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死臭

作者:

 死の臭いを嗅ぐことができた。

 とくに老人が顕著けんちょだ。進行性の病に冒されている者は、一見健康そうでも近く命を落とした。そうでなくとも足腰が弱ったりすれば、不慮の事故で死を迎えることが多かった。

 自惚れるなら千里眼と呼んでも良かったかもしれない。老いとも病とも無縁な若者から死の臭いを嗅いだ。そういった人間は、外的要因で亡くなった。とある猟師は、山の狩りに赴いて帰ってこなかった。

 この時代、死はいくらでも転がっていた。腹に命を宿した妊婦から死臭を嗅ぎ取ったときは切ない気分になった。いくら警告をしても怪訝けげんそうな眼差しで見られ、運命は決して変えられなかった。

 私はただ死を嗅ぐだけだ。その者の末路が近いことを知ったところで、何の役にも立ちはしない。むしろ、自分が彼らを死に追いやっている気さえした。

 傲慢にも程がある。

 漁師を中心として、水辺で仕事をする生業の人間からその臭いが濃く漂った。近く、嵐に見舞われるのかもしれない。

 当たらずとも遠からずだった。連日、大雨が続いた。川が氾濫はんらんし、死者も出た。近隣の村では、川の神の怒りを鎮めるために哀れな娘を生贄に捧げたそうだ。

 私は同情した。たとえ神仏がいるにしろ、彼らは人の生き死には頓着とんちゃくしない。私がどれほど祈っても、幼い妹を返してはくれなかった。

 長い雨が明けても空はまだ濁っていた。地面の至るところに泥濘ぬかるみができ、土が湿ってえた臭いがした。雨後は嫌いだ。この臭いは死臭によく似ている。

 父を含めた男衆は流れた橋の様子を見に行っていた。まだ川の流れは激しいだろう。心配はしていなかった。彼からは、死の臭いはしなかった。

 木桶を持って井戸水を汲みに行った。釣瓶から汲んだ水は泥混じりの色をしている。あの大雨の後なのだから仕方がない。して煮沸しゃふつするしかないだろう。家では母が夕餉の支度を始めているはずだ。

 泥にまみれた草鞋わらじで家に帰った。母に帰宅を告げても返事はない。私は訝った。裏手にでもいるのだろうか。

 土間に水が入った桶を置く。湿って重みを増した草鞋を脱ぎ、三和土たたきを上がる。母は囲炉裏の前に背中を向けて座っていた。

 再び声をかけようとして、鼻腔びこうに泥の臭いが絡みついた。気づけば家中に充満している。強烈な悪寒がした。これは泥水の悪臭などではない。

 震える手で母の肩に触れた。茶褐色の首筋が覗き、わずかな接触で危うい均衡が崩れた。かろうじて原型を保っていた泥人形が崩れ落ち、木間には泥にまみれた着物だけが残された。

 悲鳴を上げた。水が入った桶を蹴飛ばして家を飛び出す。外には助けを求めるべき誰かはいなかった。ただあちらこちらに泥が盛り上がり、その成れの果てが着ていたであろう着物が覆い被さっているだけだ。 

 私は混乱の極みにあった。何が起こっている。直近で死の臭いを嗅ぐことはなかったはずだ。自らの体質を忌み嫌いながら、同時に依存してもいた。饐えた泥の臭いに惑わされて、一帯に満ちる死臭にはまるで気づかなかったのだから。

 至るところに盛り土が築かれた集落のあいだに、人影が佇んでいた。白濁した空の下で私は足を止める。その人物は華奢きゃしゃで、長い髪に元は白い衣裳だっただろう茶色い死に装束をまとっていた。皮膚は泥の色をしていて、前髪に隠されて表情は見えない。ただ強烈な死の気配を撒き散らしていた。

 あれは、死臭などではない。死そのものだ。

 私の体が泥に侵されて崩れ落ちるまで、その少女はこちらを見ていた。今わの際に髪の合間から白く濁った瞳が覗いた。

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