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後編

 美味しくお酒を堪能する上で、忘れてはならないのが『酔い』である。



 ――そもそも『酔う』とはどういった状態なのか。


『酔い』は脳内のアルコール濃度が増えることで引き起こされる。アルコールによって大脳が麻痺し、本能や感情が活性化してしまうのだ。つまりは、酔っているときは理性の皮を被らない、ありのままの自分を見せることになるのだ。例えば、急に泣き出したり、やたらとボディタッチが多くなったり、無口になったり。あるいは、――


「もお、聞いてるんれすかあ?」


「……聞いてるよ」


「嘘だあ。じゃあさっき、わたし何話してました?」


「大学の教授がりゅ○ちぇるに似てるって話でしょ。それもう5回くらい聞いたから……」


「なんだ、ちゃんと聞いてるじゃないれすかあ」


「いや、だから聞いてるって……」


「あ、そうだ!うちの大学の教授の話なんですけどね!」


「はいはい、りゅうちぇるに似てるんでしょ、はいはい」


 適当に返事する僕に「むぅ」と頬を膨らませて不服を訴えるのは、頭の弱い可愛そうな女子大生。

 暗めの茶髪を肩の当たりで切りそろえており、前髪はおでこを隠すように下している。顔は未成年と違えてもおかしくないほどには幼げで、薄目のメイクがその印象を引き立てている。そこから少し視線を下げると、薄手のカーディガンを押しのけこれでもかとばかりに己を主張する巨大な双峰が…………ない!!空間の歪みなどまったくもって感じさせない、アインシュタインを全面否定するかのような完璧な平面――とまでは言わないものの、そこには控えめな隆起があるだけで、昭和新山というよりはキラウェア火山という感じだった。それに童顔も相まって、より幼い印象を受ける。……この子、お酒飲んで大丈夫なのか?


「……さっきからわたしの胸ばっかり見てません?」


 彼女は両手で胸を隠すような仕草をしながら、こちらにジトっとした目線を送ってくる。

 まるで僕が彼女の胸に興味を抱いているかのようなリアクションだが、残念ながら僕に貧乳属性はないし、ロリ属性もないのだ。

 だから僕には願うことしかできない。胸が小さい分、器は大きくあることを。せめて来世では、大きな胸を持って生まれてくることを。君の幸せを、僕は願っているよ。


「……強く生きてくれ」


「は、はあ……」


 微妙な顔をされてしまった。

 なんだろう……さっき『……私がちょっとだけ悲しんじゃうかもですよ?』とか言われたときは正直ドキッとしたのに、今は……例えるなら、そう、仲の良い妹のような感覚だ。話していて不思議な心地良さはあるが、恋愛対象になることはない。そんな感じだ。


「そういえばさっきから、同じお酒ばかり飲んでますね」


「そういえば、そうだね」


 僕は、ここにきて最初に呑んだ『コルトン・シャルルマーニュ』にすっかりハマってしまい、ずっとそれを呑んでいた。


「他のお酒、飲みたくなりません?」


「そうだね、さっぱりしたのが飲みたいかも」


「よし、まかせてください!」


 言うと彼女はメニューの文字列を目でなぞり始めた。

 僕もメニューは見たが、初めて見るカタカナが羅列されているだけで訳が分からなかったので諦めた。


「うーん、これとかどうですか?」


 彼女が指さした箇所を目で追う。


「ギムレット……これってどんな?」


「ジンとライムをシェイクしたカクテルで、少しピリッとしますけど、サッパリしてておいしいですよ」


「なるほど……」


 ジンは飲んだことがないからわからないけど、アレだろ? なんか、おいしいやつ。僕、知ってるよ。

 そのおいしいやつにライムが加わるのだ。よくわからんが、多分うまいのだろう。知らんけど。


「よし、それにしよう。君も飲むんだよね」


「はい、ごちそうさまです」


 満面の笑みで返された。奢るとは言ってないんだけどなあ。まあ、別にいいけど。どうせ今日で消える金だ。


「マスター、ギムレットふたつお願いします」


「畏まりました」


 マスターに注文を告げると、彼は銀色の細長い坪のような器具を取り出した。

 カパッと蓋を取り外し、酒瓶から透明の液体を注いでいく。


「まさか……あれは!?」


「シェイカーですね。見るの初めてですか?」


 隣で女子大生が尋ねる。


「うん、初めてだ」


 そういえばさっきまで、ワインばかりを注文していたため、見る機会がなかった。


 マスターは、注ぎ終わった酒瓶を棚に戻し、シェイカーの蓋を閉めた。そしてそれを両手で目の高さまで持ち上げ、一瞬ピタッと静止した。空気が凍り付く。


「きますよ……」


「おお……」


 マスターがすうっと息を吸った次の瞬間、目前に現れたのは銀色に輝く美しい『V』の文字だった。否、それは残像である。まるで見えない壁に完全弾性衝突でもするかのようにマスターの手の中を飛び跳ねる銀色と、やたらめったらうるさいシャコシャコという音がこの場の異常性を視覚から、聴覚から、僕の脳裏に訴えかけていた。しかし、僕の頭をよぎったのは畏怖や嫌悪などではない。


「かっけえ……」


 現実離れした光景はすぐに終わる。マスターはシェイカーの蓋を開けて、中の液体をカクテルグラスに注いで僕たちのカウンターに差し出した。


「お待たせいたしました。こちらギムレットです」


 現れたのは、ほんのりと緑に色づいた半透明のカクテル。照明の柔らかな暖色を反射し、白く輝いている。以前、沖縄へ行ったときに、エメラルドグリーンに煌く海を見たことがあったがそれに近いかもしれない。むしろ、それより美しく感じる。


「いただきます……」


 眩いばかりのそれを、おそるおそる一口。

 ――直後、口内を電流が走った。

 見た目と、ライムを使っているという話から、甘酸っぱい感じのを想像していたのだが……


「辛っ!!」


 突き刺すような鋭い刺激が、味蕾の上を駆け巡った。例えるなら、ハイヒールのOLが背中の上でタップダンスを踊っているかのような(断じてそういう趣味はないが)。

 その後、遅れてきたほのかな甘みが舌を優しく撫で、ライムの爽やかな香りが口いっぱいに広がる。


「お、おいしい……」


「でしょー?」


 自慢げに、殴りたくなるような可愛らしい笑顔を浮かべる女子大生。その彼女も僕と同じ物を飲んでいて……


「って、もう全部飲んだの!?」


「はい、おいしいですし」


 この子、僕の奢りだということを忘れてはいないだろうか。


「わたしはもう一杯頼みますけど、どうします?」


 ……この子、僕の奢りだということを忘れてはいないだろうか。


「僕も飲むよ。マスター、ギムレットふたつ」


「かしこまりました」


 マスターが再びシェイカーを手に取る。僕は先ほどのシェイクを思い出し、マスターの一挙一動を食い入るように見てしまう。シェイカーを持つその手は、特段筋肉質なわけでもなく、むしろ細いくらいだ。全身を見ても、全体的に細身で平均的な身長、背筋がピンと伸びた綺麗な佇まいだが、やはりあの動作とどうしても結びつかない。そもそも見た目的には五十代後半といったところ。あんな動きをするとは到底思えない。……アルコールに脳を侵されすぎて見えてしまった幻影だったのかもしれない。あるいは夢か何かか。むしろ、この世界のすべてが胡蝶の夢で、酒も会社も自殺願望も、僕の脳が勝手に描いているファンタジーなのかもしれない。今見ている光景も、聞こえている音も、全て僕の創造物なのだ。


 ……などと哲学的思考に耽っていると、マスターと目が合った。


「どうかされましたか?」


 そう尋ねられたので、僕はマスターの手の中、銀色のシェイカーを見ながら、


「……僕もそれ、やってみたいです」


 そう返した。




 ☆    ☆    ☆




 聞くところによるとギムレットは作り手によって味がまったく変わってくるものらしい。そのシンプルさゆえに、そもそも人によってレシピが違ったり、シェイクの長さや振りの強さも味に影響を与えるという。


「右手の親指で蓋の部分を、左手の中指で底の部分を押さえてください」


 レシピに関してはまったく分からないので、シェイクの仕方だけ教わることに。

 ただひとつだけ、気になることがあって――、


「こんな感じー?」


 マスターにタメ口でそう問いかけるは、酔ってすっかり顔が赤くなった女子大生。この子も僕と一緒に教わることになってしまった。


 ――僕の唐突な申し出にマスターが快く了承してくれたのは良かったのだが、突然「わたしもやりたいです!」と言い出したのだ。


「なんで君もやろうと思ったの?」


「だって、なんかかっこよくないですか!?」


 なるほど、僕と同類だ。アホの子だ。


「でも僕の方がかっこよくシェイクするから見てろ!」


 大人げなく、子供っぽく、酔った勢いに任せて戦線布告する。


「そう握ると、体温で氷が溶けてしまうので、他の指は添える感じで」


「あ、はい……」


 マスターにダメ出しされてすぐに勢いは失われたけど。


「じゃあお手本を見せるので、この通りにやってください」


 マスターのシェイカーが顔の高さまで持ち上がり、一瞬ピタッと静止する。


 ――来る。


 瞬きの直後、シェイカーは視認することが困難な速度にまで加速していた。シェイカーが空気を裂く音と、氷がぶつかり合う音が煽情的なハーモニーを奏でている。銀色の光が、二十センチほどのV字路を、一寸の狂いもなく往復運動している。それは芸術的とも狂気的とも言えたかもしれないが、どちらも言葉足らずで、ふさわしい文言を探そうにも、思考は目の前の光景にかき消される。


 そして、やがて音が止んだ。


「では、今のようにやってみてください」


「マスター!」


 僕は手を挙げてマスターを呼ぶ。そして、


「なんですか?」


「できません!」


 当たり前の事実を告げた。


 すると、マスターは微笑を浮かべる。


「ご心配なさらず。私でもできますから大丈夫です」


「いやいや、そんな……」


 できるはずない、と言い返そうとしたが、それは躊躇われた。……残念なことにマスターの目が本気なのだ。本気で言っている。マスターはこの店の中で唯一の常識人だと思っていたのだが思い違いだったらしい。おそらく、先のシェイクで脳に送られるはずのエネルギーを使い果たしてしまったのだろう。――今、マスターとの会話は成立しない。となれば、ここはこの茶番に付き合うしかないのだろう。


「まあ、やるだけやってみます」


 マスターに中身を注いでもらったシェイカーを眼前に掲げ、一度止める。深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。目を瞑って先ほど見た光景をイメージする。……やはり、あまり自信はない。でもやるしかない。

 もう一度、息を大きく吸って、今度は息を止めた。――刹那、空気が、音が、時間が、静止する。


「今だ!」


 目を見開き、腕に力を込める。運動方程式に則り、シェイカーに加速度が与えられる。


「イメージしろ……」


 自分に言い聞かせるように呟く。イメージするんだ。見えない壁を、鋭利なV字を。

 一振り、また一振り。腕を鞭のように撓らせ、手首のスナップを利かせ、軌道をコントロールする。

 おそらく、僕が普通のサラリーマンだったなら、こんな動作はできなかっただろう。……そう、普通のサラリーマンだったのなら。


「毎日踊っていたのが役に経ったな……」


 腕や手首を自由自在に曲げるモーションは、ダンスの必須スキルだ。

 毎朝一緒にラジオ体操第二を踊っていた社畜たち、そしてランチタイムには一緒にアルゴリズム体操を踊った同僚。そんな彼らの顔が、ふと頭に浮かぶ。


「僕は何を考えてるんだ……。集中しろ!」


 一振り、また一振り。その度に、精神がすり減り、エネルギーが虚無の彼方へ放出されていく気がした。倦怠感や疲労感が僕の中に蓄積されていくのを確かに感じる。

 しかし、それらの感覚を包み込むかのように、ある一つの強大な感情が溢れてくるのだ。


「な、なんだこれ……楽しい…………」


 夥しい量の汗が流れおち、力を維持できなくなった脚が震える。

 それらと同様に、あるいはそれ以上に、零れてくる笑みを抑えることはできなかった。





 やがて、空気が弛緩するのを肌で感じる。それが何を意味するのか、本能的に察知した。――この時間の終わりを告げているのだ。

 休息を求める腕でなぜか感じる名残惜しい気持ちを押さえつけて、ゆっくりと動作を緩めていき、やがて静止する。そしてシェイカーを机に置き、そのままマスターの方へ振り向こうとするが、


「あ、あれ?」


 脚に力が入らず、そのまま床に座り込んでしまう。

 なんとか立ち上がろうとするが、腕にも力が入らず、起き上がることを断念。


 そのまま、マスターの方を振り向く。


「あ、あの、もしかして……」


 マスターは笑顔で、女子大生はその隣で唖然とした顔で僕を見ている。


「できて……ました?」


 するとマスターは親指を立てた。


「完璧でした」


「まじですか……」


「すごいですよ!」


 頭の中を整理する間もなく、女子大生に声をかけられる。


「なんかこう、凄かったです! 手とか気持ち悪いくらい動いてましたし! あ、アレみたいでした! あの、小学生のときにやったやつ! 鉛筆揺らして目の錯覚~みたいなやつ! いや、もうホント凄かったです! むしろ、おと……マスターより上手いんじゃないかってくらい!」


 何やら異様に興奮した様子で、早口で捲し立てる彼女。

 褒められているのだろうけど人の腕のこと気持ち悪いとか、鉛筆みたいだとか言うのは失礼じゃないですかね……。


「あ、ありがとう」


「ホント凄かったですよ!」


 語彙力を失った女子大生がそのまま飛び掛かってくる。


「ちょ! 今は近づかないほうが!」


「キャー!! めっちゃ汗かいてるじゃないですか! なんかヌメッとしましたよもう! 早く拭いてください!」


 ほら、言わんこっちゃない……。



 ちなみに女子大生は、あんな汗塗れのシェイカーは使いたくないということで体験は断念しました。……ちゃんと洗ったんだけどね!


 あと、完成したギムレットはおいしくいただきました。





 ☆    ☆    ☆





 退屈な時間というのは実態以上に長く感じるものだ。


 例えば働いているとき。僕の場合は毎日八時間労働、その後自主的に会社に残り、後学のために業務を五時間ほどやらせてもらっていた。額面では八時間分の給料しか稼いでいないのに、体感的にはもっと長く、具体的には十三時間くらい働いているような感覚に陥るのだから不思議なものだ。



 逆に、楽しい時間というのは驚くほど早く過ぎ去ってしまう。


 一日のほとんどを働いて過ごしていた僕には、楽しい時間というものは僅かしかなかった。それは、会社の昼休みだったり、好きなバラエティ番組を見ているときだったり。


 だけど今日、僕の人生最後の日に、僕の『楽しい時間』が一つ増えた。


 それは多分、僕が今まで過ごした時間の中で、一番楽しいものだったから、過ぎ去る時間も一番速足だったと思う。


 だから、つい願ってしまうのだ。


 もう少しだけ、この時間が続いてほしいと。


 いや、もっと欲を言うなら、そんなことが許されるのなら。




 ――ずっと、こんな時を過ごしていたい






 ☆    ☆    ☆






「もう、こんな時間か」


 時計の針は、あと三十分くらいで頂点を指すところ。六時頃にここに来たから、少なめに見積もっても五時間はここにいることになる。


『今日、自殺する』と決意したのだ。日付が変わる前に終わらせてしまいたい。じゃないと、意思が揺らいでしまいそうだ。


「僕はそろそろ帰るよ」


「あれ? もうですか?」


『もう』って……。五時間飲んでたやつのセリフじゃないな。


「うん。そろそろ出ないと間に合わない」


「え? 何か用事あるんですか?」


「最初に言ったでしょ。今日、自殺するって」


 僕はわざと明るく言った。酔っぱらいの譫言だと思っただろうか。もしそうだとしたら、それでも構わない。しかし、彼女は少し俯いて、暗いトーンで、


「……理由とか、聞いてもいいですか」


 と、尋ねてきた。

『やってしまったか』と思わなくもなかったが、いまさら誤魔化す気にもなれず、なんでもないように返す。


「会社をクビになったんだ。頼れる友人も家族もいない。よくある話だよ」


「……他のお仕事を探したりとかは」


「辞めてから気付いたけど働くことが苦痛なんだ。いまさら他の仕事を探そうとは思わない」


「そうですか……」


 ……空気を悪くしてしまった。少しばかり罪悪感が残るが、ここは退散するが吉と神が言っている気がする。


「マスター、お会計お願いします」


「……かしこまりました」


 マスターがレジをカタカタやってシャコーンと支払金額が表示される。


 初めて来たバーの料金は、頭が痛くなるほど高かった。

 基準が分からないが、それでもその数字が異常であることはわかった。


「足りるかな……」


 内心少し焦りつつ、財布の中の諭吉さんの人数を数える。

 いくらこれから死ぬとはいえ、最後に食い逃げというのは格好が付かなさすぎる。


「よかった、ギリギリ足りた……」


 大量の諭吉さんをマスターに渡す。マスターはそれを受け取ると、パパッと金額をレジに打ち込み、ガシャッとお釣りを取り出して渡してくれた。財布にはもう数千円程度しか残っていない。……本当にギリギリだった。


「ありがとうございました」


 頭を下げるマスター。最後に見た人が五十代のおじさん(しかも頭頂部)というのもなかなかシュールだが、それはそれでありだろう。


 ――最後に来たのがここで良かった。


「こちらこそ、ありがとうございました」


 僕はマスターに背を向けて、出口へと向かう。

 もう少しここにいれば、本当に死にたくなくなってしまう。

 暖色の照明に照らされた木製のドアに手を伸ばす。しかし、


「待って!」


 伸ばそうとした手は、後ろから掴まれ、ドアに届くことはなかった。


「何?」


 振り返りながら、声の主、女子大生に問う。


「本当に、死んじゃうんですか?」


「本当だよ」


「…………」


 彼女は俯いて黙り込んでしまった。しかし、僕の手を離そうとはしない。


「離してほしいんだけど」


「…………」


 僕の手を握る力が強くなる。どうやら酔っているわけではないらしい。


「急がないと、時間がないんだ」


 出口横に掛けられた時計を見る。日付が変わるまで、アバウトに見て残り二十五分。ここから五分ほど歩けば海にはいけるから、時間がなければそこで身を投げればいい。つまり、タイムリミットはあと二十分ということだ。


「今日、死ぬって決めたんだ。今日が終われば、正直死ねる気がしない」


 この時間が楽しかったと思っている自分がいるのも事実だ。だからこそ、今日が終わってしまえば、自分に都合のいいように言い訳して、そのままズルズルと生き続けてしまうだろう。ぬるま湯のような夢に浸り続け、何の目的も、意思も、理由も持たずに唯々生き続けて。それがさめたときには、きっともう手遅れだ。将来の自分が後悔しないよう、今、終わらせるべきだ。


「だから……」


「本当ですか!?」


 だから、もう行くよと言おうとしたのだが、彼女はバッと顔をあげ、予想外な明るい声と顔でそう言った。


 ――嫌な予感がする。


「本当って、なにが……」


「『今日が終われば死ねる気がしない』って、言いましたよね?」


「言った……けど」


「それ、本当ですか?」


「……本当だよ」


「分かりました」


 すると、彼女は僕の背中に腕を回し、密着するように抱き着いてきた。

 ちょ、当たってる! 当たってるから!


「……何してるの」


 内心の動揺を隠しつつ、心の最奥に秘めたDTを悟られないように必死に抑え込む。


「もう一杯だけ、飲んでいきませんか?」


 胸の中で顔をあげ、上目遣いでそう尋ねられては僕の返す言葉は一つしかない。


「……まあ、一杯だけなら」


 勘違いしないでほしいのだが、色仕掛けに負けたのではなく、大人として子供の我儘を聞いてあげただけだ。まあ、時間もまだちょっとだけあるしね……。




 ☆    ☆    ☆




「コルトン・シャルルマーニュで」


「じゃあ私もそれで」


「かしこまりました」


 再び席に着いた僕たちは、手早く注文を済ませる。


「好きですね、そのお酒」


「ああ、まあね」


 本当はギムレットを頼もうかとも思ったのだが、シェイクでタイムロスを喰らうのは避けたいと思ったのだ。


「でも、君も好きなんじゃないの?」


「まあおいしいですけど、自分のお金じゃこんな高いお酒飲めませんから。今日初めて飲みましたよ」


 あはは、と笑いながら答える女子大生。やっぱり僕が奢るのは確定事項なのね……。


「お待たせいたしました、コルトン・シャルルマーニュです」


 しばらくして、注文したお酒がカウンターに置かれる。

 うむ、いつ見てもいい色をしておるな。


「あ、そうだ! これって隠し味を加えるとおいしくなるの知ってますか?」


「いや、初めて聞いた」


 今日初めて飲んだし。


「これなんですけどね、これを入れると風味が増しておいしくなるんですよ! あ、入れてあげますね!」


 彼女はそう言いながら、カーディガンのポケットから取り出した、アルミ製の小袋を開封した。

 ……いやその袋、いくらなんでも怪しくないですか!?


「ちょ、待って!」


 僕の言葉を無視してさらさらーと白い粉をグラスに注ぐ彼女。


「はいできました! どうぞー」


「…………」


「あれ、飲まないんですか?」


「君の分は、その粉入れなくていいの?」


 僕がそう聞くと、一瞬八ッとしたような表情を見せるがすぐに笑顔に戻し


「一袋しか持ってなかったんですよー! ほら気にしないで飲んでください!」


 怪しすぎる……。


「そういえば君、初めてこのお酒飲むって言ってたよね? なんでそんな隠し味とか知ってるの?」


「……いやー、ほら、アレですよ! このお酒有名ですし! 知っててもおかしくないっていうかそんな感じです!」


「だとしても、その隠し味を持ち歩いてるのはおかしくない?」


「あ……」


 やっぱり、アホの子だ。嘘を付くのが下手らしい。


「……僕がそっちを飲むから、君がこのヤバい粉が入ってる方を飲んでよ」


「なんでですか! っていうかヤバい粉ってなんですか!」


「明らかにヤバいやつでしょそれ! 早く何も入ってない方貸して!」


 そう言うと、彼女は顔を赤らめ急にモジモジし始めた。

 なんだ、この反応……。


「私、もうすでに自分の分ちょっと飲んじゃったんですけど……」


「それがどうかした?」


「だって……か、間接キスになっちゃうじゃないですか」


「さっき抱き着いてきたやつが何言ってんだ!」


 わざとやってるのか、天然なのかは分からないが、可哀想なことに頭が弱いらしい。

 ……もう話が通じる気がしない。


 ふと時計を見る。タイムリミットまで残り十分。馬鹿なやり取りに思ったより時間を奪われてしまった。急いで退散しなくては。


「ごめん、もう行かないと」


「あ、ちょっと待って! せめて一口だけでも飲んでくださいよ!」


 僕が立ち上がろうとすると、また腕を背中に回してきて離そうとしない。


「まだ飲ませる気か! もう行くから!」


 やたらとヤバい粉を飲まそうとしてくる彼女を無理やり振りほどき、出口へと向かう。


「待ってくださいよ!」


 そんな彼女の声を無視してドアに手を伸ばそうとしたその時――


 僕の右耳の一寸横を銀色に輝く何かが、物理法則を無視するほどの勢いで通り抜けた。

 銀色のそれは、そのままの勢いで僕の前、ドアへ凄まじいばかりの轟音とともに衝突し、カランと床に転がった。


 これは……シェイカー?


 本能的な恐怖と、迫りくる脅威を背中に予感し、背後を振り返る。そこにいたのは、


「お客様、お会計がまだのようですが……」


 予想通りで期待はずれな人物だった。


 どうやら、まだ地獄は終わらないらしい。




 ☆    ☆    ☆




「ああ、お会計でしたね! すっかり忘れてました!」


 慌てて財布を取り出す。しかし……


「あ……」


 気付いてしまった。今、僕の財布の中には、野口さんが数人しかいない。


 対してコルトンシャルルマーニュが二杯だから支払総額は……


「いくらでしたっけ」


「一七二八〇円になります」


「…………」


 なるほど。状況は理解した。と、なると、僕に残された選択肢は二つ。一つ目は、今すぐここから逃げ出すこと。だがこれはあまり現実的ではない。何せ、あのマスターだ。彼ならたとえ地球の裏側まで逃げようと、正確無比な銀色の矢で狙い撃つことができるだろう。彼の手の内から逃げ切れるビジョンが浮かばない。


 ということは、必然的にもう一つの選択肢を選ばなくてはならないのだが……。


「あんまり使いたくなかったんだけどなあ……」


 そんなことを言っている場合ではない。実際、成功率もそこまで高くないのだが、この際仕方ない。

 腹を括り、この作戦のキーマン、いや、この場合キーウーマンか? まあどっちでもいい。キーパーソンの方を向き、ガバッと頭を下げる。


「きゅ、急にどうしたんですか!?」


 狼狽えた声をあげるは女子大生。そう、彼女こそ、この作戦における最重要人物なのだ。


「最後の二杯分の料金だけ払ってくれないか……いや、払っていただけませんか」


「……はい?」


「ちょっとお金足りなくて……」


「はあ……」


「まあ、ほら。さっきまで全部僕が払ってたし最後くらいは……ね?」


「なんでそうなるんですか……」


「いいじゃん! 僕と君の仲じゃんか! 二人の間には、お金では買えない固い絆があったはずだよ!」


「いやいや、さっき無理やりほどいて勝手に帰ろうとしてましたよね! ちょ、抱き着かないで! 離してくださいよ! は、離せぇっ!」


 なんか今の僕、DVヒモ男みたいじゃないか……?

 急に冷静になり今の自分を客観的に見つめてしまうも、もうあとには引けない。


 仕方ない。アレを使うしかないか。


 ――二年半の社会人生活で培った、あの究極奥義を!


 見せてやろう。これが格の違いというやつだ。


「あ、離してくれた……」


 まず床に静かに正座する。このとき、相手の目を見てはいけない。見上げるような目線は上目遣いと言われ、一般的には重宝される傾向にあるが、この場合は逆効果だ。反抗的な態度に捉えられる可能性がある。


「えーと、何してるんですか……?」


 そして次に、両手を膝の前の床に着ける。だいたい膝から十センチほど離れた位置に置くのが望ましい。

 この段階で、手を置く位置を誤ると、次のステップに甚大な悪影響を与える。こっそりと微調整することもできるのだが、それをやるようではプロとして失格だ。


 最後に、頭を地面に擦り付ける。とにかく擦り付ける、それだけだ。それが、『新・白岡流DO☆GE☆ZA』の真髄なのだ。


「ちょ、本当に何してるんですか!?」


 ここで一つ注意事項がある。相手から要求を呑む主旨の言葉を引き出すまで、決して顔をあげてはいけない。土下座は相手から譲歩を引き出すまでが土下座なのだ。


「頭あげてくださいよ……」


 動じてはいけない。おそらく、もうひと押しのはずだから。


「……ああ、もう、わかりましたよ」


「本当!?」


 思っていたよりかなり早く折れてくれて助かった。すると彼女は、先ほどのヤバい粉が入ったグラスを持ち上げる。……これは、なんとなく察しがついた。


「じゃあ、これを飲んだら払ってあげます」


「言うと思ったよ!」


「……飲みます?」


「飲まないよ! なんで飲むと思ったの!?」


「ですよねー。というかそもそも、私もそんな大金持ってませんよ」


「まじかあ……」


 夢も希望も途絶えてしまった。これは……マズイですよ。


「あ、あの、マスター?」


「…………」


「え、えーと、その……」


「仕方ないですね……」


 狼狽する僕に口を挟んだのは女子大生だった。


「お金がなくて、仕事もないなら、ここで働けばよくないですか?」


「……え?」


 君はいったいどんな権力を持ってるんだ……。良いわけないだろうに。


「……アホなの?」


「ひどっ! ちゃんと真面目に考えてますってばー!」


 真面目に考えてそれなら、やはりアホなのだろう。


「いいよね?」


 女子大生がマスターにそう尋ねる。良いわけあるか。だいたい、僕には敬語なのになんでマスターにはタメ口なんだ……。


「……彼にはバーテンダーとしての才がある。それに陽茉里がそう言うのなら、断る理由はない」


「……………………………………え?」


 ちょっと待って。いろいろ展開が早すぎて付いていけない。


「今日からよろしく」


「いやいやいやいやいやあ!?」


 違和感だらけのやりとりを、当然のようにしてのけるマスターと女子大生。

 いくらなんでもおかしくないか?


「さすがにそれはちょっと、やりすぎというか……」


「じゃあ他に、このお酒の代金を支払う方法があるんですか?」


 女子大生がニヤニヤとした、最高に楽しそうな表情でそう言う。


「それに」


 彼女は出口の方に目をやった。それにつられて僕も目線の先を追いかける。


「もうタイムオーバーみたいですよ?」


 ドア横に掛けられた時計。その長針と短針は、頂点を指して、ぴったりと重なっていた。


 ……してやられたか。


「ははっ」


 乾いた笑いが勝手に零れてきた。だってこんなの……笑うしかないだろ。

 僕の目的をここまで綺麗に阻止して、こんな丁寧なアフターサービスまで押し付けてくるなんて。

 心の中を渦巻いていた黒い何かが浄化されたような気がした。


「マスター」


 それに、だ。


「今日からよろしくお願いします」


 どこかに、死ななくてよかったと思っている自分がいるのを感じてしまうのだ。


 そして、少しだけ。


 これからを楽しみに思う自分も。




 ☆    ☆    ☆




「あの子、マスターの娘さんだったんですか!?」


「ああ、陽茉里と言ってね。このBARの名前もあの子の名前からとったんだよ。……聞かなかったのかい?」


 次の日の夕方、さっそく店にやってきた僕は、マスターとおっさん同士で当たり障りのないトークに花を咲かせていた。


「まじですか……。あ、じゃあ奥さんは何してるんですか?」


「……妻は、十年ほど前に亡くなったよ」


 やべえ、墓穴掘った……。なんとかして話題を変えなくては。


「どうして亡くなったんですか?」


 話題を変えようとしたのだが長年のコミュ障ゆえに思ったことが勝手に口から出てきてしまった。

 これだからコミュ障は!


「……彼女は看護師をやっていたんだが、仕事がうまくいっていなかったらしくてね。自分で自分をあやめたんだ」


「…………」


「だからだろうね。陽茉里が、君のことをあんなに気にかけていたのは」


「あ……」


「『お母さんのことにもっと早く気付いていたら。止められていたら』そんな後悔が、もしかするとあったのかもしれない」


「僕、申し訳ないことしちゃいましたよね」


「ははっ。そんなことはないよ。昨日のことで陽茉里自身も救われたはずだ」


「そう……ですかね」


 そうなら、いいんだけど。


「まあそんな話はいいんだ。それより、君に頼みたい仕事のことなんだけど……」




 ☆    ☆    ☆




「相変わらず客いませんね」


「君、前の職場でもそんな感じだったの?」


 僕がここで働き始めて一週間ほど。僕はここ毎日開店前に、カクテルを作る練習をさせてもらい、就業時間は基本的に接客に回っていた。

 少なくともこの一週間では、一日に片手で数えられるほどの人数しか来店しておらず、この店の経営状態が非常に不安だ。


「これ、僕を雇うことで余計に経営圧迫されてません?」


「……まだわからない」


「それ絶対ダメなやつ」


 ちゃんと僕の給料は出してくれるのだろうか。などと思考していると、ドアがギイッと開いた。



「いらっしゃいませ」


「いらっしゃーせー」


「いらっしゃいましたー」


「ああ、なんだ陽茉里ちゃんか」


「なんだってなんですかー!」


 この子、毎日とまでは言わないものの、かなりの頻度でここに来ている。この一週間でわかったことだ。


「そういえば陽茉里ちゃんって、普段何してんの?」


「何って、大学生ですけど」


「へー、どこの大学?」


「SO大です」


「そうなんだ」


 なるほど。アホだと思っていたが、別にそこまでアホではなかったらしい。強いて言うならちょっとアホ。

 いや、というか……。


「僕の後輩じゃん……」


「え、本当ですか!? 先輩だったんですね!」


 自分もこの子と同じレベルかと思うと、悲しくなってくる。


「じゃあ、先輩! いつもの一つ!」


「はいよー」


 彼女の注文を受け、ぬぼっとシェイカーを手にしてドバドバ液体を注いでいく。

 基本的には接客に回っていると言ったが、彼女の分は僕が作っても良いことになっていた。


「じゃあ、行きますよー」


 全身の血管が波打つように脈動する。腕、そして指先に全エネルギーを注ぎ込む。……来る!


 ――空間が静止する。


 この感覚だけは、なんど味わっても飽きることがない。


 身体の至るところが沸騰するかのように熱い。


 全てが静寂に満ちたこの空間で、盲目のメロディーを奏で、不羈の喜びを舞う。


 舞い上がる高揚感が体を支配する。


「できた……」


 練習の甲斐あってか、一回のシェイクで倒れるようなことはなくなっていた。

 しかし、疲労感はしぶとく残るため、二時間に一回程度が限界だ。


「やはり君は筋がいい。朝霞流、任せたよ」


「ありがとうございます!」


「早くお酒渡してくださいよー」



 ――と、まあ、今の僕はこんな感じだ。


 僕は確かについこの間まで、死にたいと思っていた。

 でも、それを変えてくれた人がいる。悲しんでくれた人がいる。

 だから今、こうやって生きている。

 死ななくてよかったと、そう思えている。


 今、これを読んでくれている人達の中にも、死にたいと思っていたり、これから思うようになる人がいるかもしれない。


 でも、今なら断言できる。――それは錯覚だ。


 僕は死にたいんじゃなかった。助けてほしかったんだ。


 助けられて、初めて気づいた。


 だから、生きて。


 あのとき、死ななくてよかったって、いつか思える日がくるから。



 でも、どうしても辛くなったときは


 ――このバーへお越しください。


 この吉原のバーで、いつでもあなたをお待ちしております。




 おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。

初投稿完結しました!


前編とめちゃくちゃ間あいてますけど初心者なので許してください。

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