プロローグ
ここは、イタリアの郊外にある工場跡。今はなんの役割も持たない空き地であるそこに、甲高い金属音と燃え盛る炎の音が響いていた。
あたりに夜の帳が下りてから既に数時間は経過しているが、眩い紅焔が廃れた建物の内部を照らし、まるで昼間だと錯覚してしまうほどだ。
「クハハッ、いい加減燃え尽きちまったらどうだ? ネクロマンサーさんよぉ!」
荒々しい男の声、パチンという指の音とともに放たれた球状の豪炎。男の正面に立っている人影に向けて放たれた炎球は、轟音とともに大気を焼いていく。しかし、その炎が目の前の人物を焼き焦がすことはなかった。
「覇ッ!」
迫り来る炎球に照らされたのは、銀色に輝く抜き身の日本刀だ。その持ち主が凛とした気迫を発すると、煌めく鋭い剣線が数本生まれ、次の瞬間炎は一欠片も残さず切り刻まれていた。
「だから、漢字が違うって何度も言ってるの!」
豪炎を放った男がその光景に忌々しげに舌打ちをすると、突如その背後から鈴の音のような声がした。しかしその声に鈴などという愛らしい雰囲気はなく、鬼気迫るという表現が的確だろう。
声の主が持つナイフが鈍く輝き、が炎の男を貫こうとしたその時、
「我々にそのようなハッタリは通用しない」
鋭く冷たい女の声が響く。そして、彼女の手に握られた氷の刃が声の主の一撃を抑える。金属音が鳴り響き、まるで鋼の如き強度を誇る氷結の刃が、声の主のナイフを押し返した。
「っ……!」
咄嗟に距離を取る声の主。彼女が飛び退いた場所は窓からちょうど月の光が差し込む位置で、その光が彼女の端正な顔を照らし出す。
色素が完全に失われた白い髪。それに不釣り合いなほど若々しく整ったアジア系の顔立ち。そして全てを飲み込むような漆黒の瞳。まだ成人すらしていないだろうその少女は、黒いローブに身を包み、焦りの表情を浮かべている。
「だいたい、カンジなんて言い訳が俺らイタリア人に通じると思うか? お気楽な脳みそだぜ、全く」
男は呆れたように言い放ち、その手に再び紅焔を生み出す。
金色の髪に金色の瞳。獰猛に口元を歪める仕草。その口から覗く鋭い八重歯。獅子を彷彿とさせるその風貌の男は、白を基調とした制服のようなものに通し、右手には煌々と輝く炎を湛え、左手にはグリップに大きな十字があしらわれ先端に刃が付いたマスケット銃を持っている。
「貴様が霊を操り従えていることはわかっている。それは世界各国どの国でも禁忌と定められている術。我々は貴様を見逃すわけにはいかない」
射るような冷たい瞳で糾弾するように少女を見据える女。その碧眼と水色の長髪は芸術的なまでに美しいが、彼女が放つ凍てつく雰囲気と鋭い眼差しが近寄り難さを醸し出している。彼女も炎の男と同じ制服を着ており、その手には透き通る氷で生成された剣が握られている。
「主が扱うのはそなたたちの言う死霊術、ねくろまんしーとは別物なのだが……どうやら聞く耳を持たないようだ」
片言の発音でカタカナを発音する女性。弱ったように溜め息を吐いてみせると、その身に纏う空気を一瞬で変質、刀を上段で構える姿には一切の隙がない。
後ろで纏められた美しい黒髪に、息を飲むような漆黒の着物。その上を舞うただ一匹の蝶々が更に妖艶さを演出している。
しかし、着物の袖は紐でたくし上げられ、彼女の両腕には鋼鉄の手甲が取り付けられている。その肢体は可憐な女性のものとは思えぬほど引き締まっており、ただならぬ人物であることは容易に想像できた。
均衡状態に陥る4人、和服の女とローブの少女が制服の男女を挟むような形で睨み合っている。
しかし、その均衡も数秒と持たなかった。
「……しゃらくせえ、全部まとめて灰燼に帰せ!」
右手に炎を宿した男が獰猛な笑みを浮かべる。次の瞬間、指を鳴らす音が廃工場に木霊し、炎の轟音へと変化した。
すると、炎の壁が4人を取り囲むようにそびえ立つ。
「これで明かりも保てて視界良好、更に逃げられなくするオマケ付きってな。さあ、存分に殺り合おうぜぇ!」
「……」
男はそう言ってローブの少女の方へと視線を注ぐ。少女は沈黙を貫く。その表情に先ほどまでの焦燥の色はない。
神経を研ぎ澄ませ、少女が地を蹴ろうとして——
「ジェラルド、緊急事態だ。悪鬼が一体イタリアから逃亡を図った」
氷の女の声が響く。どうやら耳に手を当て、通信を行っているようだ。
その言葉に、ジェラルドと呼ばれた男は訝しそうに顔を歪める。
「あぁ!? まさかそっちに向かうってんじゃねえだろうな! これからが本番だってのに!」
「そのまさかだ。教会に属するエクソシストにとって任務は絶対。そちらの方が重要だと上が判断したのだから赴かなければなるまい」
「……チッ、わーったよ。主の意向は絶対だからな」
男は再度指を鳴らす。すると炎の壁は消え、男と女は別れの言葉もなしに闇の中へと身を溶かした。
「主、怪我はないか」
「うん、大丈夫なの」
和服の女性は2人の気配が消えたのを確認してローブの少女に近寄る。少女も肩の力を抜き、深く息を吐いて女性を見やった。
「どうやら厄介なことが起きてるみたい。悪霊を挫き悪霊を助ける使霊術師として、一枚噛まないわけにはいかないの。悪いけど、また別の国に行くことになりそう」
「構わないさ。私の剣と魂は既に主のものなのだからな」
そんなやりとりの後、2人は窓の外を仰ぎ見る。その視線の先では、半月が青白く淡い光を放っていた。