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殺意の方程式  作者: 虹宮
13/14

答え合わせ

 烏丸京介はそのとき、何をするでもなく、自分の部屋のベッドに仰向けに寝転がっていた。

 ここ数日の間に起こった出来事を、じっと眼を閉じて考える。

 またあの塾へと行かなければならないことが、どうしようもなく負担でもあった。

 親は名門で通っているあの塾のAクラスに息子が通っていることを誇りに思っているようだが、いっそのこと、今回の件がひと段落ついたらあの塾をやめてしまおうかとも思っていた。勉強なら、他の塾や予備校でだって出来るのだから。

 小さく溜息をついた京介の耳に、携帯電話の着信音が聞こえてきた。

 それを手に取り、メールをチェックする。送信者は、緒方崇史。

 その文面に目を走らせると、京介は再び小さな溜息をついた。


 秋山愛はそのとき、父親と話をしていた。

 父は愛の通う塾で起こっている連続殺人事件について、心配しているようだった。

 長年の不妊治療の末、ようやく生まれた一人娘を、父親は溺愛している。もちろん父親のことは尊敬しているし、大切にも思っているが、たまにその愛情を重く感じてしまうこともあるのだった。

 しかしそれでも、愛にとって父親は絶対の存在だった。

 父のために出来ることをしたい。

 その一心で、父の跡を継げるような優秀な人材になれるよう、愛は必死で勉強してきたのだ。父の興した小さな会社を、自分がもっと大きく出来るように。

「愛、しばらく塾は休んだ方がいいんじゃないのか? それか、他の塾に変えようか?」

 心配そうな父親の声に、携帯電話を見ていた愛は、顔を上げて笑って答えた。

「大丈夫よ、お父さん。明日ですべてが解決するそうだから」


 不破舞子はそのとき、ちょうど携帯電話をいじくっていた。

 学校の友人に、塾で起こった出来事についてメールで話していたのだ。

 もう四人も殺されていること、自分も容疑者の一人として警察にマークされていること、実際に死体を見てしまったこと。

 色々なことを話し、画面の向こう側で、友人は心配そうな返事を出す。

 元気出して。きっとすぐ解決するから。塾を変えた方がいいんじゃない。

 あまりにも予想通りの答えを返してくれる友人に、舞子は苦笑をもらす。自分は、結構いい友人を持っているのかもしれない。

 そんなことを思っていると、また新たに一件の着信が来た。

 その友人からだろうと思い、メールを開いてみると、意外にも送り主は緒方崇史だった。

 メールの文面を読むと、舞子は無言のまま携帯電話を閉じ、そのまま何かを考え込み始めた。


 中野澄香はそのとき、自宅で一人酒を飲んでいた。

 この数日間、色んなことがありすぎて、それらを一瞬でも忘れたくて、澄香はお酒の力を借りることにした。

 けれど、どんなに飲んでも、一向に酔うことが出来ない。

 自分はこんなに酒に強かったろうか、とぼんやりと考える。

 そして三本目の缶を開けたとき、彼女は酔うことをあきらめた。

 こんな日は早く寝てしまおう。

 そう考えて、ベッドへと向かおうとしたとき、彼女の携帯電話が着信音を鳴らした。

 澄香は無言のままそれを手に取り、文面を確認する。そしてたっぷり数分かけてその文面を読み終えた後、澄香はぽつりと呟いた。

「……遅すぎるよ」


 宗像尚はそのとき、こっそりと母親の部屋を窺っていた。

 こんなことをするつもりはなかった。ただ母親に風呂が空いたことを知らせようと、母親の部屋の前まで来ただけだった。

 部屋のドアはうっすら開いていて、そこから何か声が聞こえてきたのだ。

 こっそりその隙間から中を除いてみると、テーブルに突っ伏して、母親が肩を震わせて泣いていた。

 亡くなった高塚秀次は尚にとって叔父であり、尚の母にとっては弟だった。

 尚の目から見ても、中のよい姉弟だったのだ。

 尚は複雑そうに母の様子をしばらく見守り、それから無言でその場を去った。

 自分の部屋に帰ると、スマートフォンでメールをチェックする。受信が一件。

 緒方崇史から送られてきたそのメールをじっと見つめると、尚はゆっくり目を閉じた。

「いよいよ、か……」










 五人の容疑者に、宝井を含む数名の警察関係者。

 小さな視聴覚室は、その人数が入るだけで埋まってしまった。

 不安げな顔を前に向ける容疑者たちと、腕を組んで憮然とした表情をしている宝井。そして彼らの視線の先には、教壇に立つ緒方崇史の姿があった。

「あんなメールであたしたちを呼び出して、どういうつもり?」

 口火を切ったのは、不破舞子だった。

 携帯電話の画面を崇史に向けながら、話を続ける。

「『四人を殺した犯人が分かったので、明日午後二時に、秀麗塾の視聴覚室まで来てください』って。この言葉、どこまで信じていいの?」

「全部さ。俺は確かに、みんなを殺した犯人が分かったし、それが誰なのかを指名するためにここにみんなを集めたんだ」

 自信ありげに笑みを浮かべる崇史に、舞子は黙る。代わりに、秋山愛が小さな声を上げた。

「やっぱり、それは……ここにいる私たち五人の中の誰かなの?」

「ああ。それは間違いない」

 崇史の言葉に、五人の間の空気が張り詰めた。

「教えてくれ! 一体、誰が犯人なんだ!」

 耐えかねたように叫ぶ烏丸京介に、崇史は小さく頷いた。

「勿論、それはこれから説明するよ。考え方は簡単だ。これまでに起こった四つの事件について、犯人としての条件を満たす人物と、満たさない人物に分けていくんだ。そうして消去法的に犯人を絞っていけば、自ずとたった一人が浮かび上がるってわけだ」

「言ってることは分かるがな。これまでの四つの事件について、それぞれのアリバイを確認した結果、この五人を容疑者としてるんだぞ? これ以上、どうやって絞りこむというんだ?」

「アリバイだけが犯人を絞り込む手掛かりってわけじゃないですよ」

 崇史は言いながら、一枚のDVDを取り出して見せた。

「まずは第一の殺人、田淵が殺された事件について考えてみよう。田淵の事件に関して、犯人を絞り込む手掛かりはこのDVDの中にある」

「あ、それって、前に僕たちが見たやつだよね?」

 宗像尚が声を上げる。尚と京介と愛は、既に一度見ている映像だ。

「そう。これが第一の事件のカギなんだ」

「そうはいっても……」

 少し不安げな顔で、中野澄香が言う。

「それって一階の監視カメラの映像でしょう? 田淵くんが落下したのは七階の倉庫からなのに、そんな場所の映像が、何かの役に立つの?」

「勿論です。この映像によって、容疑者は五人から三人にまで絞られます」

 崇史の言葉に、容疑者たちの顔に緊張が走った。

 崇史はそのDVDをプレーヤーに入れると、映像を大きなスクリーン上へと映し出した。

「ま、百聞は一見に如かずって言いますからね。まず実物を見てみてください」

 崇史の言葉とともに、映像が始まった。

 以前見たまま、政人の死体を見た容疑者たちの反応が克明に記録されている。

 やがて映像は終わったが、崇史以外の者はみな一様に顔に困惑の色を浮かべている。

「俺はこの映像を見るのはこれで二度目だけど……これでいったい何が分かるのか、正直さっぱりなんだが」

 頭を掻きながら京介が言うと、周囲の人々が頷く。

「教えて。今の映像の、どこがそんなに重要なの?」

 一同を代表するように、年長者の中野が崇史に聞いた。

 崇史は巻き戻しをして映像を最初の方まで戻すと、一時停止のボタンを押す。

「重要なのは、この映像の中で誰が何をしているか、ではないんです。注目すべきなのは、誰がこの映像に映っているか、そしてどういう順番でやってきているのか、です」

 崇史の言葉を受けても、理解できたものはいないようだ。そのまま話を続ける。

「田淵の死が他殺だと断定されたのは何故か、誰か答えられるか?」

 いきなり話の方向が変わった。

 一同は、首を傾げながら互いに顔を見合わせる。

「えっと……田淵くんの靴の裏と、窓付近の床から油が検出されたからだよね?」

「さらに、校舎内のごみ箱から床の油を拭いたとみられる雑巾も見つかった」

 崇史の問いに答えた愛に、補足するように宝井が付け加えた。

「そう。その痕跡で、田淵は犯人の仕掛けた罠によって、床に足を滑らせて落下したってことが分かったんだ。……よく考えてほしい。つまり犯人は、田淵が死んでから警察が来るまでの間に、七階の倉庫へ行って床の油を雑巾で拭きとることが出来た人物ってことになるよな?」

 崇史が全員の顔を見回す。

「それだけの時間的余裕があった人物が、この中に何人いる?」

 崇史のこの言葉を受け、何人かの顔がはっとした。

「この監視カメラに写っている人物のほとんどには、その時間的余裕がないんだ。監視カメラに映ってからは、警察がやってくるまで、誰ひとりとして席を外していない。つまり、七階の倉庫へは行けない。だから、もし七階の倉庫へ行ったとしたら、それは監視カメラに映る前ってことになる」

 崇史はスクリーンの方へと視線を向けた。

「でもこれでもやっぱりほとんどの人物には七階に行くのは無理だ。改札機があった関係で、みんな一階に着くのはバラバラだったが、それでも俺たちは一斉に教室を出て一階に向かったんだ。みんなが一階へ下りて行こうとする中、一人だけ七階へ上がって行ったらどうしても目に付いちまう。……ただ一人、最後尾の人間を除いては」

 何人かの息をのむ声が聞こえた。

「最後尾の人間だけは、人目に付くことはなかった。前を行く奴らは一階へ向かうために急いで階段を駆け下りて行っているし、後ろには自分を監視する人間がいないわけだからな。最後に改札を出た後、急いで七階へ駆けあがって床を拭き、また急いで一階まで駆け下りていって何食わぬ顔で到着して見せればいい」

 崇史は言いながら、一時停止中だった映像を早送りにした。

「じゃあ、実際に誰が最後尾だったのか見てみよう。一番に着いたのは俺だよな。次に不破。それから橋本、川上、宗像と続いて、最後に現れたのが……烏丸だ」

 全員の視線が、京介へと向けられる。

 その視線の先で、京介は眼を見開いていた。

「ちょ……待ってくれよ! 俺が犯人だって言いたいのかよ!」

「落ち着いてくれ。烏丸の他にも、犯行が可能だった人物はいる。最初に言ったろ。容疑者は三人にまで絞れるって」

「じゃあ、残りの二人は?」

 不審げに舞子が聞いた。

「残りの二人の場合はもっと簡単さ。まず、この映像に映っていない人物には、七階に行くだけの十分な時間があった。つまり、教室に一人だけ残っていた―――秋山。お前も、犯人としての条件を満たすってことになる」

 崇史の言葉に、愛は顔を青ざめさせる。

「最後の一人だけど、これは中野先生だ。中野先生は、落下の後、塾長に状況を知らせに行った。そして塾長は一人の講師とともに一階へ向かい、二人いた塾生は自分の教室へ帰らされた。中野先生は一人で講師控室へ事態を知らせに行ったそうだけど……その前に倉庫によって床を拭くくらいの時間はありましたよね?」

 中野は小さく顔を俯かせた。

 中野が講師控室へ姿を現したことは多数の講師から証言が得られているが、高塚たちと別れた後、真っ直ぐに講師控室へ向かったかどうかは定かではないのだ。

「つまり、いわば『証拠隠滅時のアリバイ』がない人物が、全部で三人いる。この三人が容疑者として残ることになるわけで、逆にいえば、『証拠隠滅時のアリバイ』がある不破と宗像は容疑者から除外されるんだ」

 崇史の言葉に、舞子と尚はどことなくほっとした表情を浮かべていた。

「じゃ、じゃあ……ここからはどうやって容疑者を絞っていくの?」

 どことなく不安そうな顔で愛が聞いてきた。京介と中野も、固い表情で崇史の方を見つめる。

「今と同じように、他の殺人でも考えてみるのさ。じゃあ、第二の殺人、川上が殺された件について考えてみようか」

 崇史は言ってから、少し困ったような顔で頭を掻いた。

「……とは言っても、この件から容疑者を絞ることは出来ないんだけどな。全員にアリバイはないし、犯人を特定していくのに使えそうな要素もない」

「おいおい、大丈夫なのか、それで。本当に犯人が誰だか分かっているんだろうな」

 宝井が呆れたような顔を作っている。

「大丈夫ですよ。残る第三と第四の殺人で犯人候補を一人にまで絞って見せます」

 容疑者三人の顔が、一層緊張で固まった。

「第三の殺人……橋本が殺された事件。この事件では、この中で一人だけ犯行が不可能な人物がいる」

 一人ひとりの顔をじっと見まわす。

「改札の記録をよく思い出してほしい。橋本が殺された時間の前に二回、後に一回、出入りの記録があったはずだ」

「ああ。うち一回は被害者のものである可能性が高いという話だったな」

「残りの二回のうち、事件後の記録は確実に犯人のものだと言えます」

「何故だ?」

 眉をひそめる宝井に、崇史は表情を変えないまま淡々と返す。

「凶器が六階のごみ箱から発見されたからですよ。改札の外側にいた犯人が、内側にあるごみ箱に凶器を捨てるためには、どうしても改札を通過する必要がある」

「……確かに」

「となると、犯人は事件後から警察がやってくるまで、ずっと六階の改札の内側にいたことになる。記録に残っている事件後の出入りは一回だけですからね。改札の内側に入った犯人が、外側に出ることは出来なかった」

 そして崇史は、ある一人の人物へ視線を定めた。

「俺と高塚塾長が悲鳴を聞いて、事件現場まで駆けつけたとき、もう一人現場に現れた人がいた。その人は俺とほぼ同時に七階から現れて、一緒に橋本の死体を発見したんだ」

 視線の先には、中野澄香の姿があった。

「六階から出れないはずの犯人が、七階にいて俺と一緒に死体を発見できるはずがない。つまり、中野先生は犯人ではありえない」

「当然よ……。私が、大切な生徒を殺すはずがないわ」

 小さく息をつきながら、中野が言った。

 これで、残る容疑者は二人。

「わ……私じゃない……。私は誰も殺してなんか……」

「俺だってそうだ。人殺しなんて誰がするかよ」

 愛と京介は、互いを疑いの眼差しで見つめていた。

 殺された者たちも仲間だったのだと、そう崇史に力説した二人のどちらかが犯人だという事実に、心が重く沈んでいくのを感じる。

 お前たちは仲間だったんじゃないのか、とそう叫びたい気持ちをぐっと抑え、二人に向き直った。

「二人のどちらが犯人なのかは、最後の塾長が殺された事件を考えてみれば分かる。塾長が殺された後の、二人の言動に注意してみれば」

 崇史は言いながら、尚の方へと顔を向ける。

「第四の事件で容疑者を除外する際の条件が一つある。宗像もその条件を満たしている一人だ」

「え、僕?」

 意外そうな顔で尚が自分を指差した。

「……心情的には僕は血の繋がった叔父さんを絶対に殺したりなんかしない、と言えるけど、そんなことは何の証拠にもならないよね。じゃあ、その条件って何?」

「塾長を殺すのに使われた凶器が、ただの灰皿ではなく高塚正臣の作った小皿だってことを知っているってことだ」

 ここが最後の分岐点。

 犯人をたった一人に絞るための、最後の条件。

「思い出してくれ。犯人は塾長を自殺に見せかけて殺していたんだ。すぐに見破られてたけどな。そしてそのために、塾長があの小皿で殺されたことは隠しておきたかった。だから、凶器を校舎の外に投げ捨てたり、代わりの灰皿を買って置いておいたりしたわけだ」

 尚はここまでで何が言いたいのか分かったらしく、目を見開いて顔を青ざめさせていた。

「犯人があの小皿が灰皿でないと知っていたら、代わりに灰皿を置くのは不自然だ。塾長は嫌煙家で自分はおろか、他人に目の前で煙草を吸われるのも嫌だった。だから塾長室に灰皿を置くことはなかったし、そんな塾長があの小皿を塾長室に置いていたのは、あれが息子さんの遺品だからだ。たとえあの小皿が無くなったり壊れたりしたとしても、塾長だったら絶対に代わりに灰皿を置いたりしなかった」

 もし犯人があの小皿が高塚正臣によって作られたものだと知っていたら、代わりの灰皿を置くなんて工作をするはずがない。

「塾長の甥だった宗像はもちろん小皿が高塚正臣が作ったものだと知っていた。……そしてもう一人」

 もう一人だけ、それを知っている人物がいた。

「秋山。お前はあの小皿がどんなものか、知っていたよな。あれは灰皿じゃなくて小皿だって、高塚正臣の作ったものだと塾長に聞いたって、そう言ったよな?」

 愛は、何度もこくこくと頷いた。

 驚いて言葉が出ないようだったが、その視線は真っ直ぐ『犯人』へと向かっている。

「……そして、烏丸。お前は、秋山があの小皿のことを口にしたとき、こう言った。『あの灰皿がどうかしたのか?』って。お前は、知らなかったんだよな。あの小皿の秘密を」

「…………」

「お前は知らず知らずの内にボロを出しちまってたんだよ、烏丸。……四人を殺した殺人犯は、烏丸京介! お前だ!」

 崇史に指差されたその先で、烏丸京介は蒼白な顔を引きらせていた。


「馬鹿言うなよ……おい」

 しばらく黙りこんだ後、京介は狂気めいた笑みを顔に貼り付けながら口を開いた。

「そんなことで、俺が犯人だって決めつけるわけか?」

「そんなことって……緒方くんの言ってることって、かなり筋が通ってると思うけど?」

 舞子の言葉に、京介は見下したような視線を向ける。

「はっ! 弁護士志望が聞いて呆れるぜ! そんな間抜けなこと言ってるようじゃ、なれたとして三流弁護士がいいところだ」

「なっ!」

 京介の横柄な物言いに、舞子が顔を真っ赤にして眉を吊り上げる。

「おい不破。弁護士になりたいなら覚えておけよ。法廷で最も大切なものはなんだ? 証拠だよ、証拠! 緒方の話には証拠となりうるものが何もない! 単なる消去法で犯人にされちゃ敵わないぜ。いくら屁理屈を重ねたところで、物的証拠にはならないんだよ!」

 その場のほぼ全員が、京介の放つ圧倒的な気迫に気圧されていた。

 引き攣った笑みに、両の瞳だけがギラギラと輝いている。追いつめられた獣の、最後の抵抗だった。

「物的証拠なら、ある」

 静かに宣言する。それと同時に、京介が笑みを浮かべたまま硬直した。

「何だよ、物的証拠って! そんなものあるもんか! 本当にあるっていうんなら、今ここに出してみやがれ!」

「焦らなくても見せてやるよ。そのために、みんなには六階へと移動してもらいたいんだ。そこに、決定的な証拠が眠っているから」

「六階……私たちが使っていたフロアだよね。いったいどこに証拠があるっていうの?」

 小さく首を傾げてみせた愛に、崇史は笑みを向けて言った。

「自習室前の廊下だよ。あの廊下が、川上が殺された直後だけ、妙に綺麗になっていたのを覚えてるか?」

「そういえば、確かに……」

「単に綺麗好きな誰かが掃除しただけかと思ってたけど……」

 口々に呟く人々の中で、京介は体全体をガタガタと震わせていた。崇史が発見した痕跡が、自分にとって致命傷になりうるものであると、彼自身が一番理解しているからだった。

「現物を見てもらった方が早いと思う。みんなで、六階の自習室前まで行ってみよう」

 そう言って、崇史は先陣を切って歩み始めた。



 六階には、既に警視庁の鑑識課の人間が数人控えていた。

 やや緊張した顔つきで、崇史や上司である宝井たちを迎えている。

「まず、みんなに考えてもらいたいんだ」

 全員が揃ったことを確認すると、崇史は先頭から振りむいて口を開いた。

「床が綺麗になっていたということは、たぶん誰かが掃除をしたってことなんだと思う。でも、自分がそれをしたって言う人は誰もいない。掃除くらい、別に隠すようなことでもないはずなのに、どうしてなんだと思う?」

「それは、やっぱり犯人が床を掃除したからじゃないの?」

 一同を代表するように、舞子が言った。

「じゃあ、犯人はどうして床を掃除なんかしたんだ?」

「えーと……、やっぱり、何か証拠になるような痕跡を残してしまったから……それを取り除きたかったんじゃない?」

「ああ、それが自然な答えだろうな。問題は、そうまでして犯人が消し去りたかった痕跡というのが何だったのかだ」

 それについては具体的な案がないらしく、舞子は口を閉じた。その他の一同も、みな考え込むようなそぶりを見せている。

 唯一、京介だけが崇史から視線を逸らしながら冷や汗を流していた。

「現場の状況を思い出してほしい。宝井警部、警察が川上の事件を、自殺ではなく他殺だと判断した理由は何ですか?」

「部屋が血塗れなのにもかかわらず遺書に血痕が付いていなかったこと、ごみ箱から血塗れのレインコートなどが発見されたこと、被害者の首にためらい傷が見られなかったこと、それから、現場の床に血を拭ったような跡が見られたことだ」

 指名された宝井は、腕を組んで仏頂面のまま、すらすらと答えてみせた。今回の連続殺人事件の概要を、完璧に暗記しているのだろう。

「そう。ここで重要なのは、今宝井警部が挙げてくれたうち、最後の要素だ。床の血を拭った跡があった。これは一体何のためだ? それから、ごみ箱で見つかった犯人の遺留品についても確認したい。発見されたのは、血塗れのレインコートと手袋で間違いありませんよね?」

「ああ」

「床で見つかった何かを拭った跡。それから遺留品。これらを見比べてみて、何か気付かないか?」

 再び場が静まり返る。

 それぞれが一様に考え込んでいた。

「……足跡」

 一分経ったか二分経ったか、しばらく続いた静寂を破ったのは、宗像尚の小さな声だった。

「足跡?」

「床に残る痕跡っていったら、やっぱり足跡じゃないのかな。現場には床を拭った跡があったんでしょう? それって、血塗れになった室内を、靴で歩きまわって足跡をつけてしまったからじゃないかな」

 聞き返した愛の言葉に、尚が必死に考えをまとめながら答える。

 そしてその言葉に、各々がはっとした表情を浮かべた。

「犯人が残した遺留品を見てみて思ったんだけど、手袋は指紋を残さないために使ったんだよね。そして、レインコートは返り血を防ぐためだと思うんだ。……でもさ、レインコートじゃ、靴の裏に付く血までは防げないよね」

「そう」

 ついに正解に辿り着いた尚に、崇史は大きく頷いて見せた。

「犯人は川上を殺した後、血塗れになった室内で色々と工作をした。遺書を残したりとかな。そのために、血塗れの床の上を動き回ったはずだ。そして全ての工作を終えた後、自分の靴の裏に血が付いているとも知らずに、犯人は外へ出てしまった。そのせいで、廊下に血の足跡が残ってしまったってわけだ。それに気付いた犯人は、慌ててその血痕を掃除したんだろう」

 崇史は京介の方をまっすぐに見据えた。

「ただの足跡なら、烏丸が犯人だという決定的な証拠にはならない。お前はもう、血塗れの靴なんてとっくに処分してしまってるだろうから、足跡なんて見比べても無駄だろうしな。でも、幸運にも、その足跡はそれ自体で犯人を指し示してくれた」

 崇史は鑑識課の人たちに目で合図を送った。

 すると彼らは小さく頷き、廊下の電気を全て消してしまったのだった。

「きゃっ! 何?」

 愛が小さく声を上げる。

「ごめん、驚かせたかな。でも、こうした方が犯人が残した足跡が見やすいからさ。鑑識の人たちにこの廊下一帯にルミノール反応を試してもらったんだ。そしたら結果は……見ての通りだ」

 ルミノール反応。ルミノールと炭酸ナトリウムとの水溶液に、過酸化水素を加えた試薬を血痕に噴霧すると、暗所で青白く発光する反応。感度が高く、既に拭きとられてしまった血痕にも敏感に反応する方法だ。

 そして薄暗くなった廊下の中、崇史の推理に応えるように、青白い足跡が浮かび上がってきた。

 足跡は現場となった美弥の部屋から続き、廊下の隅にあるごみ箱の方へと伸びていた。恐らくは、ここで手袋やレインコートを捨てたのだろう。

 そしてそこからさらに、足跡は距離を延ばす。足跡の向かったその先には。

 大きく「烏丸京介」とプレートに掲げられた、自習室のドアがあった。

「足跡はここまでで途切れている。多分、ここで血の足跡を残してしまったことに気付いた烏丸は慌てて靴を脱いだんだろうな。そして、床の血を掃除した」

 崇史はまっすぐと、言い逃れを許さない強い瞳で京介の方を向いた。

「血の足跡は、何でお前の自習室まで伸びているんだ? 答えは簡単だよな。犯行を終えた犯人は、自分の自習室へ帰ろうとしたってわけだ。そしてその痕跡が、こうしてここにはっきり残っているんだよ!」

 京介の表情は変わらなかった。

 ただ必死に、何か反論が出来ないかと言葉を探しているようにも見えた。俯く京介の体が、次第に小刻み震え始め、そして。

 数秒の後、がくりと力尽きた様子で、その場に力なく膝をつくのだった。









「あいつらがいけないんだ……あいつらが……」

 観念した様子の京介は、その場で膝をついたままうわ言のように繰り返していた。

「ねえ、一体何があったの? 何で四人を殺したりしたの!?」

 目に涙をためながら、中野が詰め寄るように尋ねた。京介は中野の方を見ないままに、小さな声で言葉を返す。

「見られてたんだ……。俺が、高塚を見捨てたところを」

「え?」

「あの火事の日。俺は空き教室にいたんだ。あのときの俺は勉強のストレスとかでイライラしててさ。空き教室で隠れて煙草を吸ってた。教室も防音構造になってたから火事には気付かなくて……。そうやってそこで煙草をふかしてたら、いきなりそこに中野先生が入ってきた」

 この塾では、講師が各教室を見回りに訪れる時間が定められている。だからこそ京介は安心して煙草を吸っていたわけで、見回りの時間外に突然現れた中野に、京介も驚いたことだろう。

 しかし京介の言葉とは裏腹に、中野は目を丸くした。心当たりがないようだ。

「俺は煙草を吸ってたのを見られるわけにはいかなかったから、慌てて教壇の陰に身を隠したよ。それでもすぐばれると思ってたけど、中野先生はぐるっと教室を見回した後、そのまま俺に気付くことなく出て行った。……これが普段だったらこうはいかなかったと思う。教室には俺が吸ってた煙草の煙とか臭いが充満してたし。でも、その日は火事だったから、中野先生も気が動転してたんだろうな」

 中野は残っている塾生に避難の呼びかけをしていたのだ。そして空き教室にも生徒が残っていないか確認しに来ていたのだろう。

「中野先生が去った後、外の様子がおかしいことに気がついて、外に出てみた。驚いたよ。まさか火事になってるなんて思わなかったからな。俺は勿論、急いで外に避難しようとした。でも、そのときに……」

 京介は下唇を噛み、苦々しげに表情を歪めた。

「そのときに、誰かが俺の足首を掴んできたんだ。驚いて見てみると、それは床に這いつくばった高塚だった」

「……正臣?」

 はっとしたような表情で呟いた尚に、京介は小さく頷いて見せた。

「よく聞けよ、宗像。お前の従兄弟はな、俺を道ずれにしようとしたんだよ。一酸化炭素中毒でもう満足に動けなかったくせに、俺の足首を掴んで離そうとしなかった。俺は、必死で振り払ったよ」

「……振り払った、だけ? 正臣の遺体には、暴行を受けた形跡があった。もしかして、君は―――」

「だって!」

 尚の言葉を遮るように、京介が叫んだ。

「だってあいつ、どうしても離さなかったんだ! だから、だから俺は……気づいたら、あいつのこと蹴ったり殴ったりしてて……必死だったんだよ俺も!」

「助けようとは思わなかったのかよ?」

 非難めいた口調で崇史が言うと、京介はこちらをキッと睨みつけてきた。

「そんな余裕なかった! 俺だって……俺だってもう少しで死ぬところだったんだ!」

 京介は叫んでから、自らを落ち着かせるように小さく深呼吸をした。

「……何とか階段まで火が回る直前に避難することが出来た。でも、俺が高塚を見捨てたところを、ちょうど田淵と川上が見ていたらしいんだ。そのときは気付かなかったけど。あいつらは倉庫からちょうど出てくるところで……俺が避難した後、あいつらも俺と同じルートで逃げようとしたけど、その前に階段まで火が回ってしまったらしい」

 京介は訴えかけるような眼で尚の方を向いた。

「なあ、俺だけじゃない。田淵や川上だって、高塚を見捨てたんだ! あいつらは自分の避難を優先させるために、床に這いつくばっている高塚を無視して動いてたんだ! 結果、あいつらははしご車で避難出来たけど、そのときも、我先に避難しようと動いていて、高塚を一緒に避難させようとさえしてなかった! 俺だけじゃない! あいつらも同罪なんだ!」

 目を向けられた尚は、複雑そうな表情で京介を見つめていた。

「なのに……田淵の奴は、俺を脅してきやがったんだ。俺が高塚に暴行を加えていたことをばらされたくなければ、講師控室から試験問題を盗んで来いって」

「確か、火事の前までは高塚がそれをやってたんだよな?」

「ああ。あの火事で高塚が死んでしまったから、かわりを探してたんだろうな。それで、俺に白羽の矢が立ったってわけだ。弱みを握ったつもりでいたんだろうな」

「事実、お前は試験問題を盗み出したよな?」

 その試験問題の入ったUSBをネタに、京介は田淵を誘き寄せたのだから。崇史の言葉に、京介の顔が苦々しげに歪む。

「数学の問題は、講師の先生のガードが甘かったから何とか盗み出せた。でもやっぱ、他の教科は無理だったよ。……試験問題を盗みながら俺は思ったね。俺は一生、あのガリ勉野郎に弱みを握られて生きていかなくちゃならないのかって。……耐えられなかった」

「……でも、烏丸くんのやったことって、罪には問えないんじゃないの? 確か、緊急避難っていって、非常時だからしょうがないってことになるんじゃ?」

 愛が少し首を傾げながら自信なさそうに言った。京介はその言葉に小さく頷く。

「俺もそう思ったけど……でも、今思い返してみると、かなり痛めつけちまったから、やりすぎだってことで罪に問われたかもしれない。法律にはあんまり詳しくないから、よく分からなかったし。それに、もし罪に問われなくたって、俺の評判は悪くなるだろ」

「評判?」

「……俺、これでも文武両道の優等生ってことで、家でも学校でも近所でも、結構評判いいんだぜ。でも、それが……あのことがばれたら……俺は一気に、友達を見殺しにした卑怯者ってことになってしまう。それが耐えられなかったんだ……」

 崇史は思わず「え?」と聞き返してしまった。

「評判? そんなもののために……殺人まで犯したっていうのか? だって、人殺しの方がずっと……」

「お前に何が分かる!」

 京介は吠えるように叫んだ。

「俺はいつだって期待されてきた! そして、それにいつだって応えてきた! 今更、あんなことで積み上げてきたものを台無しにしたくなかったんだよ!」

「あんなこと、って……」

 尚は悔しげに呟いた。

「川上だって……俺がそうやって期待に応えられる人間だったからこそ、俺に惚れたんだろ!」

「川上さんが、烏丸くんのことを?」

 聞き返す中野の言葉に京介ははっとし、少し冷静になったようだった。

「川上は……俺のこと、好きだって言ってきた。だから、田淵のことも自分に任せろって。もちろん川上自身も、高塚のことは誰にも言わないからって、そう言ってきたんだ」

「じゃあ、全部川上さんに任せておけば……」

「冗談じゃない! あの女、俺のことが好きだって言ったんだ! 田淵を黙らせたら、その次はそれをダシに自分と付き合えとか言ってくるに決まってる! きっと、どんどん要求はエスカレートしてきて……脅される相手が、田淵から川上に変わるだけだと思った。だから、あの二人をまとめて殺す方法を考えたんだよ」

 勉強にしか興味がないような眼をしていた、あの川上美弥が京介のことを好きだったという。彼女の想いまでも、京介は踏みにじったのだ。

「ああ……。あの二人を殺して、それで終わりだと思ってたのに。ようやくこれで全部終わったと思ってたのに。床の足跡を消しているところを見られて、橋本を殺さなきゃならなくなった。それから、何故かは分からないけど、塾長には塾長室に呼び出されて『君が犯人だろう』って言われて……俺、口をふさがなきゃって思って……」

「叔父さんは、君が犯人かどうかなんて知らなかったんだよ……」

 目を伏せながら、尚が沈んだ声で返す。

「ただ、鎌をかけただけだったんだ。誰が犯人だか分からないから、一人ずつ容疑者を呼び出してそう言って、反応を見ようって。君は、ただしらを切っていれば、それでよかった。叔父さんまで殺す必要はなかったのに」

 崇史と尚に向けて言ったことを、高塚は実践してしまったのだ。そしてその最初の一人が、偶然にも京介だったのだろう。

 あのとき、もっとちゃんと止めるよう釘を刺しておけば、こんなことにはならなかったのだろうか。

 崇史の胸に、苦い思いが沸いた。

 黙り込んでしまった京介に、ゆっくりと宝井が近づいていく。

 宝井が肩を叩くと、無言のまま立ち上がり、宝井に連れられてどこかへと消えていった。








 ほんの少し前まで、多くの人間がひしめきあっていた視聴覚室。

 その中で今はたった二人の人物が向かい合っていた。

「それで、僕にだけ話って何かな」

 一連の推理を終えた後、緒方崇史は宗像尚だけをこの場所に呼び出していた。双方の表情は、どことなく硬い。

「……俺さ、塾長に依頼されていたんだ。高塚正臣の死の真相を突き止めてほしいって。でも、もう塾長はこの世にいない。確証もないし、このまま誰にも言わずに俺の胸にしまっておこうかとも考えたけど……やっぱり、宗像にだけは言っておこうと思って」

「どういう……こと? 正臣の死の真相は、さっき説明してくれたよね? 正臣は、烏丸くんや田淵くんや川上さんに見捨てられて死んだんだって」

 尚の言葉に、崇史は視線を泳がせる。

「確かにそうだ。でも、それがすべてではないと思うんだ。考えてもみてくれよ。まだ分かっていないことが、ひとつだけあるだろ?」

 まだ、すべてが終わったわけではない。

「塾に放火をしたのが誰なのか……その犯人がまだ、分かっていない」

 尚が小さく息をのんだ。

「確かに、高塚正臣を見捨て、暴行を働いたのは烏丸だった。けど、烏丸は放火犯じゃなかった。火事という状況でパニックにおちいっただけの何も知らない第三者だった。……じゃあ、校舎に火をつけたのは、誰だ?」

「それが誰なのか……緒方くんにはもう分かっているんだね?」

「さっきも言ったけど、確証はない。俺は実際に現場を見てもいないし。警察や関係者のみんなから聞いた話を総合して、一番考えられそうな可能性が思い浮かんだだけだ。それでも、いいか?」

「……聞かせてほしい」

 真剣な目で、尚が言った。

 尚の言葉に、崇史は黙って頷いた。

「これは、宝井警部に教えてもらった話なんだけどな。放火事件があった日、校舎の外の方には、箒や塵取りが散乱していたらしいんだ」

「……箒や、塵取り?」

「そう。今回の事件で、塾長を殺すのに使われた小皿が、窓から投げ捨てられていたように」

 尚は困惑したように首を傾げた。

「それがどう犯人につながるの? まさか箒や塵取りで火はつけられないでしょう?」

「ああ。重要なのはそっちじゃない。箒や塵取りが無くなったことで生まれたスペースの問題だ」

「スペース?」

「ああ。箒や塵取りが普段収納されている場所はどこだ?」

「えっと、掃除用具入れ……だよね?」

 尚が自信なさそうに答える。

「そう。つまり、箒や塵取りを投げ捨ててしまうことで、掃除用具入れにはスペースが生まれる。例えば、人がひとり入れるくらいの」

「……え?」

 尚は眼を見開く。

「不思議だったんだよ。中野先生たちは全ての教室と自習室を見回った。回っていなかった倉庫には川上や田淵がいた。じゃあ、高塚正臣はどこにいたんだ?」

「……掃除用具入れの、中? もしかして正臣はそこで監禁されていたってこと!?」

 身を乗り出した尚に、崇史は静かに首を振った。

「監禁じゃない。もし無理やり掃除用具入れの中に入れられていたなら、縛られた痕か何かが死体から見つかっていたはずだけど、そんな話は聞いてない。それに、烏丸の話を聞いてみても、廊下に這いつくばっていた高塚正臣が縛られていたという事実はなかった」

「じゃあ、どういうこと?」

 崇史は小さく溜息をついた。

「高塚正臣は、自分の意思で掃除用具入れの中にいたんだよ」

「まさか! 火事になっているのにそんなことしてるはずがないよ! 普通、急いで避難するはずだ!」

 尚は顔を歪めて反論していた。

 その表情を見るに、必死に何かを認めまいとしているようだった。尚にも、崇史の言わんとしていることが分かってきたらしい。

 崇史は、じっと尚の目を見据えた。

「……俺はこう考えてる。高塚正臣は、自分で塾に火をつけたんだ。そして、校舎内から人がいなくなるまで、掃除用具入れの中に隠れていた。誰かに発見されて無理やり避難させられないように。……確実に、死ねるように」

「正臣は……正臣は……自殺……?」

「そう考えれば、色々しっくりくるんだ。彼には、自殺の動機だってあっただろ?」

 田淵政人からの嫌がらせ。無理やり、テスト問題を横流しさせられていた。

「だからって……塾に火をつけなくても……。だって、あの塾は秀次叔父さんと麗子叔母さんの大切な塾じゃないか……」

 尚はそう呟いてから、「いや」とそれを打ち消した。

「だからこそ、かな。田淵くんから嫌がらせを受けていたのは……正臣が秀次叔父さんの息子だったから、なんだから」

「……ああ。もしかしたら、亡くなった高塚正臣は、秀麗塾そのものをも恨んでいたのかもしれない」

 崇史は言ってから、「ふう」と息をついた。

「……なんて、もっともらしく言ったけどさ。さっきも言った通り、確証なんて何もないんだ。だから、今言ったことが事実だとは限らない。一方的に話しておいてこんなことを言うのは無責任かもしれねぇけど、忘れてくれたっていい」

「ううん。多分、今、緒方くんが話してくれたことが事実なんだと思うよ。同年代の従兄弟として、正臣とは小さいころから仲良くしてたから、何となく分かるんだ。色々と溜め込んで、耐えられなくなって爆発させやすい奴だったから。緒方くんが話してくれたような行動に出ても、不思議じゃない」

 言ってから、尚は顔を伏せた。

「……はは。何だか、誰を恨めばいいのか分からなくなっちゃったよ。烏丸くんは確かに正臣を見捨てたけど、それは正臣自身が望んだことでもあったんだから」

 安易な言葉をかけても、尚の心には響かないかもしれない。

 けれど、崇史には尚に伝えたい言葉があった。

「……難しい話かもしれねぇけど。誰かを恨んだり、理不尽なことを誰かのせいにするのはやめよう。宗像は凄く優しい奴なんだからさ。誰かを恨もうとするんじゃなくて、前を向いているているべきだ。塾長や高塚もそう思ってると思うぜ」

 尚はじっと目を閉じた。

 秀麗塾の火事から始まったこの数カ月、彼の周囲には驚くほど多くの悲しみや理不尽があっただろう。その全てを、噛み締めているかのようだった。

 やがて、ゆっくりと彼は眼を開けた。

「……ありがとう。そうだよね。正臣の気持ち、秀次叔父さんの気持ち、死んでいったみんなの気持ち。生き残った僕が、ちゃんと覚えていないとね」

 どこか晴れ晴れとした笑顔で、尚は言った。

「忘れないよ、絶対に」

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