
ただ、一緒にいて楽しかった。もう一度、あんなふうに二人で過ごしたい。図書館で本を読んで、駅まで歩いて。ただ、それだけでいい。
「……どうして、幸せになっちゃいけないの?」
ルナははっとしたように僕を見た。
「だから、あたしは……」
「ルナのお父さんは……ルナのことをとてもかわいがっていたんだよね。きっと、幸せになってほしいと思ってたと思う。もちろん、僕もそう思ってる。だから、また会ってほしい。いままでみたいに」
ルナはじっと僕を見ている。唇を嚙みしめたまま。
「平日はもう行けないけど……土日は図書館にいるから。ずっと待ってるから」
――夜の繁華街で少女たちを一斉摘発。逃れようとした17歳の少女が雑居ビルの屋上から転落し、死亡。
ある日、そんなニュースが世間を賑わした。
僕は週末が来るたび、図書館で待ち続けた。大丈夫。あれは、ルナじゃない。
――待たせちゃって、ごめんね。
ルナは来る。必ず。今日もまた、僕は静かに本に目を落とす。




