最終話
『世界』のどこか 数日前 22:40
話は数日前、駿我とニルと鎧武者がはじめて出会った日には既に始まっていた。ニルが駿我から離れた理由は簡単だった。鎧武者の姿をした親友が、僅かに覗く視線で話があると訴えかけてきたのだ。
当然、ニルはそれを受諾し、駿我に言い訳をしてその場を離れた。言い訳をしたのは親友がなぜか駿我の事を熱っぽく見ている事に気づき、これは何かあると奇矯を一人で追う事に決めたからだ。彼女は咄嗟に演技で駿我を騙していた。
駿我はニルの事を知り尽くしていたが、『駿我が考えるであろう目的にそった自分』を完璧に演じていたニルには完全に騙されていた。長年の付き合いで駿我が自分の行動についてどう考えどう判断するかを知っていた彼女にとっては簡単な事だった。
そんな彼女と鎧武者はその時、駿我からは随分離れた道に居た。人気どころか、周囲に誰かが住んでいる気配すらない。そんな場所だというのに鎧武者は周囲を警戒している。どうやら、人が居ない事を確認しているようだ。ニルもまた彼女の思考を理解したのかあらゆる監視から外れるように力を使う。
この時、ニルを観ていたエィストが視界を消し去られて首を傾げていたがそれはニルの知る所ではなかった。鎧武者もニルが力を使った事を理解し、周囲への警戒を解く。
ニルは鎧武者に駆け寄ると思いきり、抱きしめた。
「あはは、ははは! 久しぶりじゃないか奇矯!」
鎧武者は自分を抱きしめるニルを抱きしめ返し、兜を脱いで顔を晒す。その先にあったのは奇矯の顔だ。ニルは嬉しそうに奇矯の頬へ手をやる、どうやら本人である事を確認しているらしい。
「ああ、この頬の弾力! 本物だな!」
「……そんな基準なんですか?」
鎧武者は、奇矯は相変わらずの親友の姿に呆れつつも、再会の喜びに微笑んでいた。親友のそんな姿を見てニルもまた微笑んだ。互いの事を見つめて微笑む二人だったが、何事かを思い出したニルによってそれは終えられた。
そう、ニルが気になっていたのは何故自分に斬りかかってきたか、では、ない。それは特に気にしなかった。むしろ、『またいつもの発作か』などと変わらぬ親友に安堵していたほどだ。彼女が気にしていたのは、奇矯の格好だった。
長い付き合いだったが、ニルは奇矯がこのような格好をしている所を今日始めて見た。全身を必要以上に隠すその鎧は雰囲気は奇矯に合ってはいたが、顔が隠れるという意味ではまったく似合っていない。
その事を奇矯に告げると、彼女は曖昧な、だが明らかに困ったような笑みを浮かべる。しまったとニルは内心で気まずい思いを味わっていた。どうやら、奇矯はその明らかに似合わない鎧が自分に似合うと考えていたらしい。
「……あー、すまないね、うん。雰囲気的には似合ってるから、まあ気にするな」
「雰囲気だけ似合ってても仕方ないじゃないですか……」
互いに気まずそうに顔を見合わせている間にニルは決意していた、この話題はやめよう、と。実は奇矯もまたニルの服装は似合っているが、職業的には間違っていると考えていたのだがこの話題はまずいと判断して何も言わなかった。
二人は気まずそうに話していたが、気を取り直したニルによってそれは打ち破られる事となる。ニルが気になっていた事は他にもあった。先ほど会った時の奇矯の駿我を見つめる視線だ。
明らかに熱を帯びたそれに、奇矯に限ってまさかと考えていたが僅かな可能性を感じニルは奇矯へと疑いの眼を向けていた。奇矯がそんな彼女の態度に気づいて首を傾げる。が、次第にその内容を理解していったのか顔を真っ赤にする。
「ち、違いますからね! そういうのじゃないです!」
「いやお前……うーん、あれは私の親友なんだが、いやある意味性格的に似た者同士でお似合い……いや親友二人がそんな関係になるのは私としてはちょっと……」
明らかに嫌そうなニルの態度に奇矯が慌てた様子で弁明しようと口を開く、実は奇矯のそんな姿に真実味を感じたニルは既に『ああ、そんなに単純な話じゃないな』と判断して内心安堵していたが、そんなそぶりはまったく見せずに疑惑の目を向けていた。面白がって奇矯で遊んでいるようだ。
慌てていた奇矯だったが、やがてニルの内心に気づくと思わずむくれた。だが、ニルのタイミングを見計らったような謝罪でそれは四散させられる。それで許してしまう自分は永遠にニルには勝てないなと彼女は実感していた。
そんな奇矯を面白がってニルはしばらくの間笑っていた。だが、そんな時奇矯がふいに真剣な表情でこちらを見つめている事に気づいて笑みを消し、真剣な表情を浮かべる。
「あの侍みたいな人、あなたの親友なんですか?」
「ん? ああ、駿我って名前でね。私にとっては君と並ぶくらい大好きな親友だ」
言外に奇矯への好意を乗せた言葉を正確に受け取り、奇矯は嬉しそうに微笑んだが、真剣な表情は変わらない。むしろそれは冷たい雰囲気すら発し始めている。
「あの人は、私を斬れるくらいの実力が、ありますよね?」
その一言でニルは奇矯の考えの大半を理解していた。彼女が自分の精神性のある一点を心の底から嫌っている事をニルはよく知っていたのだ。この状況でそのような質問をする意図など一つしかない。
「多分、君が刀を持った時の本気とあいつの本気で互角だろうな。斬れるか斬れないかでいうと、斬れる」
奇矯はニルの言葉に顔を明るくした。だがニルは喜ぶ気にはなれない、親友が死のうとしているのが痛いほどによくわかる表情を見せ付けられてむしろ内心では落ち込んでいた。だが、それを表情には出さない。言っても無駄である事を彼女は理解していた。
「なあ、奇矯。君が何を言いたいのかはわかった。よくわかったよ。つまり、斬られたいんだろう? 同類の香りがする、あいつに」
「ニルの言うとおりですよ。ええ、斬られたいんです。私は」
「どうして?」
「聴かなくても、わかるでしょう?」
確かにそうだ、ニルは聴かなくてもその理由をよく知っている。なぜ駿我なのかも、完全に理解できているのだ。黙り込んだニルに、奇矯が哀願するように頼み込む。
「もう、限界なんです。自分を殺さなければ、最後には周囲の何もかもを殺しつくしてしまうかもしれないのが、怖くて……」
そして、彼女は自分が今まで何をしてきたのか話し出した。
奇矯は、中毒だった。誰かを斬りたくて斬りたくて仕方が無くなる人間なのだ。だからといって刀から身を離す事は体が拒絶反応を示していた。だから鞘を持ち、仮の武器として扇を使っていたのだ。
彼女が鎧武者になったのもそれが理由だった。自分という姿を消し去り、ただの悪鬼として振舞い誰かを遠慮無く斬る。そのつもりだったのだ。だが、その計画は彼女自身の良心と感情によって失敗していた。
斬ろうという寸前に逃げてしまっていたのだ、なぜかそれが実際に斬られるという本当の内容とは違う噂に変わっていた時は疑問にも思ったが、それと同時に羨ましくも思っていた。
自分とは違い、噂の中の鎧を着た悪鬼は『怪物』でもそれ以外でも構わずに斬っていた。実際にはギリギリの所で逃げてしまう自分とは違うその存在に彼女は尊敬すら抱いていたのだ。
自分の欲求と理性に苦しんでいた。エィストに頼んで、自分の死に場所を探してもらうほどに。そんな時、ニルを見つけたのだ。彼女は誰かと共に楽しげに歩いていた。丁度良いと思った鎧武者は、そのままニルに斬りかかるふりをした。
その時だった、寸止めをする気で放たれた刀が途中で止められていたのだ。鎧武者、つまり奇矯は驚いていた。一体何者かとその姿を見つめた時、強烈な『同類の香り』を覚えた。その正体なのが何なのか、彼女はわかっていなかったが、その瞬間に確信したのだ。
「私を斬る人は、この人だ」と。
様々な事を自嘲気味に話す奇矯。そんな姿にニルは内心で決心していた、親友としての愛と、少しだけの悪戯心を持って『絶対に、死なせてやらない』と。そうと決まれば話は早かった。
彼女が自分の意思で死ぬ事をやめる為には彼女の中毒を治す必要がある。が、それまでの経験で自分ではどう頑張っても奇矯に刀を捨てさせる事はできない事は理解している。実際に言っても無駄だった為の判断だ。
ならば別の人間に頼るしかないとニルは考え、同時に彼女に言葉が届くであろう人間を思い浮かべた。真っ先に思い浮かんだのは、駿我だった。奇矯自身が言うように、駿我と奇矯はどこか似ている二人だ。もしも二人を自分と同じくらいの親友に出来れば、あるいは彼女の心を変えるきっかけになるかもしれないとニルは考えた。
奇矯の話が終わるタイミングを見計らって、ニルは駿我と奇矯が自然に出会えるようにと口を開く。
「で、つまりは私に駿我と出会うタイミングを作って欲しい、と?」
「ええ、そうです。駿我という方と私が最終的には戦うように……いえ、というよりは、会うタイミングが欲しいんです」
ニルには話さなかったが、奇矯は方法に関してはエィストに頼んでいた。ふさわしい相手を探すのは自分でやろうと考えていた為、それまではエィストには何もしないように頼んでいたが、その相手が今日見つかったのだ。
嬉しそうに微笑む奇矯に対して、ニルは内心を絶対に見せまいと隠してから意味を込めて微笑んだ。その態度が了解の意味を含めている事に気づいた奇矯は幸せそうにニルの頬へと手をやる。
何をしているのかとニルは思わず奇矯の顔を見たが、どうやら、先ほどの仕返しらしい。目指す未来への方向性がどうあれ、奇矯はまったく変わっていない。その事にニルは安堵していたが、同時に困っていた。彼女の考えを曲げるのは、劇的な何かが必要だと思い知らされて。
そんな気持ちにさせられた事への仕返しなのか、ニルは奇矯へ向かって少しだけ声をあげて面白がるように笑う、その様子を見た奇矯は首を傾げていたが、ニルの言葉が届いた瞬間には顔をまた真っ赤にしていた。
「はは、いやな、これだけだとまるでお前の初恋を手伝ってる気分だと思ってね」
絶句したように口を閉じたり開いたりしている奇矯を見て、またニルは大笑いする。そして、そんなニルの姿を見て奇矯も顔を赤くしながら腰に手をあてて怒っている風な態度を見せつつ笑う。
それまでの真剣な雰囲気はまったく無い。当然である。それが、彼女らなのだから。
ひとしきり笑いあうと彼女らは再び話を戻し、打ち合わせをし始めた。奇矯は死ぬため、ニルは死なせないためにと目的こそ違ったが、ニルはその程度の差を隠して計画を立てるくらいの事は出来るのだ。
そんな彼女らの話は今現在、『どうやって駿我を連れてくるか』という話題になっていた。実の所、ニルが一番難しいと思っていたのはそこだった。連れてくる程度の事であれば可能だが、何か目的が無ければ疑われてしまうだろうと彼女は感じていた。
駿我はとても勘の効く男だ。付け焼刃の目的では途中で見破られるかもしれない、と奇矯に話すと、彼女は何事かを思い出したように懐からペンダントを取り出した。そのペンダントを、ニルはどこかで見たことがあった。
そして、しばらく見つめていると彼女は気づいた。これは、自分の父親の持っていたペンダントではないか、と。ニルは思わず体を硬直させる。そんな姿に奇矯は笑顔で口を開いた。
「少し前に襲い掛かったら、返り討ちにされてしばらく話すと私がニルの親友だと知ったみたいで、これを渡してくれと」
それを聞いたニルはしばらく考えんで居たが、やがて、口から漏らすように笑い始めた。誰かを馬鹿にするようでいて、敬意を表すような、そんな相反する意味が込められた笑い声だ。
笑い声はしばらく続いたが、やがてそれは終わった。代わりに、そこには別種の笑みがあった。何かを思いついたような笑みだ。
「これだよ、私の父親をダシにして連れてくればいい。大丈夫だ、『ついで』とはいえ本当に父親の事もあって連れて行くからごまかせる」
その言葉に、奇矯は思わずニルへと抱きついていた。
そして、二人は打ち合わせを終えるとふと駿我の事を思い出したニルが時間をかけすぎるのはまずいと言って奇矯に一言告げるとその場を後にしようとした。
そんなニルを奇矯は少しだけ引きとめ、最後に一言物を聞いたが、ニルは不敵な笑みを浮かべつつも無言で首を振ってその場を後にした。
奇矯もまた、ほんの僅かに肩を落としたが、気を取り直すとその場を後にした。
奇矯の質問はこうだった。「私以外に人を斬ったりして回ってる鎧武者、見たことありませんか?」と、声の中に僅かな、怒りを込めて。
「馬鹿だな……私がお前を死なせるわけないだろう……追い詰められすぎだあの馬鹿」
ニルの発した一言は、奇矯に届く事無く空に消し去られた。
そして、時は恭助が斬られた所まで進む。
『世界』のどこか 霧の中
凄まじい勢いで路地裏へと飛び込んだ奇矯は唐突に現れた霧になどまったく気を払うこと無くひたすら前へと進んでいた。
彼女は怒っていた。友達である恭助を斬った、という事への怒りもあったが、それ以上に『鎧武者の格好をした何者かが人を斬った』という事に激怒していた。数日前にジェラルドが鎧武者に斬られた時、偶然そこに居た奇矯は知ったのだ。
自分以外に鎧武者の格好をした者が居て、実際に人を斬っている。という事に。確かに彼女は噂に出てくる鎧武者に憧れていたが、それはあくまで噂の中の存在だったからだ。実際に自分とまったく同じ形の鎧を纏い自分とまったく同じ殺気を振りまいている存在を見つけた時、彼女が感じたのは怒り以外の何でもなかった。
霧が発生した事も、ニル達が自分を追ってくる事も、この時の彼女には何も考えられなかった。怒りが強すぎて、それ以外の全てが吹き飛んでいるのだ。そんな彼女を霧の全てが見つめていたが、その視線にも奇矯は気づかない。
そして、怒り狂う奇矯が霧の中心部に招かれるように辿りついた時、そこにはまったく同じ姿をした奇矯が居た。だが、それすら思考に入れること無く彼女は鎧武者が『わざと』の落とした刀を凄まじい速度で振るった。しかしそれでも目の前の奇矯は斬られる事無く最小限の動きで刀をかわしてみせる。
避けられた事を一顧だにもせず奇矯はまた刀を急加速させてもう一人の奇矯へと斬りかかる。刀は凄まじい勢いでもう一人の奇矯へと向かっていったが、その奇矯は余裕の笑みを見せると、体をほんの少し動かして器用に片腕だけを斬らせた。
刀を持っている奇矯はもう一人の奇矯の腕を自分の手で落としたその瞬間我に返って震えた。刀を持たない時は扇を武器としていた彼女にとって人を実際に斬るのは久しぶりだった、目の前の自分から腕を奪うその感触は奇矯に吐き気を催させたが、それ以上に、長らく我慢してきた何かを吐き出したような爽快感を覚えさせていた。
そんな快感を覚えている自分に気づいて奇矯は手に持つ刀を見た。凄まじい勢いで振るわれた一斬だった為に刀には血がまったく付いていないが、奇矯の目にはおぞましい自分の罪そのものに見えている。そんな苦しむ彼女の姿を、もう一人の奇矯は愉快そうに微笑んで眺めていた。
その時点で、奇矯にはその『自分』が何者なのかが理解できた。いや、実の所、斬った瞬間には理解できていた。奇矯はなんとか人を斬った事への感情を抑え代わりに怒りを込めた瞳で口を開く、体は未だに怯えるように小刻みに震えていたが、彼女はそれを意識しなかった。
「何故、あなたが私の格好をして私の代わりに誰かを斬ってるんですか……いえ、こんな事がいえる立場じゃないかもしれませんが……答えなさい! あなたなんでしょう! 『エィスト』!」
その言葉を聞いた時、もう一人の奇矯は本物らしからぬ愉悦を込めた笑みで拍手をする。何故か、その拍手の音は霧からも聞こえてくる。奇矯の格好をした者の拍手が楽しかったという賞賛なら、霧が発する拍手の音はどこか馬鹿にしたような雰囲気が含まれていた。
だが、そのような事を奇矯は気にはしていない。その様子を見て残念そうに奇矯の姿をした者は肩を落とした。片腕が無くなっているが、それを意識する様子すら無く奇矯に近寄ってくる。奇矯もまた、その存在に近づいていき二人が目の前まで来ると、奇矯の姿をした者が口を開いた。彼女の印象とは違う、愉快そうな声で。
「ふふ、大っ正解! 凄いねー本当に凄い勘だよ君! ああそんなに睨まない睨まない」
奇矯とまったく同じ声でふざけた態度を取るエィストを、奇矯は思わず殴っていた。殴られたエィストは奇矯の姿のままで壁まで吹き飛ぶとコミカルな動きで壁から抜け、頬を膨らませて奇矯を見つめた。
まったく同じ外見ではあったが、誰がどう考えても別人と分かるほど態度の違うエィストに奇矯は呆れて溜息をついた。先ほど感じていた怒りがなぜかかなり弱くなっていたが、エィストが何かをして自分の怒りを静めた事に気づいてもう一度呆れの溜息をつく。
「はーい! 溜息ばっかりついちゃだめー、幸せが逃げちゃいますよー!」
「あなたのせいで私の幸せは毎秒逃げ続けていますけどね。正直、私と同じ外見でその態度はやめてほしいんですが」
「同じじゃありませんよー」
「どこが、ですか?」
苛立ちのこもった奇矯の声にエィストは悪戯っぽく微笑んだ。だが、奇矯はなぜか嫌な予感を覚えている。次エィストが話す言葉が自分の心を傷つける、そんな予感がするのだ。
「……腕を斬っておいてよくもそんなことが言えますね、どう見ても違うでしょう? ほら、あなたが斬った腕はここに転がってますよ」
斬りおとされた腕を手に取り、奇矯と同じ口調、同じ雰囲気で発せられたその言葉に、奇矯は心を抉られる気分を味わった。自分が自分に責められるというのは奇矯にとっては始めての経験だったが、その言葉は確実に彼女の心に毒を流し込む。
明らかに肩を落として落ち込む奇矯の反応を見たエィストは何故か慌て始めた。先ほどの雰囲気はどこへ行ったのかと言いたくなるほど動き回り、当然のように斬られた腕を消すと体に腕を作り出し、その腕を奇矯の目の前に上げて微笑む。
「ほらほら、腕ですよー。君は私の腕を斬ってなんかいませんから、だから、落ちこまないでね」
機嫌を直してくれただろうかと不安そうに何度も尋ねるエィストの態度に、どこかで似たような会話をしたような覚えのあった奇矯は落ち込んだ気持ちを仕舞い込んで考えた。答えはすぐに出た、恭助だ。
丁度、はじめて会った時の恭助と目の前の自分と同じ姿形をしたエィストは本当によく似た雰囲気を放っていたのを思い出した奇矯はそれを口に出していた。
「……本当によく似てますね、恭助君も私を慰める時の態度はそんな感じでした」
「んんん? え? あ、そうなの? 恭助君奇矯ちゃんといつのまにか仲良くなっちゃって羨ましい」
「そんな私の大切な友達の恭助君を斬ったのはあなたでしょう?」
攻めるように怒りのこもった視線を向けられたが、エィストは気分が良さそうにそれを受け取って奇矯に背を向け、声を上げて笑ったかと思うと笑い声を消し去ってまた奇矯の方へと顔を向ける。
「大丈夫、あの子はそれくらいじゃ怒らないよ。何せあれくらいは日常茶飯事だ、前なんて」
「話さなくていいです。多分恭助君から聞きました」
エィストはそれを聞いて残念そうにしたが、奇矯の非難の視線は止まらない。むしろエィストの楽しそうな態度にさらに怒りを強めている。先ほどエィストによって鎮められた怒りの分も少しずつだが戻ってきているような気がしてエィストは慌てたように口を開いた。
「ストップ! ストップ! 私はただ君の願いを聞くためにだね、恭助君を、うん、これは仕方ないことさ!」
「何の関係が、あるんですか?」
冷たい声にエィストはわざとらしく体を震わせているが、やがて調子を上げて話す。
「そりゃ勿論、君をここへ連れてくるために刺した! 私だって慣れた相手の恭助君以外を刺すなんて嫌だったからねー、ニル君は刺さらないし、ジェラルドは後が怖いっていうのもあるんだけど!」
理由を話すエィストの顔は楽しげですらあった。その言葉を聞き態度を見て奇矯の怒りはまた高まっていく、許す理由にはならないとエィストが話しているのを無視して口を挟もうとしたが、その前にエィストは何時の間にか奇矯の目の前に現れて指を彼女の唇に置く事で言葉を止めていた。
奇矯の心の中を読んで動いたエィストの得意げな顔に彼女は何時の間にか指を置かれた事への一瞬の戸惑いを捨て、エィストに言葉を投げかけるために口を開こうとしたが、その頃には既にエィストは目の前から消えていた。
一体どこに行ったのかと周囲を見回したが、そこには誰も居ない。霧から何者かの視線を感じていたが、エィスト自身の姿はどこにも無い。だが、次の瞬間には奇矯の感覚は背後に何者かが現れた事を告げていた。
「君は、『死ぬ場所をくれ』と頼んだね? ここだよ?」
奇矯が背後へ振り向くよりも早く奇矯の姿のエィストは彼女の肩へ後ろから両手を置き、当然の事を確認するように言葉をかける。奇矯は硬直していた。言葉に硬直したのではない、エィストに手を置かれた瞬間背後を振り向く事が出来なくなっていたのだ。
それでも力ずくでエィストを振りほどき、背後を振り向くとそこにはやはり誰も居ない。また気配すら消えた事を理解し、今度は気配が現れる前に背後を、先ほど前向いていた方向へ振り向くとやはりそこにはエィストが居た。
エィストは振り向かれた事を若干残念そうにしていたが、それとは関係無く次の言葉を告げる。
「ここさ、君の死に場所は。今、駿我君が君を追いかけて霧の中に入ってる。ニルとジェラルドがこの霧を突破するまではまだ時間がかかりそうだし、どうする?」
「……どうする、とは?」
「わかるだろう?」
エィストに確認されるまでもなく、奇矯はエィストが言っている事が理解できていた。つまり、ここで駿我に斬られる道もある、と彼は告げているのだ。奇矯は思わず先ほどまでの怒りを静めて考え込む。確かに、今は最大のチャンスだった。
鎧武者を追っている奇矯を、駿我は追ってきているらしい。ならば自分が鎧武者の格好をすれば駿我に自分を斬らせる事も可能ではないか、と彼女は考えていた。だが、それには問題がある事に気づいてエィストの方を見る。
何か問題があったのかとばかりに首を傾けるエィストに奇矯は困ったような声を上げた。
「……私が鎧武者の格好をしたとして、奇矯は、つまり私はどこへ行ったと駿我さんは考えると思いますか? 考えるまでもない、私が鎧武者だと気づかれてしまいます」
「いや、大丈夫でしょう? 何せ奇矯はここに居るじゃない」
エィストは自分を指差した。確かに、雰囲気も仕草も姿も完璧に奇矯になっている。口調を彼女の物にすれば完璧に本人と同じ人間になれるだろう。が、奇矯は首を振っていた。
「絶対に気づかれます、駿我さんの勘は鋭いみたいですよ? それに、私の雰囲気にも気づいているはずです。さっきも言いましたが二度言います、絶対に」
「君は何を言ってるんだい?」
意味がわからない、とばかりに首を傾げるエィストに、奇矯は心を抉られた言葉が出る前と同じような嫌な予感を覚えていた。エィストは奇矯の姿で笑みを浮かべ、奇矯を眺めた。その目はどこか苦しむ奇矯を面白がっているような色が見られる。
「ふふ、鎧武者が奇矯を殺しちゃうのさ、そして、怒り狂った駿我は鎧武者へ斬りかかる……と思うね、それに、それくらい怒ってる奴を騙すのは容易い」
奇矯の嫌な予感はあたっていた。エィストの話す内容の通り行動するなら、つまり、それはエィストを斬る、という事なのだ。先ほど斬った腕の感触を思い出して奇矯は思わず吐き気を堪えた。冗談じゃないという意思を込めた視線をエィストに送ったが、それはまったく無意味な事だ。
なぜなら、吐き気をこらえた時既に奇矯は鎧武者になっていたのだ。無意識の内に彼女はエィストの隣に何時の間にか置いてあった鎧を凄まじい速度で着ていた。それは本人ですら知覚できないほどの速さだったが、エィストには知覚できていた。
それに気づいた奇矯はまさかエィストが自分に鎧を着せたんじゃないかと疑いの目を向けたが、エィストは楽しそうに首を振る。そこに真実味を見た奇矯はうなだれた。どうやら、彼女は無意識の内にエィストを斬ろうと動いていた事を認めたようだ。
だが、奇矯は動きそうになる刀を理性で抑えていた。エィストとはいえ、『怪物』とはいえ、奇矯にとっては斬りたくない相手である事には変わりない。困惑し、苦しむ奇矯だったが、それでもエィストは彼女から殺気を覚えていた。
どんどん強くなっていく殺気にエィストは思わず体を強張らせるが、奇矯が何時までたっても斬らない為に声をかけた。
「恭助君の分の怒りもこめてほらほら、思いっきりやっちゃいなって。大丈夫、死なないし痛くないし苦しくも無いから」
その声はふざけていたがどこか優しく、奇矯を受け入れるような雰囲気があった。その雰囲気に奇矯はより斬りたくないという思いを強める。だが、エィストはそれを読んでいたのかにっこり微笑むと奇矯へと近寄り、肩に触れるとまた同じ場所に戻った。
何をしているのかと一瞬考えた奇矯だったが、その瞬間、身を砕くような恐ろしいほどの怒りに彼女は支配されていた。何をしたのかと怒りをなんとか押さえ込みエィストを睨むとエィストは得意げな顔をしてみせた。
「驚いた? 私はね、人の心を縛るのなんて大嫌いだし、そもそも君くらいの強い子の心を完全に支配できるはずがないじゃないか。私はね、君の怒りを、溜め込ませただけなんだよ?」
楽しげな顔をするエィストを見て、奇矯は自分の怒りが押さえ込めない事を核心する。そこで彼女は何とかしてエィストに離れてもらおうと怒りに震えつつもこの場から離れるようにエィストに告げたが、彼はそれが聞こえなかったように無視した。
エィストは、何故か先ほど落とされた方の腕を自分で取り外すと楽しげな顔を強めた、自分が斬られる事ですら自らの享楽の対象でしかないと言いたげに奇矯の頭へ、正確には被っている兜へと手をやり、それを撫で回し、口を開く。奇矯が怒るであろう、一言を。
「あ、そうそう。もしも恭助君が駄目だと思ってた時は斬られたのは……ニル君だったんだよ? 君の親友を斬ったら君どんな顔するかなーと思ってさ!」
先ほど言った『ニルは斬れない』というその言葉と完全に違う一言、だが、奇矯はそれに気づきつつも何も言う事が出来なかった。その一言に不快感を覚えた彼女は怒りを強めてしまっていたのだ。押さえ込んでいた理性はそれを抑えきれなくなり、彼女は殺気と怒りの導くままにエィストへと刀を向け、突きを放つ。
心の底で、自分を呪う言葉を山のように吐きながら。
そんな一撃を、エィストは微笑んで受け入れた。
心の底で、奇矯を自分の遊び道具にした事の罰だと考え。それすらも、楽しみつつ。
奇矯の姿をしたエィストに刀が突き刺さった瞬間、駿我が霧を突破して奇矯の前に現れていた。奇矯は怒りが静まっていた、溜め込まれたわけではない。エィストを刺した瞬間に感じたのは自己嫌悪と、やはり自分は死ぬべきだという確信だった。
迷いを捨て去る為に奇矯は自分と同じ姿をしたエィストを投げ捨てる。自分を捨て去る事で自分の気持ちを集中させるために。
その瞬間、駿我が奇矯へと斬りかかっていた。エィストの予想通り、鬼気迫る雰囲気で。
奇矯は、できるだけ怪しまれないように殺気を放ちながら刀を振るった。
『世界』のどこか 15:55
ニルが叫んだ瞬間、血が噴出していた。そう、駿我の血が。
それを鎧を着た奇矯が認識した時駿我は膝をついて血を流し、こちらを慌てて振り向いた奇矯の姿を見つけて、ニヤリ、と笑う。奇矯は駿我の態度に言葉には出来ない何かを覚えていたが、我に返り駿我の元へ駆け寄る。
だが、駿我が何事か言いながら持っていた刀を鞘に納め始めたその時、奇矯はなぜだか足を止める事となった。駿我は言っていたのだ。口から血を流し、肩に深い傷を負いながらも悪戯が成功した子供のような声で。
「残念ながら、拙者の、勝ちだ。なあ……奇矯、さん」
と。そして、その言葉と共に鞘へ刀が納まり、同時に奇矯の刀と兜が完全に両断されて彼女の体から落ちた。兜は真ん中から綺麗に二つに別れ、刀は丁度半分の所で断ち切られ、奇矯の手には柄と半分だけの刃を残すのみとなっている。
奇矯は呆然と自分の持つ刀だった物を見つめた。刀の半分が落ちたその瞬間まで自分が発していた殺気は完全に消えていた、まるで、刀に支配されていたように完全に消えていたのだ。だがそうではないと奇矯は感じていた、刀が落ちた時に感じたのは、紛れもない喪失感だったのだ。
だが、奇矯は考えている暇など無い事を理解していた。何せ自分が斬った、いや、駿我は彼女の刀と兜だけを断ち切る為にあえて凶刃を受けたのだ。それを理解した彼女は駿我を助け起こそうと近寄ったが、同時に駿我から感じられた鬼気に二の足を踏む。
そして駿我は自分の足でふらつきながらも立ち上がり、刀を杖代わりにして体を安定させる。
「拙者は、同類としてお主の自殺に付き合ってやるのも良いと思っていた……だがな。だが、今は駄目だ……やっぱり無理でござった」
「……気づいていたんですか、私が鎧武者で、私が死ぬ事を望んでいると、はじめから」
肩を落とし、諦めた声を発する奇矯に、駿我は悪戯っぽく微笑んで首を横に振った。違うという意味を受け取った奇矯は思わず困惑する。ではなぜ駿我は鎧武者の正体に気づけたのかと。そんな視線を受けて駿我は種明かしをする事を楽しむように笑った。
「拙者はただ、お主の剣を受けて理解しただけでござるよ、ああ、この剣は奇矯さんの物だという事を」
駿我は、彼女の正体と悩みを理解していた。刀を受けたその瞬間に彼は違和感を覚えた。鎧武者は無意識なのか腰や片手を庇うような動きをしているのだ。その姿に先ほど鎧武者自身が刺した女性の事を思い浮かべて、駿我はひらめきを覚えた。
彼の勘と経験と奇矯との記憶が確信を届けていたのだ、目の前の鎧武者は奇矯だと。そして、彼女の悩みとは一体なんだったのかという事にも。とはいえ動きを緩める事は無い、目の前の者が奇矯であったとしても刀を向けて挑まれたのだ。駿我はそれを返さねばならないと考えていた。
だが、そこまで至った時、駿我は斬りあいつつも考えていた。転がっている奇矯の正体を。それを探ろうと鎧武者に気づかれないように僅かにそちらへと目をやったが、どこを見ても奇矯本人にしか見えないのだ。だが駿我の勘と経験は鎧武者を奇矯だと言っている。
内心の迷いを隠しつつも鎧武者の剣を受けていた駿我は、丁度鎧武者が奇矯のような者に背を向ける格好になった時、確かに見た。胸に穴が開いた奇矯が閉じた目をこちらにしか見えないようにそっと開き、ウインクをしたその瞬間を。それを見て、さらにその時気づいた事を踏まえた駿我の考えは固まっていた。
絶対に、彼女を斬らない、と。
「それでも、私を斬らない理由にはならないはずです。さっきあなたが、言ったじゃないですか」
その経緯を知らずなぜ死なせてくれなかったのかという意思を込めた目を見せる奇矯に対して駿我はやはり余裕の表情を浮かべている。なにやら、そこに自分をからかうような雰囲気を見た奇矯は少しだけ不機嫌そうになったが、そもそも駿我を斬ったのは自分なのだと思い出して何も言わない。
それ所か思い出してしまった事で奇矯の体は震えていた。エィストの片腕を斬った時とは比べ物にならないほどの絶望感が彼女を襲っているのだ、その苦しみを見て取った駿我はからかうような雰囲気を消し去り、真剣に話す。
「殺気があっても殺意が無い、そのくらい、気づくでござるよ」
今も血を流し続けている駿我の言葉に奇矯は肩を落とした。確かに彼女は殺気を振りまいていた。近寄った者全てを消し去らんばかりの物だ。そのためにそれを感じた者は皆自分への殺意だと受け取っていたが、駿我は違う。
同類である彼は奇矯自身の事はよくわかっていなかったが、自分自身の事はよくわかっていた。そのため自分の感じる物がただ巨大なだけの殺気であり、自分を殺そうという意思など欠片も感じられない事に気づけたのだ。駿我は、その時に奇矯を斬らない事を決めていた。殺しに来たわけではない相手を斬る意味など、どこにも無いと考えて。
その為に駿我は彼女の刀を斬り、ついでとばかりに顔を晒して確かに奇矯なのだと確認をするために兜を斬った。その途中で奇矯の持つ刀が自分の肩を斬っていたが、彼はそれを一顧だにしなかった。その結果、奇矯の心には深い傷をつけてしまったが斬らなかった事は良かったのだと彼は安堵していた。
なぜなら奇矯は刀が半分になったその時、重いものから解放されたように殺気を消したのだ。表情では喪失感を見せていたが、内心ではどこか安堵したような雰囲気があることを駿我は見抜いていた。もちろん、少し離れた所にいるニルも見抜いていたのだが。
そして駿我はその経緯をかいつまんで奇矯に話した。所々面白がって冗談を混ぜて話していたのだが、奇矯の表情はそれを聞くにつれてどんどんと暗い物を宿していく。駿我は内心で頭を抱えた。先ほどから出血のせいか意識があまり定まっていないのか、たまにふらついている。
その度に奇矯は自分の暗い雰囲気を一度消し去って駆け寄ろうとするのだが、駿我もまた同じように鬼気を放ってその足を止めて、奇矯を同じ場所まで下がらせていた。そんな態度に横で見ていたニルが溜息をついていたが、二人は気づかない。さらにその隣ではジェラルドが奇矯の所へ行きたそうに体を前のめりにしていたが、ニルが隣へ手を伸ばし彼の前に置く事でそれを静止していた。
駿我はあまり定まらない頭で考えていた。奇矯が死なないためにはどうすればいいのか、と。目の前の奇矯は先ほどから自分に駆け寄ろうと近寄ってはくるのだが、そのままただ自分を運ばせただけで終えては解決にはならないと駿我は確信していた。
ならばどうするともうろうとする頭で考え続けた駿我は単純な手を思いついた。単純故に効果的な手段だ。すなわち、説得である。
「なあ、奇矯さん。拙者は同類としてお主の気持ちがわからんではない。だがな、何故お主が死ぬ必要がある?」
その言葉を聞いた奇矯は心に何かが打ち込まれたような衝撃を覚えた。他の誰の言葉よりも、『同類』からの言葉は彼女に強く伝わっていた。だが、彼女はそれでも折れなかった。
「私は自分が嫌いです。こんな、誰かを斬らないと生きていけないような中毒者の自分が嫌いです。でも、でも……変えられない! どう変われば私は……私は……!」
言葉の最後には何かに耐えられなくなったように奇矯は叫んだ。自分を呪う絶叫だ、その声にジェラルドは悲しそうな顔をしたが、ニルは満足げに微笑んでいた。計画がうまくいったという笑みだった。駿我という同類ならば言葉が届くと考えた彼女は正しかった。
ニルの狙いは始めからこれだったのだ。ニルは性格上奇矯を立ち上がらせる事はできても奇矯の意思は曲げられなかった。ニルは彼女の精神性を彼女本来の物から変えてしてしまうだろうと考えていた。だからこそ、奇矯には同類の言葉で納得して心を曲げさせようと考えたのだ。
微笑むニルの前で二人の話は続いていった。奇矯は血を吐くように声を出し、駿我は実際に血を吐きつつ声を出す。ある意味こんなところまで同じかとニルは内心で声をあげて笑った。
「だったらどうすればいいんですか私は! 私は誰も斬りたくない! だからあなたという同類に斬られて終わりたいと思った!」
「生きてみればいい! 生きていれば見つけられる物もある! もし無かったとしても問題あるまい! ニルと拙者が居るからな!」
「嫌です! あなたには私の悩みも苦しみも理解できているんでしょう!」
「お主の都合や悩みなど理解していたところで知るか! 拙者はお主を斬るなど断固拒否するでござる!」
絶叫するような奇矯の声と血を吐きながら叫ぶ駿我の声、二人の言い争いは数分間続いたが、やがて駿我が血を吐いて倒れかけた事でそれは終わりを告げた。奇矯が駆け寄ろうとした所でまた駿我が鬼気を出してそれを止める。
奇矯は実の所、駿我の言葉の一つ一つが魂に響いてくる事を感じていた。彼が生きればいいと言ったその瞬間、自分の中にもう少しくらい生きてみようという意志が微かだが現れた気がしたのだ。他の者と話している時には動かなかった自分の魂が動いていた。
それに気づいた奇矯は内心で恐怖した。自分が生きていればいつか誰かを斬ってしまうかもしれないと、そう考える彼女の心の中に自分の命という言葉は無かった。ただ、一つの望みとして『斬られてもいいという相手に斬られたい』という意思だけをこめて自分を殺そうとしていた。だが、それは駿我の言葉によって曲がりかけていた。
彼女は自分が生きて誰かを斬る事を恐怖していたのだ。彼女は自分の命よりも心の平穏を取っていた、そのためならばと彼女は持っていた半分の刀を見つめ、そして考える。これでも充分に自分を刺す力くらいはあるだろう、と。
そして、彼女の意思を見抜いた駿我は慌てて立ち上がろうとして倒れこんだ。彼自身が思ったよりも傷は深かったのだ。ならばとニルの方向を見て助けを求めたが、彼女はこちらを見ていない。奇矯が神速で自らの胸に刃を向けて、勢い良く胸にめがけて動かした。
だが、その半分の刃は奇矯の胸を貫く事無く、別の何者かの手の平を貫いて止まっていた。奇矯を背後から抱きしめた、何者かの手だ。
奇矯は驚いて背後へと視線をやると、そこにはニルでもなく駿我でもない者が居た。
つまり、ジェラルドだった。彼は奇矯が刃を自分の胸に向けた瞬間、エィストだった鎧武者を殴りつけた時と同じくらいの速さで彼女の背後へ移動すると奇矯を優しく抱きしめ、手を胸の前に突き出して刃を止めていた。
ジェラルドは刃がこれ以上動かないようにと刺さった刃をさらに深く刺し、柄の部分に手をやると丁寧な手つきで奇矯の手から刀だったものを離させる。そして、安堵の息を一つ吐いて喜びを込めた笑みを浮かべて奇矯に話しかけた。
「約束通りだな、今度は優しく抱きしめたよ」
「……ッ! どうして、そんな事を!」
奇矯の言葉にジェラルドは首を傾げた。だが、しばらく考えて自身の手の平に刺さっている刃の事だと気づいてそれを手から外し、地面に放り投げ、手を再度奇矯に見える位置に置く。
刃が刺さっていた場所にある穴が開いたかのような傷から奇矯は一瞬目を逸らした。だが、そこには既に彼の手があった。今彼女の視線に入っていたものとは違う、傷一つ無い手が。
「君はな、気にしすぎなのさ。我々『怪物』はこの通り、斬られようが吹き飛ぼうがこの世から消えてなくなろうが『終わらない』し、たとえ君に斬られてもにわか雨程度にしか気にしない。知っているんだろう?」
「ええ、知っています。知っていますが、私は……それでも、誰も、斬りたくないんです」
ジェラルドは大仰に嘆いて見せた。奇矯はただ説得しただけでは変わらないと理解し、彼はある決意をする。
「……あー、確かに君は頑固なようだ。では、言葉を変えよう」
先ほどとはまた雰囲気の違う真剣さを持った表情に奇矯は困惑した、彼女の勘は特に悪い物を告げていなかったが、それでも彼の次に言う言葉が自身にとって何らかの影響を与える事だと理解できた。
ジェラルドは背後から抱きしめていた腕を離し、奇矯の目の前へと立つ。その顔にはどこか言いにくそうな、恥ずかしそうな色が見えていた。
「実はその、だな……あー、うん。クソう、なんだこの照れくささと恥ずかしさは」
視線を様々な方向へとやったかと思うと、ジェラルドは自分の頭へと手をやり恥ずかしそうにする。その姿に駿我とニルはジェラルドが何を言おうとしているのかにすぐ気づく事ができた。というよりも、誰でもわかるだろう。
だが奇矯は気づかないようで困惑を隠せないという表情を浮かべてジェラルドを見つめていた。
そして、しばらく落ち着きの無い様子で動き回っていたジェラルドはついに決心したのか、奇矯の方を向いて微笑んだ。顔を、真っ赤にして。
「その……実は、私は……最初に見た時から君の事が……だな……いやその、好意を抱いていたというか……」
そこまで聞いてようやくジェラルドの言わんとする事に気づいたのか、奇矯は顔どころか首まで真っ赤にし、奇矯の反応を見たジェラルドもまた顔をさらに赤くして顔を見合わせる。
何時の間にか駿我の側に居たニルが今にも笑い転げそうな雰囲気を発し、駿我に慌てて止められつつそちらを見ていたが、それに気を払う余裕すら彼女達には無かった。
「いいさ、私は君の友達でいい。だから、せめて生きていて欲しい、とは思うがね」
「わ、私は……」
「気にするな、それにな、君が死ぬ時はついでに私と恭助が死ぬ。我々に死んで欲しくなければ、その中毒、治して欲しい」
奇矯は混乱していた。ジェラルドの言葉が冗談の入り込む余地の無い本気の言葉だという事は理解できたが、何故そうなったのかが理解できていなかった。
それでも、奇矯には理解できることがいくつかある。ジェラルドは自分に生きていて欲しいと思っている事や恭助とジェラルドが自分の後を追う危険がある事だ。
これがニルの言葉であれば冗談と判断していただろう、彼女はどうあっても死なないし消えないのだから。その意味では『怪物』であるジェラルドと実際に死なない恭助の二人も同じだったが、奇矯は彼らを完全には理解していなかった為にその言葉の真実味を受け取って苦しんだ。
何よりも、奇矯には死ぬ以外の方法が考えられなかったのだから。それに気づいたジェラルドは困ったような顔をした、告白すら彼女を変えられないならば彼にはそれ以上奇矯を変える言葉を持っていない。
だがそんな彼女の思いを砕くためにジェラルドを退けて、その言葉を持つ者が現れた。駿我だ。ニルに肩を借り、意識が定まらないのか目の焦点も合っていなかったが、それでも強い意志を感じさせる雰囲気を放っている。
そして駿我は奇矯の元へ近づくと、彼女へ手を伸ばし、微笑んだ。
「同類として、共に……変わっていこうじゃないか、なあ奇矯。拙者は、俺は……お前と、ニルと、それにおまけ二人と仲良くやっていきたいんだ……」
完全に素の口調になっている駿我は、この時初めて奇矯の事を呼び捨てにした。ニルを呼ぶ時と同じ、心からの親愛を込めた言葉で。おまけ二人というくだりでジェラルドが嫌そうな顔で駿我を見ていたが、彼は奇矯の表情を見てそれを止めた。
そんな二人の言葉や行動を見て聞いた奇矯は自分の意思が変わりかけている事を理解し、助けを求めてニルの方を見ていた。そして、ニルの目が意味有りげに笑っている事に彼女は気づく。そしてようやく思い至った。ニルが、親友を死なせる事に協力するはずが無い。という事に。
親友の思考にも至れなかった自分は多分混乱しているのだろうと理解し、奇矯は思わず溜息をついていた。この瞬間、彼女はこの場で死ぬ事を諦めていた。
彼らの言葉は無駄ではなかったのだ。奇矯はジェラルドの告白と駿我という同類からの言葉で、確かに変わっていた。そう、もう少しだけ、生きてみよう。と。奇矯は、駿我の手を取った。
「……私は、今でも誰かを斬りたいという欲求があります。でも、もしかしたら、皆さんなら私を変えられるかもしれませんね」
その言葉を聞いたニルは内心でガッツポーズをし、駿我はもうろうとした頭で喜び、ジェラルドは思わず奇矯をまた抱きしめた。が、顔を真っ赤にした奇矯の姿に慌てて離れ、二人で顔を見合わせて笑いあった。
そしてその瞬間、駿我は倒れこんでいた。
奇矯とジェラルドとニルの三人は慌てた。駿我の顔色は明らかに悪い。むしろ、死んでいるといわれてもおかしくないほどの状態だ。そのままでは明らかに死んでしまうだろう。
そんな駿我を奇矯とジェラルドが肩を貸し、ニルが駿我の体調を確認しつつ歩こうとしていたが、目の前から来た何物かによってその足は止まった。彼らの目の前に居るのは、恭助と猫だった。
「恭助君! 駿我さんを治せる場所、知りませんか!」
奇矯の慌てる声に恭助は安堵の笑みを浮かべ、何も言わずに腕の中にいた猫を手から離す。すると猫は彼から離れ、駿我の元へと近寄って前足を置くと、駿我の傷は全て始めから無かったかのように消え去っていた。
ジェラルドと奇矯とニルは息を呑んでいたが、我に返って駿我の状態を確認する。すると、駿我は少しだけ目を開けて三人に笑いかけてから気絶した。一瞬奇矯とジェラルドは慌てたが、ただ気絶している事に気づくと安堵の溜息を漏らす。隣では何かを納得したような顔でニルが慌てずに猫を見ていた。
猫もまたニルを見つめている、が、しばらく見詰め合っていたニルは何事かに気づいた顔をし、身を翻してどこかへと歩いていこうとした。そんな姿に奇矯とジェラルドが慌てて彼女の前に出る。なぜか恭助は納得した顔で止めなかったが、二人は気づかなかった。
「どうしたんですかニル? 駿我さんを置いていくんですか?」
「それは流石に酷いんじゃないか?」
非難めいた口調の二人の言葉をニルは笑って受け止めた。だが、止まるつもりは無いのか足を進めてもいる。そんな彼女の様子に何かを感じ取った奇矯はニルの隣まで行くと声をかけた。
「何か、気になった事でもあったんですか? 駿我さんよりも?」
「ああ、気になった。駿我がこうなった原因の一端の事だ」
奇矯は首を傾げた。原因は間違いなく自分だが、ニルがそういう意図の発言をしたわけではない事は分かっていた。
だがそれでも駿我を斬った感触を思い出し顔を青くしたが、それに気づいたジェラルドとニルが彼女の肩へ手を置いて慰めた。二人の気遣いに気づいた奇矯はすまなそうな顔をしたが、それよりもニルの話が気になったのかニルの方へと顔を向ける。
「……君に刺された奇矯、見てわかったが中身はエィストだろう? という事は、君じゃない鎧武者の正体も、エィストだったんだろう?」
奇矯は頷いていた。確かに、エィストが彼女がここに来るようにした事も、彼が鎧武者だった事も事実だった。そこまで考えて、奇矯はまだ何故エィストが鎧武者になっていたのかを聞いていないことを思い出した。
その時は精神的に追い詰められていたのとエィストがその話題を避けた為に彼女は結局エィストにその事を聞きそびれていた。では聞こうと壁に叩きつけた詫びをかねて奇矯の姿をしたエィストの居た方向を見たが、誰も居ない。何時の間にかエィストは消えていた。
エィストの居た方向を見つめて困惑する奇矯の表情からニルは彼女の考えている事を察して微笑む、奇矯には微笑みの意味が理解できた。『これが理由だ』、と。
視線を受け取った奇矯は笑顔を見せると、「お詫びとお礼をしておいてください」とだけ言って納得した顔で駿我を運び出す。ジェラルドは奇矯についていく方を選んだらしく、駿我を運び始めた。が、何かを思い出したという顔でニルの方へ顔を向ける。
「ああ、エィストな、一発殴っておいてくれ。いや本当に」
「わかってるわかってるさ、安心しろ」
「ニル、あんまり酷い事はしないであげてくださいね」
「大丈夫だ、きちんと伝言は伝える。おっと、駿我は大事に運べよ? 私の親友なんだからな」
「私の、じゃないですよ?」
その言葉にニルは疑問符を頭に浮かべたが、次に奇矯が言う言葉で納得した。
「これからは、私『達』のです。私も駿我さん、いえ、駿我の親友に、『共に変わっていく』親友になります。もちろん駿我が良いと言ってくれればですが」
奇矯の言葉を聞いたニルは納得すると同時に笑って、『大歓迎だ』という意思を込めた瞳を奇矯に向けるとその場から消えった。
ニルが消えてから数分後、残った恭助と奇矯とジェラルドはその場を後にし、真ん中に恭助、その左右に奇矯とジェラルドの順で並び、路上を歩いていた。
結局、駿我はジェラルドが抱える事になったらしく、彼はたまに片腕に来る重みに面倒くさそうな顔をしつつも楽しそうに笑っている。重みを面倒とは思っても、苦とは思わなかった。強い膂力を持つ彼にとって人一人くらいの重みは大した物ではないからだ。
奇矯は纏っていた暗い雰囲気を消して楽しげに微笑んでいた。そんな二人の姿に感動した恭助の嬉しそうな声音が彼らの耳に届く。
「さて、今日僕らの身に起きる事は多分、全部終わったね! 後は駿我さんをベットに放り込んで、僕らも家に帰るだけ!」
奇矯とジェラルドはその言葉に、『この子も何か知ってたんだろうなあ』と内心で考えてはいたが、ジェラルドはエィストの姿を思い浮かべ、奇矯はニルの姿を思い浮かべてあえてそれを口にする事は無かった。
二人の態度に恭助は首を傾げていたが、それは置いておく事に決めたのか二人に笑顔を向ける。すると、何を思ったのか奇矯が恭助とジェラルドの間に入り、両手を二人の手の方向へと持っていった。
奇矯の急な行いに二人は思わず困惑を表情に浮かべたが、奇矯の声でそれは喜びの笑みに変わった。
「手、繋ぎませんか? なんだか今は無性にそうしたい気分なんです」
「……い、いいですけど、それって駿我さんとかニルさんの役目なんじゃないかな?」
口ではそう言っていた恭助だが、手は既に奇矯の手を握っていた。そんな彼の行動に奇矯は悪戯っぽく笑い、「体は正直ですね」と言うとその手を握り返す。恭助は思わず赤面し、片方の手を頬にあてて恥ずかしがっていた。
一方、奇矯のもう片方の手が近くにあるジェラルドはなんとなく気後れを感じていた。先ほど、少し遠まわしだったが告白をしたばかりなのだ。ジェラルドは本当に手を握っていいものなのかと考えていた。
だが、彼は奇矯の顔を見て彼女が自身の告白の事に関して今は何も意識していない事に気づき、ならばこの話は後かと手を握る事を決めて即座にそれを実行する。
そんな二人と手を繋ぎ、奇矯は満面の笑みを浮かべていた。
一人の女の死は延期された。その一日で彼女には新しい親友と、友達が出来ていた。そうなってしまった時点で、彼女はきっと居なくなる事ができなくなっていたのだ。
そして、結局彼女は死ぬ事を延期し、今二人の友達に満面の笑みを見せている。その笑顔はどこか美しく、未来の彼女の幸せを約束しているかのように見えた。
しかしそれでも、そこから先は-----
「まだ決まっていない話……だよね……」
シーンごとのテンポが凄まじく悪くて辛い。
段落はこれを掲載設定にした後で修正しようと思っています。
さて、私は実は初めて200KB以上を超える物を書きました。書き手として一つの作品を完結できた事は(作品の出来は置いて)純粋に嬉しく、また、物を書く楽しさや難しさを再認識させられた形となりました。結局群像劇にはならなかったし……次はちゃんとしたい。
次は、絶対にプロットをきちんと作って、脳内補完をほどほどにして、起承転結をしっかり考えて、丁寧に時間をかけて、できるだけ読みやすく書いていきたいな。などと思っています。
本当は分割してるのでまだ1話と後EPが残るんですけどね…… 2012/3/31/2:49