黒羽の庵
山に朝が訪れる。
空はまだ白く、霧の名残が薄く漂っていた。
風が一筋、梢を撫で、葉擦れの音が静かに澪の頬をくすぐる。
「……ここは、どこ……?」
目を覚ました澪が見上げたのは、見たことのない天井だった。
小屋とも違う。社とも違う。
けれど、そこはなぜか――心が静かになる場所だった。
木組みの高い天井。
白木に囲まれた空間には、まるで人の匂いがなかった。
ただ、風と木と、焚きしめた薬草の香り。
「目覚めたか」
その声に、澪は跳ねるように身を起こした。
柱の影から現れたのは、黒い羽根を背にたたえた男――蓮翔だった。
仮面はつけておらず、金の双眸が、どこか静かに澪を見つめている。
「ここは……」
「俺の庵だ。山の中でも、人の気配が届かぬ場所。
お前を、あの祠から運んできた。夜のうちにな」
「……その羽で?」
「ああ」
蓮翔は無感情にも見える口調で答えたが、
澪の問いに「当然のこと」とでも言うようにうなずいた。
(天狗というのは、本当に空を飛ぶのか……)
澪は、ようやく“異形のもの”と共にある現実を、じわりと受け止め始めていた。
「腹は空いているか?」
「……はい」
「待て」
蓮翔は庵の奥へと姿を消し、しばらくすると小さな籠を手に戻ってきた。
中には、野の草を蒸した粥と、甘く煮た木の実。
香りだけで、涙が出そうになった。
「……いただきます」
澪は両手を合わせ、ゆっくりと箸をとる。
すると、蓮翔がふと眉をひそめた。
「その作法は……“人の祈り”か?」
「え?」
「食事をするたび、そうして手を合わせる。なぜだ」
「……それは、感謝を込めて。
いただく命に、ありがとうって……そう教わったから」
蓮翔はしばらく黙ったまま、じっと澪の顔を見ていた。
――やがて、ぽつりと呟く。
「人間は……不思議だ」
「……そうですか?」
「生きるために喰らいながら、なぜ“詫び”のようなことをする?」
澪は一瞬、答えに詰まった。
けれど、ふっと微笑んで言った。
「……たぶん、怖いからです」
「怖い?」
「生きていくって、奪っていくことだから。
でも、それだけじゃ嫌だから。
せめて、感謝をして……それで、少しでもましな人間になりたいって、そう思うのかもしれません」
蓮翔のまなざしが、少しだけ揺れた。
「……お前は、おかしな女だ」
「よく言われます」
そう言って笑った澪に、蓮翔は一拍遅れて、ふっと目を細めた。
それは、最初に見せた冷たい表情とは違っていて――
どこか、懐かしさを含んだような、優しい光だった。
庵の外では、朝の鳥たちがさえずり始めていた。
それはまるで、「ここからが始まりだ」と告げるかのように。