羽の導き
あの羽根に触れると、不思議な光が揺れる。
それは、ふわりと美緒の髪を撫で、まるで風に導かれるように、意識が遠のいていく。
気づけば、またあの庵にいた。
木々の香り、土と水のにおい――現実ではないのに、五感が確かに感じていた。
どこかほっとして、心の底が緩んでいく。
「よく来たな」
蓮翔は、初めて出会ったときよりも、少しだけ表情が柔らかい。
そして、どこか不器用な優しさをにじませながら、美緒の世話を焼こうとする。
「……今日は腹を空かせてないか?」
彼は、ほんのわずか微笑むと、奥から何かを手にして現れた。
白布に丁寧に包まれた、それは小ぶりの、おにぎりだった。
「……蓮翔、それ、あなたが?」
「ああ」
そう言って、どこか自信なさげに差し出す蓮翔に、美緒は思わず笑った。
「……いただきます」
そして受け取ると、一口。
――美味しい。
少し硬めに炊けてはいるが、手の温もりが伝わってくるようなおにぎりだった。
塩気もほんのりと効いている。
「……美味しいよ」
「……そうか。よかった」
照れたように目を逸らす蓮翔。
その横顔が、どこかくすぐったいほど、愛おしかった。
それから、美緒は何度も羽根に導かれ、蓮翔のもとを訪れるようになった。
ひなたの縁側で、一緒に日向ぼっこをした日もあった。
背中に感じる、蓮翔のぬくもりが心地よい。
蓮翔は、そのままうたた寝した美緒にそっと布をかけると、
静かに抱きしめ、風の音を聞いていた。
ある日は、山の小道をゆっくり歩いた。
季節の草花を教えてくれる蓮翔の声は、どこか懐かしかった。
「この香、どこかで……」
「前も、好きだと言っていた」
ふとした言葉の端に、記憶の残り香がにじむ。
夢を見ているようだった。
けれど、その夢の中に、確かな“現実の温もり”があった。
ふたりは、そんなふうに日々を重ねた。
「なあ、美緒」
「うん?」
「お前は千年前、俺のもとに現れた。その時の名を、澪と言った」
その名を聞いたとき、美緒の胸が、きゅっと痛んだ。
知らないはずなのに、深く心に染み込んでいた響きだった。
「……澪」
声に出すと、どこかで誰かが、その名を優しく呼ぶ記憶がよぎった。
美緒はその名を口の中で繰り返す。
澪。
同じ響きなのに、どこか懐かしい。
まるで、胸の奥にずっとあった名前のように、すっと馴染んでくる。
「ああ。俺の隣に、いつも立っていた。
笑って、怒って、泣いて……それが全部、愛しかった」
「でも……全部思い出せてるわけじゃない。
夢を見ているような感覚で……」
「かまわない」
蓮翔は、彼女の手をそっと包んだ。
「記憶など、あとからでいい。
お前がここにいること、それがすべてだ」
蓮翔の目が、遠い日を追うように揺れる。
そして、その目の奥には、今も変わらぬ想いが灯っていた。
「また、こうして……お前と時を過ごせるとは思わなかった」
「私も……不思議。けど、ここに来ると落ち着く。
蓮翔のそばにいると……心が、あたたかくなる」
二人の間に、言葉よりも深いものが流れていた。
鈴の音が、ふたたび風にのって響いた。
しゃりん――。
ふたりの間に、かつて交わした契りが、静かに息を吹き返すように。
美緒の中の空白は、少しずつ満ちていく。
蓮翔と過ごすたびに、時間を埋めるように、微笑みが増えていった。
*
あるとき、美緒は庵の外れに座り、空を見上げた。
「蓮翔は……今の世界のこと、もっと知りたいとは思わないの?」
「思うさ。だが、まだ今の俺に、その力は戻っていない」
「そっか……」
「だからこそ、お前がこうして来てくれるのが、嬉しい。
お前の目に映るものが、俺にも伝わる」
美緒は静かに微笑んだ。
――この人の隣にいるのが、好きだ。
――理由なんて、もういらない。
その想いは、かつての記憶の残響なのか。
それとも、今世の自分の心なのか。
美緒はまだ知らなかった。
だが――魂は、もう知っている。