第六問、彼女の死は本当に自殺だったのか
何故自分は余計なことをベラベラと喋ってしまったのだろう、と川上美弥は若干の後悔を感じていた。
今日の授業前、文系クラスの緒方崇史という生徒に対して、らしくもなく饒舌になってしまったことに、美弥は失態に近いものを感じていた。
あの火事の日のことは、一生自分の心の中に留めておこうと決めたのに。そうやって抑え込んでいたものが、あのとき不意に爆発してしまったのかもしれない。田淵政人が死に、否応なくあの火事の日のことを思い出してしまったから。きっと、そのせいだ。
だが、一番肝心なことは何も話さなかった。
崇史も先程の話だけで美弥の隠した真実に気づくとは思えないし、そう神経質になる必要はないだろう。美弥は自らを落ち着かせるように、小さく息をついた。
今まで何の疑問も抱かずに、ただひたすらに勉強だけを頑張ってここまで来た。だが今はどうしても、シャープペンシルを進ませる気にならない。
こんなところを母親に見られたら何と言われるだろうと、美弥は自嘲気味に嗤った。
(―――美弥さん。あなたはお父様と同じように、医者になるんですからね。呆けている時間なんてないんですよ)
もう何度も聞かされた言葉。
洗脳されるように、美弥は幼いころから自分が医者になるのだと信じて疑わなかった。母親の押し付けがましい言葉を、不快に感じるようになったのはつい最近のことだ。
別に医者になるのが嫌なわけじゃない。幼いころからずっとそれだけを目指してきたのだから。けれど、美弥自身の人生を、自分の所有物のように考えている母親には我慢がならなかった。
仕事が忙しいからと、家庭を顧みない父。その寂しさを埋めるように、母は美弥への教育にのめり込んでいった。
母親の英才教育の結果、美弥は誰もが認める才女に成長した。けれど、今の自分は、そんなに幸せだろうか。今まで考えたこともなかったことが、最近よく頭に浮かぶ。塾内テストで宗像尚にトップの座を奪われたのも、そんな雑念のせいなのだろうか。
あの火事の日以来、こういったとりとめのないことが延々と頭に浮かんでくるのだった。
そして美弥は、その日を共に経験した田淵政人に思いを馳せた。
(……いいじゃない、死んでくれて。むしろ好都合だわ)
あの日の出来事を知っているのは、自分だけでいい。
もともと政人が行っていた不正のこともあって、美弥は政人にいい感情を持ってはいなかった。だから政人の死に、これといった感傷はない。
美弥はふと、自分が尚に言った言葉を思い出した。
「既に田淵くんから同じようなことを要求されて……困ったあなたは殺してしまったのかもしれないわね? 田淵くんのことを」
何故こんな言葉が浮かんできたのか、美弥自身にも分からない。政人の死が殺人であったなんて、本気で考えていたわけではない。
ただ、尚の存在自体が目障りで、だから少し陰険なことを口走ってしまっただけだ。
けれど、政人は誰かに殺されたのだという一点において、美弥は確かに正しかった。
―――現に、そのとき既に、扉一枚隔てた向こう側にその人物は立っていたのだから。
扉は静かに、音もなく開く。
物思いに耽っていた美弥は、しかしそれでも、すぐにそれに気がついた。
その人物は、ゆっくりとドアを後ろ手に閉める。
異様な格好をして立っていたその人物は、美弥と眼が合うと、にやりと笑みを浮かべた。
ふと誰かに肩を叩かれて、緒方崇史は目を覚ました。
伏せていた机から重い頭をゆっくり上げると、口の端からだらしなく涎が線を引き、慌てて袖で拭った。
「お目覚めかしら、緒方くん?」
傍らに立っていたのは、英語教師の中野澄香。
「あれ……中野先生、っすか? 何でここに……?」
寝ぼけた頭で周りを見てみると、ここは秀麗塾の中の、自分の自習室だった。美弥たち理系クラスの生徒から話を聞き、授業を受けた後、崇史は自分の自習室に戻ってきて自習をしようと思っていたのだ。しかし慣れない環境に思いのほか疲れていたのか、そのまま居眠りしてしまったというわけだ。
「私は巡回中よ。決められた時間ごとに、講師は校舎内を見て回ることになっているの。緒方くんみたいに、勉強をサボっている生徒がいないか調べるためにね」
中野の言葉に、崇史は苦笑を返すことしかできない。
「時間は有効に使わなきゃダメよ? 居眠りするのなら、家に帰ってベッドの上でした方がずっといいわ。勉強していくと決めたなら、しっかりやりなさい」
「はい、すいませんでした」
頭を掻きながら崇史が謝ると、中野はそれ以上小言を言うことはなく、「じゃあ」と言って部屋を出て行った。その様子は、普段とあまり変わりがないようにも思える。
(昨日、生徒が一人死んだっていうのにな……)
実は自習室内でも、崇史は勉強のことなど考えておらず、政人の死について考えを巡らせていたのだった。居眠りをしてしまったのも、そのことを考えていて昨夜あまり眠れなかったからだ。
とにかく、眠気覚ましにコーヒーでも買おうと、崇史は財布を持って自習室を出ることにした。一階に自販機があったはずだ。
外に出ると、中野が不破舞子と秋山愛の二人と話をしていた。
「あ、緒方くん」
一番早く崇史に気付いた愛が、声を上げた。それにつられるように、残りの二人も顔をこちらに向ける。
「おはよう、よく眠れた?」
中野から崇史の話を聞いたらしい舞子が、にっこりと笑いながら声をかけてきた。なかなかいい性格をしていると思う。
「もう眠くならないように、コーヒーを買いに行くことにした。不破や秋山は、中野先生と何を話してたんだ?」
「この前の授業のこと。一カ所よく分からないところがあったから」
真面目なことだ。
崇史が半ば呆れるようにしてそう思っていると、話を終えたらしい中野は再び巡回へと戻っていった。
中野は各自習室に取り付けられた小窓から生徒の様子を窺い、監視していた。崇史の居眠りがばれたのもそのせいだ。
「よくやるよな」
「ここまで徹底しているからこその秀麗塾よ」
舞子は涼しい顔をして言った。ここのやり方にはもう慣れているのだろう。
「……けど、昨日生徒が亡くなったばかりだっていうのに、何も変わっていない様子なのは、何だかちょっと不気味」
愛が少し首をかしげながら呟いた。
自分と同じように感じている人間もいるのだと、崇史は少しほっとした。
「だよな。普通もうちょっと、雰囲気とか変わるもんじゃないか?」
「そうは言ってもね。結局田淵が死んだのって、本人がドジって足を滑らせたからなんでしょ? 自殺や殺人ならともかく、事故だったらそこまで騒ぎにはならないものじゃない?」
本当は、事故ではなくて殺人の可能性が高いのだけれど、と崇史は心の中でひっそりと呟いた。
「でもこの前の火事といい、何だか変だよね、最近」
「火事のとき、不破と秋山も校舎内にいたのか?」
愛の呟きを聞き、崇史はさりげない風を装って聞いてみた。
愛は、ゆっくりと首を横に振る。
「私は、そのときちょうど外に出ていたの。夕食を食べようと思って。食べ終わって帰って来てみたら、秀麗塾が真っ赤に燃えていて……本当にびっくりした」
愛の中で、その出来事は未だにショッキングな過去として残り続けているのだろう。顔色はやや青ざめていた。
「あたしは、校舎内にいた。中野先生に火事の知らせを受けて、急いで避難したんだ。みんな血相変えて逃げててさ……。流石のあたしも、あのときは死んでしまうかもしれないと思ったね」
指で髪をいじりながら舞子も答える。
「確かに、愛の言うとおり……最近何だか変ではあるよね」
普段と変わらないように振る舞いながら、舞子もまたどことなく異変を感じているようだった。
少しずつ侵食していくように、不穏な影がこの場所で大きくなりつつある。そんな気がした。
「きゃあああああああああっ!」
そのときだった。
空を切り裂くような甲高い悲鳴が聞こえ、続いて何かが落ちるような音がした。
慌てて音の方を見てみると、先ほどまで一緒にいた中野が床に座り込んでおり、その足元には先ほどまで手に抱えていた仕事用の資料らしきクリアファイルがあった。中身は無惨にも床の上に散らばってしまっている。
「どうしたんですか!?」
崇史がいち早く駆け寄り、しゃがみ込んで中野と目線を合わせて声をかけると、中野は「あ……あ……」と声にならない声を上げながら、目の前の扉を指差した。
ネームプレートには、「川上美弥」の文字が印字されていた。
「ねえ、何? 何があったっていうの!?」
遅れて駆け寄ってきた舞子が声を上げる。愛はおろおろした様子で、遠巻きにこちらを眺めている。
崇史は静かに立ち上がると、中野が指差したドアの方へ体を向けた。
ドアに嵌った覗き窓から、静かに中を覗いてみる。
「何よ……これ……!」
同じようにして中を覗き込んだ舞子が強張った声を出した。
部屋の中は一面の赤だった。
床に壁に天井に、そしてよく見てみれば覗き窓のガラスの部分にも微量だが、べっとりと血液が付着している。
そして血の海の中で溺れるようにして、川上美弥が机に伏せって絶命していた。喉の辺りがぱっくりと裂けていて、一目で手遅れだということが見て取れる。その手には、小ぶりなナイフがしっかりと握られていた。
「何の冗談よ、これは!」
怒ったように叫ぶ舞子の横で、政人の死は始まりにすぎなかったのだということを、崇史は静かに実感していた。
「二日連続で人が死ぬとはな! 呪われているんじゃないのか、この塾は!」
不機嫌を隠そうともせず、宝井が声を張り上げた。
彼の目の前には、血の海と化した川上美弥の自習室が扉を開いた状態で存在している。鑑識班が、忙しそうに現場を歩きまわっている。
「宝井警部。現場からこんなものが」
部下の刑事が近づいてきた。その手には、何かの紙が握られていた。
「これは?」
「遺書です」
部下の報告に宝井は顔をしかめ、折りたたまれた汚れ一つない真っ白なその紙を、ゆっくりと広げた。
田淵くんは、私にとってとても大切な人でした。
彼のいない世界に、興味はありません。
私は死を選びます。
川上美弥
その文章は、無機質な文字が並んだ、印刷によるものだった。
文章自体も極めてそっけなく、そこからは死を選ぶに至った激情は読み取れない。
「この遺書はどこにあった?」
「現場となった自習室の机の上です」
「凶器と死因は?」
「凶器は小型のナイフです。被害者の手に握られていました。死因は凶器のナイフで頸動脈を切ったことによる出血系ショック死です」
宝井は部下の報告を聞きながら、床に横たえられた美弥の死体を眺めた。
報告通り、頸動脈の辺りがすっぱりと切れており、かなりの出血があったことが予想される。この部屋が血の海になっていたのも納得だ。
宝井は更に傷口をよく調べてみる。大きく裂けた傷口が一つだけ。納得がいかない、と言いたげな表情で、宝井は少し首をかしげた。
美弥が倒れている床の辺りもまた彼女自身の血で真っ赤に塗りたくられていたが、不思議なことに壁と比べると血が薄い。見てみると、床の上の血は何かで拭われたような跡があった。
その発見に、宝井はますます不思議がる。
「第一発見者はどこだ? 確か、講師一人と塾生三人だったな」
「はい。別室で待機させています」
キビキビと答える部下にその四人の名を尋ね、その中に緒方崇史の名前があることを知ると、宝井はまた深々と溜息をついた。
「俺が事情聴取をして来よう。お前らは引き続き現場の捜査だ」
「分かりました!」
田淵政人が死んだときと同じく、また崇史に話を聞く必要がありそうだ、と宝井は歩きながら思った。
第一発見者四人の内、宝井は事情聴取と銘打って崇史を呼び出した。他の三人の聴取は、他の刑事に任せてある。
四人とも同じ現場にいたというのだから、証言内容に大きな差はないだろう。ただ、宝井は崇史が非常事態でも冷静に物を見ることが出来る人間だと知っている。四人の中で、もっとも有力な証言をしてくれる人間は、崇史だろう。逆に、秋山愛などは遺体発見に居合わせながらも、直接現場となった部屋の中を見たわけではないそうなので、証言内容は限られてくることになりそうだ。
「では、まず遺体発見時の状況を教えてくれ」
宝井が聞くと、崇史は無言で頷いた。
「午後十時ごろだと思うんですけど、俺は自分の自習室で居眠りをしてたんです。それを中野先生に見つかって注意されました。で、眠気を覚ますためにコーヒーでも買おうと思って自習室を出ると、中野先生と不破と秋山が何か話していました。授業のことについて質問をしていたと本人たちは言っていましたけど。それで、中野先生は途中で話から抜けて、俺と不破と秋山の三人でそのまま話をしていました。そしたらいきなり中野先生の悲鳴が聞こえてきて、駆け寄ってみたら、川上さんが部屋の中で死んで……亡くなっているのを見つけました」
「その後の行動は?」
宝井が聞くと、崇史は思い出すように視線を宙に泳がせた。
「不破が中に入ろうとしたんで、俺が止めました。川上さんは明らかにもう生きていなかったし、現場保存、っていうんですか? そういうのがあるから、中に入るのはまずいかと思って。それで、俺は持ってた携帯電話で警察と救急に電話をしました。中野先生は、塾長の所に報告に行って、秋山はその間ずっと少し離れたところで震えてました」
「他の生徒や講師が駆けつけてきたりはしなかったのか?」
「しませんでしたね。このフロアって全部屋が防音構造みたいなんで、外の騒ぎに誰も気づかなかったんだと思います。前の火事のときも、そのせいで避難が遅れたって話でしたし」
宝井は腕を組んだ。
崇史のこの証言と、現場の状況。それらを合わせて考えると、美弥の自殺にはどうもおかしな点がいくつかある。
一瞬の迷いの後に、宝井は崇史の意見を聞いてみようと思った。
「単刀直入に聞くが、お前は、川上美弥の死についてどう思う? 遺書が見つかったが、自殺だと思うか?」
「思いません」
即答だった。
「一つ聞きたいんですけど、川上さんの遺書って、筆跡鑑定とかしたんですか? 間違いなく川上さんのものってことでいいんですか?」
「いや、筆跡鑑定も何も、遺書は印刷物だったからな」
「何だ。じゃ、偽装は簡単ってことっすよね?」
あっけらかんと言う崇史に、宝井は難しい顔をする。
「確かに、偽造しようと思えばできる。だが、遺書が偽装だったとするには、川上美弥の死が自殺ではなかったということを証明しなければならん」
「川上さんの死にはいくつか不審なところがあります」
「ほう?」
宝井はやや挑戦的に声を返した。
「ならばその不審点とやらを挙げてもらおうか」
崇史は頷くと、指折り数えながら不審点を挙げていった。
「まず、自殺の動機。宝井警部に呼ばれる前に、他の刑事さんに遺書の大まかな内容を教えてもらいましたけど、川上さんが田淵のことを好きだったってのは無理がある。俺はAクラスに入って日が浅いけど、それでも川上が露骨に田淵のことを嫌ってたのは分かる。昨日、それが田淵の不正のせいだってことも教えてもらいましたしね。俺より川上さんと付き合いが長い不破や秋山もそれはありえないって言ってました」
「けれど、人の心の中なんて他人には分からないもんだろう。それだけじゃ、川上美弥の死が自殺でなかったとするには苦しいな」
「他にも不審な点はあります」
崇史は宝井がそう返してくることを予測していたかのように、即座に切り返した。
「遺書そのものも不自然だった。外からちょっと見えた限りの印象ですけど、あれだけ血まみれの部屋にあった割には、血に汚れた様子もなく綺麗なもんでした。何者かが川上さんを殺した後、あらかじめ用意してあった遺書を置いたと考えるのが自然です」
「それから?」
「決定的なのは、床にあった、血を拭った跡です。俺たちは間違いなく、遺体発見時には部屋の中には入らなかった。なのに血を拭った跡があったってことは、俺たちより前に、その部屋の中にいた人間がいるってことだ。まさか首を切った川上さん自身が床の血の跡を拭うとは考えられませんからね」
崇史の言葉に、宝井は大きく頷いた。
「俺も、刑事としての経験上、川上美弥の死が自殺とは思えなかった。お前の話に付け加えて、首にためらい傷が見られなかったのも自殺説を否定する一つの材料になるな」
「ためらい傷?」
「普通、自殺者というのは一回で致命傷となる傷をつけることが出来ずに、何回か浅い傷をつける。それをためらい傷というんだが、川上美弥の首には致命傷となった大きな一つの傷しか見られなかったんだ。警察としても、川上美弥の死は殺人という方向で捜査を進めるつもりだ」
宝井の言葉に、崇史の顔がぱっと明るくなる。
対称的に、宝井は憂鬱そうな顔で頭をボリボリと掻いた。
「まったく、お前と関わるとロクな目に遭わんな。田淵政人のときに続いて、また殺人とは。お前、疫病神か何かじゃないのか?」
「余計なお世話っすよ!」
軽口を叩きながらも、宝井の表情は重い。
そのまま立ちあがると、崇史の方を見て言った。
「お前、もう今日は帰ってもいいぞ。引きとめて悪かったな」
しばらく忙しくなりそうだ。そんなことを考えながら、宝井の顔つきは崇史に見せていたやや親しげな顔から、再び刑事のものへと戻っていった。