表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

名前を呼ばれない婚約者のもとを去ったら、筆跡で見つけた公爵様に溺愛されました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/03/19

 まただ、とエルセラは思った。


 5年目の春。

 王宮財務局の会議室で、婚約者は今日も彼女の名前を使わなかった。


 記録係、議事録を。


 その一言で済むのが、彼──セドリック・バルテンにとっての私らしい。


 私にはエルセラ・ハインという名前があるのですけれど、と最初の1年は訂正した。2年目は半分だけ。3年目には心の中で。4年目になると、私の名前は王宮では予算削減の対象なのだろうと理解した。


 今年は、春だ。


「承知しました」


 羽根ペンを取る。

 私が書けば、誰がどこで何を言ったか、あとから誰も争えない形で残る。


 皮肉なものだ。

 人の発言はここまで丁寧に残すのに、私自身の扱いは欄外より薄い。


 会議が終わるころ、セドリックは満足そうに書類を閉じた。隣には、最近よく財務局へ顔を出すセルマ・グラーネ伯爵令嬢が立っている。鮮やかな笑み。高価な香水。場にいる全員が、その香りに「こちらが主役だ」と言わされるような人だった。


「記録係」


 まだ名前を呼ばないのだ、と少しだけ感心した。


「はい」

「会議後、少し時間をもらいたい」


 ええ、議題追加ですね。そう思っただけで、口にはしない。


 人が減った会議室で、セドリックは迷いなく言った。


「婚約を解消する」


 簡潔で結構。

 さすがに前置きまで省くとは思わなかったけれど。


「理由を伺っても?」

「君は有能だ。だが地味だし、愛想もない。今後の私の立場を考えると、セルマ嬢の方が相応しい」


 有能。地味。愛想がない。

 順番まで整っていて、まるで品評書だった。


 私は一度、呼吸を数えた。

 1、2、3、4。泣くほどでもない。怒鳴るほどでもない。


 議事録の余白に、脳内で書き込む。

 婚約破棄、議題1。所要時間8息。会議より短い。


「承知しました」

「わかってくれて助かる。引き継ぎは頼む」

「婚約の、ですか。それとも仕事の」

「……両方だ」


 両方。

 私自身は要らないが、私の整理能力は置いていけという意味である。実にわかりやすい。


 セルマが扇の陰で笑った。


「ハイン様は、その……静かでいらして素敵ですわね」

「ありがとうございます。今はまだ、人前で叫ぶ予定がありませんので」


 セルマは一瞬だけ表情を止めた。

 セドリックは気づかない。


「では、後日書類を」

「本日中に整えます」


 5年分の婚約も、3年分の実務補助も、整えるのは私の役目だったらしい。


 私は礼をして会議室を出た。

 廊下に出た瞬間、肩が軽くなった気がした。


 ──その時だった。


「エルセラ・ハイン文書官」


 足が止まる。


 振り向くより先にわかった。

 それが私の名前で、私に向けられた声だということが。


 廊下の窓辺に、長身の男が立っていた。

 黒に近い濃紺の礼服。整いすぎて冷たく見える顔。宰相補佐官、ヴァレント・リースフェルト公爵だった。


「……私、でしょうか」

「他にいません」


 まっすぐな返答だった。

 曖昧さも、おためごかしもない。


「正式なお名前で、お迎えに来ました」


 その一言が、妙に胸に刺さった。


 泣くほどではない。

 たぶん、まだ。


     ◇


 その日のうちに、私は婚約関係の整理書類と、業務の引き継ぎ書を完成させた。


 婚約の方は薄い。

 仕事の方は厚い。


 量の差に、5年の答えが出ている。


「人より先に名札を支給される職場というものは、珍しいのではないでしょうか」


 翌朝。

 宰相府文書監査室に通された私は、机の上の真新しい真鍮の札を見てそう言った。


 エルセラ・ハイン 特別補佐文書官


 そう刻まれている。


 ヴァレントは眉1つ動かさなかった。


「必要だと思いました」

「人員配置より先に、ですか」

「あなたには、それが先だと」


 返す言葉に困る。

 困るが、困ること自体が久しぶりだった。


 この人は、たぶん本気でそう思っている。


「どうして私の名前を?」

「3年前から依頼を出していました。西岸洪水対策会議の議事録担当に、エルセラ・ハインを回してほしいと」

「そのような話、私は受けておりません」

「でしょうね。毎回『記録係を送った』とだけ返されました」


 胃のあたりが静かに冷えた。

 ああ、本当にそういう扱いだったのだ。


 私が黙ると、ヴァレントは机の端に置いていた古い会議録を差し出した。


「証拠を見せます」


 開いた紙の端に、見覚えのある青い栞紐が挟まっていた。


「これ……」

「あなたの癖です。重要会議だけ青を使う」

「それを、覚えていたのですか」

「ええ」


 次に示されたのは、余白の小さな書き込みだった。


 西岸地区、再確認要。数字が合わない。


 私の字だ。3年前のものだ。


「この余白があったから、私は西岸の架空請求を見つけられた」

「……誰も気づかなかったのに」

「私は気づきました」


 さらに彼は、別の1枚を差し出した。

 そこには疲れた日にだけ出る、私の署名の癖があった。最後の1画が少しだけ跳ねる。


「夜会のあとに書いた議事録ですね」

「そこまで」

「その日の会議は4時間半。あなたは誰より遅くまで残っていた」


 胸が、変なふうに痛む。


「結論から言います」


 ヴァレントは淡々と告げた。


「王宮の災害復旧帳簿に不一致が出ています。あなたの整理体系がなければ解けない。力を貸してください」

「……元の職場のために」

「違います。正しく残すためにです。そして、今度はあなたの名前を消させないために」


 私は名札を指先でなぞった。

 ひんやりとした金属が、現実を教えてくれる。


「承知しました」


 その返事は、昨日までのものとは少し違った。


     ◇


 監査室の仕事は静かで、しかし容赦がなかった。


 帳簿の数字は嘘をつく。

 けれど紙質、インク、転記の順番、押印の角度は、案外正直である。


「甘いものを」


 長机に向かったまま、私は言った。


 向かいのベッテが顔を上げる。監査室付きの女官で、怒る時だけ声が2倍になる人だ。


「はい?」

「いえ、申請ではなく願望です」

「公文調で欲望を言わないでください、ハイン様」


 思わず少しだけ笑った。

 ベッテは呆れ、ヴァレントは書類から目を上げないまま、小皿をこちらへ押した。


 角砂糖を砕いた焼き菓子だった。


「……申請が通ってしまいました」

「却下理由がありません」

「監査室とは、意外に福利厚生が良いのですね」

「あなたが来てから改善しました」


 それを改善と呼んでいいのかはわからない。


 ──5日目の夕方、私の手が止まった。


 付属帳票を1枚1枚照合していた時、1枚だけ紙質が微妙に違う資料があった。前後の文書と日付の流れも合わない。差し替えられている。誰かが意図的に、帳票を入れ替えた。


「ヴァレント様」

「見えましたか」

「これは、差し替えです」

「2年分、8か所あります」


 声に出した途端、指先が静かに冷えた。偶然の不一致ではない。意図的に並べ替えられた記録。記録を守るために書き続けてきた私には、これが何を意味するか、よくわかる。


「誰の管轄ですか」

「確認します」


 翌朝。比較照合を終えた資料をヴァレントの前に並べながら、私は言った。


「この差し替えが集中している区間の担当部局は」

「バルテン次席補佐官の管轄です」


 胃のあたりが、また冷えた。

 わかっていた。だが口に出すと、また違う重さになった。


「私が3年前に上げた警告の、直属上司でしたね」

「その通りです」


 ヴァレントは静かに言った。淡々とした声だったが、その奥に何かが含まれていることは、3年分の彼の議事録を読んでいれば分かった。


「それをあなたは、どの段階から」

「最初の警告から、ずっと」


 甘いものを口に入れた瞬間、少しだけ泣きそうになったので、私は咳払いでごまかした。


 泣くのはまだ早い。

 議事は途中だ。


 その日の夕方、王宮から使者が来た。


「バルテン次席補佐官より。至急、記録整理のため一時協力を──」

「お断りします」


 使者は目を丸くした。

 そうか、断ると思っていなかったのか。


「ハイン様、これは王宮の要請で」

「宰相府所属の文書官に対する正式な照会状がありません」

「しかし、あなたがいなければ」

「ええ。でしょうね」


 言ってしまってから、少しだけ驚いた。

 私は案外、意地が悪いのかもしれない。


 使者が去ると、ヴァレントが静かに言った。


「嬉しいです」

「何がですか」

「今の一言に、あなた自身が入っていた」


 顔が熱くなる。

 そういう言い方は困る。


「困らせるつもりはありません」

「顔を見ただけで困っているとわかるのですか」

「ええ。3年前から見ているので」


 ずるい。

 冷たい顔でそういうことを言うのは、少々反則だと思う。


     ◇


 王宮監査会は、春季査閲の最終日に開かれた。


 大広間に、財務局、監査院、宰相府、それに王族の代理まで集まる。

 紙の音さえ響くような静けさだった。


 私は監査室の紺の礼服を着ていた。

 胸元には、昨日届いた新しい徽章。名前入りの文書官章。


 セドリックの顔色が変わる。

 たぶん、私の名前が視界に入ったのは、それが初めてだ。


「まず、災害復旧費の不一致について」


 監査院長ドーラント伯が告げた。


 帳簿が並べられる。

 石板記録、写本、付属帳票。

 私は順番に説明した。


「こちらが原本。こちらが転記本。そしてこちらが、削除された付属帳票の複写です」

「複写など、誰が」

「私です」


 ざわめきが起きる。


「私は議事録官として、重要会議の付属資料に限り確認用複写を保管していました。提出先は当時の直属上司。受領印もあります」


 受領印の脇に、見慣れた署名。

 セドリックのものだ。


 彼が青ざめた。


「そのようなもの、勝手な私蔵ではないか」

「いいえ。こちらが3年前の通達です。災害案件は複写保存を推奨。起案者は──バルテン次席補佐官」


 静かな笑いが、会場のどこかで漏れた。


 セドリックは息を呑む。

 セルマは扇を握る手に力を入れた。


「加えて」


 私は次の紙を出す。


「私は不一致について3度、余白注記つきで警告を上げています。ですが正式議事録では、その助言者名がすべて削除されていました」

「証拠は」

「筆跡照合済みの下書きがあります」


 ヴァレントが1歩前に出た。


「照合は私が担当しました。余白の筆跡、修正時のインク差、署名癖、すべて一致しています」


 会場の空気が変わった。

 ああ、と私は思った。今まで私が書いてきたものが、ようやく私の側に立ってくれている。


 ドーラント伯が低く言う。


「つまり、ハイン文書官の警告を握り潰し、彼女の整理体系だけを利用しながら、功績を局内で横領していたと」

「そ、そんな言い方は」

「他に言いようがありますかな」


 セドリックは私を見た。


「エル……いや、ハイン。君は、最初から」

「5年目です」


 彼の言葉を切る。


「今さら名前を思い出そうとしなくて結構です」

「私は、ただ」

「私が必要なのですか。それとも、私の作った整理体系が」


 彼は黙った。


 その沈黙だけで十分だった。


 ベッテならここで『はい、終了です』と言っただろう。

 私はそこまで親切ではないが、慈悲深くもない。


「5年で覚えなかった名前を、今日だけ急いで呼んでも、記録上の効力はありません」


 今度は、もう少しはっきりと笑いが起きた。


 セドリックがまだ口を開こうとした、その瞬間、ドーラント伯が杖を静かに鳴らした。


「バルテン補佐官。今の言葉も、記録に残りますよ」


 会場が、完全に静まった。


 ドーラント伯は続けた。


「バルテン次席補佐官は職務停止。署名権限を即時停止。関係帳簿は再監査へ。

 また、ハイン文書官の警告削除については正式に記録を修正する」


 正式に、記録を修正する。


 その言葉に、ようやく肩の力が抜けた。


 次に宰相が立ち上がった。


「エルセラ・ハイン文書官」


 会場中の視線が集まる。


「本日付で、宰相府特別文書監査官に任じる。

 災害案件の再編成は、君の指揮下で行う」


 一瞬、何も聞こえなかった。


 それから遅れて、拍手が起きる。

 あまり大きくはない。だが確かに、公の場で私の名前が認められた音だった。


 私は礼を取った。

 膝が少しだけ震えたのは、たぶん気のせいではない。


     ◇


 監査会のあと、大広間の外廊で立ち止まった。


 泣くつもりはなかった。

 なかったのだけれど、名を呼ばれるたび、胸のどこかがほどけていくので、少しだけ困っていた。


「エルセラ」


 また、彼だ。


「今日は何度も呼びますね」

「足りませんか」

「……足りないのかもしれません」


 自分で言ってしまってから、顔が熱くなる。

 こんなことを言う予定は、議事になかった。


 ヴァレントは、珍しく少しだけ口元を緩めた。


「結論から言います」

「はい」

「私は、あなたの正確な記録能力に感心したのではありません」

「では」

「そこにいない人を作らない、その書き方に惹かれました」


 彼は近づき、私の胸元の徽章に視線を落とした。


「あなたは誰の名前も落とさなかった。

 だから、あなた自身が落とされるたび腹が立った」


 喉が詰まる。


「3年前、西岸洪水対策会議の議事録を読んだ時から、ずっとです。

 私は、君の記録ではなく、君がそこにいた痕跡を探していた」


 ああ、だめだ。


 これでは泣く。


「泣かせるつもりでしたか」

「少し」

「冷徹な方だと思っていました」

「あなたにだけは、そうでもありません」


 ずるい人だ。

 そんなふうに淡々と言って、逃げ道を塞ぐ。


「もう1つ、結論を」


 ヴァレントは私の手を取った。

 公の場ほどではないが、誰かに見られてもおかしくない距離で。


「役職だけでは足りません。名札だけでも足りない。

 あなたの名前を、今度は私の隣に並べたい」


 私は息を止めた。


「求婚、と解釈してよろしいのですか」

「正式にはその通りです」

「ずいぶん事務的ですね」

「あなたがわかりやすい方が良いかと」

「では、わかりやすくお願いします」

「愛しています、エルセラ。今後は朝も夜も、何度でも名前を呼びます」


 とうとう泣いてしまった。


 泣くと決めて泣いたわけではない。

 ただ、5年分の沈黙に対して、その一言があまりにも正確すぎたのだ。


「……承知、しました」

「それは受諾ですか」

「はい。ですが1つ条件が」

「何でしょう」

「二度と『記録係』とは呼ばないでください」

「もちろん」

「あと、焼き菓子は毎日支給で」

「善処ではなく、確約します」


 それでまた、少し笑ってしまった。


     ◇


 数日後。

 宰相府文書監査室の扉には、新しい札がかかっていた。


 特別文書監査官 エルセラ・ハイン


 その下に、もう1枚だけ小さな札がある。


 リースフェルト公爵婚約者 私物持込可(種別:焼き菓子)


「最後の2行、必要ですか」

「必要です」

「公私混同では」

「私情です。それと──」


 ヴァレントは少し間を置いた。


「焼き菓子は確約したので、記録に残す必要があります」


 朝の光の中で、私は笑った。

 声に出して、笑った。それが久しぶりだと気づいたのは、笑い終わってからだった。


 5年間、誰の書類にも私の名前は要らなかった。

 けれど今は違う。


 呼ばれるたび、ここにいるとわかる。

 見つけられるたび、私は私のままでいいと思える。


「おはようございます、エルセラ」

「おはようございます、ヴァレント様」


 もう、誰も私を『そこの記録係』とは呼ばなかった。


 彼が、何度でも、私の名前を呼ぶから。

【作者から読者様へお願いがあります】


少しでも、


「面白い!」


「続きが気になる!」


と思っていただけましたら、


広告の下↓にある【☆☆☆☆☆】をタップして、


【★★★★★】にしてくださると嬉しいです!


皆様の応援が、作品を書く最高の原動力になります!


なにとぞ、ご協力よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ