第三問、怪しげな登場人物たちについて考察しなさい
高塚との話を終えて塾長室を出ると、ちょうど講師控室から出てくる中野澄香と鉢合わせた。
「あら、塾長とのお話はもう終わったの?」
「あ、はい」
この人は緒方崇史という生徒の立場についてどの程度まで知っているのだろう、と一瞬考える。塾長室を出る間際、高塚は崇史に放火犯を見つけるという目的について口外しないように言っていた。とすると、もしかすると高塚自身を除いて誰も知らないのかもしれない。
「教室の場所は分かる? 私はこれから六階を見回りに行くけれど、分からないなら教室まで案内するわ」
教室の場所は大体分かっていたが、中野が放火犯の容疑者の一人であることをふと思い出した崇史は、その申し入れを受けることにした。さりげなく話を聞いてみようと思ったのだ。
「噂で聞いたんですけど、この塾ちょっと前に放火の被害に遭ったんですよね?」
並んで歩きながら崇史が聞くと、中野は少し困ったような表情で頷いた。
「そう。どこの誰がそんなことやったのか知らないけれど、困ったものだわ。早く犯人を捕まえてほしいわね」
「火事になったとき、中野先生も校舎の中にいたんですか?」
「ええ。講師控室や塾長室は、前校舎でも最上階にあったから、もう少し避難が遅れていたら危ないところだったわ」
「というと?」
崇史が問うと、中野はそのときのことを思い出すようにふと視線を遠くにやった。
「前校舎は四階建てで、一階が受付と自習室とEクラスの教室があるフロア、二階がBクラス、Cクラス、Dクラスの教室があるフロア、三階がAクラスの専用フロアで、四階がさっきも言ったように講師控室や塾長室があるフロアだったの。火元は三階で、私たち講師が避難し終えたすぐ後に、階段のあたりまで燃え広がった。だからもう少し避難が遅かったら、階段を使って下の階まで避難できなくなっていたわね」
中野はそこで一息ついた。
「私たち講師は塾生の安全を真っ先に確保する義務があるわ。まずは率先して塾生を避難させて、それから私たち講師が避難したのだけれど……」
少し悔しそうに、中野は一瞬俯いた。
「まだ三階に生徒が残っていたなんて、思いもしなかったわ。もう全員避難したものだとばかり思っていて……生徒を一人、死なせてしまった」
それが高塚正臣なのだろう。
しかし、火事という極限状態の中、生徒たちを真っ先に避難させようと奮闘した中野たち講師の行動は素晴らしいものだと思う。結果として高塚正臣は助けられなかったかもしれないが、そのことで中野が責任を感じるいわれはないはずだ。
「さあ、六階に着いたわよ。塾生証をここにタッチして」
話をしているうちに、二人は七階の階段を下り、六階に着いていた。六階の入り口には駅にある改札のような機械があり、その出口は閉じられている。
「こうっすか?」
言われた通り塾生証をタッチすると、閉まっていた改札の出口がぱっと開いた。
「すげー! 駅みたいだ!」
思わずはしゃいだ声を上げた崇史に、中野は苦笑をもらす。
「これは、他のクラスの生徒がこのフロアに立ち入れないようにするためのものよ。一階と七階を除くすべての階に設置されていて、それぞれの階を使うクラスの生徒しか入れないようになってるの」
言いながら中野は、自らの持つ講師用のカードを改札にタッチする。
「私たちの持つ講師用のカードなら、全ての階の改札を通過できるけどね」
「へー、なんかハイテクだなぁ」
思わず感心したような声を上げる。けれど、ここまでしてそれぞれのクラスを孤立させる必要があるのだろうか、と疑問に思わないでもなかった。
「さあ、君の教室だけど、最初の授業は古典だったわね? そこの七〇二教室よ。授業によって教室が変わるから、『入塾の手引き』をよく読んでどの授業のとき、どの教室を使うのか頭に入れておいて」
中野はそう言うと、「じゃあ私は見周りがあるから」とさっさと行ってしまった。
取り残された形になった崇史は少し居心地悪く思いながらも、七〇二教室を見る。引き戸に嵌め込まれたガラスからは明かりが漏れており、中に誰かいるらしいことが分かる。既にAクラスの生徒が待機しているのかもしれない。
そっとガラスの部分から中を窺い見てみると、三人の男女が談笑している姿が見えた。男子が一人、女子が二人だ。
男子はスポーツ刈りとまでは言わないがやや短めの髪で、そのせいか爽やかな印象を受ける。頭もよさそうで、文武両道の生徒会長タイプといったところか。
二人の女子の内、一方はおしゃれな赤色の縁のメガネをかけており、ふんわりした髪の毛は肩口ほどまでの長さ。大人っぽい顔立ちの美人だ。
もう片方の女子は大人しそうな印象で、他の二人の会話の聞き役といった感じだ。メガネをかけた女子とは対照的に髪は綺麗なストレートで、相槌を打つたびに静かに揺れている。
一時間目の古典はAクラスの内、文系の四人だけの授業となる。自分以外の三人というのが、今教室内にいる男女なのだろう。
崇史は緊張をほぐすように一度小さく息をつくと、努めて明るい顔で引き戸を開けた。自分の性格はどちらかといえば社交的だと自負してはいるが、それでも誰かと初めて会うときは緊張する。
崇史が引き戸を開けると、中にいた三人は一斉にこちらの方を向いてきた。
「どうも。二年の文系のAクラスの授業って、ここでいいんだよね?」
崇史が聞くと、三人の内の唯一の男子が「そうだよ」と答えてくれた。
「君が緒方崇史くんか。あ、君の席は俺の後ろね」
男子生徒に誘導され、自分の席に着く。何せたったの四人しかいないため、やけに教室が広く感じる。
「俺の名前は烏丸京介。とりあえず、最低二ヶ月は同じクラスってことになるな。よろしく」
男子生徒がそう言って握手を求めてきたので、崇史も自己紹介をして手を差し出した。
それから窺うように女子二人の方を見ると、メガネをかけた方の女子が笑みを浮かべて口を開く。
「あたしは不破舞子。で、こっちの子が秋山愛ちゃんね」
自分の分に留まらず、もう一人の女子生徒の紹介までしてしまった。自己紹介を取られた形となった、秋山愛と呼ばれた少女は、「よろしくお願いします」と小さな声で付け加えた。
「ふうん、そっか。どんな人が来るんだろうって思ってたけど、君みたいな人でよかったな」
舞子はどこか面白がるような口調で崇史の方を見て言った。
「田淵みたいなガリ勉がきたらどうしようって話をしてたんだ。あ、田淵って言うのは理系のAクラスの生徒ね」
舞子の物言いに、京介と愛はやや苦笑気味だ。
「不破は口が悪いからなぁ。知ってるか? お前陰で『毒舌女王』って呼ばれてるんだぜ?」
「上等よ。これくらい弁が立たないと、弁護士なんてやってられないわ」
ふふん、と自信ありげに舞子が笑う。言葉から察するに、弁護士志望なのだろう。その自身が見せかけだけでないのは、このAクラスに所属している時点で明らかだ。
「まあ、でも緒方くんは文系でラッキーだったよ、本当に。あたし、理系クラスじゃ生きていけないと思うもん」
あっけらかんという舞子に、崇史はやや戸惑う。
「理系のAクラスって、何か悪いことでもあるのか」
「雰囲気が違うんだよな、なんか」
京介が舞子に賛同するように声を上げる。
「ピリピリしてるっていうか、慣れ合わないっていうか。全員が全員、他人を蹴落とすことしか考えてないような、そんな奴らだよ」
「そ、そこまで言わなくても……」
吐き捨てるように言う京介に、愛が小声で反論する。
「それに……確か理系の方でも一人新しい人が来るんじゃなかったっけ?」
「ああ、そういえば」
愛の言葉に、舞子がぽんと手を打つ。
「文系で入れ替えがあるのは高塚くんのことがあったから当たり前としても、理系でも入れ替えがあるなんて意外だよね。梅野がBクラスに落ちたらしいよ」
崇史は高塚正臣の後釜だったが、理系の方でも入れ替えがあったらしい。それはつまり、放火の容疑者の一人が遠ざかってしまったということだ。場合によっては、Bクラス所属の彩音に協力を仰ぐことになるかもしれない。
放火事件について三人に話を聞いてみようと崇史は口を開きかけたが、それを遮るように教室の引き戸が開いた。見ると、頭の禿げあがった中年講師がテキスト片手に立っていた。
「お、もうこんな時間か」
京介の呟きを耳にして時計を見てみると、もう授業が始まる時間になっていた。とりあえず聞き込みはいったん中断して、授業に集中するしかなさそうだ。
秀麗ゼミナールの授業は、一コマ九十分となっている。高校での五十分授業でさえ長く感じる崇史にしてみれば、地獄のような時間だった。その上、授業の密度も学校とは比較にならない。その上自分以外の三人が、それを大して苦もなくこなしているのが崇史にとっては衝撃だった。流石は実力でAクラスに入っただけのことはあるということか。
「うー、頭が痛い……」
疲れたように机に伏せる崇史を見て、他の三人は苦笑を浮かべる。
「まだこれから英語の授業もあるのに、へばってる暇なんかないんじゃない?」
「まあ、Aクラスの授業はかなりハードだからな。気持ちは分かるよ」
舞子と京介が楽しそうに話しかけてくるが、それすらなかなか頭に入ってこない。
「英語の授業もこの教室でいいんだっけ?」
「うん、私たちは移動なしだよ。理系クラスの人たちがこっちの教室に移動してくるけど」
愛の言葉に、舞子が嫌そうな顔をした。
「忘れてた。英語は文理共通の授業だもんね。……でも、いい機会かもね。理系クラスの奴らがどんな人間なのか、緒方くんが見てみるのには」
先程の話にも出ていたが、理系クラスの生徒とはどんな人間なのだろう。ここまで露骨に嫌われるなんてそうそうある話ではないと思うのだが、と崇史が思っていると、その当人たちが、教室の引き戸を開けてやってきた。
「来た来た」
どこか楽しむような口調で舞子が呟いた。
先頭で教室に入ってきたのは、メガネをかけた女子だった。舞子とは違い、飾り気のない銀フレームのメガネだ。髪は黒髪のロング。メガネがよく似合う、いかにも才女といった感じの美人だ。
「あの子が川上美弥って子。理系クラスで唯一の女子ね」
舞子が小声で教えてくれた。
二番目に入ってきたのは神経質そうな男子。この男子もメガネをかけているが、まるで牛乳瓶の底のような、いまどき誰もかけていないようなデザインだ。終始俯き加減で、単語帳片手にブツブツと何事かつぶやいている。
「あいつがさっきの会話にも出てた、田淵政人って奴。な、いかにもなガリ勉だろ?」
今度は京介が教えてくれた。
三番目に入ってきたのは前二人とは雰囲気の違う、やや軽そうな男子。髪を染めたりはしていないが、制服の着こなしはだらしない。爬虫類じみた、どこか粘着質な視線が気になる男だった。
「えっと、彼は橋本昌司くん、です。私はちょっと……その、苦手だけど」
舞子と京介に目で促され、今度は愛が紹介する。確かに、あの男子生徒と愛ではタイプがだいぶ違うから、相性が悪そうだ。
そして最後に教室に入ってきた人物。細身の男子生徒で、橋本昌司とは対照的に、優等生然としたタイプ。容姿は中性的で温厚そうに見える。そして、その顔には見覚えがあった。
「あ!」
崇史が思わず声を上げるのと同時に、向こうも崇史に気付いたようだった。
「やあ、久しぶり」
ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべながら片手を上げて見せたのは、入塾テストの日に出会った高塚塾長の甥、宗像尚だった。
「宗像じゃん! 何だ、理系の新入りって宗像のことだったのか」
「緒方くんこそ、『どうせEクラスだー』なんて言ってた割に、ちゃっかりAクラスに入っちゃうなんて凄いじゃん」
いや、それは実力ではないんです、とは言えなかった。尚のこの様子を見る限り、高塚の甥である彼も、崇史が実力でAクラス入りしたわけではないことを知らないようだ。
思わぬところで知った顔を見つけ、嬉しくて更に話をしようと崇史は口を開きかけた。が、それはとある人物の声にかき消される。
「静かにしてくれる?」
鋭い声でそう言ってきたのは、川上美弥だった。切れ長の目を上に吊り上げ、こちらを睨みつけている。
「あなたたち、Aクラスの生徒としての自覚がないのかしら? 休み時間だからといって馬鹿みたいに騒いでないで、自習でもしていたらどうなの?」
それから美弥は崇史から視線を外し、尚一人を睨みつけた。
「一回テストでいい点を取ったからといって、調子に乗らないことね」
そう言い捨てて、美弥は再び参考書に目を落とした。
その間も田淵政人はずっと単語帳を見てブツブツ呟いており、橋本昌司はにやにやと面白そうに崇史たち三人の様子を眺めていた。確かに、お世辞にも雰囲気がいいとは言えない。
尚は少し気まずそうに微笑むと、「じゃあ、また」と言って自分の席へと戻っていった。
「な、何なんだ? あの川上って子」
自分の席に戻り、戸惑いながら呟く。舞子は声を殺して笑っていた。
「理系クラスは終始あんな感じ。まあ、今日は川上さんがかなり荒れてるみたいだから、いつもより酷いけどね」
「何で荒れてんの?」
崇史が聞くと、舞子は理系クラスの生徒たちに聞こえないように声を落とした。
「今まで、理系では川上さんがずっとトップをキープしてたわけ。でも、この前のテストで宗像くんが川上さんを差し置いて一位を取っちゃったんだよね。順位は廊下に貼り出されるから、川上さんとしては晒しものにされたみたいでプライド傷つけられちゃったんじゃない?」
そういえば、入塾テストと同じ問題を内部の塾生も解き、その結果によってクラスを入れ替えるのだと聞いた。その結果、美弥は一位の座を追われ、梅野という生徒はBクラスに落ちたのだ。
「さっきの様子を見る限り、川上は宗像って奴のことをかなりライバル視してるみたいだな。これから大変だぜ、あいつ。陰湿な嫌がらせとか受けなければいいけどな」
他人事のように言う京介の言葉を聞き、崇史の胸の中には言い知れぬ不安が沸いてくるのだった。
英語の授業が終わると、既に九時を過ぎていた。
だいぶ遅くなったな、と思い帰ろうとした崇史に、英語講師の中野が声をかけてきた。
「緒方くん、それに宗像くんも。ちょっといいかしら」
「はい、何ですか?」
「これから、案内したいところがあるの」
どこへ? と崇史が不思議そうにしているのを見て、中野は微笑んで言った。
「自習室よ」
「自習室? なら俺、場所知ってますよ。一階の奥の方でしょう?」
崇史の言葉に、中野は首を振った。
「一階にある自習室は、EからBクラスの生徒用のものよ。Aクラスの生徒には、専用の自習室が与えられているの」
「しかも、個室だよ」
尚がにこにこしながら付け足した。
「え、個室ってつまり、俺専用の自習室ってこと?」
「うん。Aクラスは三学年合わせてもたったの二十四人しかいないのに、まるまる一階分のスペースが与えられてるからね。他のクラスとは、人口密度が全然違うんだ。だから教室の他に、二十四人の塾生それぞれに専用の自習室を作ってあるんだよ」
尚はおそらく高塚から、この塾について予め聞いていたのだろう。中野も尚の説明にそれ以上付け加えることはないらしく、静かに頷いていた。
「緒方くんと宗像くんの自習室に案内するわ」
中野はそう言って、二人を先導して歩き出した。
この六階は建物の中央部分に教室が集中しており、それを挟むように東側部分と西側部分に自習室があるつくりとなっている。一年生は東側、二年生は西側、三年生は東西両方に自習室が割り当てられていた。
「二年生は西側にある十二個の個室の内の八つを割り振られているわ。残りの四つは三年生ね。緒方くんの自習室は奥から四番目。宗像くんはその隣の五番目の部屋よ」
中野が六階の見取り図を見ながら説明する。言われた部屋の前に立つと、扉に「緒方崇史」と書かれたネームプレートが掲げられていた。左隣は先ほど言われたように尚の部屋。右隣のドアには「不破舞子」のプレートが見える。
更によく見てみると、一番奥の部屋が「秋山愛」、二番目が「烏丸京介」、六番目が「川上美弥」、七番目が「橋本昌司」で、八番目が「田淵政人」だった。九番目から十二番目までは三年生の個室らしいので、知らない名前が並んでいる。
「ドアにはガラスが嵌め込まれているでしょう? 巡回のときに、ここから覗き込んで塾生が居眠りしたりしていないかチェックしてるの」
「……なんか、監視されてるみたいで落ち着かないなあ」
崇史がぽつりと漏らすと、中野は苦笑した。
「まあ、そう言う塾生もいるわね。でも、そのうち慣れてくるわよ。それに、一階の自習室よりだいぶ快適よ。防音処理も施されているから、外の音も聞こえないし」
「そこまでやってるんですか」
「それもこれも、生徒たちに快適な学習環境を提供するため。君たちも、恵まれた環境があるんだから、きちんと努力しなきゃだめよ? 今日も、閉館時刻まで自習していくでしょ?」
そんなつもりはさらさらなかった崇史はぎょっとしたが、尚は当然のように「はい」と答えた。
「あの、確かここの閉館時刻って、夜の十一時でしたよね?」
「ええ。だから、まだ一時間半くらいは勉強できるわね。今日習ったことの復習をしておきなさい」
放火犯を見つける前に、知恵熱で寝込む羽目になってしまうのではないかと本気で心配する崇史であった。