ただいまを言いたくて
登場人物の二人は、筆者の小説「ぼくは彼女で彼女が彼女」の主人公です。
時系列的には完結後から一年四か月程経った夏のお話。
二人の関係と経緯を知らなくてもさらっと御読み頂けます。
カナダに留学してから一年四か月、週に一度の電話も不定期にしかコールしてこなくなった、私の愛しい恋人。決して浮気をしているわけではない事も、忙しすぎてつい、というわけでもない事もお見通しだけれど、それでも自堕落な生活に慣れてしまっていては困る、そんな心配をしながら航空チケットをリザーブした。もちろんそれだけではない。むしろそれは口実の方で、愛しいあなたに会いたくてたまらなかったというのが本音だけれど、調子に乗ってしまうあなたは見たくないので口にはしてあげない。
バンクーバーを離陸して約九時間、眼下に広がる小さな島国が逸る気持ちを加速させる。この眼下のどこかにあなたがいる、そう思うと胸が熱くなる。……変ね、初恋なんてとっくの昔に経験しているのに、まるで少女のようにドキドキする心臓を押さえられない。異国で幾人の素敵な異性に誘われても、どこかであなたと比べてしまっていた。どんなに魅力的な男性でも、あなたの魅力には程遠かった。遠く離れた恋人を思うより、そばにいる男性に魅かれた方が寂しい思いをせずに済んだのに……。
成田への到着時刻は午前十時十七分、あの愛しのお寝坊さんは遅刻せずに迎えに来てくれているかしら……滑走路の上を滑りながら微かな心配が過ぎる。シートベルトを外したら一番に降機したい気持ちを押さえて手荷物をまとめる。到着口まであと数分なのだから、焦らずにトランクを探さなければ……。少しのお土産と、たくさんの思いが詰まったトランク。私の名前と同じ、茜色のトランク。
私と同じ気持ちの人たちが、急ぎ足で到着口へ向かう。嬉しそうに笑顔を浮かべている人も、感極まって涙を浮かべている人も、鼓動と同じ速さで足を進める。追い越されていく度に嬉しさも涙も込み上げてくるけれど、あなたに会うまでは表情には出さない。だって、あなたの反応を先に知りたいから。笑顔も涙も、先に見せてあげないんだから……。
なるべくキョロキョロしないように、ゆっくりと視線だけ流していく。抱き合っている人や握手している人たちの向こうにいるのかしら……。そそっかしいお馬鹿さんだから、待ち合わせ場所を勘違いしていないか心配。……それ以前に来ているのかすら危ういんだけれど……。
ゴロゴロとトランクを転がしながら少しだけ足を進める。もし来ていないのだとしたら連絡くらいしてくれているかしら。連絡が来ていなければ、お寝坊していること決定ね……。足を止めてバッグから携帯を取り出すと小さなため息が出た。電源を入れるのが少し怖くなって……。
立ち上がるまでの数秒がとても長く感じた。このまま電源が入らなかったら、成田で落ち合うのは難しい。かといって電源が入ったとしても、連絡の来ていない待ち受け画面を見るのは辛い。一つ喉を鳴らして息を飲み込んだ。
ピカリと光った画面がやたら眩しく感じた。目を細めて覗き込むと……来ていない。瞬きをしてもう一度確認をしても、連絡は来ていなかった。寝坊……なのかしら……。それとも到着時刻を勘違いしている? ううん、口頭でも文字でも伝えたのだから、その可能性は低い。だとしたら……少し間を開けても理由など思いつかなかった。
こちらから連絡してみようかしら、そうも考えたけれど、連絡をくれなかった事に苛立ちと切なさを隠しきれないでいるこの状態で、帰国の報告を晴れ晴れしい言葉で表わせるとも思えない。ずっと会いたいと思い続けていた一年四か月を、会える日を励みに頑張ってきた年月を、くだらない言葉で始めたくない。
……もっとも、叱りつける言葉で再開する方が私らしいかもしれないけれど……。
どう捕えようとしても胸の霞は晴れなかった。深く息を吐いて霞を出そうとしても、思うように吐き出せやしない。どれだけ考えても最適な言葉を生み出せず、こちらから連絡することを諦めた。アパートに行こう、仕方なくトランクを握り直して足を進めた。
駅までの巡回バス乗り場を探し、時刻表を確認してから空港の外に出ると、ムワッとした湿り気を含んだ熱風が身を包む。日本独特の湿度の高い夏を思い出した瞬間だった。うざったいような、だけど懐かしい空気だ。やっと帰ってきたのだと自覚が沸いた。
先程確認した時刻表によると、次のバスまでは約十五分程ある。うっすらと見える停留所の標識に、少しの安堵を覚えた。幸い列んでいる人は少ない。やっと座れるのかと思うともう一つ安堵した。
ふと、吸い寄せられるような姿に視線が流れる。その列をジッと見つめながらガラスの壁に寄りかかっている横顔に心臓が跳ねた。気だるげに目を細め、たまに腕組みした内側の時計をチラリと見ている。待ちわびた人の行方を案じているのだと、遠目からでも判別が出来た。
本当にそそっかしいんだから。本当にお馬鹿さんなんだから。こんな所にいたら、すれ違っても分からないじゃない。待ち合わせ時間も場所も守れないなんて……本当に……お馬鹿さんなんだから……。
「トランク、持って頂けない?」
細かい瞬きをして、ゆっくりとこちらへ振り返る。目が合うと、もう一度瞬きをしてから目を見開いた。
「あ……かね……?」
「違う人に見えるの? 恋人の顔を忘れる程、私の恋人は頭が悪かったかしら」
「え……い、いや……」
「……そうよね、待ち合わせ時間も場所も忘れる程のお馬鹿さんだったんだわ……」
そんな嫌味が言いたかったわけじゃないのに、攻める言葉を伝えたかったわけじゃないのに……やっぱり苛立ちと切なさを隠しきれなくて素直になれない。でも、分かってほしい、会いたい気持ちが大きすぎて苦しかっただけなの……。
「ごめん……携帯、忘れてきちゃって……。遅刻しないように早めに出て来たんだけど……」
「それで?」
「いや、だから……待ち合わせ場所、携帯にメモってたのも見れなくて分かんなかったから……。もしぼくのアパートに直接来るとしたら、このバスに乗るかもしれないからここで待ってれば会えるかなって思ってさ……」
私が聞きたいのはそんな言い訳でも経緯でもなくて、もっと、ちゃんと、一番に言ってほしい言葉があるのに……。素直になれない私もいけないのだけど、素直にさせてくれないあなたも悪いのよ?
「髪、伸びてるわね。耳に掛かっているし、襟足も。バイト、忙しかったの?」
「え、あぁ、うん……。ずっと忙しかったわけじゃないけど、タイミングがなかっただけだよ。茜も……髪、伸びたな……」
「そうね、伸ばしているの。女らしくなった?」
「……女らしいだろ、茜は前から……」
「あなたも女らしく伸ばすつもり?」
「……それをぼくに言う?」
口を尖らせたいのはこちらの方だけど。もっとも、そうさせるように仕向けたのは私。自分が女である事に嫌悪感を感じているあなたが一番気分を害す言葉を選んだの。苛立ちと切なさのお返しなんだから、ちゃんと受け取ってちょうだいね。
「久しぶりに会った恋人にそんな顔はないでしょう?」
「……分かったよ。ごめん……。列ぼっか。持つよ」
ごめんだなんて思ってないくせに、すぐ謝るのはあなたの悪い癖。一人で日本で過ごしてきて、少しは変わったかしらと思ったけれど……子供っぽい所は変わっていないのね。
よく見せてほしいのに、顔を叛けたままトランクを引いて停留所へと向かう。背中を追う私の本音を見透かす器量がない所もあなたらしいけれど、恋人なのだから、もうちょっと察してほしい。何も発さず列んでいる横顔を見上げていると、押し殺していた『素直』が溢れ出てきそう……。
「……蒼ったら!」
「……何……?」
「キス、しなさいよ」
「……はぁ? な、何言ってんだよ、こんなとこで……」
「出来ないの?」
「で、出来るわけないだろ!」
「なーんだ、じゃあカナダへUターンしようかしら」
クルリと背中を向けると、案の定腕を掴まれた。そうでもしてくれないと本当にUターンしなければならなくてドキドキしたけれど、あなたの事だから、きっとこうすると思っていたわ。嫌な女ね、分かっていながら試すだなんて。だけど不安なの、試さないと不安なの……。
「茜っ! そりゃぼくが悪かったよ、待ち合わせ場所に来なかったから怒ってるんだろ? だけど謝ってるじゃないか。せっかく久しぶりに会えたんだから……機嫌、治してくれ……下さい……」
「……」
「な……?」
振り返ると、今度はちゃんと申し訳なさそうな顔をしていた。……こうも素直になられちゃったら、私も許してあげざるを得ないじゃない。仕方ないわね……。
「じゃあ、ちゃんと言ってくれたら許してあげてもいいわ」
「……何を?」
「帰ってきたのに、まだ言ってくれてないのだけど?」
少し首を傾げて間を置く。そんなに考える事じゃないのに……難しく考えすぎているのかしら。とても簡単な事なのに……。そっぽを向いたりこちらを観たり、キョロキョロしても、答えはどこにも書いてないのに。何度目かのそっぽを向いた時、やっと気付いたのか目を見開いて振り返った。そして目が合うと……。
「おかえり、茜」
「……ただいま」
やっぱりあなたの笑顔は、世界で一番素敵ね……。