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  作者: 高倉 壮
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野球少年たちの葛藤


棘をはらんだ未知の世界。それが未来だとするなら、なぜ私はあんなにまでそこに憧れたのだろう。それはそこにあの人がいたからだった。あの人の背中を追いかけることが、私にとって未来に焦がれることだった。


 今は100円ショップになってしまった駅の南口の二階建のビルの一階が、まだ本屋だった頃、中学に入学したばかりの私は、その店の入口でエダさんを見つけた。


雑誌を立ち読みしている。丸刈り頭、陽に焼けた首筋、シャツからも透ける筋肉質な背中。「エダサン!」後ろから忍び寄って驚かしてやろうと近づいて行った私の目に、思いも寄らないものが入ってきた。


自分の部屋に何者かが挨拶もなしに侵入してくるようだった。小麦色にやけた女の裸身だった。彼女は下半身に一枚だけ黄色い布をまとって、私を見つめていた。砂浜に横たわり、褐色の胸を露にしている。半ば開かれた唇、茶色の乳首が私を惑乱した。


たじろいで立ちすくむ私の掌に、不意にタワシのように硬い荏田さんの髪が残した感覚が蘇えった。


「男の髪は硬くなきゃだめだ!」

野球部に入部したその日、荏田さんは私の坊主頭を触って、お前の髪は柔らかすぎると大声で言って、自分の頭を触らせた。硬い髪の毛に驚いた。その腰のある髪の毛に大人の男を感じた。


 足が速くて、肩が強い。二年生ながら三番を打ち、内野の要である遊撃手を任された俊足好打の先輩は、私たち後輩の羨望の的だった。円陣を組んで監督の話を聞いている時も、私は無意識に荏田さんを見てしまうのだった。彼はしばしば、鼻の下にある大きなほくろを掻く小さな癖にも私が気がついた。


身長は170㎝弱、中学二年生にしては長身だった。左の目は右のそれに比べると明らかに小さく、極端に下がった両目の目尻は泣き顔を思わせた。長方形の輪郭の顔にニキビが星のように満遍なく散りばめられていた。決して見栄えのしない彼の顔に、気がつくと私は視線を向けてしまっていることが何度もあった。ニキビは不潔にしておくとできると聞いた私は一週間顔を洗わずにいて母親に叱られたが、ニキビは私の期待に反して吹き出ては来なかった。彼のようになりたい、そんな思いがさせた小さな愚行だった。



 そんなエダサンが、入学当初から一つだけ私を羨んだことがある。その理由は私には全く分からなかったが、先輩の女子生徒からもてたことだった。


毎朝登校する私を二,三年生の女子たちが取り囲むようにして歩いた。彼女たちはなぜか皆私の名前を知っていて、五部刈りにしたばかりの頭を撫でたり、バッグを触ったり、教科書と練習着でいっぱいになったバッグを無理やり私から剥ぎ取って下駄箱のある昇降口へ運んだりした。


一度バックから買ったばかりのアルトリコーダーが抜き取られた時は、怒りと惨めさで涙が出た。


まだ恋愛に目覚めていない私が、そんな歓迎に辟易しきった一学期の終了間際。私はある女子生徒の視線に気がついた。


なぜあの時、たくさんの女子生徒の中から彼女が特段私の注意を引いたのかは、よく分からない。しかし敢えて理由を見つけるならば、彼女が一際遠慮がちに私に視線を送っていたからかも知れない。


夏休みが明けると、釣れない私の態度に嫌気のさした大半の女子が私の前から去っていった。人垣の向こうから私を見ていた彼女は、人垣が消えたという成り行きで直接私と向き合うようになった。


私の間の距離を私は彼女の視線に晒されていた。それは日を追うごとに熱を帯びていくように感じられた。彼女は吹奏楽部に籍をおき、下校の際にはいつも長く伸びた部員の列の最後尾を二人組みで歩いていた。


校門を出る前に一度後ろを振り向き、数秒間私を黙視し、校門の向こうに消える。常に一定の距離をとって注がれる彼女の視線は粘り気すら感じさせ、次第に私を苛立たせた。


告白さえしてくれば、あんなすぐにふってやるのに。私は友人に毒づいた。


そして二学期の中間試験期間の中日、私は自分の下駄箱に彼女が手紙を入れているのを見た。彼女は手紙を入れると、まるで仕事に慣れない盗人が現場から急いで去るように誰もいない昇降口を焦って走りで出て行った。


揺れる濃紺のスカートに私の視線は向けられた。何故かその残像は今も鮮やかに蘇える。人の気配に気づいたのか、彼女は肩越しに振り返った。


一瞬ではあったが昂ぶりと狼狽を灯した彼女の目は、それまでより確かに私を捉えた。


手紙には、私への冷めやらぬ想いが余すところなく書かれていた。友人と一緒に帰る道すがら、彼女からの手紙をどぶに捨てようとして、私はやめた。


私は自分でも思ってもみない行動をとった。家に帰って自分の部屋に篭り、その手紙を読み返したのだ。彼女からの告白を断れば晴れ渡るとも思えた私の心は梅雨空のようにどんよりと重くなった。


昂ぶりと狼狽の奥底に何かを滲ませていた彼女の瞳が、私のどこかに貼り付いて離れまいとするようだった。私は彼女からの手紙を机の抽斗にしまい込んだ。



翌日いつもと同じように授業を受けて練習をしていた私は、帰る吹奏楽部の部員の中に彼女の姿がないのに気付いた。彼女と並んで歩いているはずの女子は他の生徒と談笑していた。


エラーばかりしている私に練習後エダさんはビンタをくれた。そして、私は罰として校庭十周を言い渡された。


私にとっての悲劇は、彼女に返事などする術も、手段もその時の私は持ち合わせていなかったことだ。そもそも、その時の私は自身の真夏の空に湧き上がる入道雲のように突如として起きた想いが何なのか判っていなかった。


自分に訪れた変化の正体に、名前など付されていると知るはずもなく、微熱のようなほてりが、体の芯に生まれたことを認めるのが精一杯だった。


教師の言葉など耳に入らず、部活でもボールも手につかないことが増えた。


朝目覚めると下着が汚れていて、それを精通というのだと知った。


好きな女子ができただとか、誰と誰が付き合い始めたなどという友人たちの話は聞こえてきいたが、それらの色恋沙汰は、まだ私の世界の外側にあった。


その時の私は、恋愛に手を伸ばそうとすらしなかった。彼女からの手紙が私に一縷の変化をもたらしたのは事実であったが、鬱陶しいだけの先輩女子生徒達とは違う特別な存在としての彼女を受け入れる場所が私の中にまだ整っていなかったのだろう。


私は彼女に返答をしないまま、日一日と時間が過ぎるのを、ストライクを見送る打者のように呆然と見送るしかできなかった。


彼女が私を避けたのか、私が彼女を見る機会はなくなっていった。


その彼女への鬱屈としたやり場のない想いをごまかすのも私には、やはり野球でしかなかった。エダサンのようになりたい。


私は自分の世界を、またエダサンで満たそうとした。私のポジションはサードだった。入部当初、ショートを志望したのだが、志願者が多く、私は真っ先に外された。肩が弱かったためだった。


俊敏さや打球に対する反応は評価されたものの、体が小さくショートから一塁にボールが届かなかった。私は志願者の少なかったサードに回された。


それでも、ファーストへは決まってワンバウンド送球を命じられた。ポジションは違っても私は落ち込まなかった。


隣のポジションから見るエダサンのプレーに魅了されていたからだ。小気味良いスパイクの音を立て、流れるような足捌きでボールに追いつき、華麗なグラブ捌きでボールを捕って、ステップを踏んでノーバウンドで送球する。


エダサンの魅力は私が野球を知れば知るほど日を追うごとに増していった。いや、エダサンを知ることが、私にとって野球を知ることに等しかったと言った方がいい。


私は入学祝いに親から買ってもらった赤茶色のグローブに難癖をつけ、枯葉の頃には新しいオレンジ色のグローブを手に入れた。


冷たい空っ風の風が吹き始めた十二月の初め、休み時間に教室で野球部の友人と談笑していると、隣のクラスの友人が大声で私達を廊下に呼んだ。


廊下から中庭を見下ろすと、エダサンとあの女子の背中が校舎の影に消えていく手前だった。私は二人の姿を見ると、その場に座り込みたくなった。膝から力が抜けていった。


誰もいなくなった中庭には、四角い池の水面に反射した白い陽の光が、澄んだ空気の中に満ちていた。しかし、私の視界には、胸を曝け出した黄色いビキニの女が浮かび上がっていた。


校舎内のどこかで、二人を見つける度に、私の体は素直に反応した。全身に力が入らなくなったり、次第に血液が速度を上げて全身を巡り始めたり、その度に反応は様々だった。


膝上まで短くなった彼女のスカートから伸びた脚は以前よりずっと大人っぽくは見え、艶めかしさを放って私に迫った。


彼女がエダサンと並んで帰る姿を見たとき、私はそれまで聞くことのなかったざわめきの音を胸の中に聞いた。後悔とも焦燥とも嫉妬とも言えぬ何かが、うっすらと滲み出し、私の胸にぽとりと落ちた。


受け入れがたいその思いを覆い隠すようにエダサンへの優越感が私を包んだ。


彼女の髪先が茶色く色を変えていることにも私は気づいた。その時、彼女のことを最もよく知っているのは自分であるという確信に満ちた思いに身震いした。


彼女の想いがこんなに早く別のところに行ってしまうはずはない。彼女はきっと本心とは違う何かに牽引されてエダさんと一緒にいるのだ。


彼女を取り返すべき方策はないか、私は自問した。しかし自分にそんな良い思案などあるはずもないことが分かると、私は悶絶することしかできなかった。



 大人びた空気を纏い始めた彼女とそれから一度渡り廊下ですれ違うことがあった。すれ違いざま私に向けた彼女の目は、まるで野良犬でも見るような、一切の関心が抜け落ちていた目だった。


冬休みが明けた週の金曜日の早朝、私は彼女の下駄箱から上履きを一つ取って、体育館下の女子トイレの汚物入れに突っ込んだ。下駄箱を開けて、その異常に気づいて戸惑う彼女の姿を思い浮かべた時、言い知れぬ高揚感が私を身震いさせた。


それは、私が記憶している自らが犯した唯一の悪事だ。


                  つづく

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