お役所仕事に幻想を抱かないでください
――夏。
山間をひた走る一両のみの、乗客一名のみの列車。電車ではなくディーゼルエンジンをお腹に抱える自走式の列車。
近頃の異常気象せいなのか、季節がズレてきているというニュースの情報通りなのか、九月に入ったというのにいまだ猛暑日が顔を見せる。
蝉は外の世界へ飛び立ってから一週間の命という俗説が科学的に覆ったという話もあったが、いまだに朽ちていない無人の絵人<えひと>駅に降り立った今、いやになるほど実感した。
列車のドアが開いた途端に降り注ぐ鳴き声のシャワー。もうどこに蝉がいるのかもまったくわからないほどの羽根から紡がれる音の洪水は、天頂から私を逃がさまいと監視している今だけやっかいものから気を少しだけ逸らしてくれる気がした。
無人駅といっても少しは手入れがされているようで、駅舎も柵もないコンクリートだけで出来た舞台の周りだけ雑草が刈り取られている。
「あっつ」
いくらクールビズとはいってもスーツパンツに薄手のジャケットは、今日の天気と今の場所には似合っていない。本当は周りに誰もいないこんな片田舎の山奥なんだから、ラフな格好をしていもいいだろうとはふつう思うのだろうが、これから会うお相手に気が緩んだような姿では臨めないのだ。
首にかけたネックストラップをたどり、ジャケットの胸ポケットに入れていたプラケースから身分証を取り出し裏返した。
『国土交通省 幻想交通管理局 第一級抗魔士 牧瀬ヒトミ』
身分証の表から追加されている場違いな『幻想交通管理局 第一級抗魔士』の文字。だがこの文字こそが牧瀬家が特別とされている由縁だった。
「キーちゃん出番だよ」
ヒトミが身分証に語り掛けるように呟くと、右手の親指を口に咥えて犬歯で一気に切り裂き、腕に纏わりつくようにしがみ付いていた血は地面に落ちていく。
乾いた地面に落ちた血は、土に啜られることなく一つの血だまりを作っていく。
風もないのにさざ波を浮かべる血だまりは、やがて生き物のように渦を巻くとまるで毛糸玉が解けていくようにふわりと広がり、巨大な赤いマリモのようなものが出来た。
『国土交通省 局 第一級抗魔士 牧瀬ヒトミ』
ヒトミが左手にもつ身分証から、場違いな文字が一つずつ消えていくように崩れ、水滴のように落ちていく。文字だったものはマリモもどきの中心に留まると、ゲームにでよくみる様な幾何学模様に変化していく。
「ヒトミ、前から言ってるけどそんなに血はいらないから。呼び出し早々、貧血で病院に運べなんて命令はやめてよね」
「うっ。あの時のことは反省してるって言ってるでしょ。ほらっ、血は多く出たけどもう止まりかけてるでしょ」
ヒトミが作り上げていた奇怪なマリモもどきの中から突如現れた少女。歳は小学生にあがる寸前だろうが、血色よくヒトミを見上げて浮かべる表情は、その第一印象を次第にブレさせていくほどの落ち着く気を感じさせた。
「また誰かが門を開いて何かを召喚したの?」
「管理局の星見のお偉いさんがさ、今日ここに門が現れるって言うの」
無人駅から続く半ば獣道と化している砂利道の左右には畑だった名残が広がり、ヒトミと少女の雰囲気と言動がいかに周囲と隔絶しているか物語っているように見えている。
「異世界へ連れ去られたり、連れ去ったり、みんな何考えているんだろうね。いいことなんて無いでしょうに」
「そうだね。私も牧瀬家と最初に出会わなければ、酒呑童子や茨城童子のように暴れて討たれていたかもね」
「キーちゃんみたいな平和主義な鬼が何言ってるのよ」
現代でも鬼を従え使役することで、超常の者や幻想と抗いつづける牧瀬の家。次期党首となったヒトミは姉妹といってもいい様な関係を気付いていた少女を正式に受け継ぎ今に至る。
世界から誘拐される者は助けられないが、この世界へ誘拐されてきた幻想の者から世界を守るお役目。魔法も術も幻想も廃れて久しいこの世界に新しく呼ばれるなんて、呼んだもの含めて碌なもののはずがない。
ヒトミが先ほど使った術とは比べ物にならないほどの醜悪で、怖気を催す蠢きが世界を飲み込み生まれ始める。太陽は世界から逃がされたかのように雲に覆われ、いつの間にか蝉の鳴き声どころか生命の息吹さえ感じられなくなっていた。
「それじゃヒトミ、私に命令して」
「いつも命令は嫌だって言ってるでしょ、だからお願い。鬼世神童子! 世界を守って!」