二人の憧れの向こうに
一年生の冬に私の背丈は荏田さんに並び、春になる頃には追い越していた。体力がつくとそれまでできなかったことが次々にできるようになり、一塁まで届かなかった送球も易々とノーバウンドで投げられるようになった。体重も入学時から10キロ近く増え、バットは急に軽くなり、内野の頭を越えるのがやっとだった打球は、しばしば外野の頭を越えて飛んでいった。
私はサードでレギュラーを取り、夢にまで見たエダサンと三遊間コンビを組んだ。打順は三番。四番である荏田さんとクリーンアップを任された。
チームは夏の大会で市内大会優勝、地域大会でも優勝した。県大会では二回戦で優勝するチームに破れた。しかし荏田さんはそこで県内外の有力私立の監督の目に留まった。
「監督さんの話だと全国からすげえやつが集まるんだってよ。そんな私学はなかなかねえだろ」
「おれも追いかけてそっちの高校いっちゃいますよ」
「ばっかだな。おまえとはいつか決着をつけなきゃなんねえ」
彼は県内の全寮制である甲子園常連校に入学した。彼の実力を知る誰もが、高校での活躍は約束されたものとばかり思っていた。
エダサンが高校一年の夏に父親が急逝した。時々練習試合を見に来ては、バックネット裏で渋い顔をしてタバコを吸っていたおじさんとして私の記憶に残っていた。
通夜で見たエダサンは少しだけ頬がこけていた。長方形の輪郭が益々際立っていた。大人っぽくなった顔に左右非対称なそれぞれの真っ赤な目で私に笑いかけた。
まいったよ。なのか、これくらい大したことないぜ、なのか。その笑みの意味は判別がつかなかった。
その時、心持ち小さく見えたエダサンの背丈を、自分が中学二年の冬に追い越していたことを私は改めて思い出した。
エダサンは間もなく地元の公立高校に編入し、野球は辞めた。
地元に帰ってきたエダサンを私は自分の試合を観に来るように誘ったが、エダサンは一度も私の試合を見に来なかった。その後、私とエダサンとの関係は一切途絶えた。
私は強豪私立からの誘いを断り、地元の中堅クラスの野球部の高校に入学した。エダサンが野球を辞めたのがきっかけだったのか、そこまで野球を追究する情熱が元々がなかったのか、今となっては知る由もないが、野球はほどほどにして、楽しい高校生活を送りたいという安穏とした気持ちが、進学先を選ぶ時に頭を擡げたのだった。
高校三年生になったばかりの頃、私は新しいクラスの仲間二人とレンタルビデオ店にビデオを借りに行った。
レジに立っていたのは荏田さんだった。くたびれた赤いトレーナーにぼろぼろのジーンズをはいていた。ジーンズのポケットからは気だるそうに長く伸びた鎖がベルトに結ばれている。
鼻の下のほくろがなかったらあやうく憧れの人であることに気がつかなかったと思わせるくらいエダサンは変わっていた。
髪は当時流行っていた長髪で左耳にはいくつかピアスの穴を開けていて、そのうちの二つに銀色のピアスがついていた。筋肉で隆起していた肩にもそれはなく、胸板はまな板のようだった。
私は喉の渇きを覚え、唇を何度も舐めた。友人に精算を任せて店を出て、清涼飲料水を飲みながらガラス越しに中の様子を見ていた。色褪せたトレーナーの赤が蛍光灯に照らさせて、妙に瞼に焼きついた。
あの時も暮れ始めた夕方だった。少し大人しくなった陽光が作り出す気だるいオレンジ色の空の下で、エダサンはいつまでも仁王立ちして私を見ていた。
「あの人から貰った手紙、破いて捨てました」
エダサンにそんなことを言ったことがあった。彼女が完全にエダさんのもとへ行ってしまったと悟った頃だったか。エダサンへの嫉妬から出た暴露話だった。
エダサンは右手で私の胸ぐらを掴んで、そのまま突き上げた。吊し上げられたようになった私の体は恐怖で強張った。
その後、左の頬に顔が歪むほどの痛みを感じ、鉄の味が口の中に広がった。しゃがみ込みたい衝動を必死でこらえた。エダさんは目を見開いて私を見つめていた。
その目はいつまでも私を放してくれそうになかった。あの時、私は自分がエダサンに、憧れ以上の感情を抱き続けてきたことを知った。
三遊間への飛び込んだ私のグローブの先をボールが転がっていく。力強い足音と小気味良いスパイクの音を立てて、彼が回りこんで打球を捕る。そのままノーステップで一塁へ糸の引くような送球。中学生のエダサンが、目の前の光景に霞んで消える。
薄明るい蛍光灯に色褪せた薄手のトレーナーを着た店員の背中がその光景を打ち消すように私の前にあった。
ガラス越しに見える痩せた店員は、ビデオのバーコードをレジに読み込ませるロボットのようだった。
完