プロローグ
苦しい、苦しい、苦しい。
燃え盛る炎、灰色の煙。
地獄のような光景の中に、少年はいた。
逃げまどう人々の姿が見えたのはいつ頃までのことだったろうか。
少年のいるその場所にすでに人気はなく、ただ業火がすべてを焼き尽くす音だけが耳に残った。
もうみんな逃げてしまったのだろうか。
もうここには誰もいないのだろうか。
そんなことを考えはじめた少年の耳は、かすかな人の気配を不意にとらえた。
荒い息遣いに、乱れた足音。
まだいる。誰かがいる。
その人物は焦った様子で少年の脇を駆け抜けて行こうとした。
もうほとんど体が動かなくなっている少年は、それでも最後の力を振り絞り、その人物へと手を伸ばした。
「……父さん」
こぼれた言葉は無意識のものだった。
その人物が父親なのかも分からなかった。
それほどまでに、少年の意識は朦朧としていたのだ。
誰かがいるのは分かる。でも、それが男なのか女なのか、若いのか老いているのかさえ分からない。
その人物が父親だったらいい、と少年は願った。
伸ばした手はその人物の足首をしっかりと捕まえた。
その人物は、驚いたように足を止める。
少年は、手に力を込めなおした。それが、少年に残された最後の力だった。
その人物は焦った様子で少年の手を振りほどこうともがいた。が、少年の最期の力は生半可なものではなく、いくらもがいても振りほどけない。
その人物はしびれを切らし、掴まれていない方の足で少年の手を踏み付け始めた。
一回、二回、三回。
ぼきりと嫌な音が響いたが、それでもその人物は足を止めなかった。
四回、五回、六回。
今度は標的を少年の顔に変え、何度も何度も蹴りつける。
既に意識を失っていた少年の目は閉じられているが、それでも手は離さない。
その人物はもはや半狂乱状態で、少年の体をところ構わず蹴りつけた。
そして少年の顔の形が歪に変形し始めてきたころ―――ついにその手は外れた。
力なくだらりと下がった手。
けれどその人物は少年には見向きもせず、急いでその場から逃げだした。
その人物にとって、今は自分の命こそが大事だったから。
だから気付かなかったのだ。
その一部始終を目撃していた人物がいたことなど。