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見えない同担に必死な悪役令嬢は、気づけば最強の推しと王国軍を掌握していた

作者: マサ
掲載日:2026/08/29

 王立学園の片隅、周囲から陰の魔窟とささやかれる一室。窓の外では青空の下、聖女マリアが優雅な笑みを湛え、貴族の子息たちがその周囲で慈愛に満ちた視線を交わしている。


「ああ、マリア様……今日もなんと尊いのだ」

「それに比べて、あのルチアーナとかいう悪役令嬢は……」


 微かに漏れ聞こえるひそひそ声も、窓際に陣取る公爵令嬢ルチアーナの耳には、遠くで鳴る雷の音程度にしか届かない。彼女の脳裏は今、極めて高負荷な思考の奔流によってフル稼働しており、学園の人間関係などという低解像度の雑音に割くリソースなど残されていなかった。


(……待って。ここで二段斬りの魔力運用における重心の傾きを考察する場合、インクは、やはり漆黒の夜空を思わせるミステリアスな青か、それとも血潮を滾らせる赤か……)


 重厚な机に向かい、ルチアーナはガリガリと猛烈な勢いで羽ペンを走らせる。目の前には十数冊に及ぶノート。表紙にはエドワード様・尊い記録と金文字が刻まれ極秘・閲覧厳禁の文字が踊る、中には国家機密レベルの緻密さで描かれた騎士団長エドワードのイラストと、日々の動静をまとめたグラフ、そして膨大な文字数のポエムが並んでいた。


 周囲から冷ややかな視線を向けられようが、ルチアーナの耳に届くのはただのざわめきに過ぎない。遠くでマリアが誰かに話しかける声が響く。


「ルチアーナ様が私の教科書を隠したのですわ……!」


 しかし、彼女の反応はただ一つ。


(はー、マリアちゃん、今日の小芝居も相変わらず演技力三流だな。そんなことより、明日の東屋への差し入れ、何をトッピングするかだ)


 ざまぁ対象たちの学園生活での茶番劇には一切興味がない。ここは最愛の推しであるエドワード様をいかにして支え、その美しさを崇めるかという聖地だった。前世の記憶を持つ彼女がこの乙女ゲームの世界に転生し、断罪ルートが待ち受けていると知った時、彼女が最初に思ったのは絶望ではない。


(生でエドワード団長を生家、勤務地と間近で拝める神イベが始まった……!)


「はあ……今日もエドワード様のお美しさは世界を救う……。あの北区画での魔獣討伐の際、無造作に前髪をかき上げながら大剣を振るう姿……あれだけで白米が三杯いける。いや、我が家の全財産を寄付しても足りない」


 ルチアーナは机に突っ伏し、冷たい指先で両頬を抑えて身もだえした。自室の壁一面にはエドワードのスケッチが貼られ、机の上には疲労困憊の団長をいかに癒やすかを研究するための薬草学の本が山積みにされている。


「今日の差し入れは、やはり持久戦を考慮してクエン酸とアミノ酸の黄金比率かな。よし、特製ハーブティーの調合を急がなきゃ……!」


 周囲の陰口や冷たい視線など、限界オタクの辞書においては空気の振動と同義である。俗世のいざこざの真ん中で、彼女は今日も一人、ニヤけそうになる頬を必死に押さえながら、狂気的なまでの愛を込めて考察ノートをめくり続ける。


 午後の授業がまどろみの中ですべて終わり、夕暮れの茜色が王立学園の中庭を淡く染め上げる頃。ひっそりと佇む苔むした東屋のテーブルの上に、ひそやかにそれは置かれていた。


 漆黒の磁器で象られた魔法保温水筒。その傍らには、ルチアーナが三日三晩不眠不休で調合した特製・疲労回復ハーブティーが鎮座している。中身は魔力疲労に効くトワイライト・カモミールをベースに、高麗人参のエキスと微量の蜂蜜をブレンドした、飲む点滴とも呼ぶべき逸品だ。


「よし、誰にも見られていないな……」


 物陰から周囲をうかがい、スパイばりの身のこなしで警戒しながら、ルチアーナは懐から取り出した手帳に素早くメモを書き殴った。


『本日のブレンドは酸味を控えめにして甘みを強めにしました。最近の北区画での連戦による胃腸の疲れを考慮した結果です。どうぞお召し上がりください』


 それを水筒の横にそっと添えると、彼女は忍者のような足取りでその場から駆け出した。


 ――それからわずか十五分後。回収と生存確認のためにそっと東屋へ戻ると、そこには信じられない光景が広がっていた。


「……っ!?」


 持ってきたはずの魔法保温水筒は、綺麗に空っぽになっていた。ここまでは想定内だ。エドワード団長が日々の激務の合間に飲んでくれたのだとしたら、それだけで宇宙の真理に感謝したくなる。だが、ルチアーナの視線は、その傍らに置かれた一枚の返信メモに釘付けになった。


 そこには、見覚えのない力強い筆跡でこう書かれていた。


『美味い。この酸味の絶妙な配合、疲弊した神経に染み渡るぞ。特に後味に残るハーブの清涼感が、日々の剣術訓練で凝り固まった僧帽筋の緊張を綺麗にほぐしてくれた。この至高の茶を差し入れた無名の同志よ――貴公の団長に対する忠義、しかと見届けた。実に素晴らしい』


「…………な……なんですって……!?」


 ルチアーナは、ガタガタと全身を震わせた。お茶が空っぽだったことへの歓喜ではない。そのメモに綴られた言葉の端々から漂う、尋常ではない熱量と、こちらの手の内を正確に読まれていることへの圧倒的な動揺だった。


「酸味のバランス……だと……!?私が微調整したあのシトラス系の隠し味に気づくなんて……しかも僧帽筋の緊張とか、ただの一般人が口にするセリフじゃないわ!こ、この筆跡……私の知っているこの世界の貴族たちの書き方じゃないわ。明らかに……!」


 ルチアーナの脳裏に、雷光のごとき閃きが走り抜けた。


(――この世界に、私以外にも転生者が潜んでいる……しかも、よりによってエドワード様を敬愛する同志だわ!!)


 実際には、これは文字通り一般の騎士――正確には、極度の甘党かつ筋肉フェチである脳筋の部下が、たまたま東屋でそのハーブティーを発見し、あまりの美味さに感動して勢い余って力任せに殴り書いただけのメモである。しかし、自意識過剰とオタクのフィルターをフル稼働させたルチアーナの頭の中では、完全に暗躍する謎のライバル転生者とのガチンコのマウント合戦の幕開けへと変換されていた。


「くっ……!やるじゃない、謎の同志!私が差し入れたお茶を先に飲んで、しかもそんな玄人好みの感想を残していくなんて……!」


 東屋の冷たい石畳の上で、ルチアーナは乾いた唇を舐め、微かに震える指先できつく拳を握りしめた。


「負けないわ……!明日はもっと物資の質を上げてやるんだから……!」


 こうして、歴史の表舞台とは全く関係のないところで、狂気に満ちたメモの応酬戦の火蓋が切って落とされた。



 東屋での出会いから数日。ルチアーナの頭の中は、謎の同担に遅れを取るわけにはいかないという焦燥で完全に熱を帯びていた。


(くっ……昨日のメモで酸味のバランスなどと通ぶったかと思えば、今日の朝は団長室の前に変なポエムが置いてあったわね。向こうがその気なら、こちらも現代知識の総力を結集したガチの物資支援で物理的にマウントを取り返してやる……!)


 公爵家の厨房を深夜にこっそり侵入し、前世の記憶を頼りに錬成された特製のエナジーバー。オートミールをベースに、アーモンド、カカオニブ、魔力回復を促進する特殊な蜂蜜を練り込み、一本食べるだけで肉体の疲労が消え去るカロリーの塊だ。さらに、筋肉痛の騎士たちのためにマグネシウムと精油を贅沢に配合したバスソルトまでガラス瓶に詰め込んでいく。


 それらを団長室の前に配置する際、ルチアーナは必ず直筆の解説メモを添えた。


『本日のローストビーフ丼ですが、近年の魔獣討伐における騎士の筋疲労データを計算し、タンパク質とクエン酸の比率を調整しました。特製ソースにはタウリンを豊富に含む貝のエキスを隠し味として加えています。どうかエドワード様の素晴らしい僧帽筋の維持にお役立てください』


 メモの隅には小さな怒りマークが走り、続けて文字が綴られている。


『昨日の同担のメモ、次は負けませんからね』


 物資の管理にとどまらず、ルチアーナの観察眼は軍事戦術の領域にまで踏み込んでいた。前夜、窓から双眼鏡で遠巻きに眺めた北区画の討伐戦の記憶を頼りに、戦術助言までメモに書き殴る。


『昨日の北区画における討伐戦、エドワード様の二段斬りの際の魔力運用、美しすぎて泣きました。ただ、左翼のフォーメーションにほんのわずかな死角が見受けられたため、そこを補強するためのハーブティーをここに置きます。この隙を突かれたら悲しみに暮れますので、どうかお気をつけください』


 この過剰な物資と的確すぎる戦術メモに対し、肝心のエドワード団長および精鋭部隊の反応は、ルチアーナの予想を遥かに超えて跳ね上がっていた。


 朝、団長室の扉を開けたエドワードは、そこに置かれたローストビーフ丼と栄養学メモを見つめ、乾いた喉を鳴らしてから深く息を呑んだ。


「な……なんだと……!?我が騎士団のわずかな死角を見抜き、それを完璧に補うハーブティーを用意してくださるだと……!」

「しかも、日々の訓練で疲弊しきった我々の筋肉が必要としている比率の栄養管理……これは偶然ではない。神の御使いとして我が団を導いておられるのだ……!」


 副団長をはじめとする屈強な精鋭騎士たちも、そのメモを回覧板のように回し読みし、目頭を熱くさせた。


「今月の魔獣討伐の死者数がゼロなのは、完全にルチアーナ様のおかげだぞ!」

「次の補給物資はまだか!あの特製エナジーバーがないと、午後からの訓練を乗り切れる気がしない!」


 ルチアーナが謎のライバルに対するマウントの取り合いとして必死に行っていた推し活は、巡り巡って王国最強の軍部を従え、その戦闘力と生存率を跳ね上げる奇跡の軍事大改革として結実していた。


(くそっ、今日の同担の返信メモ、地味にセンスが良くてムカつく……!)


 当の本人は、一人でピリピリと警戒心を尖らせていることなど知る由もなかった。


 東屋の一件以来、軍部エリアの一角は、ルチアーナと謎の同担による狂気的なマウントの戦場と化していた。


 翌日、団長室の前に命懸けで置いた騎士の筋疲労とタンパク質についての分厚い考察メモ。その数時間後に回収へと向かった彼女が目撃したのは、そのメモのすぐ隣にペタリと貼られた新たな返信だった。


『それな。ちなみに昨日の差し入れのマフィン、チョコチップの隠し塩味が天才だった。あえて甘さを引き締めるそのセンス、お主やるな』


「……っぐ……!!」


 廊下の陰で、ルチアーナは自分の胸元を両手でギュッと掴み、奥歯を鳴らした。


(くそっ……!私のマフィンの隠し味まで完璧に見抜いた上に、それな、だと……!私の推し活のアイデンティティをまるで対等なライバルかのように軽々と踏み荒らしやがって……!)


 日を追うごとに、メモのラリーはエドワードの預かり知らぬところでエスカレートしていった。


 ルチアーナが精神安定を重視してラベンダーを強めにすれば、翌日にはジャスミンの爽快感が欲しかったと返ってくる。もはや推しへの差し入れという名の、オタクとしての主導権をかけた陣取り合戦だった。


(向こうも私を同じ転生者と踏んだ上で、あえて余裕を見せることで精神的マウントを取ろうとしているんだわ……!許さない、ここで負けたら、にわかのレッテルを貼られてしまう……!)


 ルチアーナの頭の中は、日夜こんなミッションでいっぱいに埋め尽くされている。


 1、謎の同担の筆跡と足跡から、学園内の潜伏容疑者を特定せよ

 2、次回の差し入れで相手の意表を突き、マウントを完全に取り返せ

 3、同担にこの人には敵わないと思わせる究極の推し活理論を構築せよ


 授業中であっても、彼女の瞳はうつろに一点を見つめ、脳内では次の物資にはどのスパイスを配合すべきかといった過激な考察がフル回転している。


「おい、あのルチアーナとかいう悪女、最近やけに険しい顔でノートに何か書き殴っているぞ……」


 周囲の貴族子息たちが恐怖に震え上がっていることなど、視野に入るはずもなかった。


(待てよ、謎の同担……!明日の差し入れには、前世の記憶のすべてを注ぎ込んだ特製・魔力活性化プロテインを叩きつけてやるんだから……!)


 孤独で熱すぎるオタクの陣取り合戦に身を投じ、日夜一人で警戒心を尖らせ続けるルチアーナ。しかし、彼女がそのミッションに全神経を注いでいることで、王国軍部そのものが彼女の掌の上で完全に狂信的な信者へと染め上げられていることなど、この時の彼女はまだ夢にも思っていなかった。


「くっ……今日もあの謎の同担め、私のメモの隙をついて『昨日のエドワード様の抜刀術のフォーム、完璧でしたね。特に肘の角度がエモい』などと返信しやがって……!次こそ絶対に見返して、完全なマウントを取り返してやるんだから……!」


 自室の机にしがみつき、血走った目で次の差し入れのメニューを考案しながら、ルチアーナは一人で歯ぎしりを繰り返していた。彼女の脳内は、日夜同担ライバルとのオタク的陣取り合戦に勝つことで完全に占拠されている。自分は孤独な戦いに身を投じる孤高の悪役令嬢、そんな切実なプレッシャーに、彼女は日々ピリピリと神経をすり減らしていた。


 しかし、当の本人がそんな学園内での小さなマウントバトルに全人生を賭けているその頃。王国軍部の本拠地である騎士団兵舎、および団長室では、全く別の、しかしあまりにも巨大で深刻な神格化のドラマが進行していた。


「……見ろ、副団長。今日のルチアーナ様からのご神託だ」


 団長室の執務机の上。エドワード団長は、まるで聖遺物でも扱うかのように、両手で丁重にそのメモを掲げていた。傍らに控える副団長や屈強な精鋭騎士たちが、息を呑んでその文字を覗き込む。


『本日の訓練における魔力運用の微調整と、タンパク質比率の改善案』


 そこには、ルチアーナが同担へのマウント用に書いた文字が、あたかも天啓のごとく記されていた。


「あんな的確な戦術助言、我が国の歴代最高軍師でも思いつかん。やはりルチアーナ様は、我ら騎士団を導くために天から遣わされた神の御使いだ……!」

「ルチアーナ様を侮辱する者は、たとえ王族であろうと我が剣で叩き斬る!」


 エドワードは深くうなずき、熱い涙を目に浮かべながら拳を握り締めた。


「そうだ……我らはルチアーナ様という偉大な庇護者のもとにある。もし、この王国において、あの方の名誉を汚すような不届き者が現れたら――たとえそれが王族であろうと、我が剣で容赦なく叩き斬る!」


 兵舎全体がルチアーナ様親衛隊と化し、士気は最高潮を通り越して狂信的な域に達していた。軍部の実権は、実質的に無自覚な公爵令嬢の手中に完全に握られていたのである。


(ふう……今日の同担対策のメモはこれで完璧。あとは卒業パーティーのドレスをどうするかね……)


 ルチアーナはガリガリとペンを置き、大きく伸びをした。彼女の目下の関心事は、まともに迫った王立学園の卒業パーティー、そしてそこで待ち受けるであろう、謎の同担が推しを横取りしようとする卑劣な企みをいかに阻止するか、その一点のみである。


(第二王子レオンと聖女マリアの茶番劇?そんなの知ったこっちゃないわ。それより、あのパーティーの会場に、あの謎の同担が正体を隠して潜伏している可能性が高い……!くっ、絶対に返り討ちにしてやるんだから!)


 軍部を完全に従え、王国の軍事・治安・経済のバランスすら知らぬ間に牛耳る影の支配者と成り果てていることなど、ルチアーナは夢にも思わない。彼女は今日もただ一人、同担とのオタクバトルに勝たなきゃ……!という一心で、不穏な決意を胸に、静かに卒業パーティー前夜の夜を過ごすのだった。



 王立学園のピラミッドの頂点に君臨する大ホール。天井から吊るされた幾重ものシャンデリアが黄金色の光を放ち、床には色鮮やかなドレスを纏った貴族たちの足音がリズミカルに響いていた。どこからか上品な弦楽四重奏の調べが流れる、まさに華やかな社交界の夜。


 しかし、その優雅な空間の真ん中、ひときわ視線を集める特等席で、第二王子レオンと愛され聖女マリアは、周囲の同情を一身に集めるように身を寄せ合っていた。


「マリア、大丈夫だ。君を脅かすような不届き者は、今日のこの場で必ず僕が排除して見せるからね」

「レオン様……。私、怖いですわ。あんなにも酷い嫌がらせや、冷たい視線を浴びせ続けられて……でも、レオン様がいてくだされば、私……!」


 マリアはわざとらしく瞳に涙を湛え、レオンの腕にしなだれかかる。周囲の貴族子息やご令嬢たちは、レオン様のご温情には胸が打たれる、それに比べて悪役令嬢ルチアーナの卑劣さといったら……!と、怒りと同情の入り混じったヒソヒソ声を響かせていた。


 ――だが、その当事者であるルチアーナは、そんな主役気取りの茶番劇から遠く離れた、会場の最も隅っこ、分厚い柱の影に陣取っていた。


 彼女は完璧に仕立て上げられた漆黒のドレスを纏い、片手にはグラスではなく、なぜか緊急用のメモと双眼鏡オペラグラスを構えている。


「ふん、レオン殿下とマリアちゃんがまた何かイチャイチャ小芝居をやっているわね。相変わらず演技のクオリティが三流以下で失笑ものだわ……。そんなことより、問題はあっちよ」


 ルチアーナの視線は、王子たちではなく、会場の出入り口付近や怪しい陰に群がる人々に向けられていた。彼女の頭の中には、第二王子による断罪劇の「だ」の字もない。


(今日のパーティー、間違いなくあの謎の同担が潜入しているはず……!何しろ、エドワード様が所属する軍部エリアの最高級ケータリングがこの会場に持ち込まれている。つまり、あの同担もこの美食の匂いに釣られて絶対に来ているはずよ……!)


「くっ、どこにいるのよ同担……。あそこの柱の陰にいる眼鏡の文官風の男……いや、違うな。あいつはただの一般貴族のモブだ。それとも、あの甘党そうな騎士崩れの男……?」


 レオンがどれほど熱弁を振るい、唾を飛ばそうとも、ルチアーナの耳にはただのBGMの雑音にしか届いていなかった。彼女は完全に、会場全体をロックオンしたガチ勢の目つきで不審者の捜索に全神経を集中させていたのである。


 華やかな祝祭の裏で、一人の公爵令嬢だけが推しを巡る孤独なライバルとの陣取り合戦のために、冷や汗を流しながら会場をキョロキョロと見渡しているのだった。


「――ルチアーナ・フォン・グラナート!貴様の悪行、もはやこれ以上見過ごすわけにはいかない!!」


 大広間の中心、シャンデリアの真下で、第二王子レオンが声を張り上げた。その怒声に合わせるように、楽団の演奏がピタリと止まる。会場を包んでいた歓談のざわめきが急速に引き、冷ややかな静寂がフロア全体を支配した。


 舞台の中央に立つレオンは、自らの正義感に酔いしれるように胸を張り、その隣にしなだれかかるマリアを保護者のようにしっかりと庇い立てている。


「マリアに対する度重なる嫌がらせ、教科書の隠蔽、そして城下町における不穏な物資の買い占めによる民衆への威圧……!聖女である彼女の心を深く傷つけたその罪、万死に値する!」


 レオンの演説は熱を帯び、口の端から盛大に唾液が飛び散るほどの熱弁だった。


「ついに殿下のお叱りが……」

「当然だわ、あんな悪女」

「今すぐ王国から叩き出すべきよ」


 周囲の貴族たちは、ヒソヒソと嘲笑交じりの同調の声を漏らし始める。


 マリアはハンカチで目元を押さえ、微かに肩を震わせながら、次のように声を漏らした。


「レオン様……もう、そんなに責めないであげて……」


 マリアは完璧すぎるか弱い被害者の演技を完遂していた。


 ――しかし、その熱狂的な断罪劇の真っただ中にいるはずの被告人、ルチアーナの反応は、周囲の期待から完全にかけ離れていた。


 柱の陰に陣取るルチアーナは、手元のメモにサラサラとペンを走らせながら、盛大なため息をつく。


(……はあ。レオン殿下、相変わらず声のボリュームだけで中身がスカスカの三流台本ね。もう少し起伏を持たせたらどうなのよ。「万死に値する」のくだりとか、声のトーンが一本調子すぎてオタクの審美眼に引っかかるレベルだわ。そんなことより……)


 ルチアーナの目は、レオンの顔面には向けられていない。彼女の視線は、会場の端にある別の柱の陰を鋭く捉えていた。


(あそこの柱の陰にいる、黒髪の眼鏡の男……。さっきからやけにキョロキョロしながら私のほうを伺っているわね。もしかしてあいつが……あの謎の同担……!?いや、待てよ。あいつの持っているグラス、ぶどうジュースじゃなくて高価なヴィンテージワインだわ。そんな余裕をかまして私を観察しているなんて、完全にマウントを取る気だ……っ!)


「聞こえているのか、ルチアーナ!今すぐその罪を認め、我が国の前から姿を消せ!!」


 レオンが、いよいよ絶叫を叩きつける。


 だが、ルチアーナの脳内では、レオンの唾液が飛ぶ距離よりもあの眼鏡の男が私の推し活ノートの存在をどこまで嗅ぎつけているかの方が数万倍重要だった。


「聞こえているかと言っているのだ、悪女め!」

「あ?ああ、はいはい。殿下、声が裏返ってますよ。もう少し腹から声を出さないと、後ろの席のオタク……じゃなくてご招待客に聞こえませんよ」


 あまりにも上の空で、どこか冷めたアドバイスを投げ捨てるルチアーナ。その微動だにしない――というか、完全に別の意味で真剣に会場を観察しているマイペースすぎる態度に、レオンの顔は真っ赤に染まり、周囲の貴族たちは、こいつ、頭のネジが完全に外れているぞ……!と恐怖のざわめきを上げるのだった。


「貴様……!そこまで言われてなお、そのふてぶてしい態度、断じて許さん!衛兵!この狂った悪女を今すぐ引っ立て、牢獄へ叩き込め!!」


 第二王子レオンの顔面は怒りと屈辱で真っ赤に染まり、こめかみに青筋を浮かべながら怒号を叩きつけた。その命令に従うように、会場の周囲を固めていた警備の衛兵たちが、ガチャリと重い甲冑の音を響かせて一斉に踏み出してきた。マリアはホッとしたように小さく息をつき、その背後で勝ち誇ったような笑みをほんの一瞬だけ浮かべる。


 ――まさに、悪役令嬢ルチアーナの断罪と追放劇が始まろうとしたその瞬間。


 ドォオオオオオオンッ!!!!!


 突如として、大広間の底を揺るがすような凄まじい轟音が響き渡った。それは音楽でも歓声でもない。王立学園の正門、あるいはパーティー会場の重厚な大扉そのものが、外側から物理的に粉砕され、内側へと盛大に吹き飛んだのだ。


「なっ……!?」

「きゃああっ!?」


 数枚の分厚いオーク材の扉が木端微塵に砕け散り、舞い上がった白煙と木くずの向こうから、冷徹なまでの殺気を纏った一団がゆっくりと足を踏み入れてきた。そこにいたのは、今日のこの華やかな社交界の招待客名簿には絶対に載っていないはずの人物――王国最強の騎士団長、エドワードであった。


 そして、その背後には、ただの護衛の域を完全に超越した、漆黒のフルプレートアーマーに身を包んだ精鋭騎士たちが隙間なくビッチリと陣取っている。総勢数十名。全員が抜き身の剣に手をかけ、一歩進むごとに床がミシミシと悲鳴を上げるような、実戦さながらの殺気を放っていた。


 会場の空気が、一瞬にして絶対零度まで凍りつく。先ほどまでレオンの演説に同調してヒソヒソと嘲笑っていた貴族たちは、あまりの恐怖に息を呑み、喉の奥から引きつった悲鳴すら押し殺してその場に凍りついた。


 誰もが震え上がる中、最前線に立つエドワード団長は、周囲の貴族たちの恐怖の視線すら完全無視し、ただ一点――会場の隅、柱の陰にぽつんと立っているルチアーナの姿だけを、その猛禽のごとき鋭い瞳でしっかりと捉えていた。


 凍りついた大広間の中、エドワード団長は周囲の貴族たちが放つ恐怖の視線や、冷や汗を流す第二王子レオンの存在を、微かな空気の揺らぎほどにも認めていなかった。


 彼の視線の先にあるのは、ただ一人――柱の陰で小さく身を縮める、漆黒のドレスを纏ったルチアーナの姿だけだ。


 ザッ、ザッ、ザッ――。


 大理石の床を叩く重く規則正しい軍靴の音が、静まり返った空間を支配する。エドワードはまっすぐにルチアーナへ歩み寄り、その足元で忠実な騎士が聖女に捧げるように、鮮やかに片膝をついた。


「ルチアーナ様……!」


 普段の冷徹な最強騎士団長の面影は消え失せ、その声音には純粋すぎる崇拝と、愛しい主を害されたことへの猛る怒りが入り交じっていた。


「我が主を害する者どもが、このような無礼を働く前に止められず無念にございます。さらには我ら騎士団、遅参までいたしましたこと、どうかお許しください」


 目の前で、王国最強の男が自分だけに向けた忠誠を誓っている。本来であれば、悪役令嬢の断罪劇の最中に推しが駆けつけてくれるという展開は、オタクにとって宇宙が爆発するほどの最高潮の神イベであるはずだった。


 だが、当のルチアーナの脳内は、歓喜ではなく冷や汗が一気に噴き出すほどの恐怖に満ちていた。


(……待って、待って待って待って……!!)


 ルチアーナはひざまずくエドワードの背後を見据え、わずかに肩を震わせた。エドワードのすぐ後ろ、精鋭たちの最前列に陣取っている一人の若い副官の姿が、視界の端に突き刺さったからだ。


(あの推しの後ろに控えている、銀縁眼鏡をかけたあの騎士……!確か、先日の私のメモに対して『ジャスミンの爽快感が欲しかった』とか生意気な返信をよこした、あの危険人物じゃない……!?)


 ルチアーナの脳裏で、途方もない勘違いの推理が全速力で駆け巡る。


(まさか……!あの「同担」の転生者、私の推し活を盗み見るだけじゃ飽き足らず、ついに騎士団の内部に潜り込んで、エドワード様の直属の側近にまで成り上がっていたというの……!?私の推しを毒牙にかけ、あわよくば私の推し活の主導権を完全に奪い取る気ね……!許さないわよ、この裏切り者の同担め……っ!!)


 目の前で熱い忠誠を誓う推しの姿すら、同担に懐柔されているのではないか、という斜め上の恐怖フィルターを通して眺めてしまう。


 彼女は乾いた喉を鳴らし、引きつった笑みを貼り付けたまま、わずかに掠れた声で呟いた。


「え、ええと……エドワード様、その、お疲れ様です……。後ろの、その、眼鏡の副官の方も、お元気そうで何よりですわね、ははは……」


 まったく噛み合わない、しかし本人にとっては死活問題の緊張感に包まれた再会が、完全な誤解のなかで幕を開けた。


「私を陥れるために、城下町で悪評を流したり、物資を買い占めて嫌がらせを仕掛けてきたのよ……!」


 窮地に追い詰められたマリアは、血の引いた顔でひときわ高い声を張り上げた。周囲の貴族たちも、冷徹な騎士団長の威圧に気圧されながらも、縋るように口々に同調の気色ばんだ声を漏らす。


 しかし、エドワードはそれらの見苦しい言い訳を鼻で笑い飛ばした。


「ふん。厚顔無恥もここまでくれば見事だな」


 エドワードは懐から、丁寧に折り畳まれた大量の紙束を取り出した。それはルチアーナが日夜書き殴っていた推し活の記録であり、軍部が聖遺物として厳重に保管していた戦術メモそのものであった。


 エドワードは、マリアの主張とルチアーナのメモの時系列を突き合わせていく。


「ふざけるな。その日時、ルチアーナ様から届いたのは『昨日の魔獣討伐における第二小隊のフォーメーションの微調整と、疲労回復用特製ハーブティーのレシピ』だ。我が団の兵舎で全軍がそれをありがたく受け取り、戦果を挙げていた時刻だが?聖務どころか、貴様がどこでサボっていたのか知らんが、ルチアーナ様が貴様ごときにかまう暇など一秒たりともなかった!」


 マリアがさらに顔色を失って口をパクパクと動かすのを無視し、エドワードは次のページを冷酷にめくる。


「そして、物資の買い占めだと?笑わせるな。ルチアーナ様が買い占めていたのは、我が騎士団の筋疲労回復に必要なタンパク質とクエン酸の補給物資、および魔力運用効率化のための特製スパイスだ。結果として、王国を脅かしていた上位魔獣の討伐成功率は跳ね上がり、治安は完全に安定した。王国を救った最大の功労者を、何をトチ狂って悪女などと抜かすか!」


 完璧なアリバイと、動かぬ物資の供給記録。マリアの自作自演の被害者アピールは、推し活の記録の前に音を立てて粉々に砕け散った。


「なっ……馬鹿な、騎士団がそんな個人的な支援に……!」


 第二王子レオンは冷汗を流し、一歩、また一歩と後退した。しかし、すでに逃げ場などない。エドワードの背後から、副団長をはじめとする屈強な騎士たちが一斉に踏み出す。その全身から放たれた殺気が、大広間の空気を引き裂いた。


「我が主ルチアーナ様の名誉を汚し、あまつさえ国外追放などとほざいたこと……王族としての権限を私欲のために乱用した大罪、断じて許さん」

「当然そなたらの企みはすでに王に報告済みだ。頭を抱えておられたよ。もし企みが実行された場合の指示も王命として書簡を預かっている。覚悟されよ」


 エドワードは懐から王家の紋章が入った書簡を出す。


『レオンは王位継承権剥奪、辺境鉱山送り』

『マリアは教会から永遠追放処分』


 そこにはしっかりと書かれており、王の署名が入っていた。ただこの王命が使用されないことを望むと小さく書かれていた。


 マリアの嘘は剥ぎ取られ、レオンの断罪劇は、ただの理不尽な排除計画へと成り果てた。


 その場に崩れ落ちるレオンと、泣き叫ぶことすらできずに指先を震わせるマリア。冷たい静寂の中、乾いた空気がただ重く横たわっていた。


「……というわけで、レオン殿下は王位継承権剥奪のうえ辺境の鉱山送り、マリアは教会からの永遠の追放処分となります。ルチアーナ様、この処置にご不満な点はございませんか?」


 エドワード団長が、先ほどまでの猛獣の面影を消し、少女に向けるような極上の慈愛を浮かべながら尋ねた。


 大理石の床に這いつくばり、絶望の中で虚空を見つめるレオンと、声を押し殺して涙を呑むマリアの姿がそこにある。まさに因果応報を体現したような、完膚なきまでの結末だった。


 ――だが、当のルチアーナの脳内は、別の意味で乱れていた。


(待って待って待って……!エドワード様の背後に控えているあの銀縁眼鏡の副官、さっきからじっとこっちを見ているわ……!絶対にあいつ、私の推し活ノートの秘密を暴こうと狙っているんだわ……!くっ、今日のところは撤退するしかない……!)


 ルチアーナは、周囲の貴族たちが息を呑んで見守る中、額にうっすらと冷や汗を浮かべながら、必死に余裕を湛えた笑みを作り上げた。


「い、いえ、処置については異存はありませんわ、エドワード様。……ただ、その、後ろの方々が少々圧迫感がありますので、そろそろお暇させていただいてもよろしいかしら?」


「はっ!流石はルチアーナ様、慈悲深いお言葉……!皆の者、道を開けろ!」


 エドワードの号令のもと、規則正しく並んでいた精鋭たちが、まるで海が割れるように一糸乱れぬ動きで左右へ退く。そしてエドワードは姿勢を正し、完璧な作法で恭しく手を差し伸べた。


「我が主よ。このような泥臭い場所で、貴高いお御足をこれ以上汚す必要はございません。さあ、私めの馬車へご案内いたします」

「あ、はい。ありがとうございます……」


 ルチアーナは、差し出されたその美しい手――前世から推し続けてやまない、聖なる剣を振るう最強の手を恐る恐る取り、優雅にエスコートされるまま、パーティーの中心へと歩き出した。


 最初はわずかな数人が、やがて会場全体の貴族たちが、恐怖と畏敬の入り交じった手つきで拍手を送り始めた。誰もが、この公爵令嬢に逆らうことは軍部を敵に回し、社会的に消去されることを悟ったのだ。


 絶望に沈む第二王子を一瞥すらせず、シャンデリアの光を浴びながら堂々と大扉へ向かう。

(結局、最後まで同担の正体は掴めずじまいだったけれど……まあいっか!推しが私のために軍部を引き連れて乱入してくれて、しかも物資支援をこんなに有難がってくれてるんだから、結果オーライよ!)

 周囲からの畏怖の視線を追跡を警戒するスパイとしての警戒心と履き違えつつ、誇らしげに胸を張り、夜の会場を後にする。


 王立学園の華やかなる狂騒と断罪劇という名の国家の一大イベントが幕を閉じてから数日。王国軍部総司令官であるエドワードに馬車で自宅まで送り届けられたルチアーナは、自室のベッドに倒れ込み、深い溜息を吐き出した。


「ふう……終わった……。まさか卒業パーティーがあんな展開になるとは思わなかったけれど……」


 天井のシャンデリアを見上げながら、頬を緩ませる。レオンやマリアの末路に同情など湧かないが、脳内を占めているのはあの土壇場で見せた狂信的なまでの忠誠心だった。


「あのとき、我が主って言って手を差し伸べてくれた瞬間……心臓が止まるかと思ったわ。私の推し活ノートの考察が、あそこまでガチの軍事成果として全軍に崇め奉られていたなんて……。ううん、でも結果オーライよね!推しが無事で、しかも私の差し入れをあんなに喜んでくれてるんだから、私の人生は大勝利よ!」


 脳内でエドワードの美麗なビジュアルを再生し、幸せの余韻に浸りながら、ベッドの上で小さく身悶えした。もう悪役令嬢としての断罪ルートに怯える必要はない。これからは心置きなく、堂々とエドワードを推し続けられる日常が待っているのだ。


「ふふっ、明日からはどんな差し入れを作ろうかしら。やっぱり疲労回復には、前世の記憶を活かした特製オムライス……いや、ここは筋肉の修復を最優先して高タンパクなササミのハーブ焼きがいいわね!」


 完全にリラックスモードに入り、明日からのバラ色の計画に胸をときめかせる。窓の外に広がる夜空を見上げようと、ゆっくりと身を起こした。


 ――その瞬間だった。


 ひらり。


 開け放たれた窓辺に吹き込む夜風に混じって、一枚の紙片が机の上へ舞い落ちた。


「……ん?」


 動きがピタリと止まる。恐る恐る手を伸ばし、その紙片をつまみ上げて文字に目を凝らした瞬間、背筋に冷たいものが走った。


 そこにあったのは手書きの走り書きだった。


『昨日の東屋のハーブティー、最高でした。売店で買ったパンと一緒に食べたら絶品だったので、また置いてあると嬉しいです。名前は書きませんが、通りすがりのファンより』


「……………………は……?」


 手から、そのメモがポトリと音を立てて床に落ちた。


「な……によこれ……?名前も書かず、私の推し活に対するリスペクトもなく、ただ売店のパンと一緒に食べただと……!?こ、これは……っ!ついにあの謎の同担が、私の精神を揺さぶるために、あえて一般人を装った心理的マウントを仕掛けてきている証拠だわ……!!」


 もちろん、これはただの一般人がたまたま東屋に残されていたお茶の感想を適当に殴り書きし、風に飛ばされただけの完全な偶然の産物である。そこにライバルなど存在しない。


 しかし、オタクの業を背負った脳内フィルターを通した瞬間、それは底知れぬラスボスからの挑戦状へと変換されてしまった。


(くっ……!すでに私生活の領域まで、あの同担の魔の手が及んでいるというわけね……!おのれ、どこまで私を挑発すれば気が済むのかしら……!)


 静まり返った自室の中で、ガタガタと震えながらも、再びメラメラと闘志の炎を燃え上がらせる。平和な日常など訪れていなかった。見えないライバルとの終わらない心理戦が、明日からもさらに過激に繰り広げられることが決定した瞬間だった。


「上等じゃない……!明日はさらに物資の質を上げ、同担を物理と栄養学の暴力で叩きのめしてやるんだから……!!」


 孤独で、誰にも理解されず、そして勘違いに満ちた熱すぎる推し活バトルは、明日も元気に続いていくのだった――。

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