毒花
――胸を掬う芽吹きを感じる。
私の心の臓からそれは広がり肺を貫き、気管を圧迫し、咽喉を這う。口を大きく天へと向けると、舌根を細い蕾がさわりと撫で上げ、独楽を回すように花開いた。深く沈んだ藍一色に染め上げられた、鮮やかなヘヴンリー・ブルーだった。
カン、カン、カン、鐘の鳴る音が響き渡る。本日は晴天、塗りたくられた青の中央に眩い穴が開いている。リーは自分が売却された音を聞きながら、土で汚れた爪先をもう一方の足で擦った。
立っているのは市場。辺りには人の群れ。好奇と品定めの視線が彼女に注がれている。古びた屋台の前で、身につけるもの一つなく立っている。
「55ドル! 55ドル! 落札!」
リーは花人と呼ばれる人型の植物だ。寿命は半年周期で訪れる。種から芽吹き、花開くと命を散らす。成人体になるのは開花の瞬間のみだと言われている。
彼女は既に幼年期を抜け、青年期に突入している蕾だ。開花まで四十日といったところだった。
リーを買ったのは下級貴族の男だ。彼女の緑の髪を撫でると、待たせていた駕籠舁に駄賃を払ってから駕籠の中に彼女を押し込んだ。
奥へと詰め、敷き詰めるように隣に腰を下ろすや否や以下のことを口にした。
「喋りたまえ」
ノックス・ヴァインが初めてリーにかけた言葉だった。
リーが反応せずにいると、興味を失ったようで壁に目を移した。駕籠の中が浮遊感に包まれ、揺れが激しくなる。駕籠舁が動き始めたのだ。
ノックスが手のひらに顎を置いて、一人呟く。
「君を買ったのは、花人の開花の瞬間を見たことがなかったからだ。咲いた花は妻にやる。……アレは花が好きだからな」
雑踏に紛れて駕籠舁の足音が聞こえる。泥が混じった石畳の上を歩く音は、葉を叩く雨音を彷彿とさせる。駕籠の中は暗く、窓扉の隙間から差し込む光が彼女の藍の目を鮮明にする。
駕籠の傾きに合わせて上半身が揺れる。揺れに抗わない花人は壁に頭をぶつける。ノックスは呆れて彼女を抱えた。「花人というのは、一人で座ることもできないのか」リーはじっと彼を見ていた。
屋敷に戻ると、彼は彼女を放って事務仕事に戻った。
リーの寝食は日の当たる庭園の中で行われた。日がな一日芝生の上に寝転がり、目を瞑る。水で濡らしたような緑の髪に光が当たると、気持ちよさそうに伸びをする。
数日に一度、ノックスが様子を見に来ては「まだ咲いてないのか」と文句を言った。庭師が笑いながら「まだ早いですよ」と口にする。買主の前で寛ぐ花人は、今にも芝生の中に沈んでしまいそうなほどに穏やかだ。
細くなった腰つきに視線を走らせて眉を上げる。
「体つきが変わったな」
「咲くまでは成長しますよ。庇護欲をより掻き立てるように、育て主の嗜好に合わせるそうで。……見てください、髪の先。土に向かって伸びているでしょう。根を生やそうとしてます。ここに種を植えるつもりなんでしょうね」
「種? 花人がどうやって種を?」
「自分の体を種にするんですよ。次の花人が腹の中に生まれるんです」
庭師がリーの平らな腹を撫でる。すうすうと寝息をたてている姿は、緑の色彩を除けば人間に見えるかもしれない。だが天才的な彫刻家が作り上げたような美貌が、彼女を人間離れした存在だと思い出させてくれる。
屋敷に花人を持ち込んでから三十日が経った。
ノックスがリーの元に足を運ぶと、彼女は破顔して出迎えた。白磁のような肌の上で緑の髪が踊っている。成長した乳房が鮮やかな緑のベールを押し上げていた。
訪れれば大きく喜び、立ち去れば儚げに微笑む。数日に一度だった彼の足も今では日に二度になった。
「咲いたら、花人は死ぬのか」
主人が花人に情を持ったことを知る庭師は首を横に振った。
「御高名な学者の方は死んだと言うでしょうが、あっしら庭師から見れば、花人は生き続けていますよ。咲き終えた花人の中で新しい花人が生まれ、その中でまた次の花人が生まれる。繰り返しているだけです」
そうか。ノックスが緑の頭を撫でると、彼女はくすぐったそうに目を細めた。
リーはヘヴンリー・ブルー、アサガオの花人だ。
開花の瞬間は日の頭が見えてくる早朝になる。その日、ノックスは欠伸を抑えて庭園に足を運んでいた。あまりにも早い時間、庭師に付き合わせるのも悪いと思った彼は一人だった。
主人を視界に入れると、彼女は無邪気に笑った。青い瞳を弧に描いて口を動かした。
「すって」
風が擦れるような、耳に慣れない声だった。
「さいたら、すって」
拙い言葉でリーは言った。花を嗅げと、彼女は口にしている。
彼が頷くと、彼女はくすくすと笑いながら嬉しそうに踊った。地面に根付いた緑の髪がたゆむ。細長い紗が空気を含んだようだった。
時間がくるとリーは突然熱を発したように呼吸を荒くした。胸を抑え座り込み、天に向かって大きく口を開く。真っ赤な舌の底から、蕾の先端が見えた。
右向きに捻じれた蕾が緑の茎を持って喉奥から伸びてくる。白い体の先端に鮮やかな藍色が塗布されている。彼女の瞳に似ているとノックスは思う。
傘を開くように、捻じれを解くように、その蕾は開いた。深く沈んだ藍一色に染め上げられた、鮮やかなヘヴンリー・ブルー。
彼女が動かなくなるのを見届けると、庭師から借りた鋏を使って一輪だけの花を摘んだ。瞬間、糸が切れるように花人は地面に崩れ落ちる。風に揺れて緑の糸が宙を舞う。
これが種になるのだろう。ノックスは花冠の中央に顔を寄せ、大きく息を吸った。
鼻孔を突くような匂いと同時に、うっすらと頭に霞がかる。
はっと正面を見ると、薄暗かった世界は眩くなっていた。風に揺れる緑の糸が大きくなり、彼を包みだす。視界が新緑に染まる。次には赤くなる。赤から青に変わり、布を絞るようにぐにゃりと歪む。色彩が激しく点滅する。
鮮やかに変革する場面に膝を崩した。息が上がる。すべてが明瞭で頭がはっきりとする。
ノックスは二つの藍色が自分を向いていることに気づいた。
地面に倒れている彼女が見ている。満開に咲いた花のように顔を綻ばせて。
喉が渇く。花人がゆらゆらと揺れている。溶けた花弁が脳髄に染み込み、藍色で視界を覆いつくされる。息絶えたはずの彼女の唇が動いた。ヘヴンリー・ブルーを磨り潰したような天上の色が艶やかに動く。
―― 私を求めてください。
―― 私を愛してください。
声が木霊する。高い笛音が耳介を叩いて神経を痺れさせる。
花の匂いがする。
―― 私は、貴方の夢になりたい。
青い唇の間から鋭利に切れた茎を覗かせる。近づいてくる彼を、彼女は見続けていた。
※ヘヴンリー・ブルー(幻覚剤に用いられるアサガオ)
花言葉は愛着。