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推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています

作者: 江合 花果
掲載日:2026/03/10

 辞令が下ったのは、三日前のことだった。


「ノエル、お前をヴァルトハイン公爵家にお貸しすることになった」


 父がそう切り出した瞬間、ノエル・ベルナードの脳内では盛大なファンファーレが鳴り響いた。


(ヴァルトハイン公爵家――つまり、ライアス様のお屋敷!!!)


 表情は努めて平静を保った。

 十六年の人生のうち前世の記憶を含めれば四十年超、社会人として培った平静心がここで活きた。

 内心では雄叫びを上げながら、ノエルは静かに頷いた。


「……謹んでお受けいたします、お父様」


 父は娘の落ち着いた返答にほっと息をついた。

 まさかこの瞬間、娘が魂レベルで昇天しかけているとは露ほども思うまい。


 そして本日。


 ベルナード伯爵家の古びた馬車が、ヴァルトハイン公爵邸の正門をくぐった。


(でっか……)


 窓から身を乗り出しそうになるのをぐっと堪える。

 石造りの外壁は灰青色で、曇り空の下でも威圧感よりも品格が勝っていた。

 整然と刈り込まれた庭木、等間隔に立つ衛兵、磨き上げられた石畳。

 すべてがゲームのスチルで見た通りで、ノエルの胸は静かに、しかし猛烈に高鳴っていた。


(夢じゃない。本物だ。私は今、推しの城に来ている)


 馬車が止まる。

 先触れの使用人に案内されて玄関ホールへ足を踏み入れた瞬間、ノエルは息を呑んだ。


 吹き抜けの天井から下がるシャンデリア。大理石の床に映る光。そして――


 階段の上に、彼はいた。


 銀色の髪が、高窓から差し込む光を受けてわずかに輝いている。

 淡い寒色の瞳がこちらを一瞥し、すぐに逸れた。

 表情は動かない。まるで精巧な彫刻のようだと、ノエルは思った。


(ライアス様だ……)


 前世込みで四十年以上生きてきた経験値が、今この瞬間、完全に溶けた。


 ライアス・ヴァルトハイン。

 齢二十二にして公爵家を継いだ若き当主。

 ゲーム内では「戦場の血鬼」と呼ばれながらも、その実は孤独を抱えた不器用な男――ノエルが前世で最も愛したキャラクターだ。


(生きてる。動いてる。呼吸してる。神か)


 脳内のヲタク回路がフル稼働する中、ライアスが階段を降りてきた。

 足音もなく、無駄のない動きで。

 近づいてくるたびに造形の精巧さが増していくので、ノエルは心の中で慌てて記録を始めた。


(眉の角度、よし。目の形、よし。鼻梁の高さ、完璧。あとで絵に描く)


「ベルナード伯爵家のノエル嬢か」


 低く、静かな声だった。感情の起伏がない。それがかえって耳に残る。


「はい。此度はお声がけいただき、光栄に存じます、ヴァルトハイン公爵閣下」


 礼儀正しくカーテシーをしながら、ノエルは全力で平常心を演じた。

 前世の事務員魂が体を動かしてくれているおかげで、膝も声も震えていない。

 我ながら優秀だと思う。


 ライアスはしばらくノエルを見下ろしていた。

 その視線は値踏みでも品定めでもなく、ただ淡々と事実を確認しているようだった。


「……思ったより幼いな」


 率直すぎる第一声だった。


(確かに十六歳ですけども! でもこれ、ゲームで主人公に言うやつだ! このセリフ知ってる! 生で聞けるとは思わなかった!!)


 内心で絶叫しながら、ノエルは澄ました顔で答えた。


「よく言われます。ですが、お仕事の質に年齢は関係ないと心得ております」


 ライアスの眉が、ほんのわずかに動いた。


「……そうか」


 それだけ言って、彼は踵を返した。


「案内させる。今日から三日は屋敷の構造と業務内容を把握することに充てろ。わからないことは家令のグラントに聞け」


「かしこまりました」


 背中に向かって答えながら、ノエルは口元だけで小さく、しかし確かに微笑んだ。


(推しと同じ屋根の下で働ける。なんて素晴らしい異世界転生だろう)


 心の中の前世の自分が、泣いて喜んでいた。



――――――



【ノエル視点】



 ヴァルトハイン公爵邸に来て、三日が経った。


 廊下の幅が、実家の廊下の三倍はある。天井も高い。

 調度品のひとつひとつが、ベルナード伯爵家の家宝より上等に見えた。


(格が違う……)


 ノエルは羽ペンを走らせながら、内心でしみじみと思った。


 そもそも、ノエル・ベルナードという人間は、この世界の生まれではない。


 前世は日本のOLだった。

 中小企業で経理と総務を数年みっちりこなし、休日はひたすら乙女ゲームとハンドメイドと筋トレに費やしていた。

 特別華やかでも波乱万丈でもない、ごく普通の人生だった。

 それが交通事故で、あっさり終わった。


 目が覚めたら赤ん坊だった。


 困惑するより先に気づいてしまった。

 この世界は、前世で死ぬほどやり込んだ乙女ゲームの舞台だということに。


(え、待って、これ転生? 乙女ゲーに? しかもモブキャラとして?)


 ゲームに登場しないベルナード伯爵家の令嬢という立ち位置は、物語の外側にいるも同然だった。

 悪役でも攻略対象でもない。安全圏だ。

 これ幸いと、ノエルは前世の知識をこっそり活かしながら、穏やかな転生生活を満喫してきた。


 温かい父と母、天使の妹マリア、悪魔で愛おしい弟レオン。

 貧しいながらも笑いの絶えない家族に囲まれて、幸せに暮らしていた。

 ただ、懐が寂しかった。慢性的に。構造的に。


 転機が訪れたのは、ノエルが十二歳のときだ。

 父が頭を抱えているのを見かねて帳簿を覗いた。

 前世の経験があれば、問題点はすぐに把握できた。改善の余地が山ほどあった。


「お父様、少し整理させてもらってもいいですか」


 父は最初、十二歳の娘の言葉を半信半疑で聞いていた。

 それが三ヶ月後には、領地の収支が黒字に転じていた。


 それからは早かった。

 作物の品種改良の提案、流通経路の見直し、領民への読み書き教室の開設。

 前世の知識を慎重に、それでいて着実に使いながら、ノエルは少しずつベルナード領を立て直していった。


 それでも借金はあった。先代が残した負の遺産で、どうにも首が回らない部分が残っていた。


(そこに降って湧いたのが、今回の話というわけで)


 羽ペンを止めて、ノエルは少し前のことを思い返した。



 事の発端は、一ヶ月ほど前に遡る。


 ヴァルトハイン公爵が、父のもとを訪ねてきた。


 ノエルはそのとき、たまたま客間の近くを通りかかった。

 廊下を歩いていると、扉の隙間から声が漏れ聞こえてきた。


「……この領地の帳簿を、あなたがまとめたわけではないと聞いた」


 低く、静かな声。ノエルは反射的に足を止めた。


 聞き覚えがあった。いや、聞き覚えがありすぎた。


(え、ちょっと待って、あの声、もしかして)


 そっと扉の隙間を覗いたら、いた。


 銀髪の、完璧な横顔が。


(ライアス様あああああああ)


 声には出さなかった。出せるわけがない。

 ノエルは廊下の壁に背中をぺたりとつけて、胸を押さえた。

 心臓の主張が激しい。落ち着け、落ち着け、私は前世込みで四十年以上生きた大人だ。


 しかし現実は非情だった。

 壁越しに漂ってくる存在感だけで、膝が笑いそうになる。


 会話の内容はかろうじて耳に入ってきた。

 公爵家の現状、領地経営の行き詰まり、そして父がノエルの仕事ぶりを説明している声。


「娘がやっております。経理から書類整理まで、おおよそ全て」


「……娘が」


「はい。細かいことも大雑把なことも、なんでもそつなくこなしまして」


 沈黙があった。


「その娘に、うちへ来てもらいたい」


 ノエルの思考が一瞬、真っ白になった。


(え)


「ベルナード家の借財は、こちらで引き受ける。代わりに、娘さんを公爵家の事務として雇わせてほしい。婚姻の話ではない。純粋に、仕事の力量を買いたい」


(え???)


 父がしばらく黙っていた。当然だろう。大事な娘を、よそへ出すのだ。


 ノエルは壁の向こうで、必死に平静を保っていた。


(落ち着け。落ち着くんだ私。これはゲームでもシナリオでもなく現実だ。でも、推しが、うちに、来て、私を、スカウトした、という事実は、どう処理すれば――)


「……わかりました。娘とよく話し合ったうえで、改めてご返答いたします」


 父の落ち着いた声で、会話が締めくくられた。


 ノエルはそっとその場を離れ、自室に戻った。

 扉を閉めた瞬間、枕に顔を埋めて声にならない叫びを上げた。


(行く。絶対行く。借金返済のついでに推しと同じ屋根の下で働けるなんて、断る理由が宇宙のどこにもない)


 三日後、父から正式に打診された。

 ノエルは努めて冷静な顔で、「謹んでお受けいたします」と答えた。



 そういう経緯で、ノエルはヴァルトハイン公爵邸にいる。


 羽ペンを持ち直して、書類の続きに向かいながら、ノエルは心の中でこっそり呟いた。


(お父様、ありがとう。いい返事をしてくれて)


 窓の外で、銀色の髪がちらりと見えた気がした。ノエルの手が一瞬止まる。


(……あとで観察記録、つけよう)


 筆圧が、心なしか強くなった。



――――――



【ライアス視点】



「閣下、少々よろしいでしょうか」


 執務室の扉を叩いたのは、家令のグラントだった。


 ライアス・ヴァルトハイン公爵は書類から目を上げず、短く答えた。


「入れ」


 グラントは白髪交じりの老齢の男だ。

 先代公爵の代から仕えており、ライアスが子どもの頃から屋敷を切り盛りしてきた。

 口数は多くないが、仕事は確かだ。ライアスが数少なく信を置く人間のひとりだった。


「ベルナード嬢のことでご報告を」


 羽ペンが止まった。止めたことに、ライアス自身は気づいていなかった。


「聞こう」


「着任から三日、屋敷の構造と業務内容の把握をご指示されておりましたが――正直申し上げて、想定をはるかに超えております」


 グラントにしては珍しく、感嘆に近い色が声に滲んでいた。


「初日のうちに屋敷の全体図を頭に入れ、二日目には各部署の担当者へ自ら挨拶に回っておりました。三日目には既存の書類整理の問題点を三つ洗い出し、改善案を紙にまとめて私のところへ持ってきました」


「……三日で」


「はい。しかもその改善案が、いずれも的を射ておりまして。私が長年、なんとなく不便だと感じながら放置していた部分を、ことごとく突いてきたのです」


 ライアスは書類をわずかに置いた。


「使用人たちの反応は」


「それが一番驚いたことでして」グラントは続けた。

「料理人には厨房の手伝いを申し出て、馬丁には馬の世話を一緒にやりながら話を聞いて回ったようです。身分を笠に着ることなく、皆と同じ目線で動いておりました。おかげで使用人たちの評判が、すこぶる良うございます」


「令嬢が、馬の世話を」


「はい。しかも手際が良かったと馬丁が申しておりました」


 ライアスはしばらく黙っていた。


「……わかった。引き続き報告を頼む」


「かしこまりました」


 グラントが一礼して退室する。扉が閉まった。


 静かになった執務室の中で、ライアスは椅子の背にわずかに体を預けた。



 想定外だった、とライアスは思った。


 ベルナード伯爵家の帳簿を見たとき、その精度に驚いた。

 地方の小さな伯爵家にしては、あまりにも洗練されていた。

 分類が明確で、問題点と改善策が余白に細かく書き込まれていた。

 まるで何年も経営に携わってきた老練な家令の仕事のようだった。


 それを十代の令嬢がやっているとは、正直、信じがたかった。


 だから直接確認しに行った。

 伯爵本人から話を聞き、帳簿の細部について問いただした。

 伯爵は嘘をついていなかった。娘がやっている、と、誇らしそうに、しかし少し困ったように言った。


 公爵家に欲しいと思った。感情ではなく、純粋に戦力として。

 今もその判断は変わっていない。


 ただ、と――ライアスは窓の外に目を向けた。


 思ったより、厄介な話になるかもしれない、とも思い始めていた。



 ライアス・ヴァルトハイン、二十二歳。

 公爵家の当主になって、まだ一年も経っていない。


 両親が逝ったのは昨年の秋だ。

 視察の途中で馬車が崖から落ちた。原因は調査中のまま、結論は出ていない。

 ライアスには悲しむ暇すら与えられなかった。葬儀が終わる前から、後継者としての手続きが始まった。


 両親とは、もともと近い関係ではなかった。

 ライアスが幼い頃、魔力量が多すぎるせいで体が弱く、頻繁に熱を出した。

 両親は忙しかった。見舞いに来ることもあったが、長くはいられなかった。

 幼いライアスには、それがひどく遠い出来事のように感じられた。


 体が丈夫になったのは、十代に差し掛かる頃だ。

 魔力が体に馴染み始め、剣を握り、騎士団の訓練に加わると、同年代の中でも頭一つ抜けた力量があった。


 同時に、厄介なことが増えた。令嬢たちの目が変わった。


 以前――体が弱く、見た目も冴えなかった頃には、あからさまに蔑む笑いが聞こえることもあった。

 廊下の角で囁き合う声を、ライアスは何度も耳にしていた。

 体が弱い公爵家の嫡男など、価値がない、と。


 それが体格が整い、顔立ちが引き締まった途端に、手のひらを返すように愛想笑いが増えた。


 同じ口が、同じ目が、違うことを言う。

 それを、ライアスは醒めた目で見ていた。


 人間というのは現金なものだと、そのとき骨身に沁みた。

 女性というのは特に、と偏った結論を出したことは、今でも少し乱暴だったと思う。思うが、拭い切れてもいない。


 唯一の例外が、王太子アルフレッドだ。

 体が弱い頃から対等に接してきた数少ない人間で、今でも親友と呼べる間柄だ。


 それ以外の人間関係は、おおむね実務的に保っている。

 当主として判断を下し、指示を出し、結果を見る。それだけで十分だった。


 そのはずだった。



 グラントの報告が、頭の中で繰り返された。


 馬の世話を一緒にやりながら話を聞いて回った。身分を笠に着ることなく。


 令嬢という生き物は、自分の立場を使う生き物だとライアスは思っていた。

 使わないにしても、意識はしているものだと。


 ノエル・ベルナードは、どうやら違うらしい。


 ライアスは無意識に、窓の外へ目をやった。

 中庭の隅、木陰のベンチに小さな影が見えた。

 昼休憩中なのだろう、ノエルが何かを膝の上で熱心に書いている。

 書いているのか、描いているのか。時折顔を上げて、庭のどこかを見て、またうつむく。


 何をしているのか、遠目にはわからない。


 ただ、妙に楽しそうだった。


(……変わった娘だ)


 それだけ思って、ライアスは視線を書類に戻した。



――――――



【ノエル視点】



 ノエルには密かな習慣がある。


 就寝前の三十分、その日の「観察記録」をつけることだ。


 対象:ライアス・ヴァルトハイン公爵閣下。

 目的:推しの生態を余すことなく記録し、後世に伝える。

 使用ツール:革表紙のこっそり用意したノート、通称『閣下観察日誌』。


 我ながら怪しい趣味だとは思う。思うが、やめられない。



【三日目の記録】


 本日の収穫は多かった。


 まず朝。閣下は執務室への廊下を歩く際、歩幅が非常に均一である。

 測ったわけではないが、体感でほぼ誤差ゼロだと思われる。

 背筋は常に垂直。視線はやや前方固定。完璧な姿勢だ。彫刻が歩いている。


 次に昼。閣下は昼食を食堂でとられる。

 廊下ですれ違った際、一瞬だけこちらを見てすぐ逸らした。例の無表情で。


(あの目の形、本当に完璧すぎる……)


 帰室後すぐに記憶を頼りにスケッチした。

 三枚描いた。一枚目は角度が甘かったので破棄。二枚目はまあまあ。三枚目でようやく納得のいく仕上がりになった。


 余白に一言メモを添えた。「尊い」。



【五日目の記録】


 重大発表がある。


 閣下は、怒ると眉間にわずかに縦皺が入る。


 本日、家令のグラント氏と執務室で何かを話し合っているところに書類を届けに行った。

 内容は聞いていないが、閣下の眉間に微細な動きがあった。ほんの一瞬、しかし確かに。


 前世でやり込んだゲームの攻略本には「感情表現の乏しい公爵だが、よく観察すると眉と目元に微細な変化がある」と書いてあった。

 本当だった。攻略本に嘘はなかった。攻略本は神。私も神を信じる。


 脳内に焼き付けて、帰室後すぐに再現した。

 縦皺のある閣下を描くのは初めてだったが、うまく描けた。我ながら会心の出来だ。


 余白のメモ:「尊い(怒り版)。情報の精度:神」。



【七日目の記録】


 本日は特筆すべき事案が発生した。


 朝のランニングから戻った際、中庭で閣下が剣の素振りをしていた。


 私は三秒間、完全に硬直した。


 白いシャツ一枚、袖をまくった状態で、ハルバードではなく長剣を振っていた。

 朝日を受けて銀髪がわずかに揺れ、動くたびに細身の筋肉が布越しに分かる。

 無表情のまま、淡々と、しかし恐ろしいほど精密に刃を走らせている。


(やば)


 語彙が死んだ。前世込み四十年超の人生で培った言語能力が、完全に消滅した。享年四十年超。合掌。


 三秒の硬直の後、私は踵を返して小走りで自室に戻った。

 扉を閉め、床に座り込み、天井を見上げた。心臓が非常にうるさかった。


(落ち着け。落ち着くんだ。あれはゲームのキャラクターだ。いや違う現実だ。でもゲームのキャラクターだ。でも現実だ)


 脳内で短い問答が繰り返された後、私は観察日誌を開いた。

 記憶が新鮮なうちに描かねばならない。義務だ。記録者としての責務だ。


 三十分後、完成した朝の閣下の絵を眺めて、私は深くうなずいた。


 余白のメモ:「尊い(暴力的な朝)。本日語彙が死んだ。享年四十年超。合掌」。



【九日目の記録】


 閣下から直接話しかけられた。


 書類の処理方針について確認がしたいとのことで、執務室へ呼ばれた。

 内容は至極真っ当な業務連絡だった。問題点を三つ指摘され、それぞれに対して私の見解を求められた。


 答えた。明確に、簡潔に、根拠を添えて。


 閣下はこちらの返答を聞きながら、メモをとっていた。


(メモしてる……閣下がメモしてる……私の話を……)


 内心が激流だったが、顔には出さなかった。前世の事務員魂よ永遠なれ。


 会話は十分程度で終わった。退室際に「以上だ」と言われた。

 その「以上だ」の声が低くて、少し間があって、なんとなく響いた。


 自室に戻ってから、その「以上だ」を五回再生した。脳内で。

 六回目は自重した。七回目は再生した。


 余白のメモ:「尊い(業務連絡版)」。

 追記:「以上だ」の声、再現度八割のスケッチ完成。顔の絵だが。



【十一日目の記録】


 重要な気づきがある。


 閣下は、紅茶を飲む際にカップを持つ角度が毎回同一だ。几帳面な人間の所作だと思った。


 また、書類を読む際にわずかに首を傾ける癖がある。ほんの数度、右方向へ。本人はおそらく気づいていない。


(気づいていないんだろうな……だからこそ尊い……)


 公爵閣下の無自覚な癖を知っている人間が、この世界にどれほどいるだろう。

 たぶん、ほとんどいない。私はひそかに誇らしかった。観察者の特権というやつだ。


 余白のメモ:「尊い(日常動作)。紅茶の角度が毎回同一。几帳面。尊い。この情報を知っているのは世界で私だけかもしれない。責任重大である」。


 なお観察日誌は現在十一ページに達した。保管場所は枕の下。鍵付きの箱への移行を検討中。



 そして本日、十二日目。


 ノエルは日誌を閉じながら、満足げに息をついた。


 公爵家での生活は、想像以上に充実していた。

 仕事は山積みだが、やりがいがある。使用人たちは気さくで、グラント氏は信頼できる。


 そして何より、毎日推しが見られる。


(最高の職場だ)


 枕に日誌を滑り込ませて、ノエルは目を閉じた。


 明日も観察記録をつけよう。できれば朝の素振りも、また見られるといい。


 ……ただし次回は、三秒では硬直から回復できないかもしれない。

 その点だけが、やや懸念事項だった。



――――――



【ライアス視点】



 ライアス・ヴァルトハイン公爵は、自分はそれなりに人を見る目があると思っていた。


 当主として一年、騎士として数年。

 人間というのは大抵、目を見ればわかる。欲があるか、嘘をついているか、何かを隠しているか。

 特に女性の目は、ライアスにとって読みやすい部類だった。


 貴族令嬢の目というのは、おおむね三種類しかない。


 品定めの目。計算の目。そして欲の目。


 多少のバリエーションはあれど、根っこは同じだ。

 ライアスという人間ではなく、ヴァルトハイン公爵という肩書きと家名と資産を見ている目だ。

 慣れた。慣れてしまった。だから身構えることも、今となっては反射でできる。


 だから、最初に気づいたときも、反射的に眉が寄った。


 また、か。と。



 それは着任から二週間ほど経った、何でもない午後のことだった。


 執務室で書類を処理していると、窓の外の廊下をノエルが書類を抱えて歩いていた。

 それだけなら何でもない。しかしノエルは廊下の途中で立ち止まり、こちらへ視線を向けた。


 ライアスは気づいていないふりをしながら、横目で確認した。


 向いていた。真っ直ぐ、こちらへ。


(……やはり来たか)


 覚悟を決めて、ライアスはノエルの表情を確認した。


 そして、固まった。


 令嬢の目というのは前述の通り、三種類だ。品定め、計算、欲。そのどれかのはずだ。


 しかしノエルの目は。


 真剣だった。


 研究者が顕微鏡を覗くような、あるいは猟師が獲物の足跡を追うような、純粋に対象へ向けられた、一切の色気も計算もない、ひたすら真剣な目だった。


 しかも口が、少し開いていた。目が、輝いていた。


(………………何だ?)


 ライアスは生まれて初めて、令嬢の目の読み方がわからなくなった。


 その数秒後、ノエルが我に返ったように小さく身じろぎし、素早く廊下を歩き去った。

 何事もなかったかのように。実に鮮やかに。


 残ったのは、妙な静けさと、処理しきれない疑問だった。


(……今のは、何だったんだ)



 翌日も、あった。


 書類を届けに来たノエルが退室際にちらりと振り返った。ほんの一瞬。しかしまた、あの目だった。


 真剣で、熱を帯びていて、しかし欲ではない何かが宿った目。


(……何を見ている)


 不快か、と問われれば、答えに詰まる。


 令嬢の視線は不快だった。いつも。粘着質で、値踏みする色があって、近づかれるたびに身構えた。


 しかしノエルの視線は、粘着質ではない。じっとりしていない。どちらかといえばさっぱりしていた。


 用が終われば、すっと消える。長居しない。追いすがらない。


 それなのに、なぜか、残る。


(……なぜだ)


 ライアスは眉間を指で押さえた。三十秒ほど押さえた。答えは出なかった。



 三度目は、朝の鍛錬のときだった。


 日課にしている剣の素振りを中庭でしていると、妙な気配が近づいてきた。

 妙、というのは、足音が速かったからだ。

 令嬢の足音というのは大抵、しとやかにしている。たとえ急いでいても、それなりに取り繕う。

 しかし聞こえてきた足音は、そういった遠慮が一切なかった。


 ライアスが素振りの手を止めて顔を上げると。


 息を弾ませたノエルが、走って来るところだった。


 令嬢が。走っていた。本格的に。


 ドレスではなく動きやすそうな簡素な服を身につけ、髪を後ろにまとめ、頬を上気させ、腕を振り、足を蹴り上げ、どこからどう見ても完全に本気で、走っていた。


(……走っている)


 ライアスは瞬きをした。


 令嬢が走っている。もう一度確認した。走っている。


 貴族の令嬢というのは、雨の日に傘が届くのが三秒遅れただけで侍女を叱責する生き物ではなかったか。

 馬車の乗り降りに介添えを二人つける生き物ではなかったか。

 陽射しが強いというだけで外出を取りやめる生き物ではなかったか。


 それが今、目の前で、走っている。


(令嬢とは、走るものだったか)


 記憶を遡っても、自発的に走っている令嬢の前例が一件も出てこなかった。

 ライアスの中の「令嬢」という概念が、静かに揺らいだ。


 そうこうしているうちに、ノエルがぴたりと足を止めた。


 そして。


 また、あの目だった。


 今度は強度が段違いだった。目が、これまでで一番輝いていた。口が、これまでで一番開いていた。

 頬が、運動のせいか別の理由か、とにかく盛大に赤かった。


 全力で走ってきた人間が、突然、石像のように固まっていた。


 三秒。


 ノエルは突然踵を返し、来た道を全力で駆け戻っていった。


 走って来て、また走って去った。


 ライアスは剣を下ろした。


(………………何だったんだ、今のは)


 まず令嬢が走っていた。これだけで既に十分に異常だ。しかし問題はそこではない。


 令嬢が顔を赤くして逃げた。


 顔が赤い、逃げる、視線を向けてくる。これは一般的に好意のサインだ。

 婚姻を狙う令嬢がよくやる、計算ずくの羞恥の演技だ。そのはずだ。


 しかし。


(あの逃げ足は何だ)


 演技にしては本気すぎた。完全に反射だった。計算の入る余地が、どこにもなかった。


 しかも顔が赤かった割に、目が。


 なんというか。


 獲物を狩ろうとする目では、なかった。


 どちらかといえば、何か神聖なものでも目撃したかのような、畏怖と歓喜が入り混じったような、そういう目だった。


 ライアスは今まで、そういう目を向けられたことが一度もなかった。


(……意味がわからない)


 剣を持ち直したが、素振りに集中できなかった。

 おまけに令嬢が走っていたという事実も、いまだに頭の隅に張り付いて離れない。



 その夜、グラントに業務報告を求めた。一通り聞き終えた後、ライアスはさりげなく口を開いていた。


「……ベルナード嬢は、朝、走っているのか」


 グラントが静かに瞬きをした。


「はい。毎朝、夜明け前後に屋敷の外周を数周されております」


「……令嬢が」


「はい」


「毎朝」


「はい」


「外周を、数周」


「左様でございます」


 ライアスは少し間を置いた。


「……夜は」


「夜は自室にて筋力の鍛錬をされているようです。使用人が廊下を通った際に、部屋の中から規則的な音が聞こえると申しておりました」


「………………」


「他に、何か変わったことは」


「そうでございますね」グラントはわずかに考えてから続けた。

「先日、馬丁のトーマスが申しておりましたが、ベルナード嬢は馬の世話を手伝いながら、ずっとご自身の手帳に何かを書き記されていたそうです」


「手帳に」


「はい。何を書いているのかとトーマスが尋ねると、『観察記録です』とおっしゃったとか」


「……観察」


「はい」


「何の」


「トーマスには、教えてくださらなかったそうです」


 ライアスは静かに、しかし長く、沈黙した。


 観察記録。走る令嬢。筋力の鍛錬。あの目。


 脳内に並べてみたが、一向に像を結ばなかった。

 ベルナード伯爵家令嬢ノエルという人間の輪郭が、情報が増えるたびになぜか曖昧になっていく。


(……いったい何者なんだ、あの娘は)


 貴族令嬢の文法で読もうとすると、ことごとく外れる。

 かといって他に参照できる文法が、ライアスの手元にはなかった。


「以上でございます、閣下」


「……そうか。ご苦労」


 グラントが退室する。扉が閉まった。


 ライアスは羽ペンを手にとったが、しばらく書類に向かえなかった。


(令嬢とは、本来、どういう生き物だったか)


 自信を持って答えられた問いに、今は答えられない。


 それが妙に、落ち着かなかった。



――――――



【ノエル視点】



 ヴァルトハイン公爵邸の厨房は、ベルナード伯爵家の厨房の、おそらく四倍はある。


 かまどが三つ。作業台が二列。天井から吊るされたハーブの束。壁一面に並ぶ銅製の鍋と調理器具。

 朝の仕込みが始まる前の静かな時間、ノエルはその厨房の隅っこで、小麦粉の袋を運ぶのを手伝いながら、改めてその規模に感心していた。


 厨房を仕切るのは、料理長のバルトだ。


 五十がらみの恰幅のいい男で、口は悪いが腕は確かだ。

 着任三日目にノエルが「手伝わせてください」と厨房の扉を叩いたとき、最初は露骨に嫌そうな顔をした。令嬢が厨房に入るなど前代未聞だったらしい。


 しかしノエルが黙って仕込みの野菜を刻み始めたら、十分後には「包丁の持ち方がなってない」と横から口を出してきた。

 それから二週間、気づけばすっかり打ち解けていた。


「今日は何を仕込むんですか、バルトさん」


「朝食の準備だ。閣下のパンと、スープと、ハムのソテー」


「毎朝同じメニューですね」


「文句はねえんだから、それでいい」バルトは鼻を鳴らした。

「閣下は食事に頓着がない。出したものを黙って食う。文句も言わんが褒めもしない。料理人としちゃ張り合いがないが、まあ楽といえば楽だ」


(食事に頓着がない公爵……ゲームの設定通りだ……攻略本に「食への関心が薄く、栄養より効率を重視する」と書いてあった……尊い……)


 脳内でメモを取りながら、ノエルは小麦粉を計量した。


「バルトさん、今日、パンケーキを焼いてもいいですか」


「パンケーキ? 朝から甘いもんか?」


「甘いものと、あと、ベーコンも焼きたいんですが」


 バルトが手を止めた。怪訝な顔でこちらを見た。


「……一緒に食うのか」


「はい」


「甘いものと、しょっぱいものを」


「はい」


「同時に」


「はい」


 バルトはしばらく沈黙した後、はっきりと言った。


「美味いわけがない」


 断言だった。一切の迷いがなかった。長年料理を生業にしてきた男の、揺るぎない確信だった。


 ノエルは笑顔で答えた。


「作ってみていいですか」


「……好きにしろ」


 バルトの「好きにしろ」は「やめろ」と「どうせ失敗する」が混ざった意味だとノエルにはわかった。

 わかった上で、作業台の端を借りた。



 パンケーキは、前世のレシピで作った。


 小麦粉、卵、牛乳、砂糖、少しの塩。

 この世界の食材は前世とやや異なるが、似たようなものは揃っている。

 生地を混ぜ、鍋に薄く油を引いて、弱火でじっくり焼く。


 ふわりと甘い香りが厨房に広がった。


「なんか、いい匂いがするな」


 仕込みをしていた若い料理人が鼻をひくひくさせた。


「パンケーキです。もうすぐ焼けますよ」


 ベーコンは別の鍋でこんがりと焼いた。

 脂がじわりと滲み出て、香ばしい匂いが甘い香りに混ざる。

 甘さとしょっぱさが厨房の中で複雑に絡み合い、なんとも食欲をそそる空気になった。


 バルトが、いつの間にかすぐ後ろに立っていた。


「……なんか、妙な匂いがする」


「美味しそうでしょう」


「……そうは言ってない」


 しかし離れなかった。


 焼き上がったパンケーキを皿に盛り、隣にベーコンを並べた。蜂蜜を少し垂らして、完成だ。


 ノエルは一切れずつフォークで刺して、バルトに差し出した。


「どうぞ」


「……いらん」


「バルトさん」


「…………」


「どうぞ」


 しばらくの沈黙の後、バルトはしぶしぶフォークを受け取った。

 パンケーキとベーコンを同時に口に入れた。


 咀嚼した。止まった。もう一度、咀嚼した。


「………………」


「どうですか」


「………………」


「バルトさん」


「……なんで美味いんだ」


 本人も信じられないという顔だった。長年の料理人としての常識が、静かに揺らいでいた。


 ノエルは満面の笑みを浮かべた。


「でしょう! 甘さとしょっぱさって、一緒に食べると互いを引き立て合うんですよ。蜂蜜の甘さがベーコンの塩気をまろやかにして、ベーコンの旨味がパンケーキの甘さを引き締める。昔から大好きな組み合わせなんです」


 後ろで聞いていた若い料理人が「俺も食べていいですか」と恐る恐る手を挙げた。


「もちろんです」


 三人で厨房の隅に並んで、パンケーキとベーコンを食べた。

 若い料理人は一口食べて「うわ、なんすかこれ」と目を丸くした。


 バルトはもう一枚焼いて食べた。何も言わなかったが、それが答えだった。



 しばらくして、バルトが腕を組んだ。


「……閣下に出してみるか」


 ノエルの手が止まった。


「え」


「朝食に、これを加える。閣下は食に頓着がないと言ったが、それはいつも同じものしか出さんからかもしれん」

 バルトは鼻を鳴らした。「俺が美味いと思ったもんは、出す価値がある」


(ライアス様の朝食に、私が作ったパンケーキが……!!)


 脳内でファンファーレが鳴り響いた。


 表情には出さなかった。出さなかったが、計量中の小麦粉を少し多めにこぼした。


「……賛成です」


「お前が焼け。俺が隣で見る」


「かしこまりました」


 ノエルは気持ちを落ち着けるために、一度深く息を吸った。


 推しの朝食を作る。


 これは仕事だ。業務だ。料理長の指示に従い、公爵閣下の朝食の質を向上させるための、正当な業務だ。

 決して推し活の一環ではない。


(……いや、完全に推し活だな)


 自覚はあった。あったが、手は動いた。


 パンケーキの生地を、今日より少しだけ丁寧に混ぜた。



 翌朝。


 ライアスの朝食が、食堂へ運ばれた。


 いつものパンとスープとハムのソテー。そして今日だけ、小さな皿に盛られたパンケーキとベーコンが添えられていた。


 ノエルは厨房の入り口で、バルトの隣に立って待った。


「緊張するな」とバルトが言った。


「してません」とノエルは答えた。


 二人とも、廊下の向こうに視線を向けていた。


 しばらくして、給仕が戻ってきた。


「閣下のご様子は」とバルトが尋ねた。


「はい」と給仕が答えた。「パンケーキのお皿、空でした。スープより先に」


 バルトがノエルを見た。ノエルはバルトを見た。


「………………」


「………………」


「やりましたね、バルトさん」


「……俺は最初から美味いと思ってた」


 最初は「美味いわけがない」と言っていた男の発言だったが、ノエルは笑顔で聞き流した。


 給仕がおずおずと続けた。


「あの、それともう一つ、閣下からご伝言がございまして」


「伝言?」バルトが眉を上げた。「閣下が、料理に伝言を?」


「はい。『今後もこの組み合わせは出すように』とのことです」


 厨房が、静かになった。


 バルトがゆっくりとノエルを見た。


「……閣下が」


「はい」


「料理について」


「はい」


「自ら伝言を」


「はい」


 バルトは深く息を吸い、深く息を吐いた。


「……十五年、閣下の食事を作ってきたが、伝言をいただいたのは初めてだ」


 その言葉が、ノエルの脳内に着弾した。


(………………)


 じわじわと、しかし確実に、意味が浸透してきた。


 ライアス様が。食事について。自ら。伝言を。しかも「また出すように」と。


 つまり、気に入った。

 私が焼いたパンケーキを。推しが。気に入った。


(………………あ)


 ノエルは静かに、しかし確実に、限界を迎えた。


「バルトさん、少し外の空気を吸ってきてもいいですか」


「……顔が赤いぞ」


「大丈夫です」


「明らかに大丈夫じゃない顔だが」


「大丈夫です」


 ノエルは足早に厨房の裏口を抜け、人気のない物置小屋の陰に滑り込んだ。


 周囲に誰もいないことを三回確認した。


 石壁にゆっくりと背中を預け、天を仰いだ。


 そして、声にならない叫びを、全力で上げた。


(ライアス様が気に入ってくださった――――――!!!!!)


 空に向かって両手を握りしめた。

 前世込み四十年超の語彙が総動員されたが、それでも今の感情を表現できる言葉が見つからなかった。


 十五年間、料理への伝言など一度もなかった公爵が。

 あの無口で無表情で完璧な推しが。

 わざわざ給仕を通じて。また出すように、と。


(尊い。尊すぎる。私は今日、歴史を作った。甘じょっぱい革命の幕が、ヴァルトハイン公爵邸の厨房で静かに上がったのだ。後世に伝えねばならない。誰に? 私が私に。それで十分だ)


 ひとしきり天を仰いだ後、ノエルは大きく深呼吸をした。

 気持ちを整えた。有能な事務員の顔を取り戻した。


 裏口から厨房に戻ると、バルトが腕を組んで待っていた。


「落ち着いたか」


「はい。大変失礼いたしました」


「……なんだったんだ、今のは」


「なんでもありません」


 バルトはじっとノエルを見た。何かを言いかけて、やめた。

 長年料理一筋で生きてきた男には、理解の及ばない何かだと判断したのかもしれない。


「……まあいい。明日からレギュラーメニューに加える。分量を紙に書いておけ」


「かしこまりました」ノエルは深々と頭を下げた。「喜んで」


 その夜、観察日誌を開いたノエルは、いつもより少し大きな字で書いた。


「尊い(食事情報・新規獲得・伝言つき)。本日、歴史が動いた」。


 余白が足りなくて、欄外まではみ出した。



――――――



【ライアス視点】



 ライアス・ヴァルトハイン公爵は、食事に関して特別なこだわりを持っていなかった。


 食事とは燃料だ。一日を、あるいは戦場を乗り切るための、必要な燃料。


 騎士として戦地に赴いた経験が、ライアスにその感覚を根付かせた。

 戦場では選り好みなどできない。干し肉と固いパンだけの日もある。

 それどころか、満足に食えない日すらある。

 そういう日々を経ると、温かくて腹が満たされるなら、それだけで十分だという感覚が自然と身につく。


 貴族にしては珍しい感覚だと言われたことがある。

 王太子アルフレッドには「お前は騎士になりきれなかった公爵か、公爵になりきれなかった騎士か、どちらかだな」と笑われた。

 どちらでも構わないとライアスは思っている。


 食事への頓着のなさは、屋敷に戻ってからも変わらなかった。

 バルトの料理は水準が高く、毎回安定して美味い。それで十分だった。


 だから食堂の椅子に座り、給仕が食事を運んできたとき、テーブルの上を確認するまでもなく書類に目を通し始めた。


 いつも通りの朝だった。


 のはずだった。


「閣下、本日はこちらも添えております」


 給仕の声に顔を上げると、見慣れない小皿がテーブルに置かれるところだった。


 丸くて、薄茶色の、ふっくらとした何かが二枚。

 その隣に、こんがりと焼けた赤みがかった肉が数切れ。

 さらに上から、とろりと黄金色の蜜が垂らされていた。


 ライアスは三秒、それを眺めた。


(……何だ、これは)


「バルト料理長より、新しい一品でございます」


「……甘いものか」


「パンケーキとベーコンでございます」


 パンケーキは知っている。甘い焼き菓子の一種だ。

 ベーコンも知っている。燻製にした豚の脇腹肉だ。塩気が強い。


 この二つが、なぜ同じ皿に乗っているのか。


(……甘いものと、しょっぱいものが、同じ皿に)


 再び小皿を見た。蜜がベーコンにまでかかっている。


 食事とは燃料だ。出されたものは食べる。それがライアスの流儀だ。


 とりあえず、食べてみることにした。


 フォークでパンケーキを一切れ切り取り、ベーコンと一緒に刺した。

 少し考えてから、蜜がかかっている部分を選んだ。


 口に入れた。咀嚼した。……止まった。


(………………)


 もう一度、咀嚼した。


 甘さが来た。ふわりとした生地の素直な甘さと、蜜の濃い甘さ。

 その直後に、ベーコンの塩気と燻製の香りと、肉の旨味が追いかけてきた。

 甘さと塩気が口の中でぶつかり、しかしぶつかった瞬間に互いが互いを消すのではなく、むしろ引き立て合った。


(……美味い)


 美味い。明確に、美味い。


 ライアスは食事において「美味い」という感情が動くことが、あまりなかった。

 食えるか食えないか、腹が満ちるかどうか。

 戦場で培われたその基準で食事を測る癖が染み付いていた。


 しかし今、実感していた。明確に、舌が喜んでいた。


 ライアスは気づいたら、書類を置いていた。


 パンケーキとベーコンに、正面から向き合っていた。


 もう一切れ、切り取った。

 今度は蜜の少ない部分とベーコンの端の、塩気が強い部分を合わせた。

 また美味かった。比率が変わっても美味い。なぜだ。どういう原理だ。


 気づけばパンケーキの皿が空になっていた。スープには、まだ手をつけていなかった。


 ライアスはスープを一口飲んで、少し冷静になった。


 食事に頓着のない自分が、皿を空にした。しかもスープより先に。


(……これは、相当なことだ)


 自分のことながら、少し驚いた。


「バルトに伝えろ」ライアスは静かに言った。「今後もこの組み合わせは出すように」


「かしこまりました」


 給仕が一礼して下がった。


 ライアスはスープに戻りながら、先ほどの味を反芻した。


(……なぜ今まで、誰もこれを出さなかったんだ)


 長年仕えてきたバルトが、なぜ今になって新しい一品を。


 ふと、脳裏に引っかかるものがあった。


 最近、厨房に出入りしている人間が一人、増えたような気がした。



 食事を終えて執務室へ向かう廊下を歩いていると、中庭に面した窓の外に人影が見えた。


 ノエルだった。物置小屋の陰に立っていた。


 しかしノエルの様子が、妙だった。


 石壁に背中を預け、天を仰いでいた。

 両手を握りしめ、天に向かって掲げていた。

 口が動いていたが、声は聞こえなかった。

 何かを叫んでいるようにも見えた。声なき叫びを。天に向かって。両手を握りしめたまま。


 ライアスは足を止めた。


(……何をしている)


 次にノエルは握りしめた両手を胸の前に引き寄せ、その場でぴょんと小さく跳ねた。


 跳ねた。令嬢が。物置小屋の陰で。一人で。


(………………)


 続いてノエルは深呼吸を数回繰り返し、自分の頬を両手でぱんと叩いた。

 それから背筋を伸ばし、さっと厨房の裏口へ戻っていった。

 去り際の顔は、何事もなかったかのように涼しかった。


 ライアスは窓の前で、しばらく動けなかった。


 食事に新しい一品が出た。美味かった。給仕に伝言を頼んだ。

 その直後に、ベルナード家の令嬢が物置小屋の陰で天に向かって両手を掲げ、跳ね、自分の頬を叩いて戻っていった。


 因果関係は、わからない。


 わからないが。


(……まさか)


 あの新しい一品は、ノエルが関わっているのではないか。


 もしそうなら、あの物置小屋での一人舞踏は、伝言を聞いて喜んでいた、ということに、なるのか。


(…………………………)


(……喜び方が、独特すぎる)


 貴族令嬢の行動様式を記した書物があるなら、今すぐ読みたかった。

 しかしおそらく、どの書物にも載っていないだろうという確信もあった。


 ライアスは静かに、しかし深く、息をついた。


 執務室へ向かいながら、ひとつだけ確かなことを思った。


(……次の食事が、少し楽しみになった)


 食事を楽しみと思ったのが、いつ以来のことか。ライアスには思い出せなかった。


 それだけは、紛れもない事実だった。



――――――



【ノエル視点】



 ヴァルトハイン公爵家の財政状況は、思ったより複雑だった。


 いや、複雑というより、把握されていなかった、という方が正確だ。


(Excelが欲しい。データベースが欲しい。せめて計算機が欲しい)


 前世の便利な道具たちへの哀愁が、波のように押し寄せてきた。しかし嘆いても道具は増えない。


 ノエルは三日目に開き直った。


 まず帳簿の分類基準を自分で作った。部署別、年度別、項目別に紙を色分けして仕分けた。

 次に、計算を効率化するための道具を厨房から借りた木の板と豆で自作した。

 王国にそろばんに近い概念はなかったが、仕組みさえわかれば作れる。

 使い慣れるまで三日かかったが、それ以降は計算速度が格段に上がった。


「ノエルさん、それ何ですか」


 書類を届けに来た若い使用人のクラウスが、珠をはじくノエルの手元を不思議そうに覗き込んだ。


「計算道具です。慣れると速いですよ」


(推し案件に繋がるものは全力でやります、とは言えないな)


 心の中で呟きながら、ノエルは次の帳簿を広げた。


 収支を突き合わせていくうちに、いくつかの部署で明らかな無駄が見えてきた。

 重複している発注、割高な取引先との契約、何年も見直されていない固定費。

 丁寧に拾い出して計算すると、年間でかなりの額が無駄になっていることがわかった。


 改善案を紙にまとめた。次に業務フローの見直しに着手した。


 書類の承認経路が回りくどく、同じ内容が三部署をぐるぐると回っていた。

 整理すれば半分の手間で済む。


 それと並行して、通常の事務処理もある。一日が足りなかった。


(前世でも繁忙期はこんな感じだったな……)


 ノエルは早朝のランニングと夜の筋トレだけは欠かさなかった。体が資本だ。

 しかし睡眠時間は少しずつ削れていった。

 目の下にうっすらと隈ができ始めたのは、三週目に差し掛かった頃だ。


(まあ、推しのために働いているんだから本望だけど)


 そろばんの珠をはじきながら、ノエルは次の列の計算に移った。



 ライアスに呼ばれたのは、その翌日だった。


「改善案の件だ。内容を直接聞きたい」


「かしこまりました」


 ノエルは手元の資料を広げ、説明を始めた。

 無駄な発注の具体的な金額、見直すべき契約先、業務フローの改善点。順を追って、簡潔に。


 ライアスは黙って聞いていた。時折、確認の質問を挟む。的を射た質問ばかりで、説明しやすかった。


(やっぱり地頭がいい……さすが推し……)


「……よくここまで洗い出した」


「ありがとうございます」


「改善案は全て進めろ。各部署への説明も任せる」


「かしこまりました」


 立ち上がろうとしたとき、ライアスが「待て」と言った。


「顔色が悪い」


(え)


 ライアスが椅子から立ち上がった。執務机を回り、こちらへ近づいてくる。


(近い、近い、近い、近づいてくる、なぜ、どうして、ちょっと待って)


 ライアスがノエルの正面で立ち止まった。そのまま、わずかに身を屈めた。


 顔が、近かった。非常に、近かった。


 淡い寒色の瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。眉がわずかに寄っていた。

 口元は引き結ばれていたが、固さの中に、何か心配に似た色が滲んでいた。


「目の下に隈がある。睡眠が取れていないのか」


 低く、静かな声だった。


 その声が、その顔が、その表情が、至近距離から直撃した。


 ノエルの脳内で、何かが限界を迎えた。


(推しが、心配そうな顔で、私を、間近で、見て、いる………………)


 ぶっ、と音がした。


 鼻血だった。


(あ、出た)


 ライアスの目が、わずかに見開かれた。

 おそらく生まれて初めて、部下に鼻血を出された瞬間だった。


 ノエルは反射的に懐からハンカチを取り出し、素早く鼻に当てた。

 前世込み四十年超の社会人経験が、この瞬間だけ妙な方向に発揮された。


「……っ、も、申し訳ありません」


 顔が熱い。耳まで熱い。


(やばい、やばい、やばい、鼻血なんて出るか普通、でも出た、推しの心配顔が近すぎたせい、破壊力が高すぎる、ライアス様の心配顔の解像度が爆上がりした、今すぐ部屋に帰って描き留めたい、でも鼻血が出ている、最悪だ)


 しかし。


(でも、尊かった)


 脳内に焼き付いた心配顔の解像度が、じわじわと幸福感に変わっていく。

 鼻血が出るほど尊い心配顔を、至近距離で拝めた。これは不幸か。いや、僥倖だ。断じて僥倖だ。


 気づいたら、顔が笑っていた。


 ハンカチで鼻を押さえたまま、とろけるような満面の笑みが、止められなかった。


「疲れが出たようです。大変失礼いたしました。本日は下がってよろしいでしょうか」


 声は奇跡的に普通だった。

 しかし表情は、完全に制御を失っていた。

 鼻にハンカチを当てたまま、どこか遠くを見るような幸せそうな笑顔で、ノエルはライアスを見上げた。


 ライアスが、固まっていた。


「……あ、ああ」


「失礼いたします」


 ノエルは深々と頭を下げ、笑顔のまま、足早に執務室を出た。



 扉が閉まった瞬間、ノエルは廊下を小走りに進み始めた。


 ハンカチは鼻に当てたままだ。足は速い。そして顔は、まだ笑っていた。


(心配顔、間近で、見た、あの眉の寄り方、あの瞳の色、あの声、全部、脳に、焼き付いた、今すぐ描く、描かないと死ぬ、いや描いても死ぬかもしれない、幸福死、本望)


 廊下の角を曲がったところで、人影と鉢合わせた。


 グラントだった。


 書類を抱えた家令の老人が、角から飛び出してきたノエルを見て、ぴたりと足を止めた。


 グラントの目が、ノエルを上から下まで確認した。


 鼻にハンカチを当てている。顔が赤い。目が据わっている。

 口元が、にこにこと笑っている。口の中で何かをぶつぶつと呟いている。


「…………ベルナード嬢」


「グラントさん、こんにちは」


 笑顔のまま、ノエルは答えた。


「……鼻血が、出ておられますが」


「はい」


「お顔が赤いですが」


「はい」


「何か、呟いておられましたが」


「独り言です」


「…………」


「お気になさらず」


 ノエルは笑顔のまま、深々と会釈をした。

 そして何事もなかったかのように、グラントの横をすり抜け、再び小走りで廊下を進んでいった。


 ハンカチで鼻を押さえ、満面の笑みを浮かべ、口の中で何かをぶつぶつ呟きながら、小走りに去っていく伯爵令嬢の背中を、グラントはしばらく見送った。


 長い沈黙の後、グラントは静かに前を向いた。


 そして執務室の扉をノックしながら、五十年の奉公人人生の中で、今日が最も理解の及ばない日のひとつだったと、静かに思った。



 自室に戻ったノエルは、鼻の詰め物をしたまま観察日誌を開いた。

 震える手で、しかし恐ろしいほど細かく、心配顔のライアスを描いた。

 余白のメモは、いつもより文字数が多かった。


「尊い(心配顔・至近距離・破壊力・特大)。本日、推しの心配顔で鼻血が出た。これは記念すべき日である。恥ずかしかったが後悔はない。グラントさんには申し訳ないことをした。ただし推しの心配顔は想定を超えた破壊力であった為、不可抗力とする。なお閣下の心配顔はスチル化して脳内永久保存済みである」。



――――――



【ライアス視点】



 ノエルが執務室を出て行ってから、ライアスはしばらく扉を見つめていた。


 正確には、五分ほど見つめていた。


 自分でも気づいていなかった。気づいたのは、手に持ったままの羽ペンが一文字も進んでいないことを確認したときだ。


(……何をしている)


 仕方がないので、今起きたことを順番に整理することにした。


 顔色が悪かった。目の下に隈があった。

 だから確認しようとした。近づいて、顔を覗き込んで、睡眠が取れているかと聞いた。

 雇った人間が体調を崩せば業務に支障が出る。確認するのは当主として当然の判断だ。


 しかしその結果。


(……鼻血が、出た)


 部下が、鼻血を。自分の顔を見て。


 ライアスは額に指を当てた。


 鼻血の原因として考えられることを、静かに列挙してみた。

 過労、睡眠不足、体の冷え、のぼせ、あるいは元々鼻血が出やすい体質。

 そのどれかだろう。そのどれかに違いない。

 自分が顔を近づけたこととは、関係がない。関係があるはずがない。


(……あの笑顔は、何だったんだ)


 鼻血を出したノエルが、ハンカチを鼻に当てながら、笑っていた。


 笑っていた。満面の笑みで。


 どこか遠くを見るような、とろけるような、この世のすべてに満足しているような、そういう顔で、笑っていた。


 鼻血を出しながら。


(……普通、鼻血が出たら慌てるか、恥ずかしがるか、どちらかではないのか)


 しかも「失礼いたします」と言って頭を下げた顔が、あんなに幸せそうだった理由が、まるでわからない。


(……何が、そんなに嬉しかったんだ)


 答えは出なかった。



 そもそも、なぜ顔色に気づいたのか。


 ノエルが執務室に入ってきた瞬間、目の下の隈が目についた。

 説明を聞きながら、顔色が普段より悪いことが気になった。

 改善案の内容を評価しながら、同時に、この娘は睡眠が取れているのかという考えが頭の片隅に居座っていた。


 それが、妙だった。


 ライアスは他人の体調を、そこまで気にする人間ではなかった。

 騎士団にいた頃も、部下の負傷は戦力の損耗として把握していた。感情的な心配ではなく、戦力計算の話だ。

 屋敷の使用人についても同様で、誰かが体調を崩せば業務に穴が開くという観点で把握する。

 それがライアスの人との関わり方だった。


 なのに。


(隈が、気になった)


 戦力計算でも業務の穴でもなく、ただ純粋に、あの目の下の隈が気になった。

 それに気づいたとき、ライアスは少し、自分に戸惑った。


(……おかしい)


 他人の体調がこれほど気になったのは、いつ以来だろう。

 騎士団の仲間の負傷は、戦力として気になった。

 アルフレッドの体調が悪ければ、親友として気になった。


 しかしノエルは、仲間でも親友でもない。

 雇い入れて一ヶ月も経っていない、伯爵家の令嬢だ。有能な部下だ。それ以上でも、それ以下でもない。


 なのに。


(なぜ、気になるんだ)


 答えが出ない問いが、また増えた。



 ノックの音がした。


「失礼いたします」


 グラントだった。

 書類を抱えて入ってきた老家令は、ライアスの顔を見て一瞬だけ目を細めた。

 五十年の奉公人の目は、主人の様子の変化を敏感に察知する。


「……何かありましたか、閣下」


「何もない」


「左様でございますか」


 グラントは書類をデスクに置いた。しかし退室しようとして、ふと足を止めた。


「閣下、廊下でベルナード嬢とすれ違いまして」


 ライアスの視線が、わずかに動いた。


「……様子は」


「それが」グラントは少し間を置いた。

「鼻にハンカチを当てて、顔を赤くして、口の中で何かを呟きながら、大変嬉しそうに小走りで廊下を進んでおられました」


「…………」


「止まって声をかけましたが、『お気になさらず』と笑顔で」


「…………」


「大変、その……独特のご様子で」


 ライアスはしばらく沈黙した。


「……部屋に戻ったなら、いい」


「かしこまりました」


 グラントが退室した。扉が閉まった。


(嬉しそうに、か)


 ライアスは静かに、その言葉を反芻した。

 鼻血を出して、笑って、嬉しそうに廊下を走っていた。

 体調が悪い人間の行動では、ない。


 ならばあの鼻血は何だったのか。あの笑顔は何だったのか。


(……本当に、何者なんだ、あの娘は)


 情報が増えるたびに、ノエル・ベルナードという人間の像が、ますます掴めなくなっていく。


 ライアスは羽ペンを手に取った。今度こそ書類に向かおうとした。


 しかし、もう一つだけ、引っかかることがあった。


 体調が悪いことを「確認」したかった、という話なら、伝言でもよかったはずだ。

 グラントに頼んで聞いてもらうこともできた。


 なぜ、自分で近づいたのか。


(…………………………)


 その問いに対する答えを、ライアスは長い間、出せなかった。

 出せないまま、羽ペンを走らせた。

 文字は、いつもより少し、歪んでいた。


 グラントが気づいていないことがある。


 今日、執務室で羽ペンを走らせながら、ライアスの口元がほんの一瞬だけ、動いた。

 笑った、と言うには微かすぎる。


 しかし確かに、動いた。


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